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2017年11月21日

《ゴールデン ラズベリー賞》としての2017流行語大賞 『謙虚に』

井嶋 悠

2か月ほど前に、ほぼ全身が激痛に見舞われるという病に襲われた。40年来の偏頭痛持ちながら、8月末ごろからそれとは違う予兆はあった。とは言え急激だったので襲われたとの気持ちが強い。以前した腰の手術の関係から処方してもらっている強い鎮痛剤を服用してひたすら横臥の日々。いろいろなことが脳裏をかすめる。不安と辛抱。
紆余曲折を経て今、やや落ち着き、2か月ぶりに投稿を書き始めている(11月20日)。明日、今回紹介いただけた医師の3回目の診療。

「病は気から」と言う。気の持ちようで重くもなり、軽くもなる。痛い時にそう言えるかどうか、などという屁理屈、言い訳はよそう。
しかし、ものごと何事も+と-の両面がある。病にそれを言うのは、甚だ不謹慎であることは当然ではあるが、痛みにうなされていてもふと天から与えられた休息時間と思えば思えなくもない。更には人が人にそれぞれ好悪を持ち合う人間社会。「医は仁術なり。仁愛の心を本とする」を直覚させる医師に出会えば、自ずと心委ね、例え治癒しなくとも然りと自覚する“ゆとり”が生まれ、それが快方へ導くように思える。そこには学歴も、多弁もない。簡にして要を得た心が動いている。以心伝心。
今回、私は二人の医師と一人の看護師(女性)にあらためてそのことを実感した。

医師の世界だけではない。すべての世界に於いても同じだ。教師世界にあっても。否、教師世界は大人と子ども[知識・言葉の多少も、成績の出来不出来も関係のない、瑞々しい感性の活きた塊りとしての]の世界が核だからもっと端的に強い。しかし、感性を磨かせ[使役]られる[受身]と言えば言える。だから私の場合、書く(=学ぶ)ことで自省自照し、年金生活者の自由人!であること、そして娘の死があるからこそ怠惰無精な私でも続けられている。
私たちは自然があればこそ生きられる。しかし、工業化商業化こそ近代化よろしく日々自然は破壊され、「日進月歩」との言葉は、真意を離れ化石化して行くようにも思える。

私は、妻は、職人に敬意と憧憬を抱く。
「祖父は大工でした。長年大工をしていると体がどうなるか分かりますか。指がとんかちを握った形のままで動かないのです。父はそれを見ていて跡を継ぎませんでした。私は継ごうと考えましたが結局は止(よ)しました。」これは、この地に来て出会った若者の言葉だ。

私たち夫婦の身勝手で軽率な想いを自責するが、それでも憧れる。人を相手としない職業。少なくとも私たちが出会った職人は寡黙で、謙虚である。その人としての風格に魅かれる。そもそも多弁(おしゃべり)な職人など、職人の風上にも置けないと思っている。
私が出会って来た人の中で私が描く能弁な人は、職人ではなく元同僚の今でも交流のある女性教師ただ一人である。

人は人である限り老若問わずストレスから逃れられない。(尚、私(わたし)的にはストレスと言う表現を好まない。ストレスと言えばなんでもかんでも許容される世の風潮に、分わきまえず棹差したいから。正しく「同情ほど愛情よりも遠いものはない」に通ずる。)

「樹齢二百年の木を使ったら、二百年は使える仕事をしなきゃ。木に失礼ですから。」

これは、昨年七夕の日に83歳で亡くなった永 六輔氏の編著『職人』(岩波新書)の中の、或る大工の言葉である。
[因みに、93歳にして現役の内海 好江さんと永氏との対談で、好江さんは永氏のことを「素人の若旦那」と評し、永氏本人も認めている。その意味は略す。]

母性を備え持った“慈父”夏目 漱石39歳の時の(漱石の享年は50歳)作品『夢十夜』の「第六夜」は[運慶(鎌倉時代の仏師)が、護国寺(東京)の山門で仁王像を彫っているのを観に行く]の話しで、その中で同じく見物していた若い男の言葉に、
「なに、あれは眉や鼻を鑿(のみ)で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。……」とある。

運慶は偉大な“芸術家”だ、と眉をひそめる人もあるやもしれないが、天衣無縫偉大な職人と言ってもあながち間違いではない。切り出された大木と仁王と運慶(職人)の一心化、一体化。宇宙としての無。
漱石は、この後自身も「積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋まっていないものだと悟った。」と書く。
「明治」を「平成」に代えて読んでも差し支えないのではないか。

【付記:先に私は漱石のことを「母性を備え持った“慈父”」と書いた。従来の[母性・父性]定義からそれを越えた[母性・父性]について、これまでの投稿の中で断片的に触れてはいるが、いつか私見をまとめてみたいと想ってはいる。】

謙虚と寡黙こそ日本人が愛して止まない人間像と思う私だから、時代錯誤の誹りは免れられない。そんな私だから、昨今かまびすしい【おもてなし】など、その意味、使い方は本末転倒と憤ることは東京に限って言ってもいくらでも頭を過ぎる。ただ愚痴はほどほどにしないと先の論旨と矛盾するので止める。

かのトランプ大統領が、ハローウィンで、ホワイトハウス執務室に何か国かの子どもたちを招いたときのニュースは微笑ましかった。まるで猛獣を見るかのようにベソをかきアメリカ人の女の子の後ろに身を隠していた日本人の女の子(小学校1年生前後)の姿。思わず「ああ、日本人」と言った時の妻の苦微笑と併せて。
それに引き替え、大人たちの、それも日本を動かす政治家、企業家、教育家(例えば、那須岳遭難事故報告書公表)の、それぞれの不祥事(ただ、政治家での衆議院選挙結果の場合は勝者も)で連発された言葉「謙虚に」。

謙虚の反対語を『反対語対照語辞典』(東京堂出版)で確認すると、何と5語記されている。
曰く、【傲慢・高慢・横柄・尊大・不遜】
どういうことだろう?
「悪事千里を走り、好事門を出でず」と言っては偏り過ぎかとも思うが、気に引っかかることはある。
当事者は心から語ったのだろうが、魂からの言葉に思えないのは私だけだろうか。
学校教育世界に身を置いて来た一人として、教師の意識変革なしに教育内容も制度も変わらないことを、「お前に言われたくない」世界だろうが、痛感して来たので。しかし、娘の一事の発端が教師の問題であることは、明らかである。[これらについては、既に何度か投稿した。]
その延長上に政治家、企業家も(一部かとは思うが…)ある。

「言葉は心の使い」「言葉は身の文(あや)」とのことわざが、歳を重ねるごとに説得力を持つことは実感している。それを子どもたちは直感し、直覚し、とうに見透かしている。
「話す」は「放つ」に由来するとの説もあるそうだが、「話す」が「放言」とならないためにも、「語る」が「騙る」に陥らないためにも言葉を見据えて欲しい。一日本人として。
現首相は衆議院選挙結果に対して「謙虚に」との姿勢を言ったが、今の国会運営は果たしてそう言えるのか、私は支持政党なしではあるが、思う。

 

 

 

2017年11月10日

中華街たより(2017年11月)  『米国から中国へ』

井上 邦久

ボストンからキングストン経由でプリマスまで、一日に数本だけ運行している郊外列車で行きました。
まばらな乗客、小一時間で着いたプリマス駅は無人駅でした。1620年、メイフラワー号に乗った102人の「巡礼始祖」が上陸したプリマスはバージニアとともに北米植民の出発点とされ、聖地化されていると想像していましたが、海を前にした寂しい終着駅にはバスも案内所もありません。
一台だけのタクシーを何とか捕まえ、「電車でプリマス観光?」と呆れ顔のドライバーの言うままに、野外博物館に連れて行ってもらいました。

開拓時代の小屋や機織り場を再現した一種のテーマパークでして、インディアンが歌い、農作業のフリをしているのを妙に痛々しく感じました。
感謝祭は原住民と移住者との「友好協力」への感謝とも言われますが、今もなお一部の原住民は、感謝祭の当日を虐殺された先祖を追悼する「全米哀悼の日」としています。

帰りの電車まで一時間余り、海を見ながら金子みすずの「浜はまつりのようだけど、海のなかでは何万のいわしのとむらい」と続く『大漁』という詩を思い出していました。

ボストンが建設されたのは1630年、徳川幕府の創成期に当ります。それから1853年の黒船浦賀来航までの200年余りの出来事を、米中関係の研究や講演を続けている横浜在住の友人松本健三氏に学びました。松本氏は上海時代から、各地域の歴史や産業に横串を刺し、比較分析する手法を得意としています。

別添の松本氏作成の米国中国関係年表にある通り、1776年の米国独立宣言から8年後に、早くも中国広州へ交易船を派遣していることに驚かされます。
それに続く宣教師派遣、アヘン戦争中立対応、望厦条約(米国有利の不平等通商条約)、西漸政策(カリフォルニア併合)、捕鯨拡大などを背景にして、北東部の貿易・捕鯨業者らを支持層とするホイッグ党が勢力を得て、日本に開国を促す為のペリー艦隊の派遣に繋がります。

アマーストの閨秀詩人、エミリー・デッキンソンを描いた映画『静かなる情熱』には、主人公が自宅で「スプリングフィールド・リパブリカン」紙などの新聞を読むシーンが出てきす。記事をテーマにして家族で白熱した議論をする場面も印象的でした。
鵜野ひろ子神戸女学院大学教授が『現代詩手帖』8月号に書かれた文章によれば、15歳のエミリー・デッキンソンはボストンで開催された「CHINESE MUSEUM」(1844年マカオでの通商条約会議に同行した人が持ち帰った文物を展示した「中国展」)の見学を通じて東洋への眼を開いています。
次に新聞で日本の鎖国制度、難破した捕鯨船員の日本での処遇などについても読み、マサチューセッツ州議会議員、国会議員であった父親経由で、日本の団扇などの文物や植物標本を入手しているようです。
ペリー提督の通訳官を務めた宣教師サミュエル・ウィリアムズが採集した日本の植物も、父親は娘の為に入手して温室まで敷地内に造ったとのこと。
エミリー・ディキンソンは他国の方針を無視する米国の外交政策に違和感を覚えていたとされ、温室は父の属する党の政策に批判的な娘への懐柔策ではないかとされています。

今も昔も、父親は娘に「従順」でありますから鵜野教授の分析に同意します。夏のデッキンソン邸宅の広い庭の一隅に、もしかすると日本由来の植物が生えていたのかも知れません。

米国から帰国後、術後検査や出講準備を進める中で、台風以外にも衆議院議員選挙や中国共産党大会などで新聞も騒々しいことでした。その中で、正に台風の眼とも言える北京に長く住んでいるCW(China Watcher)がいます。
日本各紙よりも早く、正確で、彫りの深い発信を得意とするCW氏との連携が復活したので、幅広い観点から動きを眺めることができました。

中国の人事動静について、毎日や読売が大胆な予測記事を出して外れ、日経と朝日は市井の中国通の話を聴くような無難な記事を続けた結果、他紙のような恥を掻かなくて済みました。
全体として三国志演義のような人的抗争や属人分析を好んできた日本の読者も、一方では対中国無関心派が増え、もう一方では人事だけからの判断の域を脱して高度化してきたのではないかと思います。その観点から、産経新聞の記事に円熟味を感じました。

そして従来なら「香港情報」が珍重され、スクープや内幕物の情報源となっていましたが、近年「香港の大陸化」により、寸鉄は研ぎ澄まされず、雨傘でささやかな抵抗している状態のため、斬新な「香港情報」が減っているようで残念です。                            (了)

 

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