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2023年4月15日

『老子』を読む[十六]

井嶋 悠

第61

 大国は下流なり。天下の交[帰会する所]、天下の牝[女性的柔弱]なり。牝は常に静を以って牡に勝つ。静を以って下ることを為すなり。[謙下の徳]

各々[大国・小国]其の欲する所を得んとせば、大なる者宜しく下ることを為すべし。

◇学校は女性原理である。子どもたちを受け容れる場所である。しかし時に、男性原理[断ち切る]を求める。そこの調和が生まれる。確かな男女協働社会が成立している学校は、穏やかで動的である。

第62

 道なる者は万物の奥なり。善人の宝なり。不善人の保(やす)んずる所なり。・・・・・人の不善なるも、何の棄つることかこれ有らん。

◇学校に見捨てられた者は、行く・生く処も行く・生く術も失う。教師はそれをどれほどまでに自覚しているだろうか。生徒時代に優秀な者が教師になる時、人一倍その自覚が求められる。

第63

 無為を為し、無事を事とし、無味を味わう。

 小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳を以ってす。

 難きを其の易きに図り、大を其の細(小)に為す。天下の難事は必ず易きより起こり、天下の大事は必ず細より起こる。

◇新しく学校としての目標を立てたならば、どんな些細なことでも明日送りにせず、一つ一つ解決し明日を迎えなければ、必ずや後悔が襲いかかって来る。

第64

 合抱(ごうほう)の木[大樹]も毫末[微少]より生じ、九層の台も累土(るいど)[積み上げる土]より起こり、千里の行も足下より始まる。為す者はこれを敗(やぶ)り、執(と)る者はこれを失う。是を以って聖人は為すこと無し、故に敗ることも無し。執ること無し、故に失うことも無し。

◇何事も初めが肝心。学校も然り。私が最初に勤めた学校では、創設時(明治時代)の理念からの乖離が著しくなり再建に悪戦苦闘している。二つ目の学校は、理念が美辞麗句となり、今では塾と変わりない。三つ目の学校は、理想が高く非現実的な様相を帯び、感傷的愛情の教育論が横溢しつつある。

第65

 古の善く為す者は、以って民を明らかにするに非ず、将に以ってこれを愚かにせんとす。民の治め難きは、其の智の多きを以ってなり。故に智を以って国を治むるは、国の賊。
愚民政策と智の内容。小賢しい智の排斥。

◇学校の役目の一つは智を授けることである。智の下地には知識が必要だが、知識過多が智慧に達することはないのではないか。博覧強記が智慧ある有徳の人とは限らない。そこに各教科の基礎基本があるのだろうが、少なくとも国語科に於いてその明確なものに触れたことはない。その延長上に入学試験不要論があるのかもしれない。

2023年4月14日

多余的話(2023年4月)  『春が来た』

井上 邦久

4月3日が月曜日で新年度の行事の多くが始まった。久しぶりに対面や発声がリアルに行われた。
日経の「春秋」では、新社会人へのメッセージとして映画『生きる』の黒澤作品とカズオ・イシグロ脚本の「古風な新作」英国作品を取り上げていた。
ひと昔前の新社会人へのメッセージは、山口瞳や伊集院静が先達として、自己流作法や流儀、酒飲みの自己弁護を語ることが多かった。今時のコラムでは、英国版『生きる・LIVING』から・・・他人の称賛や感謝を求めず、自分がなすべきことをせよ・・・主人公が新入課員に、この先仕事への情熱を失いかけたらこの公園作りを思い出せ、と綴る言葉を抽出していた。
容易なことではないが大切な第一歩への明示だと思う。

1924年台湾彰化の生まれの朱實老師の最晩年も容易ではなかったことを息子の朱海慶さんとの電話で教えて貰った。ゼロコロナ解禁直後の上海で三回もの感染症と闘い、東京から香港経由でようやく上海の枕頭に間に合った息子さんと最期の交流ができたことを知り、胸と言葉が詰まった。
朱實(俳名:瞿麦)老師の人物スケッチは司馬遼太郎『街道をゆく・閔のみち』、姿は山田洋二監督『男はつらいよ』の「チョイ役(ご本人の日本語)」で知れる。お別れの会は誕生日の9月30日(1949年台湾から天津への上陸記念日)に上海にて。

もう一人の恩師である山東人の高維先先生のお別れ会には、ボストンで心身のリハビリ中だったため参列できず悔恨の思いを残した。この春、ご令室の蘭子様の通夜とお別れ会で二人分の追悼をさせて頂いた。
1927年生まれの会津人の蘭子様とは東奥日報の友人による奈良ホテルでの取材に陪席して再会できた。学生時代にご自宅で接した明朗闊達さに磨きがかかり、短歌会を継承主宰されていた。編集発行を担われた歌誌『山の辺』は600号を超えると知り、中国の格言の通り「活到老、学到老(いつまでも元気に学ぶ)」を実感した。快晴の大和路、満開の桜の下で、老師のもとへ旅立つ蘭子夫人のお見送りができた。

朱實老師より一日遅れの1924年10月1日生まれのジミー・カーター元大統領が率いるNGOカーターセンターは、2月18日「病院での追加治療ではなく、終末期を家族と共に自宅で過ごし、ホスピスケアを受ける」との声明を発表した。
「ジミー、WHO?」と揶揄され、泡沫候補と目された大統領選に勝ったのち、評価の低いまま退任。しかし真骨頂は「元」大統領になってからの活動だった。その卑近な例の一つを万国戦争受難者慰霊塔に見る。カーターと笹川良一の連名で、平和祈願の目的とするとある。茨木市の拙宅から10分ほど歩くと丘の上に異様なモニュメントが突然現れる。形状だけでなく、この二人の組み合わせも尋常ではないなあと散歩のたびに感じる。

たまたま今週の日経「私の履歴書」に、ジョージア州知事以来のYKK社のカーター氏との交流が明るい筆致で肯定的に書かれていた。

同世代の朱實老師、高蘭子さん、カーター元大統領に通じるのは、その明るさ、陽気暮らしだろうか?三人は笑顔しか思い浮かばない。  


最後に内輪話で恐縮ながら、この春は三方と同世代である実父の33回忌であった。彼岸の時期が命日なのでお寺も賑やかである。

ハードシップ手当対象だった青島駐在事務所で訃報を受け取り、14時間の車中泊をして北京へ。友人宅に泊めてもらい、翌日午後の便で伊丹空港に夕方到着した。空港では中国室長に出迎えて頂いた。

二泊三日のセンチメンタルジャーニーは実に長かった。

京都石峰寺での法要のあと、甲子園球場へ移動してセンバツ高校野球を観戦、そして翌日は新歌舞伎座での舟木一夫コンサート。いずれも三年ぶりで春の恒例行事が戻って来たことを実感した。
選挙カーとともに桜前線も通過して、一青窈のハナミズキの季節が来た。