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2018年6月28日

大人(おとな)になる・大人である

井嶋 悠

2020年から、成人年齢が、欧米の多くがそうであるように、18歳に引き下げられることになった。私たち[日韓・アジア教育文化センター]の仲間である韓国・中国は20歳のままであるが。現代の社会状況また教育事情、更には情報〔過多〕社会事情からも得心できる決定だと思う。

今回、「大人(おとな)」各人各様、世代、考え方、生き方によって「理想の、或いは善しとする大人像」は違うと思うが、私の大人像について自照整理したい。これも、数限りなく過ちを犯し、やっとのことで得つつある心中の、「他山の石」「人の振り見て我が振り直せ」である。

10年ほど前の発言である。
「最近、地下鉄などで老人に席を譲る若者が減りましたねえ。」
発話者は、私より少し若く、韓日で敬愛され(世代交代から主に50代以上の人々から)数年前に定年退官し、今悠々自適の日々を過ごしているソウルの高校の韓国人男性日本語教師である。彼は【日韓・アジア教育文化センター】の役員でもある。
その彼は続ける。「譲られる老人にも問題がある。譲られて当然との姿勢。そのことへの若者の反感反撥がある。韓国は儒教の国と言われているのですがねえ。」

 

「老人」を“印籠”とするかのように、社会的弱者であることに同情を寄せさせ、己が絶対の聴く耳持たず、持論を滔々と弁じ、傍若無人な振る舞い、障害者等に該当しないにもかかわらず優先駐車場に車を停め等々に、日本で、現住地で少なからず出会った高齢化大国日本の末席を汚す私は、彼の言葉に同意同感する。
これらは「好事門を出でず、悪事千里を行く」の類と思いたいが、併せて、昔は云々、とか田舎の人は善良だ、といった例の文言を言うつもりもない。それらは或る偏見だと思っている。
私たちの家は、関東北部の豊かな自然に囲まれた清閑の地にあり、この地域の居住者は10世帯。半数は移住者で、後の半数は地元の人である。移住者の4世帯は首都圏から(内1軒は別荘)、そして私たち関西からである。最近こんなことがあった。
この1年程野良猫が3匹居ついているのだが、その理由は首都圏からの移住者2人にある。1人は時折来る別荘族の老人(男性)で、来ては餌を与え己が猫愛を言い、もう一人は50代後半の男性で、こちらで単身〈家族は東京〉仕事をしている。後者は、不在中の昼になると「にゃんにゃんにゃん」と自分で吹き込んだテープを定期発信している。(さすがに今は止めている)
私たち夫婦は、その無責任に憤っているが、直接に言えず、そうかと言って市役所に言えば密告者として直ぐ特定され不快になること明々白々。
そんな中、先日6匹の子猫が現われた。当然、実に可愛い。私はひたすら抑制し、眼が合っても無視し近づかない。心切ないのはもちろんである。しかし二人とも一切知らぬ態である。二人は、それぞれに社会的上層人(何をもって上層とするかがあるが、ここでは富裕者としておく)で、一人など某国の子ども支援をしていてそれを吹聴している。
尚、私たち夫婦は、結婚以来継続して犬を飼っていて、現在5代目である。

気になって、犬や猫の「殺処分」の実態を確認してみた。
2015年度の殺処分数は、約8,2万頭(現在、哺乳動物は匹ではなく頭を使うようだ)[内、犬が1,6万頭、猫が6,7万頭。]1日に換算すると225頭。それでも自治体や民間団体の尽力で10年前の3分の1に減少しているとのこと。
放置し、殺処分に到る理由について、この調査では以下のように記されている。

『やむを得ない事情もあるかもしれないが、大半は人間の身勝手な都合による。例えば、引っ越し先に連れて行くのが面倒。世話が面倒。避妊手術をせず無計画に産ませた。可愛くなくなった。飽きた。』等々。

上記二人は、身勝手の一つの極ということだろう。
以前、殺処分の任にある人が、インタビューにその身勝手を怒っていたことを思い出した。
そしてペットショップでは、犬や猫が高値で販売されている。都心の店で、子犬、子猫が40万円50万円で売られて(この言葉自体、非常に抵抗があるが、そのまま使う)いるのを見たことがある。

一方で、東京都内でさえ問題が顕在化しつつある家庭の、子どもの貧困。更には、しばしば指摘される世界の子どもたち、大人の、貧困と内戦等による飢餓、命の危機の現在。
錯綜、不明の時代、現代……?否、永遠の!課題、難題。
高齢化と少子化の途を突き進む日本にあって、アメリカ・中国・ロシアの「大国主義」と一線を画し、「小国主義」(田中 彰[1928~2011]日本近代史研究者)「小国寡民」(老子)の再検討の時機ではないか、と思ったりもする。
反面教師だった一小市民の反時代的意見?

土地の人から「首都圏から来て山中に犬を棄てて帰る人がいる。」と聞いたこともある。他にも、大型家電製品を廃棄する人もあるとか。
言うまでもなく、ここで言う「人間」とは「大人」である。そして老人は、大人の先輩格である。

【付記】犬の養育には非常に経費がかかり、それは猫の比ではない。そして私たちは最近保険に入った。世は“癒し、癒し”の時代!?保険をもっと充実、拡大すべきと実感として願う。

いささか唐突、牽強付会の感を持たれるかとは思うが、犯罪統計を見てみる。
報道等を見聞きしていると、犯罪の過多を印象づけている人は、私も含めて多いように思うが、実際は逆である。例えば、私が25歳の時の1970年と今(2016年統計)では、特異な犯罪(例えばオウムサリン事件や相模原障害者施設殺傷事件)はあるが、刑法犯罪の全体数及び人口10万人中の発生率もおおむね減少傾向にある。「オレオレ詐欺」等の詐欺犯罪も。
なぜ過多の印象を持つのか、マスコミの取り上げ方(劇場型?ドラマ嗜好?)なのか、政治(家)の意図なのか(不安を煽ることでの支配管理指向?)、国際化のなせることなのか(不法外国人への転嫁?)…。
「島国日本」の長い歴史の自省と試練の過渡期なのだろうか。
いずれにせよ子どもに与える影響を思えば、すべての責は大人にある。
ところで、著しい増加傾向にあるのが「児童虐待」である。つい先日、あまりにも酷(むご)く哀し過ぎる『結(ゆ)愛(あ)ちゃん虐待死事件』があり、逮捕された父母は何を語っているのだろうか。
このことについては、私の教師及び親の体験からいずれ整理したいとは思っているが、ここでは参考に統計数字を挙げ、専門家の一節を引用しておく。

○相談件数  1990年    1,101件

2016年   122、578 件

虐待死   2012年   99人
(内、虐待死 58人  心中死 41人(この数は、2006年の142人をピークに以降、増減を繰り返している。)

○川崎二三彦氏・児童福祉司(1951年~)著『児童虐待』のまえがきより。

「保護者は子育てのさなかに、なぜかその子を虐待してしまい、虐待を繰り返しつつ日々の養育にたいへんな労力を費やす。他方子どもは、虐待環境から逃れたいと切に願いながら、同時にその保護者から見捨てられることを恐れ、あくまでも保護者に依存して生きていこうとする。だから児童虐待は、保護者にとっても、また子どもにとっても大いなる矛盾であり、必然的に激しい葛藤を引き起こさざるを得ない。」

「児童虐待の問題は単に関係者、関係機関、あるいは専門家等に任せるだけ
では決して解決するものではないということだ。児童虐待を生み出したのがわが国の社会だとしたら、それを克服するにも社会全体で取り組む、つまり私たち一人ひとりがこの問題に真剣に向き合い、考える必要があるのではないか、と私は思う。」

様々な場面、世相を通して、現代の大人は「カルイ・カルクなった」との苦言を聞くことは確かに多いが、では昭和の、大正の、明治の、江戸の……時代の人は[重厚長大]だったかどうか。先の犯罪統計と同じで、安易に言い切れるものではないのではないか。平成の30年間を迷宮の時代と言う人があるが。
ただ、情報の溺死寸前ほどの氾濫状況、匿名による責任回避の誹謗中傷の無軌道(と言う私は、現政府等のように制度化、管理化推進者ではない。だから難しさを一層思う)、また時間の余裕の無さは、過去にはなかったことだけは確かだろう。
メール等現代情報機器を使った陰湿ないじめ(子ども同士、大人同士、大人の児童生徒学生への)、そして自殺。石川啄木の「はたらけど はたらけど猶わがくらし 楽にならざり ぢっと手を見る」と状況等は違うが、経済大国にして先進国を喧伝する日本での[ワーキングプア]。

次代の日本は、18歳で社会的に大人として承認された若者に始まり、現20代30代40代50代60代の人々によって創られる。70代の私やそれ以上の世代は、それをあたたかく見守ると同時に、己が正負行為からの自照の言葉を送り、託し、何かの役立ちを願う立場にある。
もっとも、小学校同窓の一人(女性)は、病を抱えながらも、土日以外は毎日午前2時に起床し、自転車で仕事場に行き、現場を夫と切り回し、家事も疎かにすることなく精励している。
先日、或る70代後半の女性国会議員が、テレビ取材で意気揚々得々と現役宣言をしていたが、世の「定年」という現実、それぞれの場・世界で、悲喜こもごも心身尽くして来た人々を無視したかのような発言に、国政に係わる人の尊大傲慢を痛感した。大仰に言えば、そこに日本の病巣を見た。先の同窓生との質の決定的違い。

時代を、世相を端的に表わすと同時に、次代の創造の礎である「教育」に思い到らざるを得ない。
その私は、教師失格を自認しているにもかかわらず教育に発言しているのは、27歳の大人時から33年間の体験(私学中高校3校での専任教諭生活)が、“私の言葉”を少しは持ち得たと思っているからで、それは「反面教師」からの自照自省であり、且つ息子と娘の親としての自省の基でもある。

人間として生を得たからには、様々な欲望と自我との間で闘う宿命を背負わされていて、そこから逃れられるのは、自己鍛錬(様々な修業)か死以外にはない。葬儀の際の「お疲れ様でした。ゆっくりとおやすみください」の重い響き。
私をはじめ多くの人々は、とりわけ大人は、どこかで折り合いをつけ文字通り懸命に、一喜一憂日々刻々悶々悪戦苦闘している。私の投稿は、教師として過ごした、また親として過ごして来ている自身の整理であり、生への、自我への執着であり、そのための折り合いと言ってもいいかもしれない。

「五慾」と言う言葉が仏教にある。「五」は地球上の[木・火・土・金・水]と、天と地の交錯を表わしていると言う。「業(ごう)」と言う言葉がかすめる。

【参考】五慾
5つの感覚器官に対する5つの対象,すなわち形態のある物質 (色) ,音声 (声) ,香り (香) ,味,触れてわかるもの (触) をいう。これらは,欲望を引起す原因となるので五欲という。財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲の五つも五欲という。

 

大人(たいじん)になることは、難行だが憧憬でもある。しかし私は、それにはほど遠い小人(しょうじん)である。時には小人こそ人間らしいと居直ったりもしている。そんな折、この地への移住を決断した妻、それに何ら異議を示さなかった私。「婦唱夫随」。
得た座学ではない学び。自然の体感。そして6年前の娘の死。自照自省への意思が頭をもたげ始め、投稿をはじめて3年が過ぎる。と言って小人を脱け出たわけでもない。ただ私の中で何かが変わったとは思っている。

現職時代、議論の大切さを唱えながら「聞く耳持たず」の独善家、社会変革を言いながら「事大主義者」、慇懃無礼な何人かの大人(おとな)(教師)、それも社会的地位のある人々や、生徒を直接間接にハラスメント対象とする大人(教師)に出会った。小人を棚に上げ、強い苛立ち、憤慨を、そこから嫌教師観を持ったが、今、幾つかの心の層を経て、少しは澄明度が増したのか、その人たちは私の心から消えつつある。遅ればせながら、である。
因みに、前者の大人について言えば、内二人は、辞職を決意させるほどに私の人生を大きく変えた人たちである。

完全な或いは完璧な大人など、世界広しと言えども無いと思う。あれば神も仏も無いはずだから。
かの一休禅師は「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」と言ったそうだが、死に際し、盲目の側仕えの女性(森女)に「死にとうない」と言ったとか。

精神的視点からの「大人像」(条件)を記した文章(筆者不明)から、要点を順不同で挙げる。

《成熟している、思慮分別がある、感情的でない、単眼的でない、長期的大局的判断ができる、自立している、言動行動に責任が持てる、自律できる》

どうだろうか。要は、寛容にして泰然自若。これまでに出会ったそういった人たちの貌が浮かぶ。
ただ、己に照合すると、引用した言葉自体の意味確認も必要であるが、それぞれ反対表現を考えると茫然自失、頭がくらくらして来る……。
大人になって半世紀余り、大人であることの難しさ。

2018年6月16日

「迷わぬ者に悟り(・覚り)なし」と思いたい

井嶋 悠

先日、妻と、車で、福島県いわき市の海辺にあるモダンで立派な水族館[アクアマリン]に行った。
田園地帯、山間道路、小都市の千変万化の風景、人々を見、個を想い、水族館での奥深い海への畏怖を再自覚させられたり、クラゲ舞踏会に魅入られたりの往復4時間余りの小旅行。
その時々に脳裏をかすめる「色即是空、空即是色」の、生きる力への感……
相も変らぬ昏迷深い私とは言え、一方で幽かに直覚する私の中の変移の昨今。

1967年(昭和42年)刊行された「人生の本 全10巻別巻1の内の一巻『懐疑と信仰』」で12人の日本人作家、宗教家、思想家を選び編んだ作家・武田 泰淳(1912年~1976年)の解説で次の二つの言葉に出会った。

――「信念」とか「悟り」とかいう単語を耳にするだけで、身ぶるいしたくなる、これら青年たちの感覚は尊いものです。彼らは決して宗教に対するときときだけ、そのような感覚を抱きしめているばかりではない。政治、経済、道徳、芸術その他あらゆる分野について、なにかしら絶対的なものに対する疑念、反撥、ためらいを手ばなすことができないのです。

――(児童文学作家小川 未明(1882年~1961年)の二つの童話《「火に點ず」「金の輪」》を選んだことに触れ)、彼[病により享年7歳の少年―引用者注―]には「懐疑」とか「信仰」とか、そのほかむずかしい日本単語も日本宗教もなに一つ知りはしなかったのに、私たちがもしかしたら見ることのできない、そんなにまで美しい金の輪を見ることができたのでした。――

私は後2か月で73歳になる身だが、歳相応云々の是非は別として、この青年と少年に今もって共感する。
前者の疑念、反撥の後ろに在る気恥ずかしさ、居心地の悪さから、後者の感性の力から、の共感。

私が教員として最初に勤務したK女学院中等高等部(女子大学を併設)は、1875年(明治8年)二人のアメリカ人女性宣教師によって創立されたプロテスタント系の、ほとんど校則のない(もちろん私服)ミッションスクールだった。
週5日制で、毎日朝8時30分から立派なパイプオルガンを備えた講堂で礼拝が持たれる。(尚、水曜日は1時限目がLHR(クラス毎を原則としたLong Home Room)のため、それが始まる前にクラス・学年等それぞれの場で実施)
讃美歌の斉唱に始まり、週毎に選ばれた聖書の一節の音読、学内外の牧師や受洗者、また生徒を含めた学院につながる人々による講話、そして讃美歌の斉唱で終わる。その間20分。

学校標語が「愛神愛隣」。
これは、『新約聖書』[マタイによる福音書22章37節~39節の、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主(しゅ)を愛しなさい。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人(となりびと)を自分のように愛しなさい。」を基としている。

17年間の勤務で、大まかに言って前半期まではさほどではなかったが、後半期から自校大学への進学者は激減し、退職後はほんの数名となった。或る年はセロもあった由。理由は他大学(それも東西の有名国公立私立大学)への進学で、心ない生徒や保護者、時には教職員までが、内部進学者は成績劣等との眼で視るまでになった。そのためか?一部では中等部3年次から、高等部ではほぼ全員が、塾・予備校との並立生活となる。背景には、中等部入試は、関西で最難関校の一つと言われ、生徒の保護者の自尊・矜持は高く、例えば中等部1年次1学期の成績で初めて下位を経験し、自尊心を大きく傷けられる生徒が出るほどにまでなる、そんな「受験(進学)知」?があるのかもしれない。

私立学校と私立塾・予備校の二重生活。保護者の経済的負担は明らか。世間で、いわゆる高偏差値大学進学家庭=裕福な家庭は実感的に理解できる。また一部で、日本国内のインターナショナル・スクール(小中高或いは中高で、基本は英語が第1言語)希望者が増えているが、その教育費もかなりのもので、私が経験した日本私学と協働校で、国際バカロレア加盟のSインターナショナル・スクールの(国籍は日本以外の外国籍が原則)保護者(とりわけ母親)で、パートタイマーで働く人は多かった。

【K女学院問題は私の退職後には一層強くなり、いろいろな場面で負の問題が生じて来ている。これについて、歴史的、教育的見地から学院全体で検討し、原点回帰を併せた変革の動きがある旨聞いている。】

彼女たちは礼拝の雰囲気(講堂‐パイプオルガン‐讃美歌が醸し出す雰囲気)には心地良さを刻み込むが、講話者への疑念、反撥は時に非常に強く、自身から積極的にキリスト教に、聖書に心向ける者は限られていた。ましてや在学中に受洗する者はまずなかった。
そんな折、校務分掌で高等部の生徒会を担当していた私は、S女子学院高等部生徒会との生徒会交流を提案し、実施できた。S女子学院は小中高一貫のカソリック系で、学院と同一敷地内に修道院があり、修道女(シスター)たちは教育の様々な分野で奉仕活動を行っている。
その時、S女子学院生徒会生徒が言った次の言葉は、K女子学院生徒会生徒を驚嘆沈黙させ、私の中では今もなお鮮明に残っている。要約して記すと以下のような内容である。

「中等部に入学して初めて知ったシスターたちの存在、その言行一致は、私たちに強い関心の眼を自然に向けさせる。自分が何かする時、例えば食事や入浴の時、シスターはどんな風にするのだろうと思い浮かべる。そんな日々が重なることで、自主参加である「ミサ」に正に自主的に参加し、キリスト教をより知ることとなる。中高6年間の在学中で受洗する人は、20人はいると思う。」

私の息子と亡き娘は、我が家の近くにあった長崎に本部を置く或る修道女会が運営する幼稚園でお世話になった。学習の前に人としての心の教育に温もりと安心を持っていた親・家庭は多く、私たちもそうだった。ただ、卒園後、現実の勉強、成績一辺倒的風潮にあたふたした子どもたちもあったが、私たち親は苦笑しつつも園の教育方針に共感していた。例えば遠足時、電車の乗り降りと車内での行儀良さの微笑ましさ。その幼稚園はもうかなり前に廃園になった由。理由はシスター、とりわけ若いシスターの減少とのこと。

S女子学院の今はどうなのだろう?
カトリック系男子校のR学院はどうなのだろう?同じくカトリック系の共学校N学院はどうなのだろう?かてて加えて、政治的、経済的、文化的等々の一極集中化、更には権力化、差別化著しい世界の?!大都市東京では、少子化高齢化に伴ってどのような変容があるのだろうかとも思う。
日本人は抽象的思考が不得手(それは想像力の欠乏につながる?)で、具体的思考を得手とすると聞くが、そうだとしてそのことと、学習の根底である生活すべてに「ゆとり」が無くなって来ているように思い、或る危機感さえ持つのは、勝手な老人の妄想なのだろうか。
しかし、今日本が先進国として誇れるものが確実になくなりつつあるという人が多いのも事実である。
それとも単にキリスト教と日本(人)というしばしば論じられることなのだろうか。

大きな夢を持って行ったからこそその公私にわたる痛撃が甚大であった、K女学院からの転身先(尚、この顛末はすでに投稿した)K国際中高校(共学化の構想もあったようだが、創設30年が経つ今も女子校)は仏教系の学校法人下にある。
その標語は「和」[聖徳太子『十七条憲法の第一「以和為貴」(和をもって貴しと為す)』]である。聖徳太子を考える上でも、「国際」をその視点から考える上でも、大きな入口となるはずだったが、時の校長の、かの国際化=欧米化と学校私物化的独善により、太子自身同じ第1条で「上(かみ)和(やわら)ぎ、下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」と言っているにもかかわらず、教育現場で一切関知するところではなかった。ただ、その学校敷地内には、立派な太子銅像が立てられていた……。
そして今では、学校紹介で「国際」は言われることもなく、「進学」女子校を標榜している。
因みに、第17条は「夫れ事独り断(さだむ)むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論ふべし。」である。
敬愛し、後に確かな相互理解を持つことができ、その校長への自身の悔悟を私に言って下さった、良き仏教徒であった今は亡き法人理事長の貌が浮かぶ。

日本は、[無宗教(者)]や「無神論(者)]が多い国であることは、幾つかの調査からも確かなようである。その一人私は、仏教及び自然神道系の無宗教で、私なりの「無」の解釈からすればすべての宗教を受け容れる要素すら持っている。(もっとも、この思いは暴力的新興宗教にまで及ばないが)しかし「無神論者」ではない。もっとも私の神観は、東洋的意味合いでの「天」と、自然神道的「神」(八百万の神)と、仏教での「仏」の意味が複雑微妙に重なっているのだが、少なくとも唯一絶対神に基づく一神教信仰者ではない。

日本国憲法の第一条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」とある。今もって私には、「象徴」の意味を整然と言えないもどかしさがあるが、感傷の危険性を承知で言えば、最近、天皇が直接登場するテレビ報道を見ると感涙さえもよおす非論理的な私がいる。それこそ迷いと言えば迷いであろうかと思うが、同時に日本的日本人の一典型?とも思っている。

虚構。英語では[fiction]。
手元にある国語辞典(新明解国語辞典)では次のように説明している。
「(文芸などで)事実そのままでなく、[作意を]を加えて一層強く真実味を印象づけようとすること。」
また英和辞典(グランド センチュリ 英和辞典)では、[①(文芸の一部門としての)小説・創作 ②作りごと・作り話・虚構]とある。と、ことさら確認したのは、ネットで調べていると「虚構と書いて、でたらめ・うそ・オチ・みせかけ・イミテーションなどと、架空のことを全面的に押し出した読み方をさせることがある」とあり、私なりの「虚構」の把握(イメージ)と大きな開きがあったためで、私としては先の辞典の説明に同意して使用する。
人間(或いは私)は、自身の意志とは関係なく生まれ、直後の記憶はなく2、3歳ごろから自我を持ち始め人生を始める。先の辞書の言葉を援用すれば、自我を加えて自身の真実を求め、自身にまた周囲に己(おの)が真実を印象づけようとする。だからこそすべての人は、人生を顧みその人の作意をもってすれば一冊の文学[芸術]作品を創り上げることができる、との先人の言葉があるのだろう。

人生はその人となりの虚構と言えるのではないか。そして様々な自・他批評。日々の喜怒哀楽苦惑…
映画好きの私は、フィクションへの想像力が枯渇し始めていて、その苛立ち、寂しさの昨日今日…
10代の鋭く瑞々しい感性の時代に大いに迷うこと、それから先の人生の礎。その意味で、この高齢時代が益々拡大化して行く中にあって、2022年度から成人が18歳になること、と学校教育の制度的、人的質的変革によって、迷いに必要不可欠な心のゆとりが生まれることと思う。(尚、変革私論は以前投稿した)言ってみれば、踊り場付き螺旋階段の低速進行の時間を経ることで、惑うこと多の年齢だからこそ孔子が言った「不惑」を活きた響きで実感できるのではないか。
と、「五十にして天命を知り、六十にして耳順(したが)う、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰えず。」を経たにもかかわらず、以前とは数段進歩!したとは思うが、今もって迷い、惑いにある私はつくづく悔恨を込めて思う。

そのためにも先ず、大人のたち私たちが、先日のアメリカ・トランプ大統領と北朝鮮・金周恩会談に関して、[テレビ・ニュース・ショー]?の一部の解説員(専門家、ニュースキャスター等)の、視聴者を無知との前提に立ち、薄ら笑いすら浮かべ、一方的且つ間断なく双方を得意気になじる姿に愕然とする。政治のうさんくささ、表裏、ホンネとタテマエ云々以前に、その人格性がますます若者を政治から離れさせるように思える。否、彼ら彼女らは或るターゲットを意図した虚構で、そのための作意を基に演じているのだろうか。

因みに、私はアメリカ・北朝鮮への同意・支持者ではないし、また中国・ロシアへのそれでもなく、かと言って日本絶対者ではないが、日本の現在について甚だ疑問を持つ一人で、なぜそういう私になるのか、ふと自問自答しながら豊潤な自然を傍に分不相応な贅沢をしている。

教師の難しさの一つとして恩師から言われた「生徒(若者)と“つかず離れず、急がずしかし時機を失せず」の見守りの姿勢の意義。それができたと言えるのは、33年間でほんのわずかだったが。

2018年6月10日

中華街たより(2018年6月) 『豊の国の旅』

井上 邦久

去年までの集中講座を今年から毎週受け持つようにした大学での講義を終えてから、小さな背嚢だけの旅支度で、茨木駅に五名合流。大阪港からサンフラワー号で別府に向かいました。4月末から授業の他に、気合を入れた報告会を続けて行った緊張が、夜の大阪港を離れていくなかで解れていきました。

国東の名刹富貴寺の宿まで迎えに来て頂いた地元名士や郷土史家が丁寧に練ってくれた段取りの御蔭で、国東半島を小気味よく巡ることができました。二日目の宿は、豊後高田の老舗旅館。豊後人3名と摂津人5人での会食は味わい深いものでした。割烹旅館の若女将は、大分弁で云うところの「安気(あんき)」な人で、親しみと率直さを肩の凝らない言葉遣いと行動で表してくれました。子供の頃に馴染んだ故郷大分の人たちを懐かしく思い出させてくれました。

豊後高田の中央商店街、橋のたもとの瓦屋呉服店に案内され、当主から掛け軸に表装された山頭火の真筆ではないかとされる句を見せて貰いました。当主の祖父に当たる人は足腰を傷めて、座ったままで店を守っていたとのこと。虚無僧や物乞いが出入りした昭和の初期、一人の僧形の男が現れたので、悪気もなく壱銭硬貨を投げ与えた処、男は懐より取り出した紙縒り(こより)用の紙に携帯していた筆で、
「投げくれし此一銭春寒し  コジキ」
と達筆で認めて一銭硬貨とともに店先に置いて去って行った由。
祖父は自らのぞんざいな行為を深く反省し、その後はどんな相手にも礼を弁えた言動をしたとのこと。更に俳句に通じた人たちがその僧形の男は、もしかすると種田山頭火ではないか、いや山頭火に違いないという事になり、句を表装して店に飾った時期もあり、今では記念句碑まで建てられています。
よくできた句であり、見事な筆でしたが、当主は山頭火の作であるとの断定的な言い方は控えて、代々続く家の訓えを守っていました。

研究者はこのエピソードに絡む年譜や季語そして筆跡などを仔細に調べて解釈しているようです。まさに丸谷才一の名作『横しぐれ』の世界に重なって来ます。プロ野球の判定ではないのだから、黒白を決めることもないような気がします。
詩心や筆力を持った僧形の男が漂泊の足を繁華な町と店に留めたことは紛れもない事実であり、その男の出現によって感受された訓えが瓦屋呉服店に代々継承されている事こそ豊後高田が誇るべき歴史と文化だと感じました。

豊後の人たちに豊前の宇佐神宮まで見送って頂きました。
宇佐から院内に立ち寄り、石橋の強さと造形美を知りました。横の大倉山烽火台跡でフェートン号事件(オランダからイギリスに覇権が移る節目に、英国船が長崎港に偽装侵入した事件)の余波が豊前の山中にまで及んだこと、地球の反対側から侵入して来る船の情報を烽火(のろし)で中津藩に伝えようとした技術格差に驚きます。

中津での白眉は、五人だけで自性寺大雅堂を独占させてもらった池大雅の南画と書でした。京都国立博物館に大勢の人が押し寄せた「天才南画家、85年ぶりの大回顧展!」は5月20日まででした。「天衣無縫の旅の画家」池大雅は1764年に中津自性寺に夫婦で滞在しています。現在47点の書画が寺に残っているとの事。

船中一泊、豊後二泊、豊前一泊、「温故知新」の旅でした。 (了)

 

追記:旅の前に図書館の新着コーナーで以下の本を見つけました。
譚璐美『近代中国への旅』(白水社2017年12月発行)
返却日が奇しくも月を跨いた4日でした。中国改革開放40年。「改革開放」とは「経済改革・対外開放」の略であり、決して「政治改革・対内開放」ではないと事あるごとに感じてい ます。
しかし、実は「政治改革」も下準備をしていたと、実行責任者であった陳一諮(米国亡命中)から訊きだしています。