ブログ

2022年12月3日

『多余的話』2022年11月

         『雪花菜』

井上 邦久

 

木枯らし一号が吹き、そろそろ年末年始用の本を図書館や書店で物色する季節になった。にわかに気合いが入るこの時期には心弾むけれど、ツンドクのまま年越しさせて、
スゴスゴと図書館に返却する轍を繰り返してきた。ただ今年は先ず『雍正帝』(中公文庫)を買い、珍しく年末までに読み終わりそうな勢いがついてきた。

 党大会直後の10月23日に、常務委員会(CHINA7)メンバーが決まってから「軍機処」という言葉が流行語になっているとのこと。
その「軍機処」を初めて設けたのが、清王朝5代目の雍正帝ということで好奇心が湧いた。

 最近一部開通したばかりの長崎新幹線から乗り継いで新大阪まで、山口県区間の睡眠以外は畏れ多くも雍正帝が旅の友になってくれた。

 長崎では「第14回外国人居留地研究会2022全国大会」の末席を汚した。安政開港以来の函館・新潟・東京築地・横浜・大阪・神戸そして長崎の「開港7」の参加者が報告をした。

「稽古不足を幕は待たない」初舞台は不本意な結果であり、忸怩たる思いをした。 敗残の一兵卒が行った報告(「大阪と中国人」)の抜粋[以下]を添付し、各位のご叱正をいただき、反省を深めたい。

江戸期大坂の玄関口は淀川水系下流の安治川と木津川の三角州の川口だった。1620年、船手奉行所が設置され諸藩の船や朝鮮・琉球の使節も川口を通った。
1868
年、開市・開港に合わせ船番所跡に造成した居留地26区画が競売された。居留地対岸の江之子島に大阪府庁も新築され、川口は大阪の政治・貿易の牽引役を期待された。
居留地は大坂における西洋文化の発信地となる。

長崎、香港・上海などから渡来した中国人は居留地周辺の雑居地に住んだ。

開港から10年足らずで川口の港湾機能の劣化により外洋船の来航が途絶えた。大阪経済の退潮と相俟って、欧米商人や中国人が神戸へ移動した。
居留地には、キリスト教宣教師が到来して教会・学校・病院・福祉施設を建て、後の桃山学院・立教・プール学院・大阪女学院等の教育機関の礎となった。

雑居地には、華南からの中国人の移住が続き、呉服行商や三把刀(料理・散髪・縫製)系の職業に従事した。(キリスト教の布教活動と中国人の関係は不詳。)

20世紀の初頭、築港大桟橋の竣工と大阪起点の北アジア航路の就航があり、後背地の大阪では軽工業(綿糸綿布・人絹・雑貨)の伸張があった。
それ以降、山東半島の芝罘(チーフ―)(煙台)・牟(ムー)平(ピン)養(ヤン)馬(マー)島などから大阪への短期単身駐在員が増加、多くは選抜された貿易商の子弟や社員であり、本社からの指示に基づいた買付け業務を担い
大阪地場の売込み商人との交流を深めて市場情報を得た。

川口には山東出身者が経営する「行桟」が発達した。「行桟」では宿泊・事務所機能に加えて、通訳・物流などの貿易機能をマンツーマンで提供した。
部屋数と従業員数と駐在員数が概ね同数であることが特徴的である。山東系出身者を中心とする「北幇公所」に結集した川口華商は山東・天津・「満洲」と「大大阪」を繋ぎ、
川口貿易は日本の大陸貿易の過半を占めていった。その頃、川口華商は信用重視・市場掌握・経費圧縮と同郷同業者の結束により、「大阪商人を鍛えた」とも言われる。
また川口は大阪の中の中国として親しまれ、「中華料理と散髪は川口にかぎる」という言葉が残った。北幇公所が運営する振華小学校には函館の福建人子弟が就学していた記録もある。

1931年の事変下も川口華商は善戦したが、日貨排斥運動、円ブロック政策による輸出規制、本町あたりの大手商社による直接貿易の増加の為勢いを失った。
戦争激化により貿易取引は細り、駐在員は帰国した。

19453月からの大阪大空襲や大阪港の機雷封鎖により、貿易は消滅した。振華小学校の教員生徒の多くが帰国し、3月の空襲により校舎も焼失した。

戦争により「大大阪」と「中国市場」を無くした川口貿易の復活はなかった。帰国した華商は戦後も大阪に戻らず、中国貿易は1972年の国交正常化まで制約の多い状態が続いた。
当然ながら「行桟」は消滅し、川口の中華料理店や理髪店は各地に分散していった。(後略)

以上の内容は平板な情報の繰返しであり、語りも不首尾だった。

長崎カステラの切れ端が安くて美味しいと教えてもらっていたが、長崎駅の土産物モールでは立派なA級品しか置いて居らず、B級おつとめ品は本店のみの販売とのことだった。
切れ端が安いのは本体がしっかり利益を上げているからであり、美味しく感じるのは安価なせいもあるだろう。
翻って切れ端素材だけを繋ぎ合わせた報告や文章は、所詮B級品格になるのだと自覚した。

在来線でリアス式海岸を走る眺めと揺れを愉しんだ記憶を再体験することは新幹線では難しかった。時間を短縮する目的で、景観と情緒を台無しにしてきた事例を長崎本線でも再体験することになった。

2010年代初めに浙江省から福建省にかけて、新幹線が建設された時代も思い出した。開業直後に発生した事故の原因は「豆腐渣工法」と呼ばれる手抜き工事だった。
コンクリート支柱の中身がスカスカの「おから(雪花菜)工法」と訳していた。カステラの切れ端同様に「おから」も低コストではあるが、
手抜きをすれば必ずしっぺ返しを喰うことを思い出した。しかし、長崎で自戒した舌の根も乾かぬ内に今月の「多余的話」でまた「豆腐渣・おから・雪花菜」工法をくりかえしている。                                                                                      [了]

2022年12月3日

『老子』を読む [十三]

井嶋 悠

第51

 道、これを生じ、徳、これを畜(やしな)い、物、これを形づくり、器、これを成す。生ずるも而も有とせず、為すも而も恃まず、長たるも而も宰たらず。是を玄得と謂う。

◇私学の教育理念は「道」である。公立は国に仕える、とすれば「国」=「道」とならざるを得ない。怖ろしいことになる一面については歴史が証している。とは言え私学も同様な部分はある。理念の形骸化、例えば宗教上の主義はお題目となる。その宗教を伝えるのが人であり、言葉であることで壁にぶつかる。しかし、そこに音楽が加わることで生徒・人々の心に深く沁み入る。音楽の持つ神的力。音楽に形はない。そして音楽は恃まない。ぼんやりとした無限、夢幻の世界。道。

第52

 天下に始め有り、以って天下の母と為すべし。既にその母[道]を得て、以って其の子[万物]を知る。…其の穴[耳や目や口の感覚器官。欲望の入り口]を開き、其の事を済せば、終身救われず。小を見るは明と曰(い)い、柔を守るを強と曰う。其の光[知恵の光]を用いて、其の明[母としての明智]に復帰すれば、身の殃(わざわい)を遺す無し。

◇母、道を具体的に伝えるのは教師である。その教師に求められる信念と徳。言葉だけの上っ面の信念、似非徳は、10代の感性は直観的に分別する。管理職と現場の調和と乖離がもたらす不信。

私学より公立の方が、ますますもって微妙で、複雑ではないか。

第53

 我れをして介然[微細]として知有らしめば、大道を行くに、唯だ施(ななめ)なる[脇道](小賢しい知恵)を是れ畏れん。大道は甚だ夷(たい)[平]らかなるも、而も民は径(こみち)を好む。

◇学校教育も然り。大道を行くしか正道はない。では、大道とは何か。明瞭な答えを最善とし、蒙昧な中に答えを求めようとする姿勢ではないか。しかし、時は古来同じに刻まれているにもかかわらず、余りに速過ぎる。あたかも高速回転の作業場での日払いの労働のようである。大義がない。またしても宗教が脳裏をかすめる。

第54

 善く建てたるは抜けず、善く抱けるは脱せず。子孫は以って祭祀して止まず。[絶えることはない]

◇地盤や背景をも考えず、或る観念のおもむくままに時代潮流に乗っただけの学校は、結局は滅びるであろう。
新しい学校、新しい教育には洞見が求められる。

第55

 含徳の厚きは、赤子(せきし)に比す。・・・・・・未だ牝牡の合を知らずして而も全の作(た)つは、精の至りなり。終日号(さけ)びて而も嗄(か)れざるは、和の至りなり。和を知るを常[常道]と曰い、常を知るを明と曰う。生を益(ま)すを祥[吉祥の前兆→不吉]と曰い、心気を使う[煽り立てる]を強[無理強い]と曰う。

◇学校説明会でいきり立って学校を自讃する校長は多い。内部の者でさえ不安になったり、自責の念に駆られることさえある。言葉の怖ろしさ。「嬰児への復帰」。無心と調和。言葉と沈黙への意識。初等教育、中等教育の重さに思い到る。【66制+2年】の正当性を再自覚する。