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2017年1月15日

謹 賀 新 年 ―“ラッキー七”の願いを込めて年頭の感慨―

井嶋 悠

「鶏鳴かずとも朝は来る」。当然承知しているにもかかわらず、“鶏肋(けいろく)”は出汁になることもある、と「無」「空」への修練皆無への露呈に恥じらいなく、俗世未練に驕りつつ、懲りもせず言葉を紡いでいる。綴られた言葉を、「いかにも老人の悪癖習性口調」と軽侮する人もいる。偏屈の証し…。
私にとって今年は七巡目の年男である。

正月早々5日、『日本老年学会』なるところの提案の報道に接した。
要旨は、「医療や介護などで「65歳以上」とされている高齢者の定義を「75歳以上」に見直すべきだ」というもの。その理由として「健康に関するデータ分析から、医療の進歩や生活環境、栄養状態の改善などで、65歳以上の体の状態や知的機能は10~20年前と比べ5~10歳ほど若返っている」ことを挙げている。
そして、65~74歳を健康で活力がある人が多い「准高齢者」と定義し、仕事やボランティアなどの社会活動への参加を促すよう求めた。75~89歳は「高齢者」、90歳以上は「超高齢者」と位置づけた、とのこと。

一読しての私の感想。「ほっといてくれ(大阪ことば)」[かまうな。このままにしておいてくれ、の意]

これは、私の気質に加えて、中等教育に従事する過程で、教育研究者(多くは大学教員)に多く出会ったが、敬慕の情を覚ます人は限られていて、多様な学校現場を無視した知識だけの観念論を得意然と語る多くの人にへきえきとし、学会なるものに不信感が強いからかもしれない。(このような人は大学に限ったことではないが。)

子どもたちがそうであるように老人たちも実に多様だ。そもそも老人たちの生活環境も、夫婦、親子同居、三世代同居、また独居、と多様で、その上で、病で通院、入院している老人、生活保護を受けている老人、生きることに疲れ果て静かにひっそり暮らす老人、心身尽くして来た職を呪うかのように避ける老人、定年を前にもう十分とリタイアした老人……と私が知る限りでも実に多様だ。科学と人間のことに思い及ぶ。 「仕事やボランティアなどの社会活動への参加を促すよう求め」る前に、こういう老人たちへの眼差しが、少なくとも見える言葉にも行間にもない。学会の幹部に在る老知識人たちに寂しさを持つ。
このことは若者についても全く同じことで、4年前に23歳で先だった娘。死の前年、東北大震災時に、自身がボランティアに行けないことをどれほどに悔いと苛立ちを募らせていたことか。

「今回の提言を、年金の支給年齢の引き上げなど、今の社会保障の枠組みに直接結びつけず、慎重に議論するよう求めて」いるそうだが、施策や世論に影響力を持つ学会なら当然至極の配慮で、蛇足に近い。しかし、人の痛み、哀しみの言葉すら上滑りに終始する(饒舌との高評価する人も多いが)、物質至上幸福論者が、政治家を先頭に蔓延傾向にある現代日本(人)、蛇足も必要なのかもしれない。
【統計と分析からの客観性を基に、65~74歳を「准高齢者」、75~89歳は「高齢者」、90歳以上は「超高齢者」と定義】したいそうだが、こういう定義や区分け、名称付けがもたらす将来での硬直への懸念と併せて、「いかにも」との違和感を持つ。これは、定年制度の有無そのものを議論していない証しだろう。

これらの疑問は、学校教育での国語(母語・日本語)教育の問題にも通ずることで、一例を挙げる。
世は、好むと好まざるにかかわらず国際化社会から国際社会の核的一翼を担いつつある日本。そして、施策上からも、その担い手養成が求められている教育。
先日、韓国との国際交流を20有余年続けている、首都圏の高校(公立)教師と話すことがあった。氏曰く「国語(母語・日本語)教育を何とかしてほしい。高校生の日本語が酷過ぎる。先ず小学校、そこから中学校、高校と連鎖的変革が必要ではないか。」(因みに、どういう進路であれ日本語(国語)力は必要なので、参考にならないかとは思うが、その高校の2014年進路状況は以下である。大学・短大:25%、専門学校:37%、就職:17%、その他:21%。)

小学校での英語教育導入当然の様相を呈し、導入が遅れれば塾がフォローするという時代。中学校ともなれば、以後「(主要!)5教科」優先に一層拍車が掛かり、英語はとにもかくにも会話への力点、かてて加えて「5教科」各科からの、各教師、教育研究者等々からの進路、将来を見据えてとの大義による、しかし、今もって定見があるようでない「基礎基本」の主張。年々高まる学力低下憂国論もあってか、塾(補習塾と進学塾)の義務教育化ほどの実状。
(因みに、「ゆとり世代」への、一部大人の冷笑を耳にすることが多いが、その世代を創ったのは大人、それも世を主導する大人、ではなかったのか。)

体育、美術、音楽、技術家庭、書道は、それぞれの科目(領域)の後ろに「と言葉」とすると、言葉の在りよう、力が多角的に視えるように思うのだが……。そう直覚する生徒も多い。

子どもの、家庭の、限界を越えた苛酷。

私たち大人は言う。「個を大切にした教育」「考える力、表現する力の教育」「ノーベル賞連続受賞を誇りに理系のエキスパート養成教育」「国際社会に貢献する教育」等々。
それらの教育を、誰が、どのような子どもたちに、どこで(どのような学校で)、いつ、どのように行なうのか。あまりの多様の巨きさから途方に暮れる教師。しかしとにかくしなければ、少子化時代ゆえにますます拍車が掛かる学校存続と教師の死活問題。
少子化にもかかわらず[6人に1人が貧困家庭]「女性の貧困」更には「労働の貧困」(ワーキング・プア)が、いっこうに改まらない経済・技術大国の先進文明国!日本。
はたしてこれで母語・国語・日本語の教育に係る先の教師の要望にどれほど応えられるのだろうか。

この子どもの現状と先の老人問題提案に、同じ高みからの対症療法(つぎはぎ)を視る私だが、学校教育の具体的改革私案の一端は、すでに投稿したので繰り返さない。

「ことばは人の喉をかっ切る」(これは、1950年代後半から60年代にかけてアメリカで起ったビートニックの詩人―たしかアレン・キンズバー?―の詩の一節)は、私が20代前後に心に突き刺さった言葉。
ことさように言葉は激しく、怖ろしく、難しい。これほどの力を持つのだから、対極の愛や生への激烈な昂揚があるが、自照からついつい負的側面に向いてしまう。現職時代、生徒の生徒への、教師の生徒への、生徒の教師への、教師の教師への、この言葉の力を幾つも体験、知見した。そこには死が絡みついていた。
と言っても、その重さ、怖さを自身のものとし得たのはごく最近のこと。

私は、27歳から59歳及び59歳から61歳まで、私学中高校(一つは明治時代にアメリカ人女性宣教師によって創設されたキリスト教主義(ミッションスクール)、一つは「国際」を標榜する名ばかりの新設校、一つは世界ネットワークとしてあるインターナショナルスクールとの協働校、一つは不登校(登校拒否)生徒を主体とした高校等、他にも教師体験があるが今回は省略する)の、「畢竟国語教育は言語の教育である」と言われる国語科教師だった。
先に在職年齢を分けたのは、60歳定年も、65歳定年も体験していないからで、或る作家が言っていた「毎日が定年」と言えるほどの器量もなく、ただ単に定年そのものを考えたこともなく、そのときどきの憤怒と幻想の為せる刹那的業(わざ)からのことに過ぎない。

「沈黙は金」と古今東西人々が思うのは、その言葉の力を体感しているからこそ。これを東アジア的にみれば、心=言葉とは十全に為りえないとの限界への謙虚さと、そこからの永遠(無・ゼロ)への畏敬と憧憬ではないかと思うし、禅宗が貴ぶ「以心伝心」の、詩、音楽の、また能楽の、「行間」「余韻」の美を見る。
世界は、先進国欧米は、東を一層視ようとしている中にあって、東の極にある自然豊かな日本の今は……。
数百年も昔、その日本人は世界最短小の詩、俳諧を編み出した。

私たち日本人に、中国古代思想が遺伝子のごとく今も組み込まれていることを全的に否定する人は少ない。本家中国で言われている「家の門を一歩出れば儒家の顔となり、一歩入れば道家の顔となる」は、私たちに五音七音と同じように何ら知的操作なく融け入って来る。
にもかかわらず、言葉を文字化することを近代化の、文明化と心得て、人を制御管理し、時にはあろうことか己が正義へ吸引しようとする、その操作を為し得る人こそ知的で合理的近代人とする現代、と言えばあまりに偏屈か。
しかし世(自身の所属する社会)が、不安定、混乱すればするほどに、制度や提案・提示書等が頻りとなることは(同時に一方で、自由渇望論が増える)誰しも肯わざるを得ないのではないか。
そういう時代に必ずと言っていいほどに再検討される儒家思想(孔孟思想)も道家思想(老荘思想)も、『論語』とか『老子』といった書が引き継がれているが、前者には文字性の強さを、後者に薄さ(書が在ることの不思議)を想うのは、東洋性また日本性なのか、両者の思想性の違いなのか。そして統治者は儒家を好む?

日本は、キリスト教圏やイスラム教圏の人からの揶揄的な意味も含めて「無宗教」と言われるが、心深奥に仏教を湛えている。
「因果応報」と「業(ごう)」。「業が深い」。業とは、善悪とは離れて人の所為全般とのことで、「口業(くごう)」(言葉)・「身業(しんごう)」(所作)・「意業(いごう)」(意識・心)の三つに分けられている。
「業」に善悪はないと言っても、業に思い悩むのは108つもの煩悩を抱え込み、因果応報を畏れる人間で、人生七巡目、頭(知識)を離れ、しかと自覚する時機なのかもしれない。心身“ステテコ一枚”で泰然と過ごす愉悦を我が事とするためにも。

2017年1月6日

「中華街」たより(2017年1月) 『羅森』

井上 邦久

中国の都市部におけるコンビニの存在は、すでに日常の風景に融け込んで久しく、中国の若者が、おでん(関東煮)を昔からある食べ物のように買っています。コンビニエンス・ストアという新しい商業形態を、まったく素直に「便利店」と訳し、ファミリーマートは「全家(Quan Jia)」、セブンイレブンはそのまま「7・11」、そしてローソンは「羅森(Luo Sen)」と店名表示されています。
その中で、音訳である「羅森」のローは「羅」を使うのは分かりやすいのですが、ソンは「宋」でも「松」でもSongという発音であり、「森」よりは近い音です。ただハンソンやパターソンなどの北ドイツや北欧系の「○○ソン」の中国語音訳には「○森」を充てることが多いようです。1939年、米国オハイオ州で牛乳屋を創業したLawson氏の苗字から由来する「羅森」が、祖業以来のミルク缶の看板と共に中国でも生き続けているわけです。

上海の街角で、この「羅森」の青い看板を目にする時、つい連想してしまう中国人がいます。その人の名は、幕末の浦賀にやって来たペリーの黒船、その主席通訳官のSamuel Wells Williamsに随行してきた広東省出身の羅森です。ローソン(LAWSON)資本が米国と日本と中国を結び付けた広東人の羅森を意識しているかどうかは知りませんが、横浜開港史や横浜中華街史に記載された内容から羅森について少し触れてみたいと思います。

広州の出身とされる羅森は、香港で実務を経験して英語も堪能だったようですが、その前半生の履歴は不詳です。しかし、ペリー一行の随員として鎖国中の琉球・日本に来訪し、日米和親条約交渉や条文起草の陰のキーマンかも知れない存在として歴史に残っています。前年に四艘の蒸気船が東京湾にやって来た際には、日本語と阿蘭陀語と英語の介在でWilliams通訳官が孤軍奮闘して直截な交渉したと推察されます。宣教師出身で日本人漂流民からも日本語を学んだWilliamsですが、幕府官僚の高踏的な言葉使いや形式的な候文には恐らく苦労したのでしょう。そこで、漢籍に通じた日本人と中国人の間での筆談による交流の必要性を感じて、二回目の来航には補佐役として羅森の随行を要請したようです。

羅森は下田や箱館(今の函館)滞在中に多くの日本人と交流し、数々の墨跡を残し、そして香港の月刊誌に『日本日記』を連載しています。開港・開国に到るまでの日本を米国や中国に繋ぐ最初の接点を担った中国人と言って良いでしょう。北海道(松前)の昆布のサンプルを託され、その後の交易のきっかけを作ったのも羅森とされています。因みに、密かに黒船による出国を企図した吉田松陰はWilliams通訳官と会えたものの、松陰の意思は十分に伝わらず仕舞いでした。そこで松陰は、口頭通訳・文章作成・日常交渉などを通じて日本人の間で有名になっていた羅森との同席を希望するも「就寝中」と云うことで会わせて貰えなかった模様。ここで松陰と海外の接点はあえなく消えたわけです。

羅森は日本各層の人たちと交わり、その際に日本人に乞われて扇子に文章を書いたり、漢詩を即興で作ったりしたと記録されています。アヘン戦争で傷んだ母国の轍を日本が踏まないように希求し、日本と中国の友誼提携にも踏み込んだ文章もあるようです。
そんな羅森の評判が上がる一方で、日本の高級文化人の一部には「尊敬する中華の文化人が,何故に紅毛(西洋人)の従者となっているのか」という否定的な見方も記録されています。
中華文明への尊崇意識は日清戦争前後までは残るものの、中国の伝統文化と社会実態との乖離が徐々に伝えられるに従い、あたかも過剰期待の反動にように尊崇から蔑視に転換していくパターンの端緒に羅森が居るとも言えるのではないでしょうか。

1854年の羅森の来航に続く横浜開港に伴い、外国人の隔離策とも言うべき関内居留地が区切られていきます。欧米人の多くが高台に設けられた山手居留区に移り住む一方、もともと埋め立て地である湿地帯を開発して、買弁と称される中国人(広東や三江=江蘇・浙江・江西の出身者が中心)が集中して住む地域が生まれて行きました。買弁とは単なる欧米人と東洋人の通訳をするだけの存在ではなく、貿易実務の請負や異なる文化習慣の介在者としての商社的機能を果たした存在ではないかと初歩的に考えています。
今後とも調査考察を続けて正確を期したいと思います。

居留地の一角、現在の横浜市中区山下町の500㎡四方の地域に、貿易業・製造業を始め各分野の中国人が定住してCHINA TOWNを形成していきました。その後、関東大震災や横浜大空襲などにより壊滅的な打撃を受けるなかで、日本政府による就労業種の制限政策などの影響もあり、中華料理店の比重が大きくなっていき、現在のような中国雑貨や食料品店舗の他は圧倒的に中華料理店が偏在する横浜中華街に移行していきます。

横浜中華街には中華街憲章(The Yokohama Chinatown Chapter)が定められています。

第一章 礼節待人(Courtesy)                第二章 創意工夫(Creativity)

第三章 温故知新 (Tradition)                第四章 先議後利(Customers Satisfaction)

第五章 老少平安(Safety)                    第六章 桃紅柳緑(Amenity)

第七章 善隣友好(Hospitality)

この憲章は横浜中華街発展会協同組合が、日本社会のなかで歴史や政治に翻弄されながら大同を希求し、辿りついた合意内容に基づき設定したと聴いています。しかし、「新興勢力」の伸長などの新たな潮流が押し寄せ、憲章通りには遂行されていない現実も目にします。

この世界の片隅の横浜中華街に住みながら、山下町での孫文や梁啓超のような歴史的人物の足跡を辿ること、買弁の機能功罪を掘り下げること、そして過去の華僑と近年の在日中国人との違いについて考察をすることを通じて、もしかすると中華街から覗き眼鏡のように中国そして世界が見えてくるかも知れないと、初夢のように正に夢想しています。
今年は太陽暦の新年と太陰暦の春節が同じ月にあります。1月27日に関帝廟と媽祖廟で春節カウントダウン、1月28日には、元旦を祝した獅子舞(採青)で賑やかな一日になります。

今年の「中国たより」は、「羅森」の紹介に続いて中華街の萌芽概況から筆を起こしました。              (了)