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2016年12月20日

2016年から年男の2017年へ ―心の“バタバタ貧乏”とならないための自戒―

井嶋 悠

このブログへの投稿を始めて3年余りが経つ。娘の死(2012年4月11日)が突き付けた親・教師からの自照自省の必然と、新たな自戒の生のための自問自答が為せる時間。
2016年も、生と死、「悲・哀・愛(しみ)」の気、を自覚することが幾つも重なった。私と身近な二つの生と三つの死を整理し、自照自省の新たな資(もと)としたい。

二つの生。
一つは、妻が心臓病の悪化で大手術を秀逸な医師・看護師との出会いがあって乗り越え、九死に一生を得たが、「障害者1級」の仲間入りをしたこと。
一つは、今も私の良き理解者であり、最初の勤務校での退職時に校長であった今80歳代の恩人の、夫君の急逝による途方もない憔悴を知ったこと。

三つの死。
一つは、従兄弟の、若い時から病を抱えていた一人息子が、52歳で天上に昇ったこと。
一つは、幼児期から陰に陽に私に愛情を注いでくださっていた伯母が、白寿で天寿を全うしたこと。
一つは、愛犬(雌犬)が、8歳で飼い主の娘のもとに旅立ったこと。入院中の医院で、死去した日の明け方、「様子を見に行ったとき、けなげに懸命に尾を振り、私に寄って来た」との医師の話を聞き、彼女は何を伝えたかったのだろうと想いを馳せたこと。

私が今ここにこうして妻と在るのも運命であり、宿命であるのだから、すべてはそうなのかもしれない。「色即是空/空即是色」、生の「悲・哀・愛(しみ)」、無の永遠性、自然に、理知から感性への沈潜を、少しは実感し始めたことを善しとしながらも、己が未熟不足ゆえの遅遅に苛立つ私がいる。

私が綴る言葉を「観念的」と嘲(あざけ)る人はあるかと思う。しかし観念的を「唯心的、理想主義的」と広角的にとらえることの歴史を知ることで、私はそちらに与し、自身を慰めたい。
「沈黙は金」、このことに古今東西異文化はないように思えるが、それは以下の発言((引用は、『ちくま哲学の森 別巻 定義集』より)にある「沈黙」の意味の深さの自覚があってのことで、小人凡愚の身の私の場合、ただただ言うこと(書くこと)で自身を整理確認したいとの身勝手な自己浄化(カタルシス)である。
これは、平安時代からあるとのことわざ「おぼしき事言はぬは、腹ふくるるわざ」と言えるかもしれないが、老人性一触即発症候群最中にあるからなおのこと、憤懣をまき散らす態になることもしばしばである。
吉田兼好は『徒然草』の、四季と(日本)人について述べている段(この段の冒頭は「折節の移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ」。)で、自身が書くことは、すでに源氏物語や枕草子で触れられていることではあるが、「おぼしき事言はぬは、腹ふくるるわざ」だから書く、との謙虚さからの引用で、私と人の格の違いはことさら言うまでもない。

 

○言葉は沈黙から、沈黙の充満から生じた。…言葉は、その下に沈黙の広大な基盤がよこたわっているときにのみ、安心して文章や思想のかたちをなして遠くまで動いて行くことができる。 ―マックス・ピカート(1888~1963)スイスの医師・思想家―
○私は黙っているときに充実をおぼえ、口をひらこうとするとたちまち空虚をおぼえる。  ―魯迅(1881~1936)中国の作家・思想家―

私には言葉で、言葉と沈黙について語り得るものはまだ(おそらく生涯?)ないが、共感する私は確実にある。それを拠りどころに“ごまめ”の言葉を紡ぐのもよいではないかと居直っている。ただ、その言葉は、私の72年の人生と33年の中高校教師生活から得た言葉で、単なる観念的知識からの言葉ではない、と手前味噌そのままに思っている。
だから、先日、国立大学協会が表明した、2020年度から原則として2次試験で長文の記述式導入のことを聞くと破裂せんばかりに腹がふくらんでくる。そこに選民(エリート)意識露わな高級官僚や政治家の意識を視るからである。机上の理知から編み出した理想を正義派よろしく押し付けている傲慢。言葉の弄びとしての知的観念遊び、と言っては「お前に言われたくない」次元か。

私は表明の本質を否定するはずもないし、むしろ遅過ぎての当然だと思っている。要は、入試に到るまでの道程での学校組織、教師・保護者の大人意識、また必要不可欠!?で今や無意識下に在るかのような塾・予備校等々、社会現実を意図的に?無視した提案に、砂上の楼閣の不安を持っての罵声である。
しかし、このことは近年で言えば3回目の憂慮で、杞憂とは言えないと思う。

その過去の2回とは、①「小論文」入試導入とその数年後からの形骸化と現状 ②「横断的総合的学習」導入とその撤回で視えて来た、あいも変わらぬ欧米教育偏愛指向(例えば、欧米で多く採用されている国際バカロレア[IB]教育と「横断的総合的学習」の共通性への認識有無と学校組織構造の差異を措いての悪しき観念論)
家庭教育も地域教育も社会教育も一切合財学校教育が負って然るべきかのような今日、なぜそうなったかの検証もない。そして高齢化にして少子化社会は、少なくとも10年前に有識者、政治家等社会を教導主導する人たちは分かっていたはずだからなおのこと、根本的(ラディカル)な変革を構想する絶好機ではないのか、と思う。これは世で喧伝されている国際社会のリーダーを放棄するということなのだろうか。
私の中では、障害者の施設在籍期間制限や老人介護での在宅介護優先で語られ、理由づけとさえなっている、地域、家庭に係る理想の言葉と現実とのあまりの乖離に呆然とし、失望している人たちの発言と重なる。これは女性参画社会・男女協働社会、育児と仕事の両立といった問題ともつながっている。
虚飾虚栄の言葉は、若ければ若い人ほどその醜悪さを直覚する。ただ、それを言葉で表現する術(すべ)を知らないだけである。このことは中高校教師体験から痛いほど思い知っている。

私が今住んでいる栃木県には、1999年に世界遺産に登録された、「三猿」像でも有名な日光・東照宮が在る。「見ざる、言わざる、聞かざる」。己が健康と長寿を希って、政治・社会に「三猿」を人生訓にしている、ごくごく普通の中高年の人々(なぜか多くは女性)が私の周りにいくらでもいる。それが結果として現状主導者への同意者となることを承知しながらも。
若い人たちの多くはこの人たちや私の憤懣を嘲笑するのだろうか、憫笑するのだろうか、それとも微笑するのだろうか。
先日、日本の1970年代から80年代の時代様相を書いた小論で(2000年刊)、「戦後は終わったといわれたが、我々の現在は新たな「戦前」であるのかもしれない。」と結んでいるのに出会った。書かれてから16年が経つ。古今東西で繰り返し論じられて来た「人間と進歩」の、どうにもならない!?課題なのかもしれない。それでも忙しさ、慌ただしさで“流される”危うさ怖さは経験からも自明である。
個を見つめることが世を見つめること、その「内向き」があって進歩が、幸いが視えて来るとの痛覚を自身の事とすべきではないか、と老齢からだろう、何度も思う。
虚しさと能動的自発的生との葛藤から克服への視点、道程へ………。
昨年、18歳選挙権が成立した。一層教育の重さが問われる。それは教師が、大人が、そして社会が問われることである。

 

来る年は酉年。牽強付会甚だしいが、「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言うではないか。と言う私は還暦後初めての年男。
ジョン・ニュートン(1725~1807・商船艦長として奴隷貿易に関わり巨富を得る。1775年、改悛から牧師になる。その3年前の1972年、今日欧米で広く愛唱されている讃美歌でありクリスマス・キャロル『アメイジング・グレイス(すばらしき神の恵み)』の作詞者)のような強さも深さもないが、同じく心沁み入るクリスマス・キャロル『ファースト・ノエル』(もっとも、この曲の歌詞の一部には無宗教の私としてはいささか違和感があるが)共々静聴しながら、私の自照自省が来る年も続けられる、そんな私でありたいと願い、行く年を振り返っている。

運勢の本を店先で垣間見たら、私「一白水星」の2017年は、次に向けてじっと水平線を見つめ考える、そんな準備の時期とのこと。12年後の私の有無に半信半疑の私にとって「次」を、しかも水平線を見つめて思い描くこと……!?

妻は総合病院で治療し、これからも通院が続く。来る年1月には白内障の手術もある。私の役目は送迎と荷物持ち。総合待合いの、各科の待合いで具体的に突きつけられる老若の様々な病の姿。重い障害を背負っている人、子ども。痴呆にある老人…。
その付き添いをしている家族であろう人たちの苦と哀を突き抜けたかのような神々しいまでの優しさに溢れた静謐な表情、姿に、私はいつも己が卑小を思い知らされるが、立ち止まったままで、遠い寂しさを繰り返すばかりである。
2017年の運勢教示は、いつまでも低俗のままで自問自答する私の傲慢と感傷(センチメンタル)への戒めかもしれない。

年末年始、南方 熊楠著の『十二支考』をひもといて沈思黙考するも佳しとは思うが、祝祭とか何とか口実つけて、妻の横眼を知って知らんふり、独り祝い酒が目に見えるよう。

 

2016年12月4日

中国たより(2016年12月)  『孫中山』

井上 邦久

先月の上海リーダーズへの寄稿文の中で『大上海計画』(1927年~37年)の概略について触れました。その一節に「列強の租界地を東南西北の中山路で囲ってその増殖を喰いとめようとした、そして、その囲いの外に自分たちの新都心を造ろうとした。その中核が今の五角場である」という説を記載しました。

第二次上海事変により『大上海計画』は頓挫し建設途上の新都心址は歴史の遺物として長い眠りに就きました。しかし、同時期に建設された外灘沿いの中山東路、それに続く中山南路、かつては中心地区と虹橋農村部を画然と分けた中山西路、そして蘇州河とともに北部を区分した中山北路は、上海市の主要道路として存在し続けました。かつて北京や南京そして西安などは城壁によって城内と城外が隔てられていましたが、1930年前後の上海においては東南西北の中山路が城壁の代わりを目指したと言えなくもありません。
列強の租界を押し込めることは民族の悲願であり、その為の道路に孫文の号の一つである中山の名を付けたことについて長年考えて来ました。

今年は孫文の生誕150周年の区切りの年であり、各地で記念の行事や催事が為されました。横浜の中華街でも10月1日の中華人民共和国の建国(1949年)を祝う国慶節に続く孫文生誕記念行事と、10月10日の中華民国の建国(辛亥革命は1911年。孫文の臨時大総統就任は1912年1月1日)を祝う双十節に続いて、11月12日の誕生日に向けた催しが続きました。

お祭りや記念催事のポスターも北京系・台北系の二種類に分かれ、店によっては両方を並べることもあり、路地に入ると片方のポスターの上に自らが支持するポスターを重ねるなど様々です。老舗の中華料理店として有名な『同發』新館(映画館址)で孫文生誕記念展示がありました。そこで頂戴した『孫中山生平大事年表』(横浜中山郷友会総務部編)によると、1925年3月12日に北京で孫文が逝去した直後の4月16日に、広東省政府は孫文の出生地である香山県を中山県に改名して記念としたとあります。また、1929年に南京紫金山に安置した孫文の墓は中山陵と称されていますから、「大上海計画」の最重要道路を中山路と名付けることにも大きな異論はなかったでしょう。

欧米では「字」である「孫逸仙」Sun Yat-senと呼ぶことが多いようですが、日本では「孫文」の通りがよく、中国圏では「号」の「孫中山」が通じやすかったです。孫文は何度か日本に亡命して、横浜・神戸・福岡など各地を巡っています。東京の日比谷に滞在した折、散歩のときに見かけたご近所の中山忠能貴族院議員の邸宅の表札にあった「中山」を気に入って、用いるようになり、日本での通名も中山樵(なかやま きこり)としたことが通説となっています。

頭山満、犬養毅、宮崎滔天、梅屋庄吉・・・孫文を支援した人たちの名前は数多く伝えられています。辛亥革命に先んじて失敗した恵州起義で戦死した山田良政、兄の遺志を継いで孫文を支えた純三郎、東奥義塾出身の山田兄弟の墓は弘前市貞昌寺にあります。福岡で開かれたカンファレンスでは孫文と有名無名の九州人との御縁についての報告が多くなされました。今回は神戸の孫中山記念館でのイベントには行けませんでしたが、記念館は明石海峡大橋脇の舞子浜に移設復元された八角三層の「移情閣」であり、孫文を支援した華僑の代表格である呉錦堂の別荘址です。
日本各地で孫文を囲んだ支援者の写真が残っています。羽織袴姿も散見される大勢の日本人の宴席にポツンと孫文が座る写真の印象が残ります。また華僑や留学生との写真も多く見ました。いずれも宋慶齢ら僅かの随行者も写っていますが、あくまでも孫文中心のこれらの写真を見て、日本人の支援者と在日華僑・留学生が合同して支援している写真は無いのかな、と素朴に思います。

日本人支援者は孫文個人への思い入れという純粋な動機とともに、藩閥政治に受け入れられない民権派が「見果てぬ夢」の代替行為として孫文の中国革命に肩入れしたのではないかという側面を感じています。自己愛過剰の裏返しの支援、と言えば言い過ぎでしょうが、同時期に一方では孫文を支援しながら、一方では対華21ヶ条要求をするといった歴史を更に深読みしなければならないと思います。孫文像も「READING・REVOLUTION・LOVE」を生活の基本にする人、といった単純な総括を慎み、一筋縄で括れない革命家としての側面と、中国圏に共通する「国父」としての位置づけを複合的に考えていきたいと思います。その意味で、九州大学での学会や九州経団連中心のカンファレンスで、広州・香港・ベトナム・シンガポール・カナダなどの参加者から有意義な啓発を受けたものの、北京や台北からの代表とは巡り会えず、現職から「総統」に格上げして任期延長を図る動きなどの話を聴けなかったのが残念でした。

日本と中国そして世界を頻繁に往還した孫文が、横浜市山下町121番地の支援者である恩炳臣の家に住んでいたこと、1899年の大火で焼け出された大月生糸商店の一家が同じ屋根の下に住み込んだこと、孫文が女学生だった大月薫を見染めたこと、海外活動中に娘を授かり、大月家はその名を文子(後に富美子と改名)と名付けた・・・神奈川県警の報告書などの資料を基にしたと思われる西木正明『孫文の女』(文春文庫)という小説にはこのように描かれています。
現在の山下町121番地に何ら記念碑らしきものはありません。通りを歩く人の多くは孫文との縁を意識することなく往来し、同様に中国や台湾の中山路を歩く人たちは日本との縁を意識することなく往来していると思います。
中華街には早くも春節を祝う紅いランタン(籠灯)が揺れています。