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2017年3月15日

遊び、その二つの字義、解放と隙間が育む、想像・創造力 [学 校]

井嶋 悠

前回に続く表題が、今回の駄文投稿の主点である。
末席を汚すとは言え一応京都人であるということで言えば、私の「京わらんべの口ずさみ」でもある。ただ、あくまでも教師及び親の体験からのそれではある。
[注:私の教師体験[専任教諭としての3校(内2校女子校、1校共学校]の制約或いは限界;
大都市圏の私学で、中高一貫校(内1校は大学併設)、自由の標榜、全員が大学進学希望]

10代での「解放と隙間」としての「遊び」、自我を、教師・他者と模索し確認できる、1時間が1分ではない1時間は1時間の時間。
10代を卒えた後、先進国、文明国、経済大国等々、世界を導くと矜持(喧伝)する国の一日本人として自由・自主の人生に向けて。怜悧聡明は愚直であってこそ。蝸牛の争いを直覚できる広量。対症療法の、しかもモノカネ施策の貧しさ、まやかしへの嗅覚。古稀は稀でなくなり、後期高齢者まで5年ある長寿大国の現代日本。
私はその視点から18歳選挙権に同意するし、併せて18歳成人とし、中学高校を8年制とし、原則20歳高校卒業、との学校制度下で、自律への自己確認の時間を願う。高校義務化も視野に。〈自由と言う言葉の使い方は難しい。義務教育との言葉が持つ拘束性ではなく、陰陽ない選択肢が可能な学校の意として〉
(「原則」としたのは、自己確認と志向の多様を思えば長短の幅は必然で、ただ、そこでは[基礎・基本]と教科のこと、教師意識、改革のための社会意識の転換等、総括的に考えなくてはならない。ただそれらに係る現状、私案は教師として、親としての体験と自省を基に以前投稿したので省略して以下進める。)

管理・放任でも、全体・画一でも、また今日の差別的使い方ではない個にとっての「主要」教科の自覚への、個が個として活きる教育。次代の創造的日本のために、少子化の今だからこそ、財政を理由にした中高校の統廃合は甚だしい矛盾、モノ・カネ効率第一主義の勝手な統制で、ましてや都鄙の格差是正を正論として言うならばなおさらのこと。例えば、校舎等の養護施設、保育所等への有効利用での教育効果は計り知れない。
教育現場から退いて10年、限られた情報しかない私ながら、現在も生徒は「ギチギチでギスギスと生き」(前回の投稿で使用した表現)のままだと思う。そのとき私の脳裏に浮かぶ生徒とは、或る“英才”を見い出された「特待生」やそれに類する待遇を受けたり、「優秀な子どもはどこの学校にいても優秀」、また要領が良いとの意味での優秀者ではない、その他の圧倒的多数の“普通の”生徒である。

 

学校は、塾・予備校は広報・説明会で声高に言う。「個を大切にする、活かす教育」。
それを言う時の恥ずかしさと罪悪感、そして時間(多忙!と時に誇らしげに言う時間)を持ち出す不遜。これは、何人かの生徒への献身で自得満足していた管理職或いはそれに準ずる職を経験した私のこと。それらの記憶が鮮やかによみがえる。教師という大人の勝手と観念(言葉)遊戯。
学校にとっては多数の中の(相対の)一人(個)だが、親にとっては絶対の一人(個)を、教師としてはもちろんのこと、親としても、親族等知人の事例からもどれほど痛み知らされたか。
最後の奉職校は「絶対評価」を信条としていたが、授業の集成である定期試験の内容や方法、各生徒の把握等、巨視的且つでき得る限り客観的にできたか、少なくとも私には自信はない。
(尚、10段階評価の奉職校で、全員〈1学年3クラスで学年生徒数約140人前後〉常に全員「9」評価をする教師があり、一時教員会議で議論されたがうやむやとなった)

「歳月人を待たず」。すべては時間(時が経てば忘れる)が解決する?
「風化」書くことで改めて気づかされる自然の悠久な歴史と[ふうか]との音声的響きへの高慢。

 

「考える力」(想像を広げ、考え、試行し、創造性を養い、自身を知ろうとする力)を、との「当然」を初めての真理のように言い、入試での出題をインタビューで驕り高ぶる上級学校の管理職等の相も変らぬ無恥。その橋渡しをし、進路指導まで司るほどの絶対的信頼度を誇る塾・予備校の不変?の構図。
(因みに、学習塾通学(ここでは英語等外国語学習塾は視野に入れていない)は日本独特かと思いきや、ソウル・北京でも高く、「東アジア」独特の文化?との視点から考えてみるのも興味深いかもしれない。)
この狂騒にも似た受験戦線に人生の土台となる競争原理があり、それに打ち克ってこその素晴らしい10代そして未来との感動談、美談。それを引き立たせる?悲談と劣等、敗者意識、諦め。前者<後者は言い過ぎか。

 

「遊びをせんとや生まれけむ  戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば  我が身さへこそ揺るがるれ」

これは、前回冒頭に引用した書と同じ『梁塵秘抄』に収められていて、今日(こんにち)度々引用される一つ。
無心に遊ぶ子どもの声を聴く老境からの感慨と解説される。老いでの生の終わりを自覚し、己が生涯を回顧する姿を思えばそうであろうが、年齢を離れ“大人”になった、との複雑な感慨ではないか。出会う幼な子すべてに神々しい愛らしさを実感する我が身に狼狽(うろた)え慌てる今。

上記では、「遊」と「戯」の二つが使い分けられている。白川静『常用字解』で意義を確認してみる。

「遊」:もと神霊があそぶこと、神が自由に行動するという意味であったが、のち人が興のおもむくままに行動して楽しむという意味に用いられるようになった。
「戯」:もとは軍事・戦に関わる語であった。(説明を要約して引用)

現在、私たち多くは「遊ぶ・遊(ゆう)」を使っている。
日本は、古来ありとあらゆる場に宿る八百万の神々と交会し、春夏秋冬豊潤な自然との共生が産みだすアニミズム(精霊信仰)の国。[幽・かすか・はるか「幽玄」]につながる「遊」。

【余談】私の名は「悠」(悠々・悠然)。1945年(昭和20年)8月23日、長崎市郊外で出生。父は海軍軍医で被爆者治療に従事。その父がこれからの日本を願っての命名。「名は体を表わす」の一つ?と、父母慈悲の恩をどこか知識的なまま天上に送った者として自嘲的に思ったりする。

 

日本人は「遊び下手」と言われる。
それは「真面目人間」ということなのだろうが、古人曰く「過ぎたるは及ばざるがごとし」に限りなく近づくことさえ多々ある。先人の多忙=充実・苦行(の愉悦?)の働きがあっての高度経済成長と今の恩恵があるとはいえ、今日の若い世代には頭の中の感覚のようにも思える。10年余り前に某大手企業幹部から聞いたエピソード。部署で新人歓迎会を上司として企画したところ、主役の新人が揃って参加せず、理由を聞いたところ「どうしてアフター5まで同僚でなくてはならないのか」との返事だったとのこと。
とは言え、数多の海外進出企業を含め、日本人は今もって、遊びと仕事・勉強(労働)の明確な区別、切り替えがあいまいで、いつも労働を引きずり、仕事と遊びの合理的切り替えこそ善、と承知しつつも徹しきれず、中には後ろめたささえ持つ、中高年はもちろん、多いのではないか。何にでも「道(どう)」をつけ、禁欲的指向を真善美とする。色の道も「色道」。「道楽」「極道」また「好色」の用法に見る日本的、日本性おもしろさ?

中国やヨーロッパの、仕事と遊びを切り離して人を視るのと違って、仕事の優秀さ、実績があっての遊びを評価する日本性を言い、江戸時代の文化に担い手に「遊び人」の存在を指摘する、例えば樋口清之(1909~1997:歴史学者。日本史関係の啓蒙書を多く執筆し、その一つ『日本人の歴史8 「遊びと日本人」』)のような人もいる。
世界が公認する勤勉なその日本人が何年か前から郷愁する江戸時代町民生活・文化。近代化と日本人。明治維新への心情を根っ子にしての賛否両論。
先日の「プエミアム・フライデー」。このネーミングも含め、政治家と官僚の「国民」基準の偏向の再びの露呈、街頭インタビューに応える若い社会人(おそらく時代の先端等大手企業や役所の人たち?)の応え(もっとも、それらはマスコミの取捨選択であろうが)の心の貧相。それらに苛立つのは私だけか、と思えば、愚策と怒り心頭の人々も少なからずあって一安心。

 

旧聞ながら、国文学[日本文学]の卒業論文で、女子学生に人気の近現代作家は太宰 治(1909~1948)とのこと。理由は彼の美男振り[見てくれ]と母性(本能?)を刺激する[甘え]からとのこと。その太宰の、作家自身と思われる父[私]の生活断片を描いた作品に『父』と言うのがある。
「義のために、わが子を犠牲にするといふ事は、人類がはじまって、すぐその直後に起った。」(『旧約聖書』創世記を土台にしての表現)に始まり、「義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。」で終わる短編小説である。
主人公の父[私]は、どうにもならない見栄っ張りの女好きの家庭をかえりみないとんでもなく小心な男として描かれている。(だから母性をくすぐる?)。その彼が「義のために遊ぶ」と嘆く(居直る?)。彼自身、その義の正体を探しているのだが、非常に日本的と思え、「私」の死に急ぐ姿が視えるようでもある。と、どこか得心する私がいる。ただ、39歳で道連れ的情死した太宰と違い、妻に言わせれば、変で妙で屈折的なそれだとのこと……。

ところで、「遊び」には二つの字義がある。[いずれも『ウイキペディア』より引用]

一つは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、を満足させることを主たる目的として行うもの。【解放】

一つは、機械や装置の操作を行う機構(ユーザーインターフェイス/マンマシンインタフェース)に設けられる、操作が実際の動作に影響しない範囲のこと。あるいは、接合部などに設けられた隙間や緩み。【隙間】

ギチギチにしてギスギスの生の刻々、融通性のない、謹厳実直の日本人? 老荘が言う「無用の用」を憧憬するが頭だけに留まってしまいがちな日本人……。明治維新での、「脱亜入欧」、無条件降伏からの奇跡の復興と高度経済成長での、「(欧米に)追いつけ追い越せ」から、「追いつかれ、追い越され」に。襲われる不安と焦燥、そして謹厳な責任感。
民主党《現民進党》政権時代、現党首の「二番ではだめなんですか」発言とその場の微妙な反応を報道で見、非常に愉快な、しかしどこか違和感を持った記憶が過(よ)ぎる。

英語に次のようなことわざ(『マザー グース』の一節)があることを知った。

「All work and no play makes Jack a dull boy. [dull:鈍い、退屈な]

※念のために「play」を英和辞典[『ライトハウス英和辞典』研究者]で確認するが、その多義から、一面的にとらえる危うさを思うが進める。

遊びの二つの価値[解放]と[隙間(余裕)]。解放があってこその遊び。隙間があっての遊びの成立。
1973年の交通標語「せまい日本 そんなに急いで どこへ行く」をもじれば「先進長寿の経済大国日本そんなに急いで どこへ行く」……。
日々の束縛から解放され、たとえ一時であれ自由の時間と空間に浸り、自己を問い、明日の生の活力を得るはずの「遊び」にもかかわらず、疲れ、そんな自身に苦笑する日本人…。
子どもと大人の、それぞれでの、また相互での、『いじめ・虐待』も遊びの欠如が一因とさえ思う。
言葉が、記号の形式だけに堕した頭でっかちの世界。直ぐに条例化、法制化し、それで事足れりとする安易さに潜む全体主義化の不安と人間不信の現代。

1970年代から使われるようになり、今では日本語化しているとも言える「レジャー」[leisure:暇な、余暇]の軽薄な響き。しかしこれらの感覚は「時間つぶし」との言葉に抵抗感を持つ私の、旧態然発想なのかもしれない。

 

フランスの文芸批評家、社会学者、哲学者である、ロジェ・カイヨワ(1913~1978)は、遊びの基本的な定義を以下の通り記述している。                           (その著『遊びと人間』の解説からの孫引き。下線は引用者)

  1. 自由な活動。すなわち、遊戯が強制されないこと。むしろ強制されれば、遊びは魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
  2. 隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
  3. 未確定な活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の工夫があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
  4. 非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
  5. 規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
  6. 虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

 

この遊び観、学校にあてはめてみると、私感が論外のデタラメとも思えない。
その学校。(中学校・高等学校)
日常的にして非日常的世界。(この日常・非日常という言葉、私が20代・1970年代、頻りに耳目に触れた言葉で、私の中で明確な理由を説明できない或る抵抗感が伴うのだが使う。)
「俗」にして「聖」の、「ケ・褻」にして「ハレ・晴れ」の、「私」にして「公」の、「普段」にして「祭り更には政(まつりごと)」の、思えば不思議な世界。その両極間を行ったり来たり彷徨う生徒、教師。

体験での知見例。キリスト教主義の学校で、プロテスタント系(私の勤務校)よりカソリック系で多い在学中受洗者。

私的(個人的)自由、公的(集団的)自由の接点への模索と試行、そこで知る抑制、規制、束縛。神経脈の細分的発達と不安、理想への憧憬と葛藤。心身発達の不調和と混乱。「青の時代」。疾風怒濤の10代。それぞれの方法で駆け抜けようとする生徒たちと大人然と居る、或いはそう在らざるを得ない教師たちとの協働社会
「家庭内暴力」「いじめを含めた校内外暴力」は、中学2年14歳前後をピークに中学高校に多いことは、今も昔も変わらない。人間発達の自然? しかし、低年齢化して小学校高学年で増加傾向にある今。
個人の複雑化に拍車を掛ける過剰情報、社会の複雑化。その中での“勝ち組・負け組”との、旧時代の感覚のままにマスコミが煽る風潮作り。一方での観念的正義、道徳。後ろでそのマスコミを操る人たちについて「青の若者」はどれほどに察知承知しているのだろう。
長寿化、少子化と世界の、国際化からグローバル化(地球船時代)指向にもかかわらず。

かつて、心通じ合い協働していた識者たちが懸命に提示した「新しい学力観」との言葉がよみがえる。その識者たちの多くも既に引退した。繰り返される、そのときどきでの「新しい」学力論。風化……。
中学生の英語の時間「過去完了」との表現に出会い、驚き、半世紀以上が経った。

2017年3月5日

中華街たより(2017年3月)  『吉田博』

井上 邦久

 前号の『ヨハンセン』では、吉田新田開発の吉田勘兵衛、横浜開港期の富豪吉田健三、そしてその養子の吉田茂と吉田姓が頻出しました。そこに屋を重ねて、吉田姓を採り上げるのは止した方が良いのでしょうが、奇しくも最近じっくり風景画を観る機会があり、その画家の姓名が吉田博でした。勢いに任せて第四の吉田さん、吉田博の数奇で屈折した人生と画業の一端について綴ります。

戦後占領下の日本で、吉田茂首相がGHQのマッカーサー最高司令官と渡り合っていた頃、マッカーサー夫人は吉田博の豪邸を訪ねて、その作品を鑑賞購入しています。吉田博が年期の入った英語を駆使して、多くの米国人相手に版画制作のワークショップ(体験型講座)を主宰し、彼の超絶技法を伝えている記録と写真が残っています。講座のあとは賑やかな即売会だったことでしょう。
マッカーサーが初めて厚木飛行場に降り立ってすぐに「吉田博は何処だ?」と口にしたという伝説もあるようですが、その真偽の程は確認できないものの、米国における吉田博の知名度や人気がとても高かったことを物語る逸話でしょう。米国東海岸に在住中の友人に吉田博の評判を聴いたところ、「私は名前も知らなかった。しかし、検索したら直ぐにニューヨークの美術館での展覧情報が見つかりました」との連絡を貰いました。

1876年、旧久留米藩士の上田束の次男として久留米に生まれ、黒田藩の藩校であった修猷館中学(現福岡県立修猷館高校)に入学して間もなく、同校の図画教師であった吉田嘉三郎に画才を認められた上田博は、15歳にして吉田家に養子として迎えられ吉田博となりました。吉田嘉三郎自身もまた大分県中津の晴野家(中津藩の御用絵師の家柄)から吉田家へ養子に入り、4人の女児を得ていました。その吉田嘉三郎の勧めで吉田博は17歳で京都、翌年東京の画塾に転じて、「絵の鬼」と称されるほどの修行に努めています。その背景には、18歳の年に養父吉田嘉三郎が急逝し、上京してきた養母と4姉妹、そして養子縁組後に生まれた男児の生活を支える立場に追い込まれていたことがあるでしょう。
明治美術会展覧会への油絵の出品、横浜の外国人相手の山廼井美術店やサムライ商会(原三渓の知遇を得て横浜屈指の海外向け美術商となる。新渡戸稲造が社名を名付けたと言われる。現在横浜市南区大岡に所在する同名の刀剣専門商との関係は未調査)を通じて、水彩画を外国人に販売しながら(売れる絵を描きながら?)苦しい生活を維持していたものと推測されます。

一方、黒田清輝(薩摩出身)と久米敬一郎(佐賀出身)のフランス留学組が明るい画風の「新派」として注目を浴び、東京美術学校西洋画科の新設に関与し、時を経ずして教授に就任。そして黒田・久米の門下生たちは国費留学生として続々とフランスへ向かうという華々しい流れがありました。彼らは明治美術会を旧弊な存在として離反し「白馬会」を結成しています。

「絵の鬼」となって励んでも、フランスへの国費留学や美術学校登用の可能性が乏しい「旧派」明治美術会に属していた吉田博は「新派」への激しい対抗心と画才への自負心、そして何よりも生活の為に米国行きに活路を求めます。
横浜で絵を買ってくれた上に、東京まで訪ねて来てくれた東洋美術収集家のチャールズ・フーリア氏の紹介状を頼りに米国行きを決意。借金して片道だけの船賃を工面し、描きためた作品を携え、吉田博は同塾生と二人1899年9月27日に横浜港からサンフランシスコ経由でフーリア氏の住むデトロイトを目指しています。デトロイト美術館館長に作品を認められ、続いてボストン美術館でも展覧即売の機会を得て、勤め人の俸給十年分以上の収入を得ています。

その後、欧州各地を巡り、帰国してからは「旧派」を糾合する核心として黒田清輝と「白馬会」メンバー(吉田博は彼らを常に「官僚」と呼んだ由)との対峙が続きます。女流画家の先駆けとなっていた義妹の吉田ふじを(嘉三郎の次女。後に博と結婚)との米国・欧州への渡航により、海外での評価が更に高まったようです。

帰国後の様子は、漱石先生の『三四郎』第八章から抜き書きさせてもらいます。(中央公論「日本の文学」夏目漱石Ⅱ-132頁)

・・・長い間外国を旅行して歩いた兄妹の画がたくさんある。双方とも同じ姓で、しかも一つところに並べてかけてある。・・・「兄さんの方がよほどうまいようですね」と美禰子が言った。三四郎にはこの意味が通じなかった。・・・

朴念仁なところがある三四郎と洗練された美禰子の感情が微妙にすれ違うシーンとして吉田兄妹による226点の帰朝特別展示会を利用しています。

1920年代に入って吉田博は木版画の創作に大きく舵を切って行きます。関東大震災の被災救済を目的とする第3回目の渡米の際、木版画が思いのほかに好評であった(或いは、水彩画の鮮度が落ちた?)ことや、幕末以来に流出した粗雑猥雑な浮世絵が米国では高値で取引されていたことから決意したとされています。帰国後、従来の常識を破って自ら版元となり、更には「自刻自摺」を目指して、自ら彫りや摺りの修行を今度は「版画の鬼」として行っています。そして、いわゆる超絶技法と称される『朝日』(1926年)『渓流』(1928年)などの作品に結実しています。同時期に描き、彫り、摺られた瀬戸内海風景シリーズも秀作ぞろいですが、中でも『光る海』(1926年)はダイアナ王妃が生前に執務室に飾っていたことでも話題になっています。

以上の事柄は、安永幸一氏による研究報告「近代風景の巨匠 吉田博-その生涯と芸術」や昨年来、千葉・郡山・久留米で開催された生誕140年展を準備された学芸員、研究者の著述に負うところが多く、またNHK「日曜美術館」で知ることも多々ありました。吉田博展は、久留米市美術館で3月20日まで、続いて上田市立美術館(4月29日~6月18日)、最後に東京損保ジャパン日本興亜美術館(7月8日~8月27日)で開催される予定です。

木版画への大転換をした理由は他に、若い頃から顧客が歓ぶ画、ありていに言えば良く売れる画を追求する姿勢(CS:Customer Satisfaction:顧客満足)が旺盛だったのではないか、更には市場変化にも敏感に反応できる(先読みし過ぎる?)資質によるものではないか、と勝手に推測しています。芸術至上主義や苦学清貧の中で作品(商品ではなく)を創造することを尊ぶ日本の風土には、自他相互に馴染まなかったかも知れないと愚考します。

また同じ時期に、二人の大切な人を失ったことも影響しているのではないかと考えます。一人は黒田清輝(1924年没)。吉田博が職人肌でビジネス感覚を持っていたのとは対照的に、黒田清輝は美術学校教授から帝国美術院院長、子爵として貴族院議員にまでなった一種の政治家としての生き方をしています。「黒田清輝を殴った男」と喧伝されていた吉田博としては負けじ魂のぶつけ先を失い寂しくなったのではないかと深読みしています。

もう一人は小林喜作(1923年没)。北アルプスの「喜作新道」を開いた人として有名です。筑後浮羽での幼少期から高い処が好きだった吉田博は、小林喜作の案内で大規模な登山行を続けています。最良の場所で最適な気象と時間のもとで山岳画を描いていますが、小林喜作の死後は山の画が激減しています。

 

横浜港に到着した外国人が、ホテルに逗宿する前に吉田博の画を求めて扱い店に直行したという逸話が残っています。明治の陶芸家である宮川香山の真葛焼(横浜焼)の人気も同様に語られていて、大桟橋から南太田の窯元まで人力車が活躍したようです。欧米から宮川香山作品の買戻しに苦労された田邊哲人氏のコレクションを観ると、確かに超絶技法の点でも吉田博の作品、特に版画に共通するものを感じました。吉田・宮川とも欧米での人気に比べて国内では地味な存在であったことも似ています。久留米駅前で地元出身の青木繁や坂本繁二郎に関する大きな案内看板を目にした後で、吉田博の作品は久留米市美術館に一枚も収蔵していないと云う学芸員の率直な説明に驚きました。

吉田茂には莫大な遺産と教育機会というストックがありました。
吉田博には強烈な意志と行動主義というパッションがありました。
吉田博の行動力には開港横浜の進取性開放性が寄与していると感じます。当然、横浜美術館には作品が収蔵されています。(了)