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2019年8月27日

夏の高校野球全国大会はやはり甲子園がいい

井嶋 悠

野球観戦の趣味のない私で、息子が小学生の頃、敢えてプロ野球観戦に連れて行ったが、野球そのものよりナイターに映える芝生に感動した記憶が残っている、そんな程度である。だからテレビ中継もほとんど観ないし、観ても途中で終わる。そもそも地上波中継の大半が、あのカネがすべての巨人だから尚更観ない。
因みに、かつての“西鉄ライオンズ”というチームは非常に印象が残っている。ただ、それも稲尾がどうの、中西がどうのとか、監督三原が名将であったとか、そういった野球に直接つながることでの印象ではなく、彼ら選手たちの公私豪傑振りに強く魅かれたからとの邪道である。

ところが、加齢がそうさせたのか、今年異変が起きた。
履正社高校と星稜高校の決勝戦、最初から最後までテレビ観戦をし、高校野球の魅力に開眼した。プロ野球とは、私なりの理由から比較には相応しくないと思っているが、これについては後で触れる。
両校のレベルの高さがあったからこそ、なのかもしれないが、地方大会から決勝まで戦い抜き、全国約4000校の頂点を目指す両校の選手、監督、応援団がもたらす緊張感と昂揚感が、そこに満ち溢れていたからと私は思っている。 この緊張感と昂揚感、音楽表現で言えば心地良いリズム感である。
攻守選手のめりはりのきいた俊敏な動き、まだ幼さも残る表情(この表情について、笑顔が今では全高校?共通項のようだが、時に不自然な、また場違いなものも感じられ、笑顔のTPOがあってもいいのではないか、と個人的には思っている。)、大人への兆候が明らかになりつつある鍛えられた肉体、選手たちとの相互信頼が自然態で伝わる監督の采配、それらを鼓舞する応援団の音楽と声との融合。音楽劇的感動。

それらはプロ野球にはない。プロ野球にあるのは、職業(プロ)としての自覚と技術とそのための冷静さ、それらが醸し出す“間”である。劇的(ドラマ)性が強調されるが、強調するのはアナウンサーと同調する解説者、一部観客、そしてマスコミだけではないのか。リズム感が全く違う。2拍子と4拍子の違い?
試合の平均時間を見ても、高校とプロでは、前者が2時間前後、後者が3時間前後と自ずと違っている。 この違いは、サッカーともラグビーとも違う。これは、試合時間内と外(がい)の違いから来るのかもしれない。

解説者は難しい理屈ではなく、あくまでも聞き手に徹した実体験からの言葉をさりげなく言う人が良い。その意味でかの清原和博さんは、一度だけしか聞いたことはないが、良い解説者になると思う。あの事件で思い考えること多々あったはずで、ますます味わい深くなったかと思うので早く復帰してほしい。彼が復帰したら私のテレビ観戦が増えるかもしれない。但し、巨人戦以外で。

アメリカ大リーグのダイジェスト版を観て、日本の野球“道”との呼称に懐疑的な(野球に限ったことではなく、本来道のついているもの以外でのいろいろな場面、領域で持ち出される“道”精神)私は、大リーグの選手たちの少年性、観客のリラックス性を羨ましく。微笑ましく思う。さすが“アメリカ”の国技だけはある。
また、高校野球の関係で言えば、阪神球団“死のロード”とか自虐的言い訳などせず、自身たちの原点であろう高校野球を真っ白な心で再自覚、再自己発見してはどうか。
閑話休題。

少年野球が、サッカーに押されて減少傾向にあるとは言え、愛好者は根強くあるようだ。その野球が日本に移入されたのは明治時代とのこと。 これについては、元国語教師の牽強付会ながら、やはり正岡 子規の短歌を共有したく思う。
明治35年、子規は結核と脊椎カリエスによる3年間の壮絶な苦闘の末(その時の様子は『六尺病床』に詳しい)、35歳で亡くなったが、その2年後に刊行された歌集『竹乃里歌』に、「ベースボールの歌として」との題で9首が収められている。その中で2首を紹介する。

「久方の アメリカ人の はじめにし ベースボールは 見れど飽かぬかも」
「うちあぐる ボールは高く 雲に入りて 又落ち来る 人の手の中に」

子規にとってスポーツは全く無縁だったそうだが、野球を知るや熱中した由。21歳の時である。捕手の実践体験も持つ。
その子規が、夏の甲子園大会を観れば、さぞかし強い感銘を持ったことだろうと思う。

因みに、子規の絶筆は三句で、高校の教科書にもよく採られている。
「糸瓜(へちま)咲(ざき)て 痰(たん)のつまりし 仏かな」
「痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず」
「をとといの へちまの水も 取らざりき」

夏の甲子園は8月に行なわれる。 15日の正午、試合中であっても黙祷が捧げられる。また6日は広島、9日は長崎の被爆の日である。
15日はなぜか、燦々と降り注ぐ陽射(ひざ)し、突き抜ける碧空、躍動する白雲、の印象が濃い。平和への私たち、すべて?の人々の祈念を象徴するかのように。

彼らの雄姿の巨大さに気づかされた、酷暑の2019年8月だった。 夏の高校野球全国大会は甲子園がふさわしい。それを最もよく知っているのは、当日の選手たちであり、元選手たちであり、プロ野球で活躍した、している選手たちであろう。
だからなおのこと、その裏面、例えば甲子園に出場することでの膨大な経費の調達、選手と一般生徒の在校中、卒業後の進路のこと、学費(特待生、寮制度を含め)に係ること、日々の学業との両立、主に私立校での監督の地位の現在と未来、更には勝つためには手段を選ばず的指導、学校運営等々、大人社会の至難な諸問題を克服してこその感動であることに思い到らなくてはならないだろう。 そうでなければ、きれいごとで終わってしまう。
しかし、それらは栄光と感動のための、大人そして生徒の、必然的に求められる心身労苦であり現実である、との考え方になって行くのだろうが、私としてはどこか寂しさが残る。
そうかと言って、出場公立高校への脚光に、学校の都鄙格差を思えば一概に与する私でもない。

私は、33年間中高校教師生活を過ごし、74年間生き、様々なことでの表裏、現実と理想に、驚かされ、打ちのめされ、今、これを書いている。

2019年8月19日

多余的話(2019年8月)  『新聞記者』

井上 邦久

・・・三都のうちで一ばん暑くて人と家とが詰って樹木の少い大阪は 九月になっても秋らしい気分が見當たらない。・・・

山がないから鳥も虫もゐない、虫はゐても南京虫では仕方がない、山はあっても天保山では八文にも通用しない。・・・街路樹はあるが煤煙で黒くなって春でも秋でも同じやうな色で、落葉しないのは常盤樹であるためではない、枯れて落ちる勢ひなく枝にしがみ付いてゐるのである。 浪花風景としては川端柳が風に揺曳して、一と吹き毎に一とつかみの枯葉を散らして掃除夫を困らせてゐる。・・・  

1931年8月2日肺炎で早世した「炎のスプリンター」人見絹枝に少し先行して同年7月26日腹膜炎で逝った「炎のジャーナリスト」(大谷渉氏の評伝題名)北村兼子の絶筆『大空に飛ぶ』(改善社)の一節に綴られた78年前も暑かった大阪のスケッチです。
これに続く「大阪風物詩」の章には、満州事変の前夜、日貨排斥などの緊迫した日中間にあっても、川口居留地跡を拠点とする華商と浪花商人が仲よく対策を講じている様子がユーモラスに描かれています。  
北村兼子は、創成期の同志社で教えた祖父北村龍象から続く漢学の家に生れ、居留地の外国人から技術を習得し大阪初の洋服学校を経営する母北村勝野のもと府立梅田高等女学校(大手前高女)を卒業。官立大阪外国語学校英語科から関西大学初の女子聴講生として法学を履修(当時女性の本科生進学は不可)。続いて高等文官試験の受験を志すも司法・行政ともに請願は叶わず、女性への門戸開放はされていません。
しかし、発表した法学論文がきっかけとなり関西大学在籍のまま朝日新聞に招聘され、瞬く間に花形記者となっています。  

大阪開港・居留地・川口華商を調べている過程で北村兼子を知り、中之島図書館に戦前から保管されている作品を閲覧してきました。 歯切れよい文体と小気味よい論旨の文章を発表し、市川房枝らと汎太平洋婦人会議や世界婦人参政権会議にも参加しています。台湾・香港や上海・南京レポートも含めて先駆的な文章群ですが、大谷渉氏の著作を除けば忘れられた存在であることを残念に思っていました。
ところが8月4日朝日新聞が「夭折の女性記者 色あせない勇気」と題して北村兼子の個性的な略歴を紹介し先駆的な主張を高く評価していました。
ただ一見正論に見えそうなその記事には大切な一点が抜け落ちていることに気付きました。
1929年在欧中の北村兼子は世界一周途上の飛行船ツェッペリン伯号でドイツから霞ケ浦へ飛ぼうと、「若い筆で飛行船アジア入りの一番筆をやってみたいと、乏しい旅費のうちから6月12日にツェッペリン坐席預約料を支拂った」(『新台湾行進曲』1930年婦人毎日台湾支局)。
自費で自席を確保した北村兼子に対し、体験取材記事の独占を狙った東京毎日と大阪朝日の有志連合が妨害工作を画して横槍を入れ、多勢に無勢の北村兼子を引摺り下ろしてしまいます。人気と筆で敵わないなら組織力と金銭力で、という印象が残ります。
この汚点に今の朝日新聞の後輩が触れないのは残念であり、恣意的に避けたとすれば正論の骨格がオカラ構造(2010年頃、中国で頻発した「豆腐渣・オカラ」の如き手抜き工法)に見えてきます。
因みに傷心の北村兼子を癒したのは、欧州在住の支援者たちで、なかでも藤田嗣治は北村兼子の肖像画を描き、後にこの絵は『新台湾行進曲』の表紙に載せられています。  

多くの読者や支援者を得ることで、小面憎く思われることに本人も自重自戒する文章を書いているのですが、溢れんばかりの才気と行動力と健筆を目障りに思う同業者たちからは辛辣な批判を浴びています。
出る釘は打たれ、出過ぎた杭は引っこ抜かれるこの国の習い。
単独飛行操縦のライセンスを取得し、三菱に発注した自家用飛行機で欧州の大空に飛ぶ直前に早世したのは無念であったと思います。  

話題の映画『新聞記者』を立見席で観ました。
東京新聞の記者が書いた原作は読んでいませんが、映画は自立したエンターテイメントの要素も含めて中だるみのないものでした。北村有起哉が演じる新聞社社会部デスクにリアリティを感じました。
中だるみのない展開といえば、米国映画の『ガラスの城の約束』も素晴らしい骨格と主張が心地よい緊張感をもたらせてくれました。
著名なコラムニスト、ジャネット・ウォールズの回顧録の映画化で、米国社会の常識に「まつろわぬ民」であった一家の生き方に奇妙な共感を覚えました。

 「不易と流行」を見極めることなく、浅薄な付和雷同に陥りがちな 昨今の日本の日常のなかで、北村兼子の自立的な生き方を知り、北村有起哉の勁草のような演技に己の硬直した心身を反省し、米国社会で孤立を怖れず面倒な生き方を選択する人が居ることを頼りにして、決して簡単には「イイネ」のボタンを押さず「ただそれだけではない」と考える姿勢を大事にしたいと思います。                                          (了) 

2019年8月1日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅱ 中等教育[時代]前期(中学校)

井嶋 悠

東京から、再婚した父の“新家庭”西宮市に移った。広く関西で言えば“戻った”。そこには継母がいた。 父の気遣いは、幼い私でさえ容易に察せられた。新幹線のない時代、何せ母の勤務地の近くの停車駅のホームに母が居たのである。何も分かっていないのは私だけだった。
大坂駅から私鉄に乗り換え西宮に向かうのである。途中「十三」という駅があり、父に「何と読むか分かるか」と聞かれ「分からない」とかすかに答えたことが、今も残っている。
東京の小学校でそこそこの成績だったからか、当初、私立中学校を受けさせるつもりだった父は、それなりに情報を集めていたようだが、或る“有名校”で対応した教師に幻滅し、地域の公立中学校に進学することになった。

劇的!?で激動!?の中学時代の幕開けである。

入学式、数人からのグランドでの袋叩きに始まり、卒業式での同じ彼らからの1週間前死刑宣告による学校側非常態勢まで。
要は途方もなく「荒れた学校」だったのだ。そこで身をもって知らされた厳しく根の深い同和問題。
抽象より具体の体験学習の重み。この体験は私の人生観、教育観、教師観、更には歴史観に決定的とも思える翳と陽の端緒を与えたと思う。
世にはびこる善悪の吟味もないままの概念的知識を振りかざす人々への疑問、虚しさ。その私が、その概念性と正義性が頻出する教育の世界に、33年間浸ることになるとは・・・。

中学校初日(入学式・始業式)と最終日(卒業式)初めの、またその間での顛末は以下である。

ほとんどの生徒が小学校の延長上で集まる公立中学校。誰も面識者のない私は、隣席にいた生徒に親愛を込めて会話し、頭を軽くこづいた。それが、彼の、彼らの尊厳と歴史をどれほどに侮辱したかなど、つゆ知らず。それがすべての始まりだった。
帰路、待ち受けていたのが、グランド上での、彼からの連絡網で集まった数人(4、5人)の仲間からの殴る、蹴るの復讐であり、罰であった。
保護者は入学式後、既に帰宅していた。 私は隙を見て逃げ帰るだけであった。その場に居た生徒から教師に連絡が行ったのであろう。その日の午後、ホームルーム担任教師ともう一人の教師が自宅にやって来た。
そこで知った地域の問題。 一方の当事者である私は、そのことで不登校にもならず通学を始める。愚鈍な私だからできたのかもしれない。
と言うのは、教師としての最後の勤務校である不登校高校生を主に集めた学校に2年程講師生活をした経験、また娘の死へつながる彼女の体験から、中学校時代の感受性の複雑な豊かさをひしひしと思い知らされ、自身の幼さを振り返りそう思えるからである。

学校で彼らと行き違うたびに浴びせられる憎しみの視線。そうは言っても、彼らも他のことで忙しく?私への一件は、過去のこととなりつつあった。
繰り返される生徒同士の地域間抗争をも含めての争い、血を見る喧嘩、教師への暴言暴力、他校生徒の授業中の乱入、校舎裏に引っ張り込んでの定期的恐喝(カツアゲ)……。
一部教師の見て見ぬ振り、彼らへの迎合的発言、そしてそんな日々に辟易する教師たち。 コトの事情を呑み込んでいる生徒たち(先述したように大半は小学校からの延長上)の「君子危うきに近寄らず」。

この中学校は、部(クラブ)活動が盛んだったが、こんな事件もあった。 当時、サッカー部は阪神間のトップを競う戦績を挙げていて、体育の時間などサッカーをすることも多くあった。後で気づいたのだが、資質の高い隠れた選手を探している節もなきにしみ非ずで、と言うのは、どうしたことか、この私が顧問(監督)誘われたからである。
先に記した学校状況もあって、父は入部に反対であった。もっとも私自身関心もなく実現しなかった。 サッカー部は戦績からも、やはり目立つ存在で、時に「彼ら」の攻撃対象になることがあった。
こんなことが起きた。些細なことで有能な選手が、彼らから「制裁」を受け、両足を骨折したのである。
言い出せばキリがないほどに様々な事例が想い起こされるが、よほどでないかぎり表沙汰として問題化することもないほどに、私たちの心は麻痺していた。

一方で、その地域に在って、卒業後の進路差別を承知した、成績人物共に優秀な生徒。また暴力グループからの方向転換を図り立ち直ろうとする生徒。その生徒たちに強く教えられたもう一つの体験。
前者の生徒。女子生徒で卒業後進学せず就職したこと。就職する以外に選択肢はなかった彼女。それも身内の中での就職。
後者の生徒。彼の学習、生活のサポートをクラス担任から指名され手伝ったこと。
今思い返せば、なぜもっと足を踏ん張って自己学習しなかったのか、高校への進学進路指導で某国立大学付属高校受験を薦められた、ただそれだけの私だったことが悔やまれる。

卒業式学校側態勢となった背景でもある、3年次での事件と卒業式当日。
放課後の廊下で、入学式のあの連中から金銭要求を受け(額は100円前後だった)、拒否したところ羽交い絞めの暴行。それを目撃した生徒の教師への駆け込みで彼らは1週間の停学(自宅謹慎)に。
その逆恨みと彼らの3年間の鬱積が、そのような心へ導いたのか、卒業式数日前に、校舎裏に呼び出され一言。「殺したるからなっ!」
日頃、有言実行を(殺すはないが)見ていただけにその恐怖。帰宅後、親に相談し、親が学校に連絡し、学校から「正門横に親戚かどなたか若い人を待機させてください」との依頼。 そして卒業式当日、終了後、式会場の体育館から正門まで、両側に在校生や教職員が立ち並ぶ路を歩み、迎えの人と足早に帰宅。
それ以後、彼らと二度、一度は電車駅構内で、一度は知人宅近くで出くわした。駅では衆人のため睨みつけられるだけで済み、知人宅近くでは石を投げつけられ、あわててその知人宅に逃げ込んだ。
彼らのその後は伝え聞くことはあっても、実際は知らない。

この卒業校に20年ほど前勤務していた方(教師)と話す機会があり、現在、全くそのようなことはないとのこと。地区自体も様相が変わり住宅地等となっているが、一部地域では、変化は外貌だけで、その根っ子を今もって抱えている現実を伝え聞くこともある。

ヘイトスピーチが様々な領域で顕在化しつつ問題となっている。ヘイトスピーチを発する人の中には、己が発言の正当性を公然と主張する者もある。しかし、多くは疑問視し、悪行と思っている。当然である。
しかし、この哀しみは恐らく人間世界が続く限り、あり続けるのだろう。 或る友人は、差別はなくなると主張するが、私はどうしてもそう言い切れない。言葉で論を張ることと現実の乖離の痛覚。そこから生れる差別心を常に自覚する重要性に私の心は向く。
そんな私だが、歴史的、本質的に根が深過ぎる。いつ、なぜ、どういった人たちが、その根を生やしたのか。結局は、私も同じ穴の貉(むじな)・・・。

『日韓・アジア教育文化センター』の活動を続けて来たがゆえに、最近の日韓問題で思うことも多く、先日も「日韓の“溝”を考える」との表題で、拙稿を書き、韓国人の仲間がハングルに翻訳し、韓国の韓国人日本語教師の会に発信してくれた。光栄なことであるが、責任は重い。

教育世界は、倫理的側面が強いのでやむを得ないとは思うが、善的概念論が多過ぎる。教師は今もって聖職者なのである。或いは聖職者意識が強い。だからと言って、皆と同じ世俗者としての人間、と安易分類をするつもりもない。そこに教師であることの難しさを思う。
2017年3月、私の住む所にほど近い那須岳で、高校登山部の冬山訓練中、雪崩で県内数校から参加していた生徒の7人と引率教員1人が死亡し、現在係争中である。
以前投稿したことでもあるが、教師時代スキー行事の引率、指導をした経験で言えば、明らかに教師の、自然の脅威を忘れた惰性的運営、驕りが元凶にあると、私は思っている。私の場合は、たまたま事故がなかっただけのことである。

先に触れたように、私が直接に知り得た幾つかの地域で、残滓があるとは言え、かつての呪縛から解かれ、新興地として住宅や商業地が広がりつつある。それらは意識化した人々とそれに共感した人々の成果である。政治は後からである。

近代化邁進の現代、抽象的な言説からいかに具体的に、何を、どのような視点で視、若い人にどう伝えるか、あれもこれもと多忙を極める子ども達。それも速度(スピード)を求められる情報洪水時代だからなおのこと、教師の力量が試されている、と引退した無責任さは重々承知で、思う。

中学時代の、もう一つの体験。 3年次の同級に、眉目秀麗、学力優秀、温厚篤実な男子生徒がいた。私に友情を感じ、よく話し掛けて来た。私もその優しい人柄が好きだった。ただ、彼の話す言葉は、女言葉であり、動きは女性以上に女性であった。掃除中など、後ろに下げた机に私を押し倒し、口を近づける、そんな悪戯をよくして来た。
最近、その系列の男性たちが、表舞台によく登場する。その人たちを見る度に、彼は、どんな人生を歩み、今どうしているだろう、とやはり複雑な思いで振り返る。
中等教育での[LGBT]教育の現在、大人側の、それも政治家たちの根深い偏見と差別発言が繰り返されているが、生徒・教師・保護者の意識は、螺旋的に紆余曲折を経ながらも上昇しているのだろうか。

今も中学校時代、特に2年生をピークに、問題が多く噴出する。それほどにこの中等教育前期は子どもから大人への巨大な転換期なのだろう。
中高一貫の有効性を学習面から見る偏りではなく、人格陶冶の視座から[中高校8年(6年+2年)]を考え、同時併行で就職の道、進学の道に向けた中高校卒業後社会の制度的、意識的変革を、少子高齢化だからこそ為し得る千載一遇の時機、と重ねて思う。

次回は、私の学歴感(観)の原点?とも言うべき、中等教育後期、高校時代を顧みる。