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2017年2月21日

遊び、その二つの字義、解放と隙間が育む、想像・創造力 [序]

井嶋 悠

今回、2回に分けて「遊び」の二つの側面について、自照、自省加えて後悔と併せ、整理したい。
「毎日サンデー」(これは、私が最初に勤務した私学女子中学高校で敬愛していた校長[英語科・男性]が定年退職後に言われ、当時30代前半の私の心に、その実態は今もってよく分からないが、妙にこびりついた言葉)の日々に在る、元(私学)中高校教師の一日本人として。

「われらは何して 老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の 弥陀の誓いを念ずべし」

これは平安時代後期、後白河法皇が編集した、当時の今様歌(流行歌)集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』にある一つ。
7回目の年男を迎えた一人ながら、まだまだ「弥陀の誓い」に到らない世俗者(同書の表現から援用すれば「心澄まぬ者」)だが、少しは心情を共有できるようになっては来ている。
これも高齢化(長寿化)現代の為せること、と人の、生の痛みが十全に分からぬ私の晩稲(おくて)を慰めている。

誰しも合点承知していずれ来る死を迎えたいのは、古今東西共通の願いにもかかわらず、その“自然”を、意図的に己が手で断ち切る人は決して少なくない。その恐るべき勇気……。哀し過ぎる。
日本の自殺者は、徐々に減りつつあるとはいえ、文明国、先進国(二つの言葉の吟味は措く)で(最)上位にあることほぼ20年が経つ。今、再び10代が増える兆しとのこと。

10代、小学校高学年から高校卒業後2年ほどの時代。かのピカソ(1881~1973)19才の時、親友カサヘマスの自殺での激しい哀しみから青色を基調に、盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を描いた「青の時代」。孤独で不安な青春時代。だからこその「青い鳥」に切なくきらめく夢。
経済至上志向、物質文明あっての文明観への懐疑と批判を、感傷!と、排斥する社会であり続ける限り増えはすれど減りはせず、と私は思う。

社会を、更には政治を映し出す鏡としての学校教育。その主構成者である教師。
愛知の中学校で教師のいじめで自殺した男子生徒のこと、また横浜での福島からの転校小学生への150万円恐喝!を当初いじめとしなかった教育委員会がいじめと認めたこと。繰り返されるこれら哀しみは、学校社会の一部大人の逸脱で済むことでなく、「学校の正義」の傲慢につながることで、学校社会の聖域的特別・特権意識を背にした権威主義と閉鎖性を端的に表わしている。
上記の二つの事例は、折ある毎に中学校・高校の教師が一因で、5年余りの心身苦闘の末、母親の刻々の献身及ばず天上に旅立った娘の怒り、哀しみ、悔しさを層一層思い出させ、教師であった私に幾層幾重のことを詰責して来る。
更に加えれば、国際教育の大きな領域の一つ「海外・帰国子女教育」、日本の教育の重要課題と意識され半世紀経つにもかかわらず、何かにつけての「英語!英語!」発想、帰国子女=英語話者の羨(うらや)み嫉(そね)み、いまだに根強く残る日本。併せて、在外日本児童生徒教育機関(日本人学校・補習授業校等)での管理職を含めた教員の非常識、無恥。
これらは一部で、感銘と敬意の諸例が多くある、で済むことではない、と私は思い、敢えて挙げている。

次代を担う若者が、担い終えた老人が不安を抱える日本。少子化と高齢化の日本で、今顕在化している負の諸問題が、カネ発想の対症療法で解決すると日本主導者は本気で考えているのだろうか。一方で、国益、地域益のためとの錦の御旗を問答無用にかざしての主導者、中でも政治家たち、の湯水のごとく公費を使う金銭感覚。

数年ほど前からフィンランドの教育を評価する日本人教育関係者等が多いようだが、そのフィンランドがかつて自殺大国であったにもかかわらず優れた教育国になったのはなぜか。
「ゆとり世代」の若者を慨嘆し、非難する大人が多い。しかし、その「ゆとり教育」を主導したのは、ゆとりの意味を数合わせのようにしたその大人、官僚・政治家・研究者、ではなかったのか。
ただ、これらのことは何度も投稿していることであり、これ以上立ち入らず先に進む。

最近、妻から、娘が好きだった歌手・音楽グループの一つが『Kinki Kids』であったと聞かされ、初めて幾つか聴き、「青の時代」(1998年・作詞作曲canna)という私好みのバラードを知った。“ジャニーズ”系と言うそうだが、老人にとってはかなり気恥ずかしい歌詞が多い中、この歌詞は硬化した頭を刺激し、想像を掻き立てる詩情に溢れ、何度も聴き返した。時代や世代の乖離を越えて共感は成り立つということなのだろう…。
娘は、この曲をどんな思いで聴いていたのだろう。彼女が、天上に昇って5年近くの時間が過ぎるが、錯綜する感情が脳天を突き抜ける。幾星霜との言葉の重さを思い知る。

私たちはあまりに余裕(ゆとり)を持てなくなったのではないか。ギチギチでギスギスと生き、そんな自身にふと疑問、虚しさに襲われる。感受性瑞々しい10代の、少なくとも私の出会った、若者(生徒)にとっては、なおさらのこと。「青春期・青の時代」「思春期・“春”を思い願う時代」。
大人は、社会は、その若者に自主、自己責任を、忍耐と努力を、手を替え品を替え説諭するが、高速・効率優先での情報氾濫社会、特別の資質を授けられそれを自覚しまた見い出されている者、要領が良いと言う意味で優秀な者以外の、ごく普通の若者にとって、その説諭がどれほど有効なのか、私は首を傾げる。
中学校・高校に、自身を問い、思い巡らさせ、挑み、自・他でそれを確認する、そんな時間(余裕)がどれほどあるだろうか。塾[進学塾・補習塾]があっての進路進学の狂騒時代。
「遊び」の決定的不足。ギシギシ音が溢れる時代。「人情は愚を貴ぶ・愚直であることの美的戒め」は、遠い過去の追憶に過ぎないのだろうか。

高齢化(長寿化)、少子化の、そして時代の転換期明らかな現代日本にもかかわらず厳としてはびこる、旧態然の社会・学校社会意識・構造。対症療法でない体系・制度を含めた根底的変革の時機に在る日本。(その具体的私案は以前投稿しているのでこれもここで止める。)

「遊ばない」「遊べない」日本人。時にそれを誇らしげに言い、時に讃美さえされる奇々怪々。「遊びが遊びにならない」日本人。この日本人がほんの一部とは到底思えないし、例外ではない同じ日本人の私の、狭く偏った人間交流、情報の為せることとも思えない。
世は「働き方改革」とか。きっと遊びも、仕事・学習(労働)に係るすべての人にとって時代に合った本来の姿のもとなるのだろう……。
その改革によって日本経済状況がどう変わり、人々の生活状況にどのように投影するのか、労働時間、賃金、産休育休を含めた休暇等々の労働環境が、企業規模や雇用体系また都鄙分け隔てなくどう変わるのか、「毎日サンデー」にかこつけついついそれに浸るだけの私だからか、よく視えないが。

2017年2月6日

中華街たより(2017年2月)  『ヨハンセン』

井上 邦久

前号の『羅森(ローソン)』についての拙文を読んで頂いた方から、北欧系姓名の中国語転換についての詳しい教示があり、例外はあるものの「○○森」が多いようだとの確認をしていただきました。阿蒙森(アムンゼン)隊長、漢森(ハンソン)さんも身近になりました。また兄事する荒川清秀さんよりは、以前から清国人羅森の存在が気になっていて論考もしていたとの連絡がありました。、荒川さんは『近代日中学術用語の形成と伝播―地理学用語を中心に』(白帝社)に続く『日中漢語の生成と交流・受容』を愛知大学在職中に出版予定とのことを賀状で知りました。年明け早々に先賢からの刺激をありがたく思います。

横浜中華街を含めて旧居留地一帯は埋立地であります。大岡川の河口がほぼ南北に釣鐘状の内海となり、その釣鐘の底辺に当る部分に象の鼻のように堆積した砂洲が延びて、そこに漁民が生活していたようです。入江は釣鐘湾と呼ばれ、砂州の集落は横浜村となりました。

徳川幕府ができて間もない頃、江戸の石材木材商であった吉田勘兵衛が釣鐘湾を埋め立て開墾する許可を得ました。数々の困難を克服し(人柱になったとされる「おさん伝説」は、先月も関内ホールでミュージカル上演され、南区の日枝神社の祭礼にも残っています)1674年に公式検地がなされ「吉田新田」となりました。その後も干拓が進んでいたようですが、ペリー来航の頃は、未だ遊水地・沼地・湿地が残り、明治初期になってようやく埋め立てが終わったようです。現在の中華街は湿地であったことは先月に記しましたが、幕府が欧米人に指定した居留地も、決して良い土地柄とは言えなかったと想像されます。
また行政警備面の考慮からか、東海道の神奈川宿や保土ヶ谷宿から離れ、向かいを海、残る三方を大岡川や運河などで釣鐘状に囲まれた隔離された地域でもありました。
今もJR根岸線の関内駅から北へ伊勢佐木町方面に向かう吉田橋に関所跡があります。外国人居留地側を関内と呼び、外と区分していた名残です。
関東大震災で被害に遭った瓦礫を横浜港に埋め立てて整備した山下公園から中華街方面に向かう時、横浜村から干拓途上の湿地低地へ、なだらかに下っていることを体感しながら往時をイメージできます。

・・・むずかしく言えば、ヨーロッパやアメリカの資本主義が、壮大な世界市場を開発しようとして、まずインドを手に入れ、支那を手に入れ、今まさに日本を手に入れようと働き掛けている時だった。
いかに幕府や朝廷が、鎖国、攘夷を力説しても、歴史は一日一日とその反対の方向へ歩いて行っていた。早い話が、文化何年かに、黒船と見たら、即時打ち払えという法令が出たが、幾らも立たない天保何年かになると、薪水令が出て、外国船が薪や水を求めたならば、心よくそれを供給してやれとなった。
その前後には、アメリカと下田条約を結ぶし、イギリスとも結ぶし、いくら朝廷がその調印を不可としても、井伊直弼のような人物が現れて、横浜。長崎、函館を開港して、イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、オランダと貿易を始めてしまった。(中略)生糸、茶、木蝋、海産物、樟脳、米、麦、銅などを外国船がドンドン積んで持って行った。開港後一年間で、日本に入った金が千五百万円くらいあった。大変な好景気が日本を見舞った。しかし、裏にまわると。利にさとい彼らは、ドル買いのアベコベで、一億円の日本金貨を買って、生糸や茶と一緒に本国へ持って行ってしまった。彼らは大もうけをしたが、日本は大損をした訳だ。・・・

長々と引用しましたが、これは最高学府の歴史学教授の文章ではなく、小説家小島政二郎の『円朝』(河出文庫)の一節です。

明治の人気落語家で、その新作落語の言文一致体は坪内逍遥先生に高く評価された(二葉亭四迷『余が言文一致の由来』参照)と言われる円朝師匠を庶民の視線で描いた愉しい小説です。その上巻の133頁に円朝が生きた幕末から開国の時代背景を「むずかしく言えば」といいながら、とても簡潔明瞭に綴っているので引用させてもらいました。1994年に100歳で大往生した人の用語に差し障りがあればご勘弁願います。

英国は「自由貿易」政策の下、清国に開国を迫るためにアヘン戦争を起こしましたが、その商業面の先兵がジャーデン・マセソン商会であったことは知られています。1842年の南京条約前後に広州から香港に本拠を移した後、中国名を「怡和洋行」と改めました。上海開港にあたり1844年に租界地の外灘1番地(現外貿大廈・中山東路27号)に本拠を築きました。続いて1854年に日英和親条約が結ばれると、1860年には、横浜居留地1番地に外資一号としてジャーデン・マセソン商会を設立しています。英国大使館の斜向かいの日本大通りの角地、海岸沿いの道を渡れば大桟橋も目の前の、飛び切りの一等地に所在しました。今でも「英一番館(English House No.1)」と呼ばれ、シルクセンターの脇に記念碑が建っています。

その東洋一の商会の日本支店で番頭として辣腕を揮ったのは吉田健三です。福井藩を数えの16歳で脱藩、大阪で医学、長崎で英語を学んだあと、1866年に英国船の雑役夫として密航に成功。英国で二年の修行を終えて帰国した時、徳川幕府は崩壊していました。吉田健三は帰国早々に英一番館で、生糸の買い付け輸出、軍艦兵器の輸入で大きな利益を商会にもたらし、三年だけ勤めてから退職する際に慰労金一万円が贈られています。その頃に、盟友である竹内綱(土佐藩士で民権活動家、初期の国会議員)の第五子(母親不詳)の茂を養子として貰い受けます。健三はその後、輸入製造業や市内太田町での醤油醸造業などで財を膨らましています。横浜屈指の富豪として40歳で逝去した時、唯一の遺産相続人の養子茂には、大磯の大邸宅も含めて、五十万円(現在の数十億円相当?)の財産を残したと言われています。

吉田茂について贅言は要らないと思いますが、戦前の済南領事時代に第一次世界大戦後のパリ講和会議に岳父牧野伸顕の随員として出席していること、天津・奉天の総領事を歴任した中国経験があること、英国・伊国大使を最後に軍部から干されて敗戦直後の外相就任まで浪人生活をしていること(巨額の遺産は蕩尽した、と麻生家に嫁いだ次女和子=麻生太郎の母の言)、そして太平洋戦争の開戦回避そして早期終結に奔走したらしいことを特記しておきます。
横浜の土地にアヘンの匂いのする英国資本主義が流入し、その流れに乗った吉田家の資金と教育により英米派の外交官・政治家が生まれた奇縁を感じます。父、吉田健三はジャーデン・マセソン商会で働き、養子の吉田茂は戦時下での特高警察や軍部の間では「ヨハンセン」という符牒で呼ばれて、自宅に官憲のスパイが潜り込んだことを見抜けず、1945年4月に逮捕拘留もされています。その「経歴」が戦後になって、占領国側からは英米派・反戦派として好感を得たとされています。

「ヨハンセン」は北欧系の姓名の場合、中国語では「約翰森」と書きますが、吉田茂の場合は「吉田反戦」の略だったと諸書に記されています。

 

 

2017年2月1日

「ポピュリズム」から ―言葉と人に思い巡らせる―

井嶋 悠

トランプ大統領誕生で、ポピュリズムとの言葉が、我が国の元首相や元市長時代以来久方ぶりに、マスコミの識者によって批判的否定的に使用されている。それは数年来待望されている“英雄(ヒーロー)”願望の負の側面への憂慮、と同時にアメリカ絶対的追従国日本の一人として、彼が大統領に選ばれるほどの支持者が厳としてある、そのアメリカの事実をどう受け止めるかの自己明確化への警告、と取ってはいささか識者贔屓過ぎるか。
しかしそうでなければ、識者(エリート)の繰り返される官僚的思弁への民衆の反逆でもあるポピュリズム(ポピュリスト)を方便とする権力獲得への、結果的に援護者と堕してしまわないか。

そのアメリカの国民の意思について、職歴等からアメリカ人やアメリカで研鑽を積んだ日本人青年たちとの出会いからも私感(観ではなく感)はあるが、「生兵法は大怪我のもと」、自国のことさえ今もって一知半解の身、いわんや他国・地域については、で軽率な批評は自重すべし、を昨今の信条としているので触れない。
ただ元職の日本の二人については、私の政治家不信の典型的理由の一つを体現していて、旧オーム真理教・アーレフ幹部(現「ひかりの輪」代表)の「ああ言えば、上祐」と重なっている。言葉と人のこととして。ただ、ここでは「四技能」の内、話す・聞くに係ることだが、聞く耳持たぬ話し上手?の印象甚だ強く、そこに権力志向の醜悪を直覚する。
言葉(国語科)の教師として33年間生計、家庭を営み、今の自照、供養も言葉で、「同穴の狐狸」そのままなのだが、それでも、である。「何を今更、世は騒音雑音が常」を承知し、何人もの“二人”と同系の人と仕事を共にし、心の病さえ発症したにもかかわらず、今もって脳内に留め置く小人ぶりに、妻から苦笑をかっている。
政治家と教師(特に文系)は酷似している、とも思えてしかたがない。ただ、ここで言う教師とは中高校(中等教育)それも私立校のそれで、公立校や小学校(初等教育)また大学・専門学校(高等教育)については外側からの印象である。

 

言葉は文化を表現する。文化は人に、人の理・知・感(ここで言う感は、うごめく感情が理知によって高められた感性を指しているつもりだが)によって構想され編み出される。人が多様なのだから文化も多様で、或る“絶対”を確信する人は時に羨望を受ける。煩悶難儀甚だしい「生」の軸足を持っているのだから。それに引き替え、未だ絶対を持ち得ない私はなおのこと、無とかゼロを、以心伝心を、尊崇夢想し、それを文化次元低い、しかし私にとっては心底実感の伴った言葉で表白し(書き)、心鎮める。その螺旋上昇のない?悪しき円環、堂々巡り……。

1945年以降、欧化は米化に代・変わり、この20年ほどそれは恍惚感(エクスタシー)的ともなっていて、例えば私が知る映画制作者、愛好家はその輸入量の欧・米差に危機感さえ募らせ嘆く。
極東の温帯(亜寒帯から亜熱帯の南北に長い地)の列島国、しかも6割が山岳森林地という地理的環境が一層そうさせるのか、好奇心旺盛で温和!?な国民性を醸成し、中でも奈良時代の漢語、明治時代の欧米語の導入・咀嚼力は、和語復活論さえ出るほどに怖るべき力(パワー)を発揮し、日本語を豊かにした、とも言える。

国際化また国際社会の制作・監督・主役がアメリカの現代世界、当然言葉と文化もアメリカ化が必然、自然ともなっている。好むと好まざるにかかわらず。しかし、異文化理解は理解との言葉が示すように理知の領域で、異文化間(異文化の狭間)で悪戦苦闘、四苦八苦している人たちが多数派(マジョリティ)ではないか、と年齢世代を措いて推察している。(尚、更に個人的に言えば、そこに「海外・帰国子女教育」の意義、重みを直覚し、20年程だったが関わった。)
言葉と文化の表裏一体性を思えば、意識・心に係る語はどうしても理解と感性での不完全燃焼は避けられず、その外来語を、誤解の危険を思いながらも、元のまま使わざるを得ない。例えば身近で出会った言葉で言えば、英米語の「アイデンティティ」であったり、韓国語の「恨(はん)」であったり。
そして、ポピュリズム。

日本語訳としては、肯定的な場合「人民主義」「民衆主義」、否定的な場合「大衆迎合主義」「衆愚政治」で、且つアメリカでは肯定的に、ヨーロッパでは否定的に使われる傾向があるとのこと。[『日本大百科全書(ジャポニカ)』から抜粋的に引用]

日本では否定的に使うことの方が多いのではないか。肯定的な訳語も、「民主主義」の多数決が持つ困難さ、また人為の現場に降(くだ)った段階で頭をもたげて来る権威主義、全体主義の、政治に限らず様々な社会での、古今の事実を思えば、肯・否皮膜微妙とは言え、多くは否定側に吸収されるように思える。
これは、私の中で渦巻いている、「人間性・人間的」と言う場合の、性善説・性悪説とはまた違った本質、価値観の表象のことにつながるのだが、ここではあくまでも上記引用の解説に従って使う。
蛇足ながら、日本語の特性としての否定表現と国民性についてはよく説かれるところではある。

 

勤務校で出会った現地校出身者の高校1年次で帰国した女子生徒(或るスポーツでアメリカ全土での高い実績を持ち、某高校に特待生で入学したが、練習法の日米の違いへの違和感に加えて足を壊し、1年で退学。その後私の勤務校に1年下げて入学)の、心に深く刻まれ考えさせられた言葉。(何度目かの引用)

「帰国してほっとした。なぜなら、日本では教師や生徒の発言を静かに聴き入って座っていれば褒められるのだから。アメリカでは存在自体を無視される。」

これは、生徒だけではない。

インターナショナルスクール協働校で出会った、英米加豪英語圏世界で、同僚から“典型的アメリカ人”(男性)と言われていた教師の、「転がる石に苔むさず」(A rolling stone gathers no moss)の日英とは違うアメリカ解釈そのままに他国のインターナショナルスクールに異動し、一時帰国した時の言葉。

「教師会議(ミーティング)で、間断なく発せられる『私が・は』の自身の実績を誇示し、自己主張する世界にほとほと疲れた」

その教師は、後に日本の別のインターナショナルスクールに転属し、後に日本女性と結婚したとのこと。

二つ目の蛇足ながら、インターナショナルスクールでは夫婦(同国人)で同じ学校に赴任する人がごく自然にあるが、在職中に離婚し、日本人女性と再婚する男性に何人か出会った。そして、中には元夫人もその後同じ職場で、何もなかったかのように協働していた。

これらの引用はあまりに恣意的で、且つ国際社会のリーダーを目指す日本の学校校教育との理念と目標からすれば少数派(マイノリティ)かもしれない。しかし、数の多少とは別に、「国際」の際(きわ)性から「ボーダレス」であることの難しさを思い、同時に敬意を抱く一人として、アメリカのポピュリズム肯定使用の背景を勝手に推察し、引用した。
とは言え、「日本」と言う時と同様、アメリカの東西南北中部どこを意識してのアメリカ観(感)なのかもはっきりせず、加えて英語力も貧弱な私だから、いよいよもって危なっかしいが。

トランプ大統領は支持する民衆を背に、次々に選挙公約実践のための「大統領令」に署名し、得意気な表情を全開している。アメリカポピュリズムの、鉄は熱いうちに打てと言うことなのか。
ただ、「生兵法は大怪我のもと」を自省する私とは言え、「アメリカ第1」との主張には、それぞれが己が正義を絶対とし、それぞれ相手をテロと糾弾し、武力がすべてを解決する(殲滅(せんめつ)!)との意が含まれているのか、との懸念はある。民主主義国家としての絶対的矜持を持つ国であり、一方で、過去に何人もの大統領が暗殺された国、アメリカとの思いがふと過る中で。
オバマ氏の大統領在任最後のスピーチの、理・知・感の春光に包まれたような調和との対照的な違い。オバマ氏は、同じアメリカ人としてトランプ大統領の初動を見越していた、とも想像するからなおさら畏怖に近い感動を持つ。

アメリカ国民の半数はトランプ氏を大統領に選び、選挙制度の違いはあるが、私たちは現首相を選んだ。その首相は、就任前のトランプ氏と夢!を語り合いたい!と世界最初に会いに行った(行けた?)ことを自負し、しきりに互いの信頼関係を言う。数千万円の国費を私費のように使うことへの反論かのように。経済至上社会のほころびは、子どもの、大人の(更に言えば女性の)、都鄙の、貧困・格差に、また学校教育に、露わになって来ているにもかかわらず。そして沖縄に代表される在日「在外米軍」への、世界屈指の貢献国日本。

ポピュリズムとの言葉を使ってトランプ氏を批判する識者とそのトランプ氏への首相の言説にあっても現内閣支持率が今も50%強の事実が、私の中でどうしても整合しない。これは私の不足、偏狭としても、ポピュリズムの源流でもある識者への不信と同じ感覚を持つ私もいる。「迎合」「衆愚」との識者視点ではなく。

先日、ボブ ディラン氏が、ノーベル文学賞を受賞した。氏の音楽には、生の哀しみを自覚し、懸命に生きようとする詞が、あのギターの調べと和して、ある。だから人々の心に深く沁(し)み入る。
その氏、ビリー・ザ・キッドを敬愛し付き従うも己が生を模索する役で出演し、同時に音楽も担当した映画『ビリー・ザ・キッド―21歳の生涯―』(サム ペキンパー監督・1973年・クリス クリストファーソン、ジェーム コバーン主演)の、映画としての、また氏作曲の劇中音楽『天国への扉』の、何という哀調。
サム ペキンパー監督は「暴力の美学」を追求したと言われるが、暴力につきまとう哀しみを常に意識し、観客に意識させたからこその讃辞ではないかと思う。その氏は、酒と薬の溺れ続けたとのこと……。

因みに、アメリカの英雄的スター・ジョン ウエイン(1907~1979)を引き出した西部劇の神様とまで言われた監督・ジョン フォード(1894~1973)は、晩年期、それまでのインディアン=悪視点を止め、叙情性溢れる『シャイアン』(1964年・リチャード ウイドマーク主演)を制作した。
そこには、アイルランドからの移民の子で、アイリッシュとしての誇りを持ち、映画制作人生での経験が、アメリカの歴史、風土と重なってあるように思える。

ポピュラーミュージック[popular music・ポップス(pops)]と、ポピュリズムは同語源とのこと。
ポピュラー音楽史に残る祭典ウッドストック(1969年)に象徴される1970年代の若者を核とした疾風怒濤の気運は遠い過去のこととなったが、今はそれらを経ての円熟期なのだろうか。熟し、種子を育み、新生へ。音楽と、芸術と政治、社会……歴史と人と。

非政治的で、ポップス・バラードを愛聴する私は、あまりに感傷的(センチメンタル)なのかもしれない。
識者はクラシックを愛聴する、との公理的?図式に従えば、私は「例外のない規則はない」になるが、クラシックの中でも主に古典派(クラッシク)の、それもアダージオとかラルゴといった調べ(旋律)に溺れているので、やはり識者が常々悲嘆する感傷的感情的人間なのだろう。