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2018年12月26日

多余的話(2018年12月)  『犬も歩けば(serendipity)』

井上 邦久

横浜での単身生活からボストンを経て、大阪府茨木市に着地してから1年が過ぎました。長年の単身赴任生活・駐在生活はすべて集合住宅(マンションという語源から程遠い20平米から100平米まで様々でした)で生活しました。
着地した茨木市で阪神淡路大地震以来の激震に遭遇し、その後の台風や猛暑のため変則三階建ての陋屋は「一部損壊」の認定を受けました。数年前の補修の効果か、風向きのせいか雨漏り被害はありませんでした。
町の屋根にはブルーシートが残り、多くの家の修理や建替え工事は年を越すことでしょう。
大嘗祭費用関連の論議と比べるほどの大げさなことではありませんが、庶民にも傷みは残ります。

北摂の半分青い梅雨の屋根

そんな夏が過ぎ、ようやく定住生活のペースが出来つつあります。小学校の課目に例えると、
最優先は「保健体育」。この3年に二回受けた手術後の検査とリハビリテーションの経過は順調です。転移や再発は見つからず、生活の中での自然な快癒を勧める外科医の指導に従い、よく食べ、よく歩き、よく寝ています。

そこで「家庭科」。食いしん坊で市場散歩が好きなので、食材を求めてスーパーマーケットをハシゴし、海藻・野菜・青魚の市場価格に詳しくなりました。単身生活時代のまま「調理」は依然として大切な趣味です。

「理科」「算数」は当然飛ばして、「国語」はヤッツケ仕上げの連句や俳句です。先日、神奈川近代文学館での公開連句会に、今年も「文学と山岳」を友として暮らしている先輩と参加しました。辻原登館長や歌人の小島ゆかりさんとの相撲談義の遣り取りも愉しかったです。

続いての課目「外国語」。集中講座ではなく毎週出講し「ビジネス中国語」の単位認定を意識しています。
ビジネスとは何か?今週のホットトピックスは?など新聞を読まない今どきの大学生に噛み砕いて話しています。

次は「歴史」。昨年秋からのテーマ「大阪川口居留地・川口華商」について、堀田暁生会長(大阪市史編纂室長)や長崎華僑研究の地元各位の御指導を頂き、少しずつ歴史探索をしています。
晩学初学ですので「あれもこれも」と広く浅くなりがちなことを反省しています。先ずは関係する現場を歩き回り、五感六感の錆び落としをすることが脚部関節手術のリハビリテーションに繋がれば幸い、というレベルです。遠い道のりになるでしょう。

最後は「図画工作」、中津市自性寺での池大雅や沖縄の佐喜眞美術館長の講話が印象に残りました。映画は塚本晋也監督・自演の『野火』。オマケの制作映像での独白に注目しました。NPO「ロバの会」での封筒作りでは、糊貼りに特化して、苦手なハサミ作業は先輩方にお願いしています。

「音楽」はサボって、今年は舟木一夫コンサートにも行っていません。

          小春日の阿蘭陀坂に西の風

酷暑が過ぎてからは戌年らしくよく歩きました。11月15日も自宅から歩いて通える立命館大学茨木キャンパスでの講義のあと、東奥日報特別編集委員の松田修一さんと再会。
お初天神の亀寿司は津軽の魚には及びもつかず、美々卯のうどんすきも又にして、福島天満宮脇の花鯨のおでんにしました。覚悟していた30分の行列では春の弘前以来のことをお喋りするつもりでした。
しかし、来阪目的は東奥日報連載中の「斗南藩」取材であり、戊辰戦争を「勝てば官軍」とは逆の視点から綴る為に会津藩・斗南藩ゆかりの末裔の方を訪ね歩いている、今回は会津戦争娘子隊の中野竹子・優子姉妹の末裔、優子のひ孫の高蘭子さんの取材と聞いて衝撃を受けました。松田さんは「やはり高さんをご存知でしたか・・・」と翌朝の奈良ホテルでの面談取材への同席を承知してくれました。

短歌結社を主宰し、奈良県唯一の定期月刊誌『山の辺』の発行者として著名な高蘭子さんは、恩師である高維先先生の奥さんです(先生は革命後の現代中国語で「愛人・ai ren」と呼んでいました)。2011年の会合で高夫妻とご挨拶してから御無沙汰が続いていた処に青森の松田さんを介しての再会でした。
一人娘で俳句・短歌を教える珠實さんも交えた取材の邪魔にならないように慎みながら、会津・函館・青森とつながる一族の苦難の歴史を聴かせていただきました。ハルピンでの飛躍を企図した尊父と多くを語り継ごうとはしなかった母堂とともに大陸へ渡り、女学校では中国語も習った蘭子さん。敗戦直後の東京で、山東省青島市から渡日して東京大学に在籍していた高維先先生と巡り合った経緯は初めてお聴きすることばかりでした。

1967年、NHK中国語講座の放送が始まった翌年、高校二年生で読み始めたテキストには、講師の相浦杲望月八十吉、ゲストの金毓本高維先王蕙茹の各位の名前がありました。とりわけ高維先先生の温顔と丁寧な発音は印象的でした。それが中国語と高先生とのご縁の始まりでした。
初級で暗記した美しい「梅花開了、桃花開了、胡蝶飛来飛去」のフレーズは折に触れて甦ってきます。

「井上さん、先生は来月100歳になるのよ。日本政府から顕彰状が届いたわ」と蘭子さんからお聴きして、恩師の長寿を喜びました。NHK中国語講座が既に50周年を超えたことにも気付かされ感無量となりました。100歳の顕彰状の送り主が、会津藩士を辺境の斗南に押し込めた薩長藩閥政府の末裔であることは牽強付会に過ぎ、言わずもがな(多余的話)のことでしょう。

12月15日付けの東奥日報には、松田さんがあれもこれも書きたい思いを削りに削った文章が高さん母子のカラー写真付きで大きく掲載されていました。20日には届いた新聞と印画した写真を持参して手渡しました。その折、秘かに蘭子さんが見せてくれた昭和20年発行の東京大学の学生証には、若くきりりとした青年の写真がありました。お祝いの拙句をしたためお渡し致しました。

        山の辺に落地生根紀寿の春            (了)

2018年12月26日

イギリスとアメリカと、そして日本 【一】

井嶋 悠

やはり政治と経済と、その延長上の軍事が、国際社会に在って「生き抜く」根本の力なのだろうか。日本の今の政治、経済を、私なりの視点で視る限り、不信と疑問は多く、謙譲を美徳とする(はずの)日本と相反し、ふと帝国主義との言葉さえ過ぎったりする。
こんな見方は、若い人たちからすれば杞憂のお笑い草なのだろうか。官僚でも大企業社員でもない若い人たちを何人も知っているが、彼ら彼女らの日々の生活を知れば、そうとは思えない、と同時にもっと“怒りを!”との老いの、しかし「歴史は繰り返す」を切々に思う、私がいる。

パクス・アメリカーナによる世界平和?どう表現するのかは分からないが、アメリカーナの箇所をそうはさせじと志向するロシア、中国と、アメリカーナの忠実な下僕日本。
そのアメリカの基礎の一端を担った、かつて「太陽の沈まない国」とさえ言われたイギリスは、EUからの離脱問題で今も揺れている。否、欧米自体が混迷の最中にあるようにも思える。
グローバリズムと「船頭多くて船山に登る」。船頭の根幹、根柢は文化、文明ではないのか。多文化主義、文化相対主義との言葉の重み。

今から120年余り前、日清戦争、日露戦争に勝利し帝国主義列強国家となった日本。
1910年、韓国を併合して朝鮮と改称し、朝鮮総督府を設置したその翌年の明治44年、夏目漱石は『現代日本の開化』と題して、和歌山で講演をしている。その核心(と私は思う)部分を引用する。

――西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。(中略)西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国との交渉をつけた以後の日本の開化は(略)、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になった。(中略)
こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです。宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。(中略)
大学の教授を十年間一生懸命にやったら、たいていの者は神経衰弱に罹(かか)りがちじゃないでしょうか。ピンピンしているのは、皆嘘の学者だと申しては語弊があるが、まあどちらかと云えば神経衰弱に罹る方が当たり前のように思われます。学者を例に引いたのは単に分かりやすいためで、理屈(りくつ)は開化のどの方面へも応用ができるつもりです。――

太平洋戦争で英米を含む連合国に対し無条件降伏し、内的外的要因重なる中で、戦後半世紀も経たない内に、世界の経済大国となった日本。その日本と漱石の時代の日本を同次元でとらえ、なんでもかんでも今の日本に当てはめる気持ちはないが、
例えば私の職業であった中等教育学校教師体験で言えば、「横断的総合的学習」の体系、現場組織背景に触れず、その悪しき面のみをとらえ廃止し、一方で、その学習に通ずる(と体験上思う)部分がある、西洋(欧米)の「国際バカロレア」に、なぜ時に一方的に傾くのか、また日本型?インターナショナルスクール(主に初等部)が今なぜ乱立するのか、が分からない。漱石の言う「ハイカラ」化なのだろう。

その漱石は、1900年(33歳)、文部省よりイギリス留学を命ぜられる。
留学は、大学卒業後、東京高等師範(現筑波大学)英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに疑問を抱き、2年で辞し、1895年、『坊っちゃん』(1906年刊)の舞台である四国・松山の中学校英語教師になったが、1年で第五高等学校(現熊本大学)に異動した時代のことである。尚、漱石は、その異動した年に見合い結婚をしている。
国費留学生とは言え非常に限られた支給のためイギリスでの生活は欠乏状態であった。
そもそも厭世的で、神経衰弱な気質であった上に、留学課題が英文学研究ではなく英語教育法であったこと、また留学時の窮乏生活も手伝って精神衰弱度は強くなるばかりであった。そして予定を早め、2年で帰国している。

この間の生活については、盟友であった正岡 子規(漱石留学中に逝去)宛の手紙『倫敦消息』(1901年)及び彼の心の状態を心配した下宿の女主人に薦められて始めた自転車挑戦の日々を書いた『自転車日記』(1903年)でうかがい知れる。
そこでの表現は『吾輩は猫である』(1905年刊)、『坊っちゃん』につながる、武骨にして洒脱、繊細な“江戸っ子”ぶりの漱石像を彷彿とさせ、思わず笑みがこぼれる。
例えば、こんな具合だ。

「…シルクハットにフロックで出かけたら、向こうから来た二人の職工みたような者がa handsome Jap.といった。ありがたいんだか失敬なんだか分からない。」[倫敦消息より]

もちろん日本のことも気にかけている。『倫敦消息』の(一)の初めの方で、

「日本の紳士が徳育、体育、美育の点において非常に欠乏しているという事が気にかかる。その紳士がいかに平気な顔をして得意であるか、彼らがいかに浮華であるか、彼らがいかに空虚であるか、彼らがいかに現在の日本に満足して己らが一般の国民を堕落の淵に誘いつつあるかを知らざるほど近視眼であるかなどというようないろいろな不平が持ち上がってくる。」と。

これらは明治の遠い昔の話として片づけられるだろうか。少なくとも私にはそうは思えない。

昨年2017年ノーベル文学賞を受賞した、英国籍の日本人カズオ イシグロ(石黒 一雄)氏は、受賞記念講演の終わりの方で以下のように述べている。(幼少時に父親の仕事の関係で渡英し、第1言語が英語ゆえ英語の講演であるが、私にはそのような英語力はないので土屋 政雄氏の翻訳を引用する。)

「科学技術や医療の分野で従来の壁を破る発見が相次ぎ、そこから派生する脅威の数々が、すぐそこまでやって来ています。(略)新しい遺伝子編集技術が編み出され、人工知能やロボット技術にも大きな進歩があります。それは人命救助というすばらしい利益をもたらしてくれますが、同時に、アパルトヘイトにも似た野蛮な能力主義社会を実現させ、いまはまだエリートとみなされている専門職の人々を巻き込む、大量失業時代を招くかもしれません。」

「知的に疲弊した世代の疲弊した作家である私は、この未知の世界をじっと見据えるのに必要なエネルギーを見つけられるでしょうか。」

「亀裂が危険なほど拡大している時代だからこそ、耳を澄ませる必要があります。」

この講演の表題は『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』(原題:MY TWENTIETHCENURY EVENING  AND  OTHER  SMALL  BREAKTHROUGHS)で、「ブレークスルー」の意味を辞書で確認すると[①敵陣突破 ②(難関などの)突破、解決 ③(科学、技術上の)画期的躍進]とあり、表題と内容に得心し、同時に氏の優しさに満ちた謙虚さ、鋭く広い想像力が、氏の小説家としての自覚とともに想像された。作品『日の名残り』『わたしを離さないで』に通ずることとして。

一方は、日本語を第1言語とし、明治時代に官命でイギリス留学をした日本人作家、一方は、幼少時にイギリスにわたり、英語を第1言語とする現代日本人作家。
時代を越えて通底する社会への眼。その指摘が現実とならないためにも、とりわけ若い人たちが“飼い馴らされた羊”となり、権力者に利用されないよう確(しか)と心掛けて欲しい。ここでも10代の、学校、家庭、社会の教育の重要性と怖れに思い到る。
因みに、イシグロ氏は現在64歳で、私のような老いではない。
明治時代の日本からの留学は、英・独・仏の西欧が中心だったが、その中にあって、現在の津田塾大学を創設した津田梅子は、女子教育の伸展施策を受けて、明治4年(1871年)岩倉使節団(使節・随員・留学生の総勢107名)の5人の女性の1人として6歳でアメリカに赴き、在米11年間、研鑽を積み帰国している。

現在、日本の海外留学状況はどうか。
短期語学留学等々での形態、年齢、留学地での環境等、多様な留学時代にあって、2017年の留学生状況は以下である。[出典:『一般社団法人海外留学協議会(JAOS)による日本人留学生数調査2017』
①アメリカ  19,024人  ②オーストラリア  17,411人  ③カナダ  12,194人  ④ イギリス    6,561人   ⑤フィリピン  6,238人

以下、フランスは⑩位で1,374人  ドイツは⑯位で432人、6位以下は中国、韓国、シンガポール、台湾等、アジア圏が多く占めている。

なぜその国なのか。どんな研鑽をしたのか。その成果はどうなのか。日本に、自身にどんな還元ができたと考えているか、幾つか聞きたいとは思うが到底できないことであり、それに近い内容を改めて検索し、現代日本と海外留学について学べられたらとは思う。
ただ、数字から見れば、アメリカの影響の強さが想像され、なおのことその内容に関心が向く。

私が中高校生時代学んだ英語が、アメリカ英語なのかイギリス英語なのか分からないが(何となくイギリス英語だったのかとは思うが)、教師に外国人はいなく、英語圏外国人と会話したことは皆無であった。
初めて英語圏外国人と会話したのは、最初の勤務校(アメリカ人女性宣教師二人によって、明治時代に創設された女学校)である。
その学校では、当時「サバティカル」制度(海外1年、国内半年)があり、幾つか考えた結果、国内の大阪外国語大学大学院(当時)日本語科に留学した。理由は「日本語知らずの日本人で国語科教師」を痛感していたからである。痛感させたのは、勤務校への高校留学生(1年間)であり、帰国生徒であった。その後の人生を想えば、この選択は間違っていなかったと思っている。

次回(二)では、教師になって以降出会った英語圏教師、保護者、高校留学生また帰国子女等々のエピソードの幾つかを発端にして、イギリスとアメリカについて思い巡らせることで、私的に現在と次代の日本の在りように思い到ってみたい。

【日韓・アジア教育文化センター】http://jk-asia.net/『ブログ』への、これまでの投稿内容の空疎さは、冗長さ共々重々承知している。それでも娘の死を契機として、甚だ分不相応な言葉を使えば啓示を得、自照自省を恥じらいひとつなく続けて来たが、来たる年も心変わりせずに、と言い聞かせている。
その空疎さについて補足する。
例えば平均寿命50~55歳前後の昭和初期頃の文人、と限定しなくとも、「昔は大人(おとな)が多くいた」と言うその大人たちの死生観、社会観と比すと、その表現、内容が平均寿命80歳時代にもかかわらずあまりに空疎であるとの意味である。
つくづく人の進歩について思い知らされ、その眼差しは即自身を照射し、そこから次の世界?に赴ければとの奇妙な心意気ともなったりする。
約5000字の『老子』を著した老子(老聃(たん))は、執筆後に消息を絶った、とか。

 

2018年12月14日

雪 螢 ―俳句再発見・再学習― Ⅰ

井嶋 悠

雪螢とは綿虫のこと。雪虫とも言うとのこと。綿虫が科学的には正しいのかもしれない。しかし、響きはもちろん雪螢が美しい。学名はトドノネオワタムシ。

11月末の午後、庭先で純白の綿毛のようなものを抱えた虫が数匹、飛行範囲は半径1,2メートルほど、私の背程の高さの空(くう)を幽かに舞っていた。
毎年、晩秋となると見ていたことを思い出したが、今年は違った。時は瞬く内に過ぎ去ると実感するのが人の常だが、一年はやはり一年だった。一年=365日×24時間×60分×60秒……。私もどこかで、なにかがあって、変容していたのだろう。思い当たる節はないこともないが。

思わず手に取った。身の丈5ミリあるかないか。黒の縁取りの透明な翅に薄っすらと黒いたて筋が何本か走り、黒くくりくりした輝きのある両の眼。腹に綿毛を抱えて。しばらく掌(てのひら)に止まっていたが、また静かに飛び立った。幽寂な中での幽意の時間。
ほんとうに“別世界”あの世が在って、そこにほんとうに閻魔大王が居て、審問を受け、記憶している限りのすべての己が善悪を申したて、我が懺悔が受け入れられ、来世の希望を生命(いのち)あるものでとの限定で聞かれたら、願わくばこの雪螢になれれば、との思いが一刻(いっとき)に通り抜けた。

ひょっとしてと思い、歳時記を見てみた。冬の季語。初雪近くなると北日本で見かけるとある。幾つか俳句が並べてあった。心に懸った二句を挙げる。

[綿虫や そこは屍(かばね)の 出でゆく門] 石田 波郷

[綿虫を 齢(よわい)の中に みつゝあり]  能村 登四郎

俳句を嗜む方々への大いなる失礼を一顧だにせず「雪蛍」で俳句をものしてみた。「静穏の 齢(よわい)噛みしめ 雪蛍」

俳句を、国際化時代の世界にあって世界に誇れる日本文学であるとか、欧米に知らしめた人は明治時代のラフカディオ・ハーン(小泉 八雲)であるとか、西洋の小学校等で自身の母語による俳句創作学習に採り入れているとか、はたまた五音七音は日本人のDNAに組み込まれているとか、聞き、なるほどとは思っていたが、今回は雪螢が縁で、思わぬ方向に私を導いてくれたようだ。

最近、二つの句が頭を過ぎることが、間々ある。

一つは、【咳をしても一人】 尾崎 放哉

一つは、【旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る】 松尾 芭蕉

前者の、咳―も―一人
後者の、旅―夢―枯野―かけ廻る

両句の言葉の重なりから迫り来る、人が人であることの、自身を照射しての、孤独の激烈な自覚。激情を覆う静寂。詩人の詩人たる由縁。
この機会に、教師時代の昔を顧み、幾つかの俳句“授業”の今の齢での私的「予習」を試み、明日の私につなげられたらと思い、投稿することにした。
採り上げるのは、松尾 芭蕉。与謝 蕪村。小林 一茶。自由律俳句。から数句。
Ⅰ、は松尾 芭蕉。

松尾 芭蕉(1644~1694)

老若不問で“国民的俳句は?と問えば、第1位に予想されるのが、
【古池や 蛙飛びこむ 水のをと】はなかろうか。芭蕉43歳の句である。

この句、初案は「飛んだる」だったとか。それを読んだとき軽やかさがあって、これも良いのではと思ったが、近代の俳人で国文学研究者の加藤 楸邨(しゅうそん)(1905~1933)が言うには、「言い方の芸に過ぎない浅い芸で、改案(飛びこむ)は深層の揺らぎそのものを言い表している」とのこと。確かに。
己が軽薄、凡俗さを今更ながら思い知った次第。

「をと(音)」に関連し、かつての授業で「蛙の大きさは?」「数は何匹か」、とその理由共々聞いたことがある。あれこれ意見が出て、最終的に「トノサマガエル」くらいの大きさで、一匹であることにほぼ全員得心していた。
その時、アメリカからの帰国子女が「アメリカでは日本にはいないような大きな蛙で、その跳ぶ距離を競う遊びがあった」と言ったところ、その蛙が古池に飛びこんだらきっとドボーンだ、となって大きな笑いが起こった。生徒たちは、自ずと静寂の日本的美を味わっていたのであろう。
因みに、英訳されたこの句を見た時、蛙が複数形のものもあった旨紹介すると、生徒たちの多数は一匹を良しとしていた。難しい言葉で言えば、清閑の直覚であろう。

かてて加えて、芭蕉がこの句を発した時、古来日本では蛙の鳴き声は多くの歌や句に登場するが、飛ぶ動作の視点で扱ったのは芭蕉が初めてで、そこに居た俳人たちが感嘆した旨伝えたところ、先の音と併せて日本人の感性を自身の内に垣間見る機会になったようだ。

このような旧体験を統合することで、研究者の解説「閑寂枯淡の風趣」「蕉風開眼の句」との言葉が、今、改めて静かに心に沈んで行く。
こんな授業をしたらこの句だけで一時間[50分]となりそうだ。やはり国民的句なのであろう。
とは言え、受験進学意識の高い(強い?)生徒、学校では、「ここは大学ではないっ!」との顰蹙(ひんしゅく)が予想されるが。

中高大或いは高大一貫教育を標榜する学校(多くは私学)はあるが、どこまでタテの意思疎通と目標の共有が為されているか、多くは疑問で、今もそうならこの少子化時代、もったいないことである。

【石山の 石より白し 秋の風】
『奥の細道』所収 北陸の山中温泉へ向かう途次 那(な)谷寺(たじ)にて

私が初めてソウルを訪ねたのは、30年近く前の秋だった。ソウル市庁の近くのホテルに逗留し、近辺の大通りに立って市の北側にそびえる山を見た時、ふとこの句が浮かんだ。
山の名を「北漢山(プカンサン)」と言い、市内を流れる大河「漢(ハン)江(ガン)」の北側にあるところからこのような名称がつけられたとか。この山は幾つかの峰で構成され、一帯は国立公園で、市民の、また観光客の憩いの場所として多くの人が訪れている。
標高836mで決して高い山ではないが、14世紀に建てられた王宮景(キョン)福宮(ボックン)の後景にそびえることもあってか、見る者に迫り来る威容感のある、花崗岩(御影石)の山で、山肌が随所に見える。
その日は晴天で、郊外の田舎道の路傍には私の大好きなコスモスが溢れ咲き、秋風は爽やかな透明感を漂わせていた。ソウルに都を設けた理由として、北からの異民族侵攻の自然防塞としての北漢山、漢江を中心にした生活基盤との考えがあった、と以前読んだことがある。

そんな静やかな光景に在れば、誰しも、日本が1910年、南から侵攻し、中国を源とする「風水」思想を踏みにじり、景福宮に日本総督府を設営し、36年間の植民地支配を行った事実が脳裏をかすめるのではないだろうか。

芭蕉は加賀の国で白い秋の風を想い、私は異国ソウルで芭蕉の句を想い巡らせたのだが、当時『日韓・アジア教育文化センター』への端緒となることなど、誰が想像し得ただろうか。
日本側で、設立を支援くださった某学校法人理事長はすでに世を去られ、韓国側の主な推進者であった日本語教師たちの何人かは定年後の生活を過ごされている。時の無常と無情に思い到る。しかし、今も活動に献身くださっている方々もある。出会いの幸いと継続の喜び。
これなら30分くらいで、授業は終えられるであろうか。

「白」は黒とともに神秘性の強い色である。『常用字解』(白川 静)によれば白骨化した頭蓋骨を表わす象形文字とのこと。霊的なもの、霊性を思ったりする。その白を表わした芭蕉のやはり心に刻まれた名三句を挙げる。

【海くれて 鴨のこゑ ほのかに白し】

【明(あけ)ぼのや しら魚しろき こと一寸】

【葱(ねぎ)白く 洗ひたてたる さむさ哉】

妙味溢れる美の世界に導かれる。

 

【一家(ひとついえ)に 遊女もねたり 萩と月】
『奥の細道』越後・親知らず(親不知)の海岸にて

芭蕉はユーモアも解する情の人だったとか。
この句は、実際にあったことではなく芭蕉の虚構の句だそうだが、仮にそうとしても、芭蕉のほのぼのとした人柄が偲ばれる句であると、私は思う。そして、萩と月(両語とも秋の季語)が、遊女と芭蕉の存在を際立たせているように思える。
このことは、この句の前の日記文を読めば明らかである。その一端を引用する。

――一間(ひとま)隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男の子の声も交りて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、(中略)白浪のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし《おちぶれさす、の意》あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因(ごういん)いかにつたなしと、物言ふをきくきく寝入りて(中略)《翌朝、芭蕉と曽良の衣装姿から僧と思った遊女たちは、大慈の恵みをいただけ、仏道にお導きくださいと涙ながらに訴えたが、芭蕉は》「ただ人の行くにまかせて行くべし。神明(しんめい)の加護かならずつつがなかるべし」と言ひ捨てて出でつつ、哀れさしばらく止まざりけらし。――

とあり、その後に上記の句が書かれている。

この芭蕉の人としての情けに関して、一句加える。

【猿を聞く 人捨て子に 秋の風いかに】『野ざらし紀行』所収

古来中国に端を発し、猿の声は哀調を帯びたものとして多くの歌や句で採り上げられて来たとのことで、この句の前に次の文がある。

――富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨て子の哀れげに泣くあり。(中略)露ばかりの命待つ間と捨て置きけん。小萩がもとの秋の風、こよひや散るらん、あすや萎れんと、袂より喰い物投げて通るに、《この後に先の句が記され、以下のように続く。》
いかのぞや。汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け。――

ここに当時の社会現状としての、主に農村での堕胎、間引き、捨て子の実態を合わせた時、生徒たち、私たちは何に思い到るだろうか。
その場に居た芭蕉は、後年「余が風雅は夏炉冬扇のごとし」と言い、世俗に対して無用のわざと言うのだが、捨て子を前にせいぜい「袂より喰い物投げて通る」だけの無力な自身に痛切な痛みを加えている、と或る研究者は記している。改めて同情と愛情の問題に引かれて行く私を思う。
これまた生徒たちとの対話をして行けば、一句で一時間[50分]、否、二句だから不可能か……。

生徒もそろそろ芭蕉から脱け出たく次の授業に心移るかと思うので、最後にこの齢だからこそ、と同情心を煽って採り上げたい一句。

【旅に病(やん)で 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る】

鬼気迫る感あるひたすらに凄み漂う句である。私の、年齢を重ねた証しなのだろう。
旅は人生になぞられる。
少し前になるが、若い女性看護師が、何人かの高齢者を殺めた報道があった。テレビ報道で映し出された彼女の表情、眼に、得も言われぬ寂しさ、虚ろさを直覚した。彼女は3か月に及ぶ精神鑑定の結果、刑事責任を問えるとの結論に達した由。直覚は単に私の感傷で、彼女は平然と実行にうつしたのかもしれない。しかし、彼女にも幼少児期の、思春期の時代があって幾つもの、あるいは看護師への夢を抱いていただろうと勝手に想像すると、生きることの切々さが襲い来る。彼女の犯罪を是認し擁護するのではないが、あの眼を想い浮かべるとあまりの哀しみが私を覆う。
彼女にとって、この芭蕉の句はどのように響くのだろうか。7年前、彼女より少し若い年齢時の娘の永遠の旅立ちを見送った、おセンチな爺さんとやはり一笑に付されるだけだろうか。

芥川 龍之介は、1918年26歳時、『枯野抄』を発表している。師芭蕉の重篤を聞くに及び集まった弟子たちの、師の臨終、死を見守る様子を表わした一篇である。そこでは、弟子たちの心理や動きを、見事な筆致で活写している。

「…限りない人生の枯野の中で、野ざらしになったと云って差支えない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分たち自身を悼んでいる。」との、エゴイズムの視点から弟子たちそれぞれの心を推量想像して。

2018年12月5日

「冬来たりなば春遠からじ」 (二)

冬・陰陽・萩原朔太郎、北原白秋、三好達治

井嶋 悠

詩人は孤独である。より正確に言えば孤独を愛する。その意味では意志の人である。
萩原 朔太郎(1886~1942)は、エッセイ『冬の情緒』の中でこんなことを言っている。

「詩人たちは、昔に於いても今に於いても、西洋でも東洋でも、常に同じ一つの主題を有する。同じ一つの「冬」の詩しか作って居ない。(中略)詩的情緒の本質に属するものは、普遍の人間性に遺伝されてる、一貫不易のリリックである。即ちあの蕭(しょう)条(じょう)たる自然の中で、たよりなき生の孤独にふるへながら、赤々と燃える焚火の前に、幼児の追懐をまどろみながら、母の懐中(ふところ)を恋するところの情緒である。」

詩集『月に吠える』(1917年)から二つ引用する。

『地面の底の病気の顔』
地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、 巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。
地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。

『竹』
ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。

以前、解説で朔太郎は日本近代詩の父である旨読み、上記2作品からも私なりに大いに得心した思い出がある。ところで、やはり「父」であって、「母」ではおさまりつかないのだろうか。
晴天の冬の空はどこまでも突き抜け、大気は冷冽に地を覆う。研ぎ澄まされた詩人の幽かな神経は、天へ向かう青竹に、地に広がる根に向かう。幾つかの行末(ぎょうまつ)の語法が生の動きを導き、鑑賞者に春へのつながりを予感させる。

6年後に刊行された詩集『青猫』の序で、朔太郎は言う。

――詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。生活の沼地に鳴く青鷺(さぎ)の声であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である・――

冬は厳粛で、孤独で、秋の感傷の哀しみはない。しかし、それは絶望の哀しみでもない。

朔太郎が愛した、
与謝蕪村は「葱買(かう)て 枯木の中を 帰りけり」と詠み、
西行法師は「寂しさに 堪へたる人の またもあれな いほり(庵)ならべん 冬の山里」と詠い、
芭蕉は「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」と詠んだ。
北原白秋(1885~1942)は、詩集『月に吠える』の序に次のような文章を寄せている。

「月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になって私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知って吠える。天を仰ぎ、真実に地面(ぢべた)に生きてゐるものは悲しい。」
私は大人に、とりわけ結婚以降に、なってから犬を家族の一員に迎え続けている。私は、犬の愛らしく、切なく、時にキッとした眼を愛する。犬の孤独は猫の孤独と違うように思える。犬のそれはどこまでも人と共有できる哀しみの眼を思うが、猫のそれは泰然自若としている。猫好きに女性が多いことの理由と勝手に思っている……。
白秋には、やはり有名な『落葉松』という詩がある。その一部を引用する。


からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。
(二・三略)

からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
ほそぼそと通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。
(五・六略)

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

冬の碧空の下、春への生を中に秘め凛と立つ落葉松。「さびさびと」その下を歩み過ぎて行く詩人、人々。
冬のもたらす寂しさの情景を言うが、白秋の心には道は春につながっている。行き止まりの冬ではない。一直線の冬の道である。陰の明から陽の明へ。この詩からも母性が離れない。

三好達治の『雪』というわずか2行の詩。

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

眠らせるのは雪なのだろうか、母なのだろうかそれとも祖母?どうしても父も、祖父も浮かばない。
雪自体、母の或いは女性のイメージがあるのではないか。すべてを静寂に包みこむ雪。時にその過剰さのあまり人を死にさえ及ぼす雪。そして雪解けの哀しみ。
ふりつむ雪は鉛色の空から落ちて来る。空はその地を、否、地球全体を包み込んでいる。

随分昔のこと、授業(中学3年生?)でこの詩をしたときのことが今もって強く残っている。
読み味わい、授業を終えて教室を出る際に耳にした或る生徒(女子)が友人に言った言葉。

「え―っ!太郎と次郎は人だったんだ。てっきり犬だと思ってた!」

今もその時の感銘が新鮮に甦る。その生徒にとって、眠らせたのは自身なのだろう。

季節は、時に多くは人為の災いでいささかの前後もするが、確実に折々に私たちを包み込む。だから私たち人々に智慧を授け続け、一年を繰り返す。ひたすら。冬来たりなば春遠からじ。春来たりなば夏遠からじ。夏来たりなば秋遠からじ。秋来たりなば冬遠からじ…………。
私はほとんど意識することなく70数度繰り返して来た。
今、「心の欲する所に従いて矩(のり)をこえず」をはや過ぎて想う。

季節のもたらす自然に、森羅万象の自然に、心身一切を委ねる自然を、と、どこまでも想いであり続けるだけの俗人の私を重々承知しながらも。もちろん俗人の反対語「雅人」にもほど遠い私である。