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2022年6月18日

多余的話(2022年6月) 『シニアカレッジ』

井上 邦久

 「改革・開放」政策とペレストロイカについて初歩的に考えてみた。
共通点:経済停滞への危機感から、立て直しをしようとする試みである。ペレは英語でreの意味、ストロイカはconstructionと英訳されていたと記憶している。      
相違点:①情報公開(グラスノスチ)の有無、
    ②革命から立て直しまでの時間
③香港や台湾そして華僑の存在がソ連にはなかった

政治改革と対内開放から距離を置いていることについて、何度も触れてきたので重複を控えるが「経済改革・対外開放」を「改革開放」と単純省略し、OPEN POLICYと喧伝してきたメディアの責任は重いと思う。その点で中国に情報公開(グラスノスチ)がないことに繋がる。
次に帝政ロシアがソビエト社会主義共和国連邦 となった 1922年12月30日 から 1991年12月26日のソ連崩壊まで69年。一方の中国は立て直しまで約30年である。
この時間差は「経済」体験のある旧世代が残っていたかどうかの違いに影響しないだろうか。
また他方では、漢民族が「経済」を本土から離れた場所で温存培養していたことにも連動する。
一朝、本土から「経済」をやるよと声を上げると、先ずは香港から、続いてシンガポールや日本、そして恐る恐る台湾からも「経済」専門家がやってきて、「友好」と「利益追求」の両輪で大活躍をしたことはご存知の通り。
色々な摩擦や試行錯誤を繰返し、「全球的経済」の素地が生まれて21世紀を迎えたと思う。

『現代中国の経済と社会』竇少杰・横井和彦(編著)。中央経済社2022年3月30日出版。旧知の竇先生に読後の感想を伝え、質問をさせて貰う機会を得た。
竇先生は、2001年9月11日「同時多発テロ事件」と、2001年12月11日 中国のWTOへの正式加盟、この出来事を世界秩序の形成の節目と捉え、以後20年の「現代中国」を描くことを執筆目的とされた。
従来はアヘン戦争(1842)や中華人民共和国成立(1949)から歴史や党史を説き起こすことが定番であり、21世紀以降に焦点を絞った研究は少ないことを意識した由。また清朝から現代までの時間軸と所得格差に関するイメージ図に修正や見解を示してもらった。
執筆後に勃発した戦争や上海ロックダウンが、世界秩序の形成の節目であることについて、次回あらためてお訊ねしたい。

サッポロビール茨木工場の跡地に建てられた大学キャンパス内のレストラン『ライオン』で会食しながら竇先生とお話をした。
第一次世界大戦までドイツの支配下にあり、その後に日本の軍政下にあった山東省青島郊外出身の竇先生もビール工場のDNAを感じたかも知れない。
次回はJR線路を挟んだ『哈爾浜』(ハルピン)で本場仕込みの水餃子を食べましょう、と約束をした。

山東人の粉物好きについては、若い頃に広州交易会で長丁場の仕事をした時、華南の長粒米に飽きていた青島の貿易公司の友人たちに大きな饅頭を振る舞ったところ、まさに「泣いて喜んで」くれた体験に基づくものであり、青島に駐在した時も青島麦酒と饅頭・水餃子・麺類など麦に頼った生活だった。

茨木市のシニアカレッジ「激動の現代社会を学ぶコース」で、『最近の中国・香港・台湾事情』というトテツモナイ題目を受持っている。
激動は毎年のことであり、最近の状況が急変することも多いので準備がなかなか難しく、できるだけ質疑応答の時間を長めにとって補足に努めている。
訪日客数の総人口に占める比率(2019年まで香港が断然トップ)、上海ロックダウン下での「白衛兵」の活躍、ウズベキスタン綿花に強制労働はないと認定されて5月に使用解禁されるまでの流れ、上海復旦大学から西北(Northwestern)大学研究職となったMs.銭楠筠(Nancy Qian)の意見と画像、福建省厦門市と台湾小金門島の間が6㎞であることを示す地図を織り交ぜた「かやくごはん」を2時間かけて炊き上げた。
散漫なメニューであり、なじみのない具材も多いため、どの程度伝わったか覚束ない出来栄えだった。
お世話になった事務局の皆さんとの「反省会」では「もっと肩肘を張らない話にしてくれたら」など色々と有りがたい意見を頂戴した。そして折に触れて思い出す「衆口難調※」を反芻した。
※「全ての口に合う味は出せない」と訳される。
日中合作ドラマの『蒼穹の昴』(西太后=田中裕子主演)の製作過程で、王監督は日本と中国の板挟みとなり、苦心した末に「衆口難調」の言葉に思い至り気が楽になったと語ったという。

冒頭の竇先生の著書に見つけた「造船不如買船、買船不如租船」という劉少奇の言葉を、「船を造るより船を買うほうが手っ取り早い、船を買うより船をリースするのが賢い」と解釈した。そして一時的な経済合理性は理解するが、長期的な創造性の後退に繋がらないかと考えた。
南の海を航行している空母「遼寧」は、ソ連の設計によりウクライナで製造中に中国が買ったと聞いている。その母港は青島である。(了)  

2022年6月4日

『老子』を読む(六)

井嶋 悠

第21

 孔徳の容は、惟(た)だ道に是れ従う。道の物たる、惟(こ)れ恍惟れ惚たり、……其の中に精有り、その精甚だ真、其の中に信有り。

◇10代で、教科試験等の解答が複数あると言われると大概は不安で、「試験ではどう書けば良いのか」と詰問し、「どちらでも良い」とでも応えようものなら、相当信頼を失う。何となれば、それで“客観的”評価が可能なのか、となるからである。国語ともなれば尚更で、そこで教師はそのような問題は出さない。仮に無理して出すとしても授業を基に出すが、優れた生徒はそこを突いて来る。
で、両方正解とする。広い?視野で言えば、試験とはその程度のものなのかもしれないが、生徒は真剣である。進路に係るのだから。記号式の問題が、一見客観的に見えるのは、それがあるからだろう。その微妙さの最たるものが「解釈」や「小論文」問題である。生徒は教師が予想した解答を遥かに越えて、あれこれ細かく書く者も多い。四苦八苦した印象批評で、細かく減点して評価する教師は多い。反応を予測し、質問にできるだけ客観的に応える準備をしておかなくては墓穴を掘る。
ただ、多くの生徒は諦めか従順なのか怖いのか…まず聞いてこない。聞いて来るのは相当優秀な生徒か、1点2点に過敏な生徒である。
言葉という客観を介しての、阿吽の情、行間の情。いずれも理知で裏付けされた感性である。国語のおもしろさに行くまでには、相当の人生経験が必要なのかもしれない。

第22

 企(つまだ)つ者は立たず。跨ぐ者は行かず。自ら見(あら)わす者は明らかならず。自らを是(ぜ・よし)とする者は顕われず。自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。

◇学校世界は閉鎖的で権威的とはかねがね言われてはいるが、教師(多くは高校大学に多いように思うのだが)

で、ひどく勘違いしている人たちに会って来た。但し、これはあくまでも自照自省に立ってのことである。その人たちは、どれほどに私を、人を不愉快にさせたことだろう。しかし老子の教えと無縁な人は、その自己顕示に惑わされ、酔い、ひとときは世間から英雄的に扱われる事例は多い。
と、書くこと自体己が小人性を露呈しているのだが。それでも今もって許せない人はいる。
ところで、幻惑され、陶酔に浸る人が、女性に多いように思うのだが、これはやはり差別の発想だろうか。

↕ ↕第23

 曲なれば則ち全し[曲全の道]、枉(ま)がれば則ち直し、窪めば則ち満つ。破るれば則ち新たなり。少なければ則ち得られ、多ければ則ち惑う。

◇教師は謙虚であることに常に細心の注意が必要である。それでなくとも、「子どもは人質」「教師は教室で殿様・独裁者」と揶揄される教育の世界なのだから。ただ、その謙虚であること=東洋的ではなく、あくまでも日本的ではないかと思う。しかしその考え方は、消極的と負的に言われる時代。時代の変容?それにして声を大にした言葉が多過ぎやしないか。都会の喧騒、孤独。

第24

 希言は自然なり。[無言の言・不言の言]。無為の益。信(誠実)足らざれば、乃ち信ぜられざること有り。

◇「教育」への愛、情熱を持つ人こそ、教師の教師たる根拠であろう。しかし、過ぎたるは及ばざるがごとし、脚下照顧ない教師も多い。どこまでも「センセイ」なのである。生徒を前に延々と喋るのである。饒舌(字的には冗舌の方)。多言。要はおしゃべり。そんな教師を多く見て来た。生徒も生徒、馬耳東風を決め込む“賢い”生徒。苛立ちを具体的行動で現わさざるを得なくなった生徒。
学校世界独特な大人と子どものタテ社会。パワハラが多くで告発されているが、学校社会で聞くのは教師世界でのそれだけのように思える。
寡黙の重み、威風感。ヒトがヒトの中味を知る手立ては、生徒―教師でも同様。先ず直覚そして言葉。

第25

 物有り混成し、天地に先んじて生ず。…天下の母と為すべし。吾れ其の名を知らず、これに字して道と曰う。……人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る[模範とする]。

《中国:木・火・土・金・水〈五行思想〉》

◇日本の教育は、何故をもって日本の、或いはその背景に脈打つ東洋の、中国の古代思想を再考しないのだろうか。英語は戦後国際語の地位を確立しているからやむを得ないとしても、儒教や道教の考え方、感じ方が日常に溢れているにもかかわらず、欧米の教育思想が尊重されている。
その眼で、教育(学校)と自然、子どもの人間形成について考えを及ぼすことこそ現代の課題ではないか。
私自身、インターナショナル・スクールとの協働校でIB(国際バカロレア)なるものを知り、その一端を担い[日本語]眼が開けたが、10年前(2000年)に導入された「横断的総合的学習」の理念と、相通ずることではないか、と思った一人である。しかし、その後「横断的総合的学習」は基礎学力の低下を招いていると批判され、今では見るも無残に無くなっている。そもそも小中高での基礎学力自体曖昧なことで、なぜ導入時にそれを検討しなかったのか、無責任を承知で思う。
このような西洋偏重のその場しのぎの対症療法で、国際社会で日本が生きる道を見出すことはあり得ないのではないか。江戸時代の人の「読み書きそろばん」「お天道さま」との言葉が過ぎる。

2022年6月2日

多余的話(2022年5月)  『大阪画壇』

井上 邦久

 行動自粛が続いた春に京都国立近代美術館で大阪画壇に光を当てた展示会が開催されました。いまどき珍しい控えめの料金にもかかわらず、三密もなく入場制限や感染対策も不要で、ゆっくりとした時間を過ごせました。

狩野派が牛耳る江戸画壇や円山応挙が核を作った京都画壇はよく知られています。他方、大坂(阪)に画壇があったのか?という素朴な疑問さえ聞かれ、知名度も低く影も薄い。フェノロサや岡倉天心から評価されず、教科書に載せて貰えないせいなのか「知られざる」とか「不遇の」大阪画壇という寂しい扱いが続いています。そもそも大阪画壇の展示会を京都で開催することも妙な話ですが、大阪で開催するともっと人が入らないのでしょうか。
過剰な期待が外れると逆恨みしがちですが、その反対のケースもたまにはあるようで、今回の展示は愉しかったです。

長崎に渡来した沈南蘋に学んだ熊斐、そして鶴亭の花鳥画の系譜。大坂堀江の木村蒹葭堂のサロンに集った面々の墨跡。「大大阪」の頃の女性画家リーダーの北野恒富や、近代建築が増殖した中之島から川口居留地跡に縁の深い小出楢重の作品もオマケで並んでいました。
しかし、このような素人の不親切な説明では「知られざる」大坂画壇は「不遇」のままになりそうなので専門家の文章に助けてもらうことにします。

・・・鶴亭は長崎聖福寺の黄檗僧で、清の画家の沈南蘋に師事した熊斐に南蘋風花鳥図を学んだ。還俗して京都、大坂に進出。文人画家と交わった。四十代半ばで黄檗山萬福寺に戻り塔頭紫雲院の住持を勤めた。1785年に江戸下谷池之端にて64歳で亡くなった・・・。(神戸市立博物館 2016年4~5月『我が名は鶴亭 若冲や大雅も憧れた花鳥画⁉』展の図録より抜粋)

木村蒹葭堂旧居跡の石碑と案内板が大阪市西区北堀江の大阪市立中央図書館(今は辰巳商会中央図書館とネーミング。大阪市史編纂室所在)の角にあります。実業家・画家・コレクター、更に文人墨客のサロンの中心として著名。古今東西の博物収集は若冲の『動植綵絵』製作のインスピレーションに繋ったと聴いたことがあります。

数日後、親戚の墓や自分用更地を借りている京都深草の石峰寺へ参りました。春秋の寺蔵品展示会も感染対策の自粛が続いていて、特に今年は本山の黄檗宗祖隠元禅師350年大遠忌法要もネット配信で厳修される程の厳しさの中なので、石峰寺でも伊藤若冲顕彰会員のみが出入りを許される短期間の内覧会でした。
今回はいつもの若冲作品ではなく、鶴亭の屏風絵や「鶴図」を中心とした展示でした。実に安全で静寂な寺の美空間を独占したあと、しばし住職とご母堂から鶴亭についてのご教示をいただきました。

5月は大坂/大阪について、WAA例会でオンライン報告をさせていただく機会があり準備に集中しました。以前に集めた地図や歩き直して撮った画像を盛り込んで『大阪歴史散歩「かやくごはん・てんこもり」』というお気楽なタイトルを付けました。色々な加薬(かやく/具材)を炊き込んだ安あがりの夕食のような内容でした。その一端を以下記します。

道修町から北浜、中之島を歩き、淀屋橋から88番のバスで川口へ。
水にちなむ地名が多く、国貞らによる浮世絵『大坂百景』には多くの水辺の景色が描かれています。そんな「水都」と呼ばれる土地に漢方薬由来の薬業や大和川の流れを付け替えたあとの河内木綿を背景にした綿業が発達し、全国の米・俵物(中国向け海産物)交換市場を持つ「天下の台所」と称された「商都」でもありました。
明治維新直後の停滞期をしのいで二十世紀に入ると、東洋のマンチェスターと呼ばれた「煙都・大大阪」の後背地が育ち、念願の築港が完成。東北アジア航路の拡充と北幇(山東煙台中心とした川口華商)の活躍を基軸とした大陸貿易も急成長しました。
また、東洋一のアーセナルの大阪砲兵工廠を核に膨張した「軍都」の側面がありました。

戦争末期、この「軍都」を標的とした大空襲により、人家も生産拠点も貿易拠点もほぼ壊滅しました。そこに至る77年間を中心に報告しました。

この報告の資料作りの過程で、外から大阪にやってきた人がリーダーシップを取る事例が多いのではないか?という素朴な印象が生まれました。
豊臣秀吉(尾張)、五代友厚(薩摩)、小林一三(山梨)、松下幸之助(和歌山)、横山ノック(北海道)らは保守的な同調圧力から自由であり、斬新なデザインができたような気がします。しかし一方では、大阪商工会議所の創始者の五代友厚、後継の藤田傳三郎(長州)を「都市制圧者・進駐軍」と見なし、近世の高い水準にあった大阪文化を理解しえなかったとする異見も知りました(『大阪の曲がり角』木津川計)。
大阪画壇を商家の床の間に押し込めた一因もこの辺りにあるのかも知れないと愚考しています。

折しも、この春に藤田美術館が改装され「傳 傳三郎好み」とされる逸品が、照明を落とした人工空間に配置されています。暗闇でしか見えないものを訪ねるのも一興ですが、改装前の公民館風の佇まいにも味わいがありました。
新装開館の賑わいとは反対に姿を消していく建築物もあります。堂島大橋北詰の莫大小会館の斬新なモダン設計がお気に入りでした。昨今はギャラリーやオフィス、そしてカフェが雑居していましたが川口貿易が華やかな頃には、メリヤス売込商の拠点として、華商との往来が至便の場所でなかったかと睨んでいます。
大阪商人を鍛えたのは、北からやってきた華商集団だったとの説を思い起こすと、丁々発止のやり取りの声が聞こえてくるような場所でした。老朽化と非耐震構造を理由に7月で閉館、大大阪の残り香をかぐ機会もあとわずかとなりました。

仕込みが不十分な生煮えの「かやくごはん」的報告となりましたが、関東や海外のみなさんにステレオタイプでない大坂/大阪の一面を伝えることに努めました。
菊田一夫の造語「ガメツイ奴」、今東光が創作した「河内悪名」、そしてヨシモト的なアクの強さだけが大阪ではないと、少しでも報告できたとすれば幸いだと思っています。