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2021年1月30日

多余的話(2021年1月)   「1月11日」

井上 邦久

今年の箱根駅伝の1区は超スローペースで始まり、記録的な愉しみは早々に失せました。大手町から品川駅前そして御殿山にかかるところは馴染みの深い地域なのでランナーがゆっくり走ってくれて助かりました。
京浜道路から昔の東海道に入っていくと北品川商店街。
高層ビルのオフィスから息抜きに足を延ばして知った「そば処 いってつ」さんには給水ポイントならぬ給酒ポイントとして高層ビルと無縁になってからも大変お世話になっています。向かいの鰻屋は蒲焼の匂いを嗅ぐだけ、その隣の「あきおか」煎餅屋は「いってつ」の暖簾が揚るまでの小さな買物とお喋りの場所です。
幕末の品川宿で「浮浪雲」が頭領をしていた運送問屋「夢屋」は有りませんが、関東大震災後に多く建てられた耐火銅板貼り(小伝馬町・人形町・鳥越等にも)の緑青が見事な荒物屋、畳屋そして下駄屋もあります。

外国人向けの宿泊施設に変貌している町並みの一角に土蔵相模の通称で知られる引手茶屋「相模屋」跡の石碑があります。土蔵相模は御殿山に建設中の英国大使館を焼き討ちせんとした長州攘夷派の高杉晋作、井上馨らが結集謀議した場所として知られています。
横浜異人館焼討を企んだ渋沢栄一の例も含めて、異人の建物を焼いたくらいで欧米帝国主義を叩けると真剣に考えていたことが今となっては不可思議であります。

少し時代が下って御殿山は政府高官や富商の邸宅で知られるようになります。
駅伝コースから外れて住宅街に入り、しばらく行くと塀に囲まれた原美術館が静かにたたずんでいます。渋沢栄一と同じく、幕末草莽の志士として活動し米国留学後に実業界に重きをなした原六郎、そして日本航空や東京ガス社長を歴任した女婿の原邦造の経済基盤と美術コレクションを背景にして、曽孫にあたる原俊夫が1979年に原家私邸を現代アートに絞った美術館にしたものです。

東京出張の折に、川崎・浜町・横浜での単身赴任時代の休日にブラリと訪ねて特別展があろうとなかろうと、そのたたずまいに身を置くだけで贅沢な気分にして貰いました。
SFではありませんが、世界最後の日が来るとしたら其の前日は何処に居たいか?と問われた場合、原美術館は有力候補でありました。
訪れることができないまま原美術館は1月11日をもって閉館となりました。
戦災にも遭わず、ゴジラの東京湾上陸コースからも少しだけ外れた原美術館は元々が個人の家であったのでバリアフリー改造には不向きであったようです。
中途半端な手直しをせず、すっぱり閉館するのは潔いし、すでに存分にそこでの時間を満喫したので潔くその日を関西から見送りました。

その関西でもかなり奥まった場所で地力を蓄えた天理大学ラグビー部が早稲田大学に昨年の倍返しで勝利したのも1月11日でした。
花の都に臆するところがなかったです。その試合は中之島の住友病院12階の眺めの良い部屋でTV観戦しました。

先ず1月4日に枚方市の関西医大付属病院で6年目の術後検査を無難に通過し(昨年は検査日を忘れ、愛知大学を訪問した帰りの豊橋駅で病院からの詰問調電話を受けて慌てました。
年に一度の検診は忘れやすいので、今年は正月初日を予約日にしました)後顧の憂いなく、6日から住友病院に教育入院をしました。
昨年秋の定期検診で血糖値などのデータが悪化していたため、主治医からこの機会に薬物療法はそのままで、食事療法と運動療法で体質改善を進め、医学的、栄養学的な意識改革ができるまで教育する・・・分かりやすく言うと「データ」と「生活態度」が改善するまで「隔離拘束」されることに同意しました。

幸か不幸か、忘年会もクリスマスもない歳末から静かな年越しに続いた社会環境にも恵まれて、禁酒摂食と適度な運動を行い、大げさにいえばキャンプインに備えて身体を整備する野球選手のような生活でした。
12月の拙文では歩き回る生活を綴り、年賀状には陶淵明の飲酒の詩を引いたあたりに精神的な葛藤が出ているなあと自己分析をしました。住友病院は北品川の蕎麦屋さん同様になじみの病院ですが、地下の売店ではブラック珈琲のみの買物、夕食後の運動に暗い院内をグルグル歩き回るのも少し不気味であり飽きてもきました。
窓の下には土佐堀川、その先には『泥の河』の舞台、そして住友倉庫前を左に曲がれば川口・本田という開港由来の旧居留地や川口華商の活躍した跡地。
歩行運動療法に最適の地域が眼と鼻の先でしたが、完全隔離の禁足令はある意味で禁酒令よりも辛いものでした。

宮田裕章『共鳴する未来 データ革命で生み出すこれからの世界』河出新書
ジョージナ・クリーグ『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』中山ゆかり訳 フィルムアート社
福澤諭吉『復刻 中津留別之書』福澤旧邸保存会、

以上三冊をほぼ読み終えた10日後に「データは顕かに改善」「生活態度は模範囚候補」ということで退院の運びとなりました。執行猶予無期限の仮釈放であると思っております。

1月11日は実母の誕生日でもありました。秋に脳疾患に続く認知症が急速に進み隔離してもらったとの連絡がありましたが、すべて妹一家からの間接話法であり感染地域の大阪からは訪問も叶わないままであります。
毎月の拙文にこまめに返事をくれていたのが、夏頃から便箋の枚数が少なくなり、心なしか筆跡も薄くなっていました。そのことに特別な注意を払わなかったことに今になって臍を噛んでいます。こればかりは潔くとは参りません。                 (了)

2021年1月19日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧―

井嶋 悠

第五章 卒業式

生きる過程で意識されて来る人権について、後年の基礎を授けてくれた中学校の3年間が終わりを迎える。3年間は瞬くうちに過ぎて行った。私の前に様々な人が現われ、私を刺激し、考える種を植え付けて行った。
しかし、卒業式を迎える前に、中学時代最後の難関が待ち受けていた。卒業の4か月ほど前だった、私は金銭を“彼ら”から強要された。

その頃、一部の男子生徒の間で、教室の机の上での硬貨[小銭]によるおはじき賭博が流行っていた。硬貨は、当時1円、5円、10円で、相手の硬貨を自身の硬貨で机外に落とすのである。賭博とまで言ったのは、落としたらその硬貨は自身のものになるからである。だから、それをする生徒たちは教師に見つからないよう注意を払わなくてはならず、興じるのは放課後であった。その場には、ほぼ常に彼らの姿があった。負けが増えれば元手が必要になる。当然の成り行きである。

私が教室横の廊下を家に帰るべく歩いていたその時、彼らは教室から出て来て声を掛けた。
「金、貸してくれやっ」
私は拒否した。貸したら最後、返ってこないことは明白であるが、そのことよりもただただ彼らの行為を拒む私がいた。私は羽交い絞めにされ(何度目だろう!?)、彼らはあの入学式よろしくいささかの殴打をした。その時である。廊下の端の方に一人の女子生徒がこちらに眼を向けていた。彼らにも分かった。彼らはあわてて教室内に入った。私は解放され帰宅した。

教師からの私への事情確認はなく、彼らにはあったのかどうか知らないが、翌日、彼らの一週間の停学[自宅謹慎]が発表された。女子生徒が職員室に駆け込んだのである。もし女子生徒が駆け込まなかったら、事は何も起こらなかったかもしれない。女子生徒を責めているのではない。彼女は当たり前のことをしたに過ぎないのだから。彼らが私に小銭を要求したことなど誰にも、家でも、いわんや教師にも、言わなかっただろうから。ただ、処分を発することでのその後について、彼らが私に何をするか、教師は恐らく何も考えていなかったことは想像できた。

その時点で、私は彼らにとって決定的にして最終的?な敵(かたき)となったのである。入学式の一件の息が怒涛の如く吹き返したのである。私にとっては、今回のことも逆恨みとしか思えないのだが、彼らの地域のことがどうしても離れず、混乱していた。彼らの屈折した行動の背景また虐げられた歴史が、頭を瞬間過ぎり、彼らの我がまま勝手な、しかも犯罪である行為との間で、私の心は揺れた。彼らの行為は犯罪であると断じ切れなかった私がいた。悔しく悲しかった。

この感覚は、教師になって日独ハーフ[ダブル]の、やんちゃを繰り返していた男子生徒との出会いで持ち得たものと似ている。
最後の在職校は、日本の或る私立中高校と世界ネットワークのインターナショナルスクールの一校との、日本で最初の協働校であった。ここで学んだことは、実に多岐にわたった[とりわけインターナショナルスクール側の生徒、保護者、教職員から多くのことを学んだ]が、ここでは一人のインターナショナルスクール生徒の彼のことだけにする。

彼が下校時、女子生徒に嫌がらせをしていた時、思わず彼を地に押さえつけ、彼女を解放した。その直後、インターナショナルスクール側の校長及び日本側を含めた二人のカウンセラー、彼のクラス担任そして私を含め彼の言い分を聞く機会がカウンセリングルームで持たれた。
彼は、時に涙を浮かべ、堤防が決壊したかのように話し続けた。彼は言うのである。彼の第1言語である英語で。
確かに自分は成績も良くないが、一生懸命していた。しかし、先生方は誰も理解しくれず成績は「F」ばかりだった[成績評価はABCDFの5段階で、Fはfault欠点である]と。彼の言葉に揺れる私がいた。彼が話し終わった時、私は何も話さず、握手の手を差し出した。彼は少し驚いた表情で受け入れてくれた。それがすべてで、彼とは10年以上経った今も交流がある。
彼は2児の父親になっている。夫人は日本人の幼稚園の先生である。彼のドイツ人の母親は苦笑して言っていた。「日本型モーレツサラリーマンになるとは」と。
その時の心持ちと先の彼らへの心情が似ているのである。もちろんこれも感傷的同情ならば彼らまた彼にとっては唾棄すべきこと、との心情をどこかで承知してのことであるが。私には、握手を求め無言で謝罪するしか彼に応ずる手立てはなかったのである。

ところで、私の英語力は私の公立中学校高校時代のネーティブスピーカーとの会話などなかった読み書き英語の中位程度であった。それから30有余年後、彼から気づかされた先のこと以外に、相当の集中力をもってすれば、悪評高い[公立英語]だけであっても彼が語った上記のことは分かるということだった。ちょっとうれしく、誇らしかった。

「ハーフ」と「ダブル」の言葉遣いに関して補足する
ハーフの場合、私の中で二つの文化の対立イメージがあるが、ダブルの場合、並立イメージが感じられ、そのためハーフではその葛藤とそこからの屈折を想像し、ダブルは共存からの心地良さに似た快を想像する。彼の言い分を聞くに、葛藤と屈折を感じたのでハーフを先に置いた。現在、社会ではダブルの方が優勢になりつつあるように思うが、まだまだであろうか。

彼らの停学処分の1週間が経ち、彼らは復学し、私を徹底的に恨んだ。彼らの私を見る眼には、憎しみ以上に殺気を感じた。年が変わり、卒業式がより具体的に私たちの前に示されつつあった或る日、彼らは私を校舎裏に呼び出し、一言言った。
「殺したるからなっ」
私は彼らならやりかねないと直感し、担任教師に相談した。そして卒業式を迎えることになるのである。
学校として教師間での話し合いが進められたのであろう。数日後、クラス担任から自宅に電話連絡があった。
「式会場から正門までは、在校生等で人の垣根ができることになりますので、正門を出た所にどなたか若い男性の待機をお願いします。合流後、直ぐに帰宅をお願いします。」と。
これで彼らは、解散後私を拘束できないというわけである。そこで旧知の若い人にお願いし当日を迎えることになった。

彼らにしてみれば、予定していた行動の機会を、人垣と大人の防御で失うこととなり、私への敵意は一層強くなることが予想されたが、仕方がない。幸いにも自宅の場所は知られていない。生徒名簿はあるが、さすがにそれから自宅を見つけ出すほどまでには執着していなかったのだろうか、直接訪問或いは自宅近くでの待ち伏せもなかった。他にもいろいろと彼らとして為すべきことがあったのかもしれない。いかんせん卒業式の日は、ほぼ毎年と言っていいほどに教師への「復讐」が、繰り広げられる学校ではあったので。他の中学校でもあったようだが。この日それがあったかどうかは定かではない。

高校に進学後、私は電車通学となり、彼らの記憶も過去のこととなりつつあった。そんな折、一度電車駅の構内の階段で彼らのリーダーとすれ違ったことがあった。しかし、多くの人が行き交う中であり、私を激しくにらみつけるだけで事なきを得た。それ以降今日に到るまで一度も会っていない。
彼らの卒業後については、それぞれ彼らにとって決して好ましいとは思えない境遇のようだと伝え聞いたことがある。また第三章で記した彼女と彼がどうなったのかも知らない。

2021年1月18日

多余的話(2021年1月)   「1月11日」

井上 邦久

今年の箱根駅伝の1区は超スローペースで始まり、記録的な愉しみは早々に失せました。大手町から品川駅前そして御殿山にかかるところは馴染みの深い地域なのでランナーがゆっくり走ってくれて助かりました。

京浜道路から昔の東海道に入っていくと北品川商店街。高層ビルのオフィスから息抜きに足を延ばして知った「そば処 いってつ」さんには給水ポイントならぬ給酒ポイントとして高層ビルと無縁になってからも大変お世話になっています。向かいの鰻屋は蒲焼の匂いを嗅ぐだけ、その隣の「あきおか」煎餅屋は「いってつ」の暖簾が揚るまでの小さな買物とお喋りの場所です。

幕末の品川宿で「浮浪雲」が頭領をしていた運送問屋「夢屋」は有りませんが、関東大震災後に多く建てられた耐火銅板貼り(小伝馬町・人形町・鳥越等にも)の緑青が見事な荒物屋、畳屋そして下駄屋もあります。外国人向けの宿泊施設に変貌している町並みの一角に土蔵相模の通称で知られる引手茶屋「相模屋」跡の石碑があります。
土蔵相模は、御殿山に建設中の英国大使館を焼き討ちせんとした長州攘夷派の高杉晋作、井上馨らが結集謀議した場所として知られています。横浜異人館焼討を企んだ渋沢栄一の例も含めて、異人の建物を焼いたくらいで欧米帝国主義を叩けると真剣に考えていたことが今となっては不可思議であります。

少し時代が下って御殿山は政府高官や富商の邸宅で知られるようになります。駅伝コースから外れて住宅街に入り、しばらく行くと塀に囲まれた原美術館が静かにたたずんでいます。渋沢栄一と同じく、幕末草莽の志士として活動し米国留学後に実業界に重きをなした原六郎、そして日本航空や東京ガス社長を歴任した女婿の原邦造の経済基盤と美術コレクションを背景にして、曽孫にあたる原俊夫が1979年に原家私邸を現代アートに絞った美術館にしたものです。
東京出張の折に、川崎・浜町・横浜での単身赴任時代の休日にブラリと訪ねて特別展があろうとなかろうと、そのたたずまいに身を置くだけで贅沢な気分にして貰いました。SFではありませんが、世界最後の日が来るとしたら其の前日は何処に居たいか?と問われた場合、原美術館は有力候補でありました。
訪れることができないまま原美術館は1月11日をもって閉館となりました。
戦災にも遭わず、ゴジラの東京湾上陸コースからも少しだけ外れた原美術館は元々が個人の家であったのでバリアフリー改造には不向きであったようです。中途半端な手直しをせず、すっぱり閉館するのは潔いし、すでに存分にそこでの時間を満喫したので潔くその日を関西から見送りました。

その関西でもかなり奥まった場所で地力を蓄えた天理大学ラグビー部が早稲田大学に昨年の倍返しで勝利したのも1月11日でした。花の都に臆するところがなかったです。
その試合は中之島の住友病院12階の眺めの良い部屋でTV観戦しました。

先ず1月4日に枚方市の関西医大付属病院で6年目の術後検査を無難に通過し(昨年は検査日を忘れ、愛知大学を訪問した帰りの豊橋駅で病院からの詰問調電話を受けて慌てました。年に一度の検診は忘れやすいので、今年は正月初日を予約日にしました)後顧の憂いなく、6日から住友病院に教育入院をしました。
昨年秋の定期検診で血糖値などのデータが悪化していたため、主治医からこの機会に薬物療法はそのままで、食事療法と運動療法で体質改善を進め、医学的、栄養学的な意識改革ができるまで教育する・・・分かりやすく言うと「データ」と「生活態度」が改善するまで「隔離拘束」されることに同意しました。
幸か不幸か、忘年会もクリスマスもない歳末から静かな年越しに続いた社会環境にも恵まれて、禁酒摂食と適度な運動を行い、大げさにいえばキャンプインに備えて身体を整備する野球選手のような生活でした。
12月の拙文では歩き回る生活を綴り、年賀状には陶淵明の飲酒の詩を引いたあたりに精神的な葛藤が出ているなあと自己分析をしました。

住友病院は北品川の蕎麦屋さん同様になじみの病院ですが、地下の売店ではブラック珈琲のみの買物、夕食後の運動に暗い院内をグルグル歩き回るのも少し不気味であり飽きてもきました。窓の下には土佐堀川、その先には『泥の河』の舞台、そして住友倉庫前を左に曲がれば川口・本田という開港由来の旧居留地や川口華商の活躍した跡地。
歩行運動療法に最適の地域が眼と鼻の先でしたが、完全隔離の禁足令はある意味で禁酒令よりも辛いものでした。

宮田裕章『共鳴する未来 データ革命で生み出すこれからの世界』河出新書
ジョージナ・クリーグ『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』中山ゆかり訳 フィルムアート社
福澤諭吉『復刻 中津留別之書』福澤旧邸保存会、

以上三冊をほぼ読み終えた10日後に「データは顕かに改善」「生活態度は模範囚候補」ということで退院の運びとなりました。執行猶予無期限の仮釈放であると思っております。

1月11日は実母の誕生日でもありました。
秋に脳疾患に続く認知症が急速に進み隔離してもらったとの連絡がありましたが、すべて妹一家からの間接話法であり感染地域の大阪からは訪問も叶わないままであります。
毎月の拙文にこまめに返事をくれていたのが、夏頃から便箋の枚数が少なくなり、心なしか筆跡も薄くなっていました。そのことに特別な注意を払わなかったことに今になって臍を噛んでいます。こればかりは潔くとは参りません。

                          (了)