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2018年8月31日

八月・「戦争」への想像力を ~死者・孤児・政府設置慰安所を通して~

井嶋 悠

今日、2018年8月が終わる。「平成」最後の8月である。

戦争は人が人である限り避けられないのだろうか。
最近の輿論調査によれば、「やや」を含め生活に満足しているとの回答が70%を超え、これまでで最高値だったとか。この基因の一つに「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」の戦争特需があるとの視点はどのように受け止められているのだろうか。

1945年8月15日の敗戦(終戦)前、3月から7月にかけて沖縄で、6日広島で、9日長崎で、アメリカ軍による殲滅(せんめつ)と言っていいほどの攻撃にさらされた。(本来ならば、東京をはじめとする都市への空襲も採り上げなくてはならないが、ここでは沖縄、広島、長崎に留める。)
と言う私は、長崎原爆投下の2週間後、敗戦の8日後、8月23日に長崎市郊外の小村で生まれた。戦争を知らない世代のはしりである。京都人の父が、海軍軍医として赴任していた関係である。

「終戦」と「敗戦」との言葉遣い。当時の人々の安堵の情で言えば先ず終戦ではないか。しかし、日本国憲法に第9条の「永久」との言葉を省察すれば「敗戦」である、と私は思う。
戦争は、勝者であれ敗者であれ、多くの死者を意図的に作る最大の暴力である。それぞれがそれぞれの正義の旗の下、その正義のため大小を問わず権力者は、国民を、市民を有無言わさず戦場に駆り出し、殺戮を奨励し、そして弔う。何という傲慢、矛盾。

現代日本にあって、その戦争に不安、更には危機感を持つ人は身辺にも多い。ここまで猥雑に米国追従をしていれば、然もありなんと思う。暴力に麻痺し始めているようにも思える。憤怒憤激日毎にいや増すとは言え、私にとって日本がすべてだ。日本が好きだ。当たり前のことだが。
あまりにも「内向き」との非難を受けるだろうが、今の私には[国際(教育)]も[異文化間(教育)]も遠い思い出にある。とは言え、ここでナショナリズムとか国粋とかを持ち出す気持ちはさらさらない。
「輪廻転生」が事実で、次の生も人ならば(私自身、そうありたくないが、天が選択肢を与えてくれるのであれば海の一粒の小石になりたいと最近思い始めている)、日本以外に他など考えられない。そもそも他国・地域の人々には迷惑なことだ。未来永劫のご縁……。

私たちは、あの太平洋戦争で、沖縄戦で、広島と長崎で死んだ人の数を大枠でも承知しているだろうか。更には「戦争孤児」のことを。「防波堤」になった女性たちの、その国家施策のことを。
知らないのは私や限られた人だけかもしれない。しかし「風化」が一層危惧されている。風化はいつしか、悪しき権力者やそれを取り巻く人たちに翻弄される途に向かわせる。気づいたときは『いつか来た道』となる。杞憂ならいい。
しかし、少しでもその可能性があるならば、その責任は戦争を知らない世代の私たちにある。ここには世代差はない。否、若ければ若いほど責任は重い。次代を担う命なのだから。

感傷(センチメンタル)は安らぎと危うさの表裏である。これは自戒でもある。
因みに、北原 白秋の詩『この道』の歌詞は以下である。

この道はいつかきた道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる
あの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ
この道はいつかきた道 ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ
あの雲もいつか見た雲 ああ そうだよ 山査子の枝も垂れてる

「人の命は地球より重い」。これは、先日、2歳の男の児を救出した、その人生、行動、言動、表情が証する純粋で高潔な人柄の“スーパーヒーロー”尾畠 春夫さん(78歳)の言葉である。
この言葉、旧来使われている。1970年代時の首相が、ハイジャックによる人質と服役中の犯人たちの同志との交換解放で使った言葉でもある。この首相の場合、いろいろと批評もあるようだが、尾畠さんの場合は注釈なしに重く深く響く。これを日本のそして世界の政治家はどう受け止めるのだろうか。虚しさについ襲われる。
だから、今回、私の欠如を補い、あらためて心に銘じたく、このような表題をつけた。


【戦死者】
 以下《  》は、私見或いは私的体験である。

 沖縄戦死者(1945年3月26日~1945年7月2日)

  日本 188,136人(沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人) (他都道府県出身兵 65,908人)内、集団自決 約1000人・日本軍による住民殺害 約1000人

《高校時代の授業(だったと思う)で、沖縄の海岸の断崖から主に女性が次から次から飛び込む(中には幼児を抱え)映像が今も鮮烈に残っている。沖縄の歴史を知れば知るほど、私たちは沖縄の人たちに甘え過ぎてはいないか。カネと犠牲は常に言われることだが、私もとどのつまり内地の“富者”の身勝手な言になるのだろう。》

Ⅱ 広島被爆死者 (被爆後間もなくの死者で以後の死者は含まれていない)

約14万人(強制徴用の朝鮮人、中国人等。外国人留学生、米軍捕虜を含む)

《最初に(約45年前)勤務し18年間在職した神戸女学院は、主にプロテスタント系のキリスト教学校教育同盟校の一つで、広島女学院も同盟校であった。その時、被爆と朝鮮人をはじめとする外国人犠牲者の取り組みに大きな敬意の関心を持った。ただ持っただけだったが…。
また、原爆資料館を父大江 健三郎さんの子息光さんが、見学後ロビーで、父に「すべてだめです」(後に「です」と言ったか「でした」と言ったかで話題になったが、私は「です」と思っている。)の一言は衝撃だった。
昨年だったか、式典に登壇した首相に対して「帰れ!」との怒号が飛んだが、首相は一切意に介さず被爆国としての役割、責任を、「核兵器禁止条約」に未だ署名することなく、ここでもアメリカ追従そのままに述べた。尚、このことについては、最後に視点を変えて触れる。》

Ⅲ 長崎被爆死者 (被爆後間もなくの死者で以後の死者は含まれていない)

約7,4000人

《父は海軍軍医として被爆者の治療にも携わり、私が中高校生時代、その時の様子を聞いた。各家庭に油を供出させ、雑巾に浸して当てるだけが治療であったとか。原爆投下に限らず敗戦濃厚の情報は、当時砂糖をあまるほど所有していた軍人上層部、町の有力者、医師等特権?階層の一部の人たちは把握し、戦後に備えて部下等を動かし準備を始めていたとか。その人たちの戦後とは一体どうだったのだろう?と思う。京都に戻った父は大学内権力闘争?の煽りを食らって、何かと苦難の道を歩まざるを得なかった。》

Ⅳ 太平洋戦争死者 (以下の数字は概数)

日本人は軍人 330万人、一般人 80万人
朝鮮人は軍人 22万人、一般人 2万人死亡
台湾人は軍人 18万人、一般人 3万人死亡

[その他の国]
中国 1000万人  インド 350万人  ベトナム 200万人  インドネシア 400万人  フィリピン 111万人  ビルマ 5万人  シンガポール 5千人 モルジブ 3千人  ニュージーランド Ⅰ万人  アメリカ人41万人  オーストラリア2万5千人

《太平洋戦争の主導者は東条英機であったが、辞世の歌の一つに「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」があり、最後「天皇陛下万歳」とA級戦犯者の何人かと乾杯し、絞首台に上がった旨知り、無性に腹が立った。戦争責任問題は今も議論になっているが、天皇に関しては、当時の現人神としての存在、また幾つかの言動から、私は責任の一端はあるがそれ以上はないと思っている。
開戦の12月6日のニュースを聞いた多くの文人たちの言葉、それも讃嘆の、を見ればますます己が不勉強、怠惰を思い知らされ、戦後第1期生としてそのまま生きて来ている。》

【戦争孤児】

123、511人

[注]孤児とは両親がいないこと。 片親でもいれば「遺児」
・父が戦死、母が病死、または戦災死。
・両親ともに戦災死。
・母か父の片方が戦災死、片方の親が病死して、両親ともにいない子ども

《野坂 昭如原作のアニメ『火垂るの墓』は、心揺さぶる作品には違いないが、「毎年見せられてもういい」と、小学校時代の息子が言っていたのには思わず笑えた。元同じ教師として、学校側の企画の繰り返しは分からなくもないが、やはり“過ぎたるは及ばざるがごとし”ということか。
戦後の闇市を、生まれ持った?才知を発揮して駆け抜けた少年少女たち、将来への希望を見出せず哀しみと失意に生きた少年少女たち。澤田 美喜(1901~1980)の「エリザベス・サンダース・ホーム」を拠点に、生きることを得た少年少女たち。更には悪事に身を沈めた少年少女たち。……。
戦後の復興の基礎にその少年少女たちがあって今、他界した人も多い。》

【慰安婦】

1945年8月 連合国軍兵士による強姦等性暴力を防ぐために、連合国軍占領下の日本政府によって設けられた慰安所『特殊慰安施設協会』(国営国立慰安所!)。東京・横浜をはじめ、江の島・熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知、広島、静岡、兵庫、山形、秋田、岩手等日本各地で5万3000~5000人を募集。翌年3月連合軍の指示で廃止。しかし、多くの彼女たちが街娼等に。

《今もって「慰安婦問題」の十全な整理、解決しない現状にあって、日本は敗戦直後に、連合軍による性犯罪防止を目的に、『特殊慰安施設協会』なるものを政府が率先して創設した。このような例は、世界にはないという。翌年廃止されたとはいえ、創設目的とは裏腹に開設中にも連合軍による性犯罪は多発した。日韓合意・日朝合意は解決済みと言うが、上記のようなことにどれほど真摯に向き合って、戦後処理をしたのだろうか、同じ日本人として疑問は残る。

「男女共同参画」とか言葉は多く語られ、何と時には数値まで示されるが(そもそも数値を示すこと自体、男優位の「してやる」発想を感ずる)、戦後、謙虚に欧米の歴史と実状を学び、在るべき男女平等を、憲法第14条を持ち出すまでもなく、実施していれば、世界での女性の社会的役割度は最低レベルと指摘される醜態もなかったことだろう。にもかかわらず、やれ世界の、アジアのリーダー等々かまびすしく言っているが、大人として恥ずかしくないのだろうか。
これまでに公私で出会った女性(中でも30代以上)からその存在感、生きる性(さが)の自然態での強さを痛感する一人(男)としてひどく滑稽に思え、さびしくなる。言葉をそこまでないがしろにしていいものだろうか。
尚、戦争性犯罪に関して「引揚者、とりわけロシアからの」の残虐な被害実状も改めて心に刻まなくてはならないが。》

私のまとめと一つの書の紹介

戦争を知らない私は、これらの酷(むご)い事実をどれほど承知し心及ぼしているだろうか、とこの年齢、環境[年金生活者]の今、遅れ馳せながら自省、自責する。
結局は、経済が人生・生活のすべてとの考えに無感覚で来たのではないか。
1956年(私が11歳)の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言され、1954年~1973年の「高度経済成長期」に、一方で公害問題、都市への人口集中による都鄙の格差拡大等、現在につながる問題が顕在化する中で少年期青年期を過ごし、40歳前後から50歳前後に「バブル時代」を、そしてその崩壊の時代を生きて来た一人として、己が意識の低さに汗顔恥じ入る。いわんや元教師の、二人の子の親として。言い訳に過ぎないが、だからこそ現在の日本に敏感になっているとも言える。

この心の無惨を若い人、とりわけ学校年齢の青少年、に繰り返して欲しくない。
想像力を培うことの意義。人が人の心に思い遣る力。ゆったりと、時間に追われるのではなく、自身の時間を持つこと。これが源泉、人生の礎だと思う。ではどうすれば良いのか。

学校学習でのあれもこれもの各教科教師の意識の見直し。塾(進学塾)の廃止。受け入れ側教師と送り出す側教師の教科内容に沿った意思疎通。“みんなしている”発想やマスコミの無責任に振り回されたかのような「おけいこ事」の整理。それらに伴っての入試改革。学力観、学校制度の根本的改革。
本来の「ゆとり・心の余裕」。新版“そんな急いでどこへ行く”のだろう?
少子化、高齢化社会だからこそ、千載一遇の機会ととらえ、制度の、意識の変革の好機にできないだろうか。

先日、こんな本に出会った。2000年に翻訳、刊行された『ヒトはなぜ戦争をするのか?』アインシュタインとフロイトの往復書簡を収めた書である。

これは、第一次世界大戦(日本も英米仏等23カ国の連合国として参戦した1914年~1918年の戦争)後、アインシュタインが国際連盟から、1932年「人間にとって最も大事だと思われる問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」との依頼を受け、精神医学者のフロイに送り、往復書簡が実現したものである。

[備考:
アインシュタイン/上記書の刊行後1年、ナチスが政権をとり、その年、アメリカに亡命。1939年アメリカ大統領ルーズベルトに核兵器開発を進言。1945年、広島と長崎の惨禍を知り後悔。1946年以降、核兵器反対を唱え続け、併せて国際連合に世界政府結成を促す。

フロイト/1938年、イギリスに亡命

〔参考〕1930年前後の日本
ファシズムの台頭・治安維持法の確立・満州事変・朝鮮侵略・国際連盟脱退

以下、二人の言葉から、今回の私の意図と重なるところを幾つか引用する。

【アインシュタイン】

「国際的な平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を完全に放棄し、自らの活動に一定の枠をはめなければならない。」

「国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ、自分の身を犠牲にしていく―このようなことがどうして起こりうるのだろうか。答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」

「「教養のない人」よりも「知識人」と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。「知識人」こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。なぜでしょうか?彼らは現実を、生の現実を自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです。」

【フロイト】

「権利(法)と暴力、この二つは正反対のもの、対立するものと見なすのではないでしょうか。けれども、権力と暴力は密接に結びついているのです。権力からはすぐに暴力が出てきて、暴力からはすぐに権力が出てくるのです。」

「人と人の間の利害対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着をつけています。人間も動物なのですから、やはり暴力で決着をつけています。ただ、人間の場合、(中略)きわめて抽象的なレベルで意見が衝突することさえあります。ですから、暴力とは異なる新たな解決策が求められてきます。とはいっても、それは文明が発達してからの話です。」

「人間の衝動は二種類ある。一つは、保持し統一しようとする衝動。(中略)これをエロス的衝動と呼ぶことができる。(中略)もう一方の衝動は、破壊し殺害しようとする衝動。(中略)エロス的衝動が「生への衝動」をあらわすのなら、破壊への衝動は「死への衝動」と呼ぶことができます。(中略)異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っていくのです。しかし、破壊への衝動の一部は生命体へ内面化されます。(中略)精神分析学者の目から見れば、人間の良心すら攻撃性の内面化ということから生れているはずなのです。」

85年前の二人の懸念、指摘は、“解決済み”だろうか。
万物の霊長は人間?先進国は文明国?国家愛と郷土愛と世界愛はたまた地球愛…。人間とは何かの問いの答えは、人類があるかぎり永遠に不可能?上昇のない螺旋階段?人間と自然と神(天)。
そして戦争が絶えることはない……。
そのとき、日本が日本らしさを自問し、できることはあるのだろうか……。

小独裁者?が時折頭をもたげる現代日本また世界。その浅薄な饒舌と巧みな暗示に惑わされないよう、己がゆとりを意識し、想像力を培いたいものだ。
重ねてそれは学校年齢段階の最重要課題でもある。

2018年8月21日

『民藝運動』の心を、今、再び・・・ ―柳 宗悦への私感―


内容
その一

井嶋 悠

『日本民藝館』は、和風2階家建築で、建物そのものが柳の言う「民藝」理念と合致しているのか私には分からないが、石造りの見事な門構えとともに泰然とそこに在り、私たち訪問者を迎え入れる。
館内は、8つの部屋に分かれている。[陶磁室][外邦工芸室][染織室][大展示室][朝鮮工芸室][工芸作家室][絵画室][木漆工室]で、私が訪ねた時は、染織家柚木 沙弥郎(ゆのき さみろう/1922~ )氏の特別展示が行なわれていた。

現在、日本には1192品種の伝統工芸品があるとかで、日本工芸会なる機関では、【陶芸・染織・漆芸・金工・木竹工・人形・諸工芸】に分類している由。因みに、国の伝統的工芸品指定は、【染織品、陶磁器、漆器、木工・竹工芸、金工品、文具・和紙、その他】に区分されているそうだ。

今回、私の主眼は陶芸(陶磁器)である。以下、陶器と磁器では味わいが違うこともあり、合せて大まかに「焼きもの」との表現を使う。

さて、その焼きものを主眼とした理由は、私の日常生活で最も身近にあり、“土”の香り・触感に魅かれるからで、それに加えて、私の中の三つの光景、言葉があってのことである。そしてこれらが、私の中で柳の心と或る部分と重なっている。その三つとは以下である。

一つは、「百均(店)」で出会った、新婚カップルとおぼしき二人が楽しそうに食器類の品定めをしている微笑ましい光景が強く印象に残っていること。

一つは、某大学の陶芸科出身である妻の「陶芸の作品は値段があってないようなもの」との言葉が、染織、漆器や諸工芸世界に於いてはどうなのか知らないが、常日頃その作品群の高価さが気になっていたので心に残っていること、

一つは、テレビ番組『なんでも鑑定団』で、その筋の専門家が、茶器や壺等で云十万時には百万単位で値付けしていることに不可解、疑問を感じていたこと。尚、そのテレビ番組は、私にとって日本語感覚で言う[バブリイ](英語世界では、「bubbly」とは、「泡立つ・女性、人格などが活発な、陽気な」とある)とのマイナスイメージが強く、今では全く見ていない。

柳宗悦は、美学、宗教また芸術に限らず広く哲学の研究者である。彼は民藝(品)鑑賞及び自身の蒐集での「直観」或いは「直観の美」を繰り返し説き、老荘思想を言い、禅を語る。
その禅思想を端的に表わす表現に「不立文字」「以心伝心」がある。
柳は実に多くの著作を遺し、死後《全集22巻》が刊行されるほどである。この一事からも柳が研究者たる所以(ゆえん)と言えるだろう。
そして、私は中学高校国語科の、視点によっては反面とさえ言える、研究者でもなく、更にはその志向性もない一介の教師だったに過ぎず、「私感」とは言え、一文を表わすのは不遜を免れ得ない立場であることは重々承知している。

このことは、『日韓・アジア教育文化センター』の底流に在る禅(思想)研究者鈴木 大拙(1870~1966)からの示唆と相似でもある。とりわけ2006年上海に於ける本センター主催・第3回『日韓・アジア教育国際会議』での、韓国の近代思想研究者・池(ち) 明観(みょんがん)先生の特別講演、更には私たちの仲間でもある若手日本人映像作家・デザイナーたちによる、会議のドキュメンタリー映画『東アジアからの青い漣』制作は、その具体的展開との思いがあった。
尚、鈴木大拙全集は立派な装丁の全40巻が刊行されていて、大拙は柳の高校時代の教師の一人でもあり、柳自身生涯の師として仰いでいた。

余談ながら、或る時、神田の古本屋街で、その全集がばらにして1冊100円で売られていた。旧知の文学を生きがいとし、同人も運営されていた今は亡き方が、「昨今、漱石や鴎外の全集を売却しようとしても数千円くらいになればいいほう」と驚きと残念な表情で言われていたことが思い出される。

柳の美の直観。それが1924年(35歳)『朝鮮民族美術館』開設での、また1936年(47歳)『日本民藝館』開設の、更には30代での「木喰(もくじき)上人」の発見や「大津絵」の再認識の根幹にある。
その直観と探求と行動に、焼きもので言えば、陶芸家の河井 寛次郎(1890~1966)、濱田 庄司(1894~1978)そしてイギリス人画家バーナード・リーチ(1887~1979)らが共鳴し、作陶している。

では、そもそも美とは何ぞや、と誰しも思うのではないか。理知を越えて心揺さぶられるもの。主観であって同時に客観としての対象、存在……。
因みに、『美学事典』(1969年8版 弘文堂)の「美的直観」の項をひもといてみると次のように書かれている。

――一般に直観(もしくは直覚)は対象の直接的な(概念によって媒介されない)観察ないし認識の作用を意味し、したがって本来直接体験たる美意識に関してはその重要な本質的契機をなすものである。(中略)美的直観は直観一般の区別に応じて種々の段階あるいは形式にわかたれる。これを大別すれば、1)直覚的直観と2)知的直観とあり、1)はさらにa)知覚によって直接に外的対象に関係づけられるばあい(知覚直観)とb)想像によって対象の内的感覚像を現前せしめるばあい(想像直観)にわかたれる。云々――と。

「美学」が「芸術哲学」と言われることを得心させる説明で、私の伯父(父の兄)が美学者だったから?かろうじて!分かる説明ではある。この説明に拠れば、柳の美的直観は「知的直観」と言えば、氏から叱責を受けるだろうが。

天与の才と学習と己が関心への開眼、そして絶え間ない研鑽があっての「表現」であり、私が言えば身も蓋もない以前のこととなると思いつつも、柳の言葉に響くものがあって、浅薄にもかかわらず私なりの整理として表題のようなことをしている。だから『日本民藝館』に行った際にも「己が直観(感)」を試したいとの思いもあった。
柳自身、『木喰上人発見の縁起』(1925年36歳時)の中で次のように言っている。

――私は長い間の教養によって、真の美を認識する力を得ようと努めてきました。私は漸く私の直覚を信じていいようになったのです。(直観が美の認識の本質的な要素だという見解は、もはや私にとっては動かすことの出来ない事実となって来ました)それに私は美の世界から一日でも生活を離したことが無いのです。幸いにも美に対して私の心は早く速やかに動くようになりました。かくしてこれまでこの世に隠れた幾つかの美を、多少なりとも発見して来ました。――

[Ⅰ その外形]で、彼自身所属していた「白樺派」に関して、その出自なくしては為し得ないような批判をする人のことを記したが、彼は当時大学講師等を勤めていたこともあり、やはりその批判にどうしても与し得ない私がいる。

柳は、培った美への直観力を活かして、彼が言う「民藝」を、日本だけでなく朝鮮[李氏朝鮮]を巡り、蒐集し、民藝館での展示は言うまでもなく広く展示会を開き、世に問い、併行して彼の能弁さ、雄弁さを彷彿とさせる文章で人々に伝えた。
ただ、民藝館での展示では、柳の配慮と意図から作品に添えてある説明は最小限に止めてある。例えば、私が魅かれた一つ、平安時代の大きな壺には[灰釉(はいゆ)蓮(れん)弁(べん)文(もん)壺(つぼ)・渥美・平安時代・12世紀]とあるだけの知の侵入と直観へのこだわり。
そのような環境での鑑賞と自問自答の時間。部屋と部屋をつなぐ幅広い廊下に、心身に蓄積された疲れを包み取る大地のような、4,5人は座れる木製の重厚な長椅子が置かれていた。これも柳の蒐集なのか確認を忘れたが、そこにしばし座り、展示作品群を思い起こしながら、今回の訪問主眼や先述の三つのことに自問自答し、幾つかの自己発見を得た。次のようなことである。

一つは、「民藝」と言いながら、それは柳が蒐集している時のことで、今では彼の意図とは違って「美術工芸品」として在るように思えたこと。
それは、やむを得ない対応とは言え、ガラス張りの中に陳列されていることで、柳が言う「雑器の美」「用の美」また「無想(無心)の美」から離れ、やはり柳が言う茶道史での初期の茶器観と後代の退歩堕落のようにも思え、しかしそれは時の流れの必然なのか、私の想像力の欠如なのか、との自問。
美術家・岡本 太郎(1911~1996)が、驚愕讃美した縄文土器と現代での存在性をも思い浮かべながら。

ここで、彼が言う「雑器の美」「用の美」「無想(無心)の美」について、前回1[外形]で引用したので、要点の部分のみ引用し確認しておきたい。その出典は柳の著『民藝とは何か』(1941年〈昭和16年〉52歳)からである。

■雑器とは、
珍しいものではなく、たくさん作られるもの、誰もの目に触れるもの、安く買えるもの、何処にでもあるもの。

■用とは、
不断使いにするもの、誰でも日々用いるもの、毎日の衣食住に直接必要な品々。

■無想(無心)とは、
「手廻り物」とか「勝手道具」とか呼ばれるものが多く、自然姿も質素であり頑丈であり、形も模様もしたがって単純になります。作る折の心の状態も極めて無心なのです。

それらの美というわけである。

因みに、この書の刊行は6月で、6か月後、日本は太平洋戦争に突入した。
その太平洋戦争に対して、柳はどのような反応を示したか関心はある。と言うのは、次回[その二]で触れる朝鮮[李氏朝鮮]との交流から、複雑微妙な心が動いたのかどうか。白樺派の中心人物であった武者小路 実篤や多くの文人たちのように、昭和天皇の詔(みことのり)を聴き、胸打ち震え感動したのだろうか。居住市の図書館に柳の全集がないため、いつか上京することがあれば確認したいと思っている。

ところで、「美」の漢字での成り立ちは、羊の体を表わす象形文字で、神に生贄として捧げる立派な雌羊を表わしているとのこと。神への人の無心の祈り、その場全体を覆う神的世界、神々しさに思い到ると、日常と非日常、聖と俗の接点としての美を考えた古代中国人の心が感じ取られ、柳の民藝主張の根幹「用」「無想(無心)」と重なるようにも思える。

自問[自己確認]を続ける。

一つは、直接に手にするができないので、「土の香り」を味わう体感性が持ち得ず、あくまでも「作品」として観ている自身。これも、私の想像力の欠如が為せることと思いつつも、私にはとどのつまり焼きもの(陶芸)は賞味し得ない領域なのだろうとの思い。それは、妻の言う「値段があってない世界」や「テレビ番組への違和感」に私の中ではつながって行った。
この線上に、新婚とおぼしきカップルの光景は、××焼○○焼でなくてはとの、或いは「百均」であることでの抵抗感も含め、こだわり、固執がないならば、生活に逼迫していない一老人の勝手な視線ではあるが、やはり微笑ましく思う感情は拭い去れない。
柳自身、時代の推移[近代化]と機械化での量産について、或る揺れを感じさせる文章を遺しているが、そのカップルの光景をどう見ただろうか。

そんな焼きものへの心に乏しい一人だが、兵庫県の出石(いずし)焼に感銘した記憶はある。
因みに、『日本陶磁器産地一覧』によれば、全国で××焼○○焼と称されている産地数は、163焼あるとのこと。また、柳たちによって世に広められた焼きものの幾つかの産地は大勢の人・観光客でにぎわい、これも必然なのだろうか、非常に高価な焼きものとなり、現地に赴いても予約済み等々で入手できないこともあるとのこと。

一つは、バーナード・リーチの幾つかの陶芸作品を観て、彼の紙に描かれた絵と焼きものに焼き付けられた絵の印象の違い。バーナード・リーチの『日本絵日記』(1955年)で、前者に画家であることの高い専門性に感嘆していたので、陶芸の製作過程や技術に疎い私だからだろう、絵に魅かれる私を確認した。

更に加えると特別展示をしていた染織家柚木 沙弥郎氏の作品群を見ることで、「現代(作品)」という言葉が過ぎった。「モダン」ということ。伝統と革新ということ……。革新はさほど遠くない中で伝統となる……。保守と革新のように?

次回、[その2]では、その深浅、多少は措き、先ず言葉ありき(観念ありき?)的私だが、表題の現代日本を再考するに直截的に響く柳の言説を断片的に採り上げたい。
それは『日韓・アジア教育文化センター』にとっても有効であることを願いつつ。

2018年8月8日

中華街たより(2018年8月)   『西川口中華街』

井上 邦久

8月2日、朝8時からBSプレミアム『英雄たちの選択』の再放送を観ました。
幕末の弘前藩出身で、千島から奄美や琉球先島を踏破した記録を残すとともに、時の藩や政府に物申した笹森儀助の生涯を辿る番組でした。
その冒頭、笹森研究の第一人者である松田修一さんが、類まれなる先見性と行動力を以て多面的な生き方を貫いた笹森儀助について過不足なく見事なコメントされていました。

松田さんは東奥日報社の編集室長・特別編集委員として社説責任を受け持つだけでなく、会津藩その後に移封された斗南藩についての長期連載を続けています。
今年は桜の頃に青森市善知鳥神社や弘前城近くでご厄介になり、地元銘酒とともに交流を深めました。陸羯南と笹森儀助そして、林檎と櫻の深い関係(同じバラ科に属して接ぎ木技術が要)について教えてもらいました。

見終わったテレビからは異常高温を伝えるニュースが続き、「不要不急の外出は控えなさい」という警告が発せられていました。夕方の約束まで東京水天宮の宿で大人しくするのが、まさに英雄でない普通の大人の選択であることは十分に分かっていました。しかし、前日に埼玉県蕨市在住の方からお聴きした西川口や芝園団地の変容の話が気になっていました。

1970年代の後半に当時の埼玉県浦和市に住んでいました。
川口はキューポラのあった町、西川口は青い灯赤い灯を京浜東北線の電車から眺めるだけの町でした。
この十年来、蕨市芝園団地の日本人住民の高齢化が進み、5000人の住民の半分が中国化して社会学的分析のモデルになっているとの記事を読んだことがありました。また、西川口では池袋に劣らない勢いで中華料理店や食材店の密度が高くなり、気の早い人は「西川口中華街」と呼んでいると聞いていました。

何十年か振りに西川口駅北口の階段を「虎穴に入らずんば虎子を得ず」とか、「飛んで火にいる夏の虫」や「火中の栗を拾う」など訳の分からない言葉を呟きながら降りました。
駅から少し歩くと中国語が聞こえてきました。ハングル看板やタイ料理店などもありましたが、東北三省から福建・四川、新疆ウイグル、更には「周黒鴨」(武漢発チェーンの日本第一号店?)まで大陸各地の「本場の味」の店が圧倒的に多くありました。
ただ昼に営業している処は少ないようでした。横浜や神戸の中華街とは異なり、勤めを終えた各地出身の中国人達と日本人の物好きが利用しているような生活の匂いを感じました。
ウロウロと徘徊彷徨している内に昼飯時となり、身体の「火気」対策に四川麻辣湯料理店に入りました。よく冷えた店内には客はまばらで、若者が一人で切り盛りしていました。野菜や豆腐などのトッピングは自分で選び、量り売りで料金を確定させ茹でてもらう、それを店自慢の各種スープ(湯)や麺に合わせる安直・快速・安価・そして結構美味なものです。
北京時代に残業を終えた帰宅途中に同じスタイルの店で食べていました。たっぷり汗をかき、十分に水を呑み、冷気の中で体力を温存しつつ、まばらな客の話を聞くともなく聴いてみると・・・
「王さんのように池袋で店を持ち、日本で結婚し、お金もある人は今回の取材には不向きなのです。どなたか知り合いでこれから日本にやってくる人を探してください。成田空港に降り立ったもののどうすれば良いか途方にくれる、日本社会との摩擦で苦労する、できれば就学児童を帯同した人がいい」・・・
来春にドキュメンタリー番組を企画しているテレビ局の人と成功者の王さんとの会話のようでした。
「主題は、苦労しながらも、日本人の理解者の協力を得て、逞しく生きていく『日中友好』のお話です」という企画先行も凄いなあと思いましたが、ずいぶん昔の日中友好ブームの頃に何度も見たり聞いたりした既視感が気になりました。

麻辣味の気分になりながら、7月末に大阪の華人研例会でお話をしてもらった張さんのことを思い出しました。
山東省青州出身の張さんの噂を聞いた時、先入観が邪魔をして「刻苦奮闘の末、事業を大きくした成功譚を大声で話すギラギラしたタイプの起業家」の一人ではなかろうかと誤解し、いささか食傷気味でした。
信頼する幹事仲間から講師候補として是非にという薦めもあり、先ずはランチをご一緒して、「ギラギラ先入観」を反省とともに払拭しました。(古来、人と会食を重ねることは、人を知り友を得る上での出発点とされます。「礼尚往来」)

ベテランの聴衆を前にした会でも、張さんは朴訥な風貌と語り口で、十代半ばで地元企業に就職し、その企業が広島の食品会社と設立した合弁会社に運転手として転籍したことから話を始めました。
広島工場での実習生労働体験を経て、業務と日本語の習熟、外からの日本と内なる中国の双方から信頼を得て要職を歴任(外からの評価を得たあと、内なる人達からの信頼感を維持することが難しくなるケースを度々見てきました)。二年前に円満退職して大阪での起業を志すに際し、広島の会社から貿易部門顧問としての関係持続を要請され、併せて日本の大学を卒業した子息も広島の会社に就職したとのこと。
育ててくれた日本企業への感謝と企業内メンターへの尊敬を謙虚に語り、両国の社会と文化への鋭い洞察を話してくれました。なかでも「通訳は、一人だけに頼り切らず、複数いる方が良い」という卓見は実務の修羅場をくぐった体験から生まれたものだろうと唸りました。

張さんの起業が「日本の中小企業には貿易となると商社を通してやるものだ、という牢固な習慣があるようなので、大阪と山東で商品開発と物流機能を差別化できる商社を設立する」という発想から生まれたのは興味深いことです。
今後、事業が日本社会でどのような展開を図り得るか、安易な憶測は控えます。
ただ、張さんの発想や機能は1930年代の日中貿易に於いて、大阪の川口居留地跡を拠点に中小企業との連携と外地での商社機能によって成果を上げた川口華商に相通じる面があるかも知れないと素朴に思います。

酷暑の西川口中華街で大阪川口華商を想う白日夢のような話です。(了)

2018年8月2日

『民藝運動』の心を、今、再び・・・ ―柳 宗悦への私感―

井嶋 悠


その外形

 

初めて『日本民藝館』を訪ねた。
その目的は、民藝館の主(あるじ)で、民藝運動の中核者柳 宗悦(むねよし)(1889年~1961年)の文章に触発され、彼が蒐集した、また彼の仲間たちの作品、主に陶(磁)器[焼きもの]をしっかりと見たかったからである。

最寄駅は、「駒場東大前」で、そこから徒歩7,8分ほどの所に在る。民藝館を基点に半径1㎞ほどは、現代洋風豪邸が立ち並び、深閑としている。それぞれに多くは複数台の車が、でんと自然感で収まっている。静けさも車の多さも皮相で言えば、私たちが今居る地と同じだがどこか違う。前者が人工的深閑、後者が自然的深閑とでも言おうか。車の大半は私でも知る高級外車であり、国産車でも最高クラスで、我が家、また現住地(北関東)で圧倒的に見る“黄色ナンバー”は皆無である。

私の卒業した小学校は東京都大田区立洗足池小学校で、近隣には似た豪邸が在り、妻の卒業校はブランド制服でいっとき話題になった東京都中央区立泰明小学校。共に60年前のことであるが、身近に豪邸(街)を、と同時にその有為転変も、そこに住んでいた人々のそれも、知っている。

民藝館は、その中に在って霊気(オーラ)を漂わせた和風建築で、深閑さをひときわ引き立たせるかのように泰然自若として門戸を開いていた。
その時、奇妙なことが私の頭を過(よ)ぎった。豪邸から民藝館を視るか、民藝館から豪邸を視るか、或いは広く一般市民環境から視るか、での大きな違い。言葉を換えて言えば、民藝館を絶対的に視るか、相対的に視るか…。私の視点は後者、とりわけ一般市民環境(庶民)からで、且つ現代からであり、だから今回、『民藝運動』ではなく、その心としたのであって、それが豪邸街に位置していたことでなおのこと鮮明に過ぎったのだと思う。

かてて加えて最寄駅が「駒場東大前」と言う、これまでは奇天烈な身構えが拭い去れなかった「東大」に係る思い出。他者(ひと)はそれを“屈折”と言うらしいが。しかし、今の私にとって[東大]は、二つ心に刻まれている。

一つは、遅れ馳せながら、1970年前後の一つのダイナミズムであった(である?)「全共闘運動」での、東大解体の意味(意義)が、今もって直感の域ではあるが、分かって来たこと。

もう一つは、大学院を中退し、2年余りの東京放浪生活時に、安アパート(南京虫駆除に往生した3畳一間)の隣室に居た東大大学院生(数学専攻)との出会いと半共同生活。彼の過去と当時の言行動とその後の事実から教えられた私の東大生像。(この時の彼とのことは、以前投稿したので省略する。)

「民藝」という言葉自体、柳宗悦が創り出した言葉である。
『日本民藝館へいこう』(2008年・新潮社)という本の中で、古道具商とデザイナーと民藝館員の鼎談があり、そこで館員の方が次のように言っている。

――(美術や建築関係また料理家等々が民藝館を訪れ啓発を受けたり、柳宗悦観を持ったりと、様々な民藝観がある中で、デザイナーの方が、

「柳宗悦記念館のようなありかたでゆくのでしょうか」との問い掛けをしたところ、館員の方は、

「それでもいいと思っています。いまある品物の展示に力を傾け、その美によって柳さんの思想を世界に伝えてゆければいい。」と応えている。)――

民藝館は、柳宗悦の、本人が言う彼の「直観の美」が詰まっている場所で、柳あっての民藝館であり、広く民芸(作)品を集めた(美術)館ではないということだろう。

では、その「民藝」とは何なのか。柳の『民藝とは何か』(1941年)から引用する。この部分は、今回の投稿へのきっかけの一つとなった個所でもある。

――民藝とは民衆が日々用いる工藝品との義です。それ故、実用的工藝品の中で、最も深く人間の生活に交る品物の領域です。俗語でかかるものを「下手(げて)」な品と呼ぶことがあります。ここに「下」とは「並み」の意。「手」は「質(たち)」とか「類」とかの謂い。それ故、民藝とは民器であって、普通の品物、すなわち日常の生活と切り離せないものを指すのです。
それ故、不断使いにするもの、誰でも日々用いるもの、毎日の衣食住に直接必要な品々。そういうものを民藝品と呼ぶのです。したがって珍しいものではなく、たくさん作られるもの、誰もの目に触れるもの、安く買えるもの、何処にでもあるもの、それが民藝品なのです。それ故恐らくこれに一番近い言葉は「雑器(ざっき)」という二字です。昔はこれ等のあるものを雑(ぞう)具(ぐ)とも呼びました。
したがってかかるものは富豪貴族の生活には自然縁が薄く、一般民衆の生活に一層親しい関係をもっています。それ故、実用品の代表的なものは「民藝品」です。――

柳は他の書で「雑器の美」「用の美」について述べているが、それらについては[Ⅱ]で記す。

柳の学歴は、学習院(小中高)→東大哲学科である。今では、学習院は私学だが、当時(戦前)は国立(当時の表現では官立)で、いずれも国立であり、今風に言えば大変親孝行な男子であった…。しかし、学習院は、江戸時代後期1842年に公家(朝廷に仕える貴族、上級官人)の子弟のために設立された学校で、特別な階級の子弟のための学校であった。要は良家の“坊ちゃん”の学校であった。因みに、明治天皇の崩御に際し、殉死した乃木 希典は、第10代院長であった。
この学歴から柳の何を受け止めるか。受け止める側の価値観、人間観、人生観が問われることになる。私自身が、貧困家庭に生まれ育ったわけでもなく、中退したとは言え大学院(私学)まで進んだ一人だからなおのこと、上記の問いは私自身に向けられている。
「衣食足って礼節(栄辱)を知る」の「て」の前後の(時間)推移の関係へのとらえ方として。

そのことに関連して、柳自身が仲間の一人であった「白樺派」と言う、文学や美術に関して思いを一にする人たちの文学史美術史に刻まれている集まりがある。
この派には、国語科教育で言えば、中高校国語教科書にはよく採り上げられる作家として志賀直哉(1883~1971)や武者小路実篤(1885~1976)がいて、彼らは同じ学習院で、柳と同年もしくは前後の学生が集まり、1910年前後から活動を始めたとされている。彼らは、大正デモクラシーの自由主義指向を背景に、理想主義、人道主義、個人主義から人間肯定を指向する考え方であった。

大正時代は1911年から1926年までの15年間であるが、大正デモクラシーとの明るいイメージの半面、大陸侵攻、協調外交の挫折また経済恐慌と、明治時代のほころびが顕在化した時代でもあった。だからこそ、白樺派の主張は人々に共感を与えたのだろうが、一方で「金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんたちの、想像力の欠けた、血の通っていない理想主義に過ぎない」と厳しく断ち切る人たちもいたし、今も在る。それは、知的障害者である大江 光(1963年~)さんが作曲家として世に登場できたのは、大江 健三郎(1935年~)氏と言う偉大な作家が、父であったからこそできたことだと冷ややかに言う人があったように。

やはりここでも自問する。お前はどう受け止めるのか。
浅薄な或いは感傷的理想主義は空論だと思うが、確かな観念論は人の心を打つ。
私が、様々な職種のマスコミ人が言うスポーツ(選手)へのメダル、入賞、優勝期待雄叫びの無責任、軽薄さを憤るように。

アイススケートの高木 美帆選手は、15歳でオリンピックに出場し、天才中学生ともてはやされ、その後の下降を克服し、平昌オリンピックでの活躍を経て、直後のオランダでの大会でオールラウンドプレイヤーとして世界一に輝いているが、高校時代、海外遠征費等捻出するため早朝には新聞配達のアルバイトをし、弁当を作り、トレーニング方々猛スピードで自転車通学をしていたとか。そういう彼女だから、彼女に美を感ずるのではないだろうか。

と、私の中ではそれと同次元で、作品(作物)を、作者の出自で一刀両断的に視る姿勢には、全き同意を持つことができない。それは単に好き嫌いの問題に過ぎないと思うから。

では柳 宗悦についてはどうなのか。
彼の出自が、彼の朝鮮(当時は李氏朝鮮時代)美術工芸への開眼、そして民藝への探求と民藝館の設立に礎を与えたと思っているが、同時に、彼の出自への、更には天与の才に恵まれ、自己開拓した意思力に敬意と羨望があることも否めない。
このような曖昧さに今もって右往左往している私だが、現代日本社会を善しと思わない、否、それ以上に懸念を、その本源であり、国を、社会を主導する政治世界の人々に対し、疑問、不安、そして危機感すら持っている一人の日本人である。

このことについて、これまでの投稿で何度か触れたので繰り返さない。それに、繰り返すことで一日を不快にしたくない。いわんや酷暑においてはである。それでもこれだけは言える。

首相をはじめ多くの、主に与党関係者、上級官僚の自身を棚上げした、「悲/哀/愛しみ」への想像性のかけらもない驕慢、暴言、独善的他者侮蔑と権力指向者の陥り易い外、とりわけ欧米、指向にあって、感性はもちろん、理性も知性も無きがごとしであることに同意する人は、ますます増えていると断言できる、と。
その人たちの多くは高学歴で、出自も二世政治家を含め恵まれている人も多い。「衣食足って礼節(栄辱)を知る」を再度出せば「過ぎたるは及ばざるがごとし」であろうか。

現代日本は1930年代と類似しているとの論説に接した。気になって手元にある年表(高校用・第一学習社)を開いてみた。

1931年(昭和5年) 満州事変・重要産業統制法公布・中高校に公民科設置

32年       5・15事件・米よこせ闘争各地に波及・国民精神文化研究
所開設

33年       国際連盟脱退・滝川事件・小林多喜二警察で拷問死(虐
殺)

34年       満州帝国開国・出版法改正(取締り強化)・文部省国号
の呼称をニッポンと決定

35年       天皇機関説と機関説排撃・小作争議の増加・芥川賞、直
木賞の創設

36年       2・26事件・反ファシズム機運・左翼文化団体員一斉検挙

37年       日中戦争勃発・人民戦線事件(思想弾圧)・国民精神総
動員計画(東亜新秩序)

38年       国家総動員法公布・電力国家管理実現・思想上からの出
版規制

39年       国民徴用令公布・価格、賃金統制令・大学での軍事教練
必修化

40年       大政翼賛会発足・紀元2600年祝賀行事・左翼系文化活動
への統制、弾圧

そして1941年、太平洋戦争に突入し、1945年、沖縄・広島・長崎の惨害を経て敗戦。
どうだろうか。
「自由」という根源的問題を視野に今の今を思い描くとき、先の論説には説得力を感じるものがある。
確かに、他国・地域への侵略の再愚行などはないと思うが、トランプ大統領率いるアメリカへの異常なまでの追従(ついしょう)、竹島問題での日韓関係、尖閣諸島問題での日中関係等々から、・・・・・を思うのが杞憂であればそれでいいのだが。

柳 宗悦が、実業家・大原 孫三郎の支援を得て、『日本民藝館』を開設したのが、1936年(昭和11年)、彼47歳の時である。

民藝運動を率先した柳 宗悦と『日本民藝館』について、その外形から私感を記した。
Ⅱ.ではその「内容」への私感をまとめられたらと考えている。