ブログ

2022年10月24日

『老子』を読む 十二

井嶋 悠

第46

 罪は欲すべき[欲望]より大なるは莫(な)く、禍(わざわ)いは足る[満足]を知らざるより大は莫く、咎[罪過]は得る[貪る]を欲するよりいたましきは莫し。故に足るを知るの足るは、常に足る。

◇学校教育における「常に足る」という状態は、どんなことを指すのだろうか。公立、私立の別、また公立校の伝統の多少、私立校のとりわけ宗教系学校が掲げる理念。そこからどういう姿が抽出できるのだろうか。例えば、生徒が一人一人人生の重荷を抱え込み始めても、日々に充足な学校時間を体感し、校門を出る……。中等教育の、初等教育や高等教育にない困難さに思い到る。

第47

 聖人は、行かずして知り、見ずして明らかにし、為さずして成す。

 「脚下照顧」己が内を視よ。
 「見性成仏」己を知ることが仏を知る。
 「春は枝頭にありてすでに十分」

◇今日、学校教育で頻りに掲げられる「国際」。考え、経験し、知れば知るほど曖昧模糊、実態が見えなくなる国際。名目だけに堕してしまう形式化。英語教育の充実、国際交流の取り組み、海外子女の受け入れ校としての帰国子女教育等々。一期一会の生徒と日常化が形骸化に堕してしまう学校[教師]の現実。日毎に問われる学校力のための教師の一体化。
権力者は不安感、危機感を持つ時、民衆(生徒)の眼を外に向けさせる。ここに異文化はない。

第48

学を為せば日々に益(ま)し、道を為せば日々に損ず[減らす・減る]。これを損じて又た損じ、以って無為に至る。無為にして為さざるは無し。

◇伝統を持つ学校は、泰然と構える。伝統の重み。その伝統校も初めがあった。歴史の時間を積み重ねることで成就される伝統。あれもこれもの忙しさの危険。一心不乱の日常化の難しさ。

第49

 聖人は常に心無く、百姓の心を以って心と為す。[善不善すべて善とし善を得、信不信すべて信とし信を得る。]百姓は皆其の耳目を注ぐとも、聖人は皆これを閉ざす。「無知無欲」

◇優れた教師は己が価値観を生徒に押しつけない。生徒のすべての心を得ようとする。それを為し得るのは、己を無知とすることにある。しかし、生徒たちはそこに物足りなさを思う。そのためにも優れた人物は、日々刻々無知無欲を積み重ねなくてはならない。至難である。大人の世界でこそ通ずることなのかもしれない。それでも、私学の宗教系学校でその宗旨も知らずに入学して来る親子もあるのが現実である。

第50

 生に出でて死に入る。生の徒[柔弱]は十に三有り、死の徒[剛強]も十に三有り。人の生、動いて死地に之(ゆ)くも、亦た十に三有り。其れ何の故ぞ。其の生を生とすることの厚きを以ってなり。
(猛獣から攻撃されない・甲兵とならない)其の死地無きを以ってなり。[生命に執着するという死の条件がない]

◇学校は母性の世界である。しかし、一方で父性を求める。その調和が理想の学校へと導く。老子は「無」を言う。無は母性父性すべてを呑み込んだ世界である。カソリック系のとりわけ女子生徒に、在学中の受洗者が多いのもそれがゆえかもしれない。

2022年10月1日

『老子』を読む(十)

井嶋 悠

第41

 反(かえ)る者は道の動なり。弱き者は道の用なり。天下の万物は有より生じ、有は無より生ず。

◇学校では、休憩の時空が必要だ。階段を昇り、踊り場で休み、四方を展望し己れを見つめ、来た道を顧みる。直線階段は集中トレーニングの一時的なもの、螺旋階段の持つ意味が問われる。しかし、多くの学校は、学び、学び、学びの直線指向で、長期休暇もあれもこれもの学習。学校嫌いが増えて然るべきだろう。そして、教師も疲れている。学校の教師と塾の教師は別の人で、生徒は常に同一人物と言う恐るべき現実、事実。ハンドルに“遊び”がないと事故になる。昔の人は余裕があった。曰く「よく学べ、よく遊べ」

第42

 万物は陰を負いて陽を抱き、沖(ちゅう)気(き)(和気)以って和を為す。
 強梁者は其の死を得ず。

陰陽:天地 「陰」:
「陰」女・静・柔・内・月・夜
「陽」:男・動・剛・外・太陽・昼

◇「学校」をイメージするとき、「陰」が色濃く映る。「教師」をイメージするとき、「陽」が色濃く映る。

{これは個人的なものなのだろうか。

母のように優しく静かに内に抱き込む学校。それに気づかせられる夜。走り抜ける動的で剛毅朴訥な姿。小学生は言う。「ちょっとでも学校へ行きたい。」中学生は言う「学校?」高校生は言う「ん!?」…?
学校は、教師は「母性」の世界だと思う。だから、男性教員の存在意義があり、学校は、男女参画協働社会の雛型だと思う。男子校であれ、女子校であれ。やはり学校は社会の素であると重ねて思う。教師の役割の大きさに気づかされる。

第43

 不言の教え、無為の益は、天下これに及ぶこと希なり。

◇学校教育の最終理想像として、「不言の教え、無為の益」は可能か。この矛盾の自己の内での葛藤、克服こそ学校教育の道標と言えるように思える。雄弁の極としての沈黙の力、活動の極としての不動の存在感。
そういう教師に出会ったことはほとんどない。

第44

 足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆(あや)うからず。以って長久なるべし。[知足の計・止足の計]名誉より己が身。国家より自己、外より内。

◇学校は集団を求め、塾は個人を求める。学校における個と集団はいつも難しい問題として現われる。その点、塾は明快に個人である。教えることでの合理性は塾にあるが、教育の本質としての人格の陶冶を思うとき、教育の本源を求める教師は、生徒が直感的に嗅ぎ分け、使い分けている。しかし、現役時代果たしてそれだけの心の幅が、あったかどうか、甚だ心もとない。個と教育から視た学校、塾、自己の確立があっての社会、脚下照顧があっての国際との考えで、逆ではない。
ただ、どこをもって「足る」のか。難しい。いろいろな場面で「足る」を言うことでの過度の問題。

第45章

 大成は欠くるが若(ごと)く、その用は弊(すた)れず。・・・・・大巧は拙きが若く、大弁は訥なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。静清[清澄]は天下の正なり。

◇教育は、日々刻々動の世界ではあるが、静の世界だと思う。それは儒教も同じではと思う。最悪の教師は、己が自身で「大成」「大巧」「大弁」を意識する人である。生徒の感性はそれを見事に見抜く。心一杯ではなく、どこかに隙間を持っている時の方が、授業は円滑にいく。「教室で斃れてこそ本望」と胸張る人は多いが、果たしてどうなのだろうか。

2022年8月2日

『老子』を読む(八)

井嶋 悠

第31

 夫れ兵は不祥の器、物或いはこれを悪(にく)む。…君子、居れば則ち左を貴び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。

 吉事は左を貴び、凶事は右を貴ぶ。…人を殺すことの衆(おお)きには、悲哀を以ってこれを泣き、戦い勝てば、葬礼

を以ってこれに処(お)る。

◇生徒にとって学校は戦いの場とも言える。何と戦うのか。学習?クラブ活動?人間関係?その結果さまざまな弊害も生まれる。それは思春期前期後期の非常に微妙な心の状態、身体変化の中高生ならではのところもある。
自身の中で「勝った」と確信した時、彼ら彼女らは葬礼への態度を持ち得るであろうか。それぞれの時に於いて一心に戦っている生徒ほど相手の心への慮りが増える生徒がいる。教師にそれだけの心を持ち得る者があろうか。
そうして考えてみると、「受験戦争」との言葉のあまりの巨きさに、改めて気づかされ、例えば高校野球の監督会議で頻りに不正行為[勝つためには手段を選ばず]への注意がなされることの寂しさに思い到る。

第32

 道は常に無名なり。樸は小なりと雖も、天下に能く臣とするもの無きなり。

 はじめて制して名有り。名亦た既に有れば、夫れ亦た将に止まることを知らんとす。止まることを知らば、殆(あや)

うからざる所以なり。

◇小学校一年生の初々しさは何物にも換え難い。あの眼の輝き。先生を絶対と視る透き通った心そのままの眼。樸。しかし、周りには別の樸がひしめき合い、我先にと競い合い、彼ら彼女らは優劣を知り始める。疲れて止ろうとすると大人たちはついつい叱咤激励する。彼ら彼女らに不安定な波が立ち始める。かなしいことだ。
小学校一年生の担任教師は、ベテラン教師でないと務まらない。区別、差別を存分に知った教師の吸引力。

しかし、今、保育所・幼稚園を経て、果たしてその像はどうなのだろうか。小学校高学年で既に学級崩壊が、始まっているというではないか。

なぜそのようなことになったのか、なるのか、大人達こそ立ち止まって熟考すべき時なのではないか。

第33

 人を知る者は智[知恵者・知者]なり。自ら知る者は明[明智・明察]なり。人に勝つ者は力有り。自ら勝つ

者は強し。足るを知る者は富む。強(努)めて行う者は志有り。

◇学校は、知恵者を育てるのではなく、明智な人物を意図的に育むのが本来ではないか。知識に溢れた人が優秀と言う学力観ではなく、学ぶこと一つ一つに自身を映し出すことで生じる学力。そのためには「静」の時間が、必要だ。忙しくすることを善しとする大人から距離を保つべきだ。わずかな時間で良い、じっと自身を視る。
そのことで他者との関係に平衡性が生まれる。例えばイジメは平衡性の意図的破壊であり、だから犯罪である。それを教師が生徒にすることさえある。子どもは誰を信じ、平衡感覚を培えば良いのか。

第34

 大道は汎として其れ左右すべし。万物はこれを恃(たの)みて生ずるも、而(しか)も辞[ことば]せず。…常に無欲なれば、

小と名づくべし。万物これに帰するも、而も主と為らざれば、大と名づくべし。…聖人の能く其の大を成すは、

其の終に自ら大と為らざるを以って、故に能く其の大を成す。

◇学校は静かに構え、生徒を受け容れなくてはならない。学校は器である。器が常に動けば不快な気分になる。

器を形成するのは、一人一人の教師、大人である。しかし言葉を弄ぶ教師が多過ぎる。先生って、そんなに偉いの?私は何度思ったことだろう。私はその教師だった。だから私は老子に魅かれる。

第35

 大象(たいしょう)を執れば、天下往く。安、平、大(泰)なり。

これ(道)を視るも見るに足らず、これを聴くも聞くに足らず、これを用いて尽くすべからず。

◇(学校)教育の主眼は、一人一人の人格形成にある、と言って否定する者はないと思うが、それが難しい。何

を以って、そのときどきの年齢に応じた人格陶冶の成果を表わし得るかが、具体的であるようで抽象的で分かり

にくい。そこに教科学習と言う具体性の必要性があるのだろう。そして私たちは「主要五教科」とか「芸能科」などと、老子が聞いたら卒倒するようなことを当然のごとく言い、している。

小学校中学校で、音楽・美術・体育・技術家庭・書道の充実を、自身の子ども体験からも、希望する大人は多い。私案の「中等教育と高等教育」の変革は、その点での、またいろいろな場面で使われる[総合]や[国際]との用語の再考になるのでは、独り自負している。

2022年7月2日

『老子』を読む(七)

井嶋 悠

第26

 重きは軽きの根たり、静かなるは躁(さわ)がしきの君たり。

 軽ければ則ち本を失い、躁がしければ則ち君を失う。

◇「先生」と呼称される職業は多い。教育者、宗教家、医師、弁護士、政治家……。いずれも弁が立つ。弁が立つのも善かれ悪しかれ、と大人同士の時間が限られている学校世界ではとりわけ思う。雄弁家を不得手とする子どもたち(中高生)は多いのではないか。ただ、女子と男子で傾向は違うように思えるので一概には言えないが。10代から視た父性と母性…。或いは思春期前後期と「先生」。

第27

 善く行くものは轍迹(てっせき)なし。

 聖人は、常に善く人を救う、故に人を棄つることなし。…是れを明(明智)に因ると謂う。故に善人は不善人

の師、不善人は善人の資なり。

◇良い学校、優れた教師が、これである。しかし、現実の多く(或いはほとんど)は、言葉[理念]で終始するか、進学実績を競う学校も多い。教師の個人性に委ねられている場合は多々ある。絶対評価との見地に立って、全員をAにする教師がいた。私には、生徒[人]に大小高低長短等区別がないことの前提は得心できるが、その教師の真意は未だに分からないままでいる。

第28

 雄を知りて、雌を守れば、天下の谿となる。天下の谿となれば嬰児に復帰す。

白[光明]を知りて、黒[暗黒]を守れば、天下の法[模範・徳]となる。天下の法となれば無極[茫漠・無限定の世界]に復帰す。

栄を知りて、辱を守れば、天下の谷となる。天下の谷となれば樸に復帰す。素朴

◇公立学校はもとより、私立学校も教師になるには、採用試験を受けなくてはならないのが今日である。(私など例外中の例外である。だから若い人には常に私の轍を踏まぬよう注意して来た。)その試験はなかなか難関でもある。とりわけ公立学校採用試験に合格するのは、希望者の中でも学力優秀者が多い。
先日、教員希望者が減少し、質の低下を招く旨の危機感を表わす報道があった。教育委員会か文科省の役職人の発言なのだろうが、相も変らぬ官僚性で馬鹿馬鹿しいそのままだ。量より質。デモシカ時代は疾うに終わった。
この質、公立での、多様な私立での「良質」は千差万別。例えば「天下り」教師を見れば明白だ。無風、温室育ち(世間知らず)の、時には情報(知識)お化けの若者が、教師になって、多様な学校に赴任し、たまたま水が合えば順風満帆なのだろうが、その率は少ないと思う。
企業や官庁等も含め、学校卒業(終了後)1~2年の“モラトリアム”時間が、必要なのではないか。
度々主張、提案している《体験からの小中高大改革:6・6+2の14年間で20歳終了(中等教育修了)、大学の教養課程廃止、専門学校・大学の徹底した専門化等々》案、良い樸が生まれ、社会は落ち着くと思うのだが。

第29

 天下は神器、為すべからず。……聖人は、甚を去り、奢を去り、泰(泰侈)を去る。

◇どこの学校でも「個性の伸長」を言う。私の偏りなのだろうが、その時、積極性・主体性→アメリカ的個性、のイメージを描いてしまう私がいる。我ながらおかしいと思う。
こんな経験をした。「船頭多くて舟山に登る」。それを自然な巧みさで操るのがベテラン教師。もっとも、学校世界(大学も含め)、主体性への固執が最も強いのは教師世界かもしれない。山に登るどころか解体、雲散霧消し、まとまる話もまとまらない。墨守世界としての学校。これも体験からの話題。
教師で単純明快、理路整然としているのは、予備校と進学塾かもしれない。

第30

 果(勝)ちて矜(ほこ)ることなく、果ちて伐(ほこ)ることなく、果ちて驕ることなく、果ちてやむを得ずとす。

 物は壮(さかん)なれば則ち老ゆ、これを不道と謂う。不道は早く已(や)む。

◇学校の盛衰は教師にかかる。或る学校は進学で誇り、或る学校はスポーツで誇り、或る学校は更生で誇る。誇れる結果を導くのは教師であり、それを支える学校組織である。公立学校にない私学の多様と言っても過言ではない。
しかし、私が最初に勤めた学校[女子校]は、近年進学(全員が付設の大学か、他の大学に進学する。進学校を標榜していないが、進学実績は相当なものである。それは、彼女たちの自我意識と塾・予備校に因るものである。)の結果を意識的に公表しなくなった。学内改革である。その改革は、明治時代の創立理念に戻る、ということであり、結果としての進学であり、社会での彼女たちの働き、存在である。言ってみれば本末転倒を糺し正そうということである。
これをもって、その学校は終わったとの軽薄極まる感想を持つ者は、卒業生を含め内外にあるだろう。
どこか、現代日本の縮図を見るようである。

2021年2月13日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧― 最終章 

井嶋 悠

人権意識への定着

私が60年前の中学時代に受けた衝撃は、厳しい現実と暗記的概念的に陥りがちな歴史を私に突き付けた。それは成長とともに、多くの人と比べればかなり遅い速度だが、沈潜化し内実化して行った。歴史の重みを知ることになると言えるだろう。
は第四章で記した[修学旅行]の車中で行われた進路指導面接時に奨められた高校に進学した。

高校は、歴史の浅い公立(国立大学付属高校)のいわゆる進学校であった。私からすれば、大学(それも或るレベル以上の)に合格さえすればそれで善しとする無味乾燥の高校であった。
その2年次、国語の時間に担当の先生の休みで自由作文を書くことがあった。ほとんどの生徒は、思春期真っ只中の自身をかえりみ、生きて在る苦悶を書いていたらしいが、それに引き換え、私は将来SLの運転士になりたい、と小学生時代に何度か利用した信越線の車外風景を織り交ぜながら書いた。すべてに遅いというのか遅れてやって来る私だった。私の人生は、人の数倍の時間がかかるのである。しかし、当時私にとってはSL機関士になるとの言葉が、私の感性にその時最もふさわしかったのである。因みに、そのSL機関士作文は、担当の先生からクラスで読み上げられるとの名誉に浴した。

加齢とともに確実に住みついて来た生きることの「哀しみ」「愛(かな)しみ」は、高校や大学時代に思うことはなくはなかったが所詮それは瞬間的で、観念的で、知識的だったと思う。
自身で自身に涙するほどに実感できるにはまだまだ時間が必要だった。

私の母校の中学校は、今落ち着いていることは前章で記した。
その母校に、何度か会ったことのある教育研究者[大学教師]が、生徒対象の講演会講師として招かれたことがあった。教師になって、何かの研究会で会った際、その教師は、みんなお行儀よく素晴らしい生徒たちだった、と喜々としてほめたたえるのである。
私は、つい昔を思い起こし、場違いであることは言い出して直ぐに気づいたが、「さぞかし先生方が裏で苦労されたのであろう」的なことを言った。すると、その大学教師の表情に不快感があらわになった。その教師は生徒を絶賛することが、すべてであったのだろう。
これは、大学に限らず教師にしばしば見受けられる、子どもを絶対礼賛の存在と見る姿勢である。私はそう理解したが、その大学教師が同じN市出身であるにもかかわらず、歴史にあまりに無知であることに疑問を持ったのである。疑問以上に不信に近いものさえ抱いた。

私がその中学校の卒業生であること、私も知りその大学教師も知っている人物が、講演当時教頭であったことに触れると、その教師は一切無言となり、立ち去った。よほど気分を害したのであろう。
研究者にしばしば見受けられる観念性、概念性を思った。研究者と現場教師との決して少なくないあの乖離である。マスメディアでしばしば接する専門家と現場の乖離。

母校の環境がすっかり変わったことは事実である。すっかり変わるにはそこに多種多様な人為が尽されている。学校だけでは解決しない課題に社会が稼働し、導いたのである。
私は生徒礼賛を否定しているのではない。すべての児童、生徒、学生に、それぞれの可能性がある。当たり前のことである。ただ、それが学校でどれほどに為し得ているかは別のことである。
褒めることがその可能性に弾みをつけることも、教師経験から十分承知している。しかし机上的な礼賛には抵抗がある。偽善の眼差しすら覚える。

欧米の教育は褒める教育、と言われるが、私が帰国生徒入試で経験した、英語圏の現地校や、英語が第一言語であるインターナショナル・スクールからの受験生の内申書を見る限り、確かにはじめはほめているが、その後ほとんどの場合、「しかし、とか、けれども」といった逆説の言葉が出て来る。そして私たちは、書き手の主眼が逆説に続く後半にあることを知っている。日本も同じである。日本は何も貶す教育をしているわけではない。ただ、褒め方、褒めた後の導きに違いがあるように思える。これも人権先進国の為せることかもしれない。
こんな笑い話のような話を、アメリカの現地校の教師から聞いたことがある。「記号選択の問題で困ったら鉛筆を転がせ」と。

人権の回復、確立は、心ある人たちの献身と尽力の賜物である。かつて被差別地域であった場所には高層マンションが幾棟も建ち、商業施設が盛んに進出している。それらを見ることで差別はなくなった、と果たして言えるのだろうか。外観上のことで得心してやしまいか。そう自身に言い聞かせていないか。その地域の歴史と現在を知る或いは同市内で生まれ育ち、今も住む人々の多くは、完全に差別は解消したとは思っていない。
事実、これはN市以外だが、同じ差別の歴史を持つ地に住んだことの被差別地域の出自ではない知人から、生活する難しさを何度聞いたことだろう。それほどに深い。差別の根絶との言葉の重さに思い到る。

差別は決定的に悪である。断罪すべき人間の所業である。しかし、人の性、哀しい性と言ってしまえば、そこにあるのは人間の利己的ご都合であって、差別はいつまでも止まない。
知識としてではなく、また感情に溺れるのでもなく、心に直接入り込む活きた言葉が、差別を限りなくゼロに近づけて行くのだろう。それでもどれほどまでに解消されるのか心もとない。今もって自身の言葉になり得ていない寂しさを自身に見る。と同時に、その時々のマスコミの役割、責任に思い及ぶ。
例えば、こんなことである。
関西の或る市[A市・T市]は、高級で上品なイメージがマスコミによって全国に喧伝され、その地名が出るだけで、多くの人が讃嘆と羨望の言葉を発する。しかし、その場所は両市ともほんの一部の地域であり、被差別地域問題でN市同様の苦難の歩みがあったことを知る人は限られている。更にその問題は、底流で今も続いているのである。

マスコミは差別する側とされる側の分断に、決して意図的ではないと信じたいが、与(くみ)していることを自覚しているのだろうか。中でも影響力の強いテレビでの偏った発言に、然も知ったかのように追従することは、そこに生きる人たちに、愚劣にして非礼としか言いようがない。与える側の権威主義からの無責任、与えられる側の自己判断の放棄と追従。

インターネットの発展は途方もない。ネット社会の無名、匿名は、自身を絶対正義者と勘違いさせ、いずれ襲って来る表現への管理、統制も少し眼を広げればいくらでも例があるにもかかわらず、眼中にない。良心の一片もない冷酷な中傷、攻撃を繰り返し、する側は得々と自己満足に浸り続け、された側は塗炭の苦しみに陥っている。そういった人たちがいや増しに増えている。コロナ・ウイルス禍での大きな問題の一つである。自殺に追い込まれる人もある。それも女性の自殺が急増している。

人間の弱さを指摘し、乗り越える意思を言い、自己責任を持ち出し、諭す人が現われる。そんなカンタンなものなのだろうか。
そういう人たちにとって、私が身をもって知らされ、考えさせられた、人の人による人への差別の、中傷の歴史など、だからどうした、貴重な経験をしたねえ、で会話はそこで止まる。

人は、社会は、厳しい場面に向き合うと、本性が顕われると言う。コロナ・ウイルス禍は世界にそのことを示している。「新しい生活様式」を表明する国、地域が増えている。一大転換期である。否、そうしなければ、歴史は単なる知識で終わってしまうことを、私たちは体感的に知り始めている。
自粛は内省の時である。内省は人に忍耐と苦しみを要求する。人々の疲弊の色が際立ちつつある。限界に追い込まれ涙ぐむ人がいる。社会も多くの企業も同じ様相を呈しつつある。

こう言う私は、幸いにも「陽性」ではないが、その一人である。世界各国、地域では自省と対応が展開されている。にもかかわらず私たちはますますの不安に襲われている。なぜだろう。国の経済最優先[人があって経済と言う視点がそこにないとの意味で]指向に違和感があるからではないだろうか。指導者たちの言葉に、命の、生の息吹を直覚させないことが多い。
政治家たちは両輪を言う。ウイルスの回避、壊滅と経済再生の両輪。果たしてどれほどに日本は先行して為し得ているだろうか。人間が先か経済が先か。二兎追う者は一兎も得ずの危険。政府は経済を優先する。私は人間あって経済との考えに立ちたい。これ以上格差を広げるのではなく、「衣食足って栄辱・礼節を知る」との範囲内において。経済は時間がかかるが必ず復調する。日本人の勤勉さにおいても。

私たち一人一人は、一人の人である。そして日本は母性の国だと言う人も多い。それを肯定的にとらえることも大切ではないか、とも思う。母性はすべてを受け容れ、すべてに同一の愛を注ぐ。もちろん過ぎたるは、を知ってのこととして、である。
母性は女性だけの占有ではない。男性のそれでもない。男女性を離れて在るものとして言っている。父性も同じである。

確実に日本の明治時代以降の「大国主義(或いは大国指向)」のほころびが露わになりつつある。今こそ「小国主義」を俎上に載せ、再検討するべき時ではないかと思う。再と言ったのは、太平洋戦争での敗北で私たちは何を学んだのか、との思いからである。
ここで「小国主義」を確認しておきたい。
詳しくは岩波新書で刊行されている『小国主義』(田中 彰著)に委ねるが、小国主義とは大国主義の対照語である。現在のアメリカや中国、ロシアのような、経済、軍事等において世界を先導しようとするのではなく、一国の充足をもって善しとする考え方である。世界はその後について来る発想である。
それを目指した首相もかつていた。1957年、病のため短い期間だったが、戦前からそれを主張していた石橋 湛山(たんざん)である。

教育も然りである。国際化、グローバル化との用語を使って、あれもこれも遂行しようとする。しかし、それが現場を抑圧し、混乱させ、結果雲散霧消していることも多い。また、教育に携わる人々に、独善しかも感傷的独善が跋扈(ばっこ)していると言って、それを言下に否定できる人はどれほどあるだろうか。
教育は、他の領域と違ってすべての人が一切の例外なく関わる、日々の積み重ねの地道な世界である。華々しいアドバルーンなど不要な世界である。だからなおさら難しい。
一人と万人の相関関係の根底は人権であり、その確かな実現は、小国主義の方がより可能性が高い。中国古代の思想家老子が言う小国寡民の発想である。そして日本は少子化の只中にある。

60年前、私は中学校で、人が生きること、人権に係る大きな萌芽を得た。それも概念的知としてではなく身をもって得た。それは、高校、大学を経て社会人となることでいささかの成熟を持ち、やっと言葉が血肉化し私の中で定着しつつある。
だからコロナ禍での非人間的言動、ヒトよりカネ・モノ発想また為政者の無恥に触れるたびに憤り、日本人であることに思い及ぶ。災い転じて福と為す天が与えた機会を無駄にしたくないとの思いが強くなる。

2020年12月23日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧―

井嶋 悠

第四章 修学旅行

修学旅行は3年次に東京方面に行った。東海道新幹線の開業は1964年なので当時はなく、「きぼう号」という修学旅行用の夜行列車で行った。2人掛けの座席がそれぞれ向かい合いあってあり、中央の通路を挟んで配置され、1か所4人用、今でも一部同型の客車を見かける。日をまたぐころまで大変な賑わいである。先生が注意され続けていたとの記憶はない。“彼ら”も含め和気あいあいの深夜時間であった。
それぞれの理由で、一生で一番の思い出としている生徒もあったはずである。そんな時代であった。
学習塾は、いわんや進学熟は限られ、通塾するのはごく少数派であった。私は小学校時代も含め行ったことがなかった。良い時代であった。学校教育があった時代のようにさえ思う。

引率の先生方の疲労は相当なものだっただろうと、後に教師になった経験から想像できる。それほどに活気溢れる中で、私のクラス担任(3年次で2年次とは違う先生となっていた)の好々爺の先生が、行きの車内で進路に係る個別指導会を始めたのである。
4人座席の一隅に座り、順次生徒を呼び進路を確認し、時に助言を与えるのである。一人10分くらいだっただろうか。開かれた指導。教師と生徒の信頼関係。就職する生徒もごく自然にあった。学年で1割くらい(30人前後)が就職であったろうか。
私の場合、五分ほどで終わった。

「希望はあるのか。」
「いえ、特にありません。」(当然のように公立高校に行くつもりだったからである。
「そうか、×××を受けてみんか」と或る国立大学付属高校を挙げて勧められるのである。
「・・・・・・」(初めて知る学校名であったこともあり、どうとも答えられなかったのである)
「まあ、考えとけや。」

私立学校(とりわけ中高校一貫校)は多くは都市圏にあって、私立優先の保護者(どちらかと言うと母親にその傾向が強くあると経験上思うが)が多い。多さの理由の一つに、私立には学校区制がないこともあるが、主な理由に卒業後の進路が関わって来ることが多い。大半は、特に大都市圏では大学進学が前提となっている。大都市圏での私立校志向はより熾烈で、生徒の学校生活は大半が塾併用で、あたかも二校在籍の感である。
ただ、ここには「大学の大衆化」の負の側面、例えば大学格差の広がりと両極化、これまで以上の差別化、といった問題が顕在化しつつある。

私が知るこんな例がある。
或る小中高一貫校で、小学校の卒業生の多くは他の有名(この表現自体に違和感がある)中高一貫校に進学する。その入学試験は概ね2月から3月[小学校の三学期]にかけて行われる。受験は中学卒業後、高校卒業後の進路にも通じていて、頼りは学習塾[進学塾]であるのが多くの現実である。進路相談を塾でする家庭も多い。早い子どもは小学校低学年から通塾する。小学6年次の三学期は総仕上げ期で、学校を欠席する児童は多い。そのため学校活動が機能せず、私が知るその小学校は三学期を自由登校とした。一時、新聞等でも取り上げられた。そこまでに到っているのである。これは、この学校だけの問題ではない。必要悪である。

やはり私がよく知るこんな例もある。
伝統ある私立中高校及び四年制大学の十年一貫校で、近年、学内大学進学者は学業成績不良者との摩訶不思議なレッテルを校内外で貼られ、多くは他大学(それもかなり難易度が高い大学)に進学する。ここにも小学校時代の通塾が影を落としている。そして高校時代の予備校通学が当たり前となり(早い生徒は中学3年次から)、在籍の高校時間は友人との社交時間と化し、幾つかの授業は予備校予習時間と心得、その日の最後のホームルーム[連絡]時間は当然のように姿はなく、かてて加えてそれを当然の如く広言する生徒まで出て来る。
学校の伝統と理念を大切に考えている、とりわけ卒業生の教師の困惑が続き、同窓会を中心に改革の動きがある旨伝え聞いた。尚、この学校は、最近他大学進学状況を公開しないそうだが、塾[予備校]では十分に把握している。この情報社会のいたちごっこ?

これらを異常と見るのは時代錯誤で、正常の一様相として認知されているのだろうか。もしそうならば、一層のこと社会も文科省も公認したらと思うが、コロナ禍にあって文科省大臣からそんな発言は聞いたことがない。タテマエとホンネ社会日本・・・。
この教育現状への疑問と挑戦から創設された、やはり私立校の例を。

中学校入試で、独自の入試方法(学力優先ではない方法)を実施したところ、直ぐに塾から困惑と疑問の声が起きたとか。何を基準に合否を決めているのか分からない、と嘆くのである。
その学校入学希望の保護者は、学校の目指す理念に共感し自身の子どもに入学を薦めたのだが、入学後、やはり塾が必要との現実の壁に向き合わざるを得なくなった由。入試当日には塾関係者が校門まで在塾生の応援に来ていたとか。その学校の教師たちは、独自の入試方法を矜持していたが、或る時期から目指している教育が立ち行かなくなった。あまりの基礎学力の無さに、思い描く教育段階に到らないというのである。しかし、例えば入試方法の再検討は進んでいないようだ。自負心がそうさせているのだろうか。

超難関と言われる大学で、この二重在籍学生たちが卒業し、社会で活動することに不安と懸念を抱いた教授会のことが、もう10年以上昔に報道されたが、何らかの変革の方向に行ったのだろうか。
私が出会ったその超難関大学出身者で、私が想うその大学らしい出身者はほんの一握りでしかない。
ますます現状は過酷となり、入学での燃え尽き症候群や高額年収家庭ほど合格率が高いと言われている。文部科学省の上級官僚[キャリア組]の多くは塾出身者と言って間違ってはいないかと思うが、その人たちの人生と塾について、そして現在の仕事について聞いてみたいものだ。

私が教師になり10年ほど経った頃から携わった帰国子女教育領域は、帰国子女教育は学力観を改めさせ、学校教育の変革を促す起爆剤となる可能性を秘めている、と期待されていた。今はどうなのだろう。それにしても、海外に日本からの、また現地創設の塾が何と多いことか。
今もってまかり通る帰国子女=英語ペラペラの、非人間性さえ感ずる浅薄さは健在である。更には、保護者にくすぶる屈折と差別意識。アメリカからの高校帰国生徒(女子・現地校通学)自身が、困惑し疑問を持たざるを得なかったこととして語ってくれた、日本人母親同士の次の会話。
「アメリカまで来て、アジア人なんかと付き合いたくはないわねえ」

帰国子女と海外子女は表裏の関係である。その表裏の関係の中で、現地での保護者世界に、子ども世界に、また日本人学校に派遣された教員世界に、差別、理不尽な偏見が厳としてあることは心に留め置いて欲しいと切に思う。海外社会は日本社会を映し出す鏡である。
「隠れ帰国子女」とは帰国子女自身が、日本の世相に巻き込まれ、苦々しく言い出した言葉である。

経済的に富める家庭の子女子弟が、進路進学においてますます有利になる懸念は、コロナ・ウイルス禍終息後、より深刻な問題になるように思えてならない。休校中の3か月は学力観を考える千載一遇の機会になっているとの期待があるにもかかわらず。
[グローバル・スタンダード](もちろん欧米スタンダードの意味ではない)構想の一環として、「九月入学」が話題になってはいるが、どこか一学期の遅れを取り戻すための安易な思い付きに思え、教育研究者の学会が指摘するように唐突感は免れない。或る知事が、私は以前から九月入学派、と言っていたのには唖然とした。今言うべきことではない。自慢?したいのだろう。
私は帰国子女教育の経験から、九月入学はこの国際化、グローバル化の時代、好むと好まざるにかかわらず、現行の一学期[4月から8月]の空白への深謀遠慮と学力観ともつながる具体化内容の検討を経て、切り替え時期に来ているとは思っている。
桜の下での入学式がなくなるのが寂しいなあと、半ば本気で、半ば苦笑して言っていたかつての同僚の貌が浮かぶ。

尚、この数年『国際バカロレア』なる初等中等教育に係るヨーロッパに起源を置く教育制度が一部で話題になっているが、その制度での【日本語】を経験したことのある私としては、二つの点からも議論[話題]して欲しいと願っている。

一つは、日本語教育と国語(科目)教育の相互性の問題
一つは、何年か前実施され現在壊滅?した「横断的総合的学習」との共有性

2020年12月15日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧―

井嶋 悠

第二章 入学式

私は父親の勤務異動もあって、東京の叔父叔母宅に一時期預けられ、そこの小学校を卒業し、関西に戻った。私たち一族の菩提寺は京都市にある。数年ぶりの親子生活が始まった。中学校はN市の公立中学校である。N市は永い歴史を持ち、産業も盛んで、開発も進み、住宅地として当時からも発展途上にあり、現在も日に日に変貌している。

入学式を終え、私は一人ぽつねんとして指定された学級にあったが、ほとんどの生徒は小学校での旧交を温めるに忙しく楽しげであった。公立中学校ゆえの通学校区があり、多くの生徒にとっては小学校の延長上であった。
私が座った席は最前列で、隣にはやはり一人どこか寂しげで、孤独を漂わせた男子が座っていた。思いきって声を掛けた。何を言ったかは覚えていない。子犬同士がじゃれ合うようなそんな少しの時間だった。5分ぐらいであろうか。クラス担任の先生が来られ、一時間ほどの連絡等が終わり解散。私の母親はすでに帰宅していた。
私は帰宅すべくグランドを横切り、通用門の方に向かっていた。一人である。その時である。

4,5人の生徒に取り囲まれ、怒声と殴る蹴るの集中砲火を浴びることとなった。問答無用である。数分ほど続いただろうか、解放され、新しい学生服はグランドの土にまみれ、私は痛いといった感覚より、何があったのか皆目分からずただただ呆然と立ち上がり、一目散に家に向かった。
近くには通り過ぎる生徒もいたが、止める者はいなかった。後で分かるのだが、君子危うきに近寄らず?だったのかもしれない。彼らは意気揚々と引き上げて行った。彼らの満足げな笑い声がそれと分かった。

母はただただ驚き「どうしたの?」と聞くが、当事者の私が分からないのだから、それ以上会話は続かなかった。夕方、父が帰って来て、事情を知り、何かを直覚したようではあったが黙っていた。
父の帰宅と前後して、クラス担任ともう一人の先生二人が来宅された。
おそらくグランドにいた誰か(おそらく保護者であろう)が教師[学校]に伝えたことで訪問することになったのだろう。見舞い方々の様子伺いと事情説明の訪問である。
父は、この時、現実が抱える地域事情をはっきりと理解した。直覚通りであった。校区内にある被差別部落の問題である。
父は関西人としても、この地域事情は或る程度承知はしていたようだが、このような形で、それも入学式の日に知ることになるとは予想外のようであった。
父親は関西に戻るにあたって、幾つかの私立学校の情報を集めていて、(その情報の中に、地域の問題があったかどうかは定かではないが、おそらく父の頭の隅にはあったと考えられる。)入学相談にも出かけたとのことである。その一校(有名な進学校)で父は対応した教員への強い不快感、不信感から一喝して帰ったと言う武勇伝?を後になって母親から聞き、公立中学校が妥当ということになったらしい。

私を襲った彼らの言い分は、先に記した教室での隣席の生徒の尊厳を、彼らの積年の鬱積、怒りに思い及ぶことなく不用意に、しかも暴力的に踏みにじったことへの仲間として制裁である、というのである。隣席の生徒は、彼らの仲間だったのである。クラスが一か所にならないよう分けられていた。
子犬同士のじゃれ合いで、こともあろうに頭をこづいたことが思い出され、それが決定的に尊厳を傷つける暴力行為であったというわけである。当時私もこづかれたのだが、私の側については制裁の趣旨から当然の報いということである。

私にとってすべて初めてのこといささかの恐怖はあったが、両親と教師たちの話し合いで翌日から、不登校にもならず、心新たなに登校することになった。
そこには大人の配慮があったわけであるが、私自身の楽天性?がそうさせたのかもしれない。
学校内外で、彼らと眼が合った時の彼らの眼差しにたじろぐものがあったが、彼らにしてみれば私がごとき者に、いつまでもかかずらっている暇などないということか、視線は次第に彼方に去って行った。しかし全く消え去ったわけではなく、後々間欠泉のごとく襲い掛かって来ることになる。その総仕上げとも言うべきが、卒業式であった。そのことは後の章で記す。

入学式に始まり、卒業式で終わる3年間の日々は、今にして思えば、私に社会的目覚めを持ち始めさせ、濃密な学校時間となった。私の思春期前期の始まりである。


第三章 様々な彼ら彼女ら

東京にあったとき、被差別部落問題[同和問題]を学校で、また大人から知る機会はなかった。それは、私の居住地も関係していたのかもしれないが、何も知らず、知らせず、だった。
東京の近隣地域では、被差別部落に係る問題があったことを、大人になって知った。にもかかわらず何もないようにしていたのは、東京が全国から人が集まってくる雑居性がそうさせたのかもしれないし、首都東京との自負心また虚栄心が隠蔽していたのかもしれない。私にはよくわからない。

N市に移ることでなぜそのような地域が存在するのか、その歴史と現在について徐々に知ることとなる。それも授業や講演会といった形でなく、入学式の一事をはじめ日々の学校生活から知って行った。
私に手ひどい痛みを与えた彼らは4,5人で一つのグループを形成していた。クラスは一クラス一人といった形で分けられていたが(小学校からの情報、引継ぎであろう、と思うのだが、学校としては居住地の住所から自明のこととして承知していたとも考えられる)、日々出席していることは少なかった。彼らの溜まり場は校舎裏の外階段下か、体育館(兼講堂)裏であった。その使用例としてこんなことがあった。それもかなりの頻度で。
裕福な家庭の男の子に眼をつけ、(女の子にはしなかった。彼らのせめてもの礼儀だったのだろう)何かしら口実をつけ金銭を持って来させ、それを受け取る場所として使っていたのである。教師は眼中にない。なぜなら教師は見て見ぬふりであることが多く、彼らはそのことを承知していたからである。
それは他の生徒たちにも十分伝わっていたが、なぜ腫れ物に触れるようになっているのか、そこに到る様々な経緯が小学校時代にあったのだろう。教師に伝える生徒はほとんどいなかった。

私はこの災難からは免れていたが、或る親しくしていた生徒は、時に毎週のように言われるがまま校舎裏に連れて行かれていた。そして1回200円前後渡すのである。当時私の月の小遣いが500円だったから、彼の貢額は高額となり、彼の家庭で気づかないことはあり得ず、学校に何らかの相談、訴えがあって然るべきであったろう。
その連行度数が、或る時期から減ったように思えたが続いていた。その彼が諦めの表情で苦笑しながら私に話したことがあった。それを聞き、私は何もしなかったのも一方の事実である。
私たちへの彼らの「ちょっと貸してくれやっ」の「くれ」は「よこせ」を意味していた。例えば、ボールペンとかシャープペンシル(当時は貴重品であった)を学校に持って来る軽率さはなかった。私は一度軽率にもボールペンを持っていき、彼らに貸してくれを言われ、当然戻ってくることはなかった。これは学外でも同じであった。こんな経験をした。
同じクラスの男子の家の前でキャッチボールをしていた時のことである。キャッチボールの相手の子が、100メートルくらい先に彼らを認めるやいなや私に言った「隠せ!」そして彼の家の中に逃げ込んだ。

彼らの行為は、事情がどうであれ決して許されることではない。しかし、それがまかり通っていた。おそらく学校が、教師が、教育委員会が、問題のあまりの大きさのために機能不全に陥っていたのだろうと、後年、公私立の違いはあるが、学校組織に加わった一人として推察した。
教師になって何年かした或る時、母校のその中学校の管理職教師とたまたま会話することがあったが、「当時は荒れていましたからねえ」とまるで他人事のように言っていた。
あの時おられ、苦悶の中にあった教師がこれを聞き、どう思うだろう。私の余計なお節介だろうか。

彼らの行動は、時に体育館裏での血の騒動となり、他校生徒の“出入り”事件ともなった。
血の騒動とは、彼らのグループに属さない同期生の一人(一説には、彼らと違う地域で同様の歴史を背負った者とも、私たちの間では、ささやかれていたが)と、かのグループリーダーとの、いずれが頭領かを決める昼休みの決闘のことである。私や在校生は電線の雀の群れよろしく外通路の柵に並び、体育館裏で繰り広げられている顛末を想像し、いずれ出て来るであろう二人を待っていた。20分ほどであったか、血だらけになった同期生の肩を抱え、余裕の表情のリーダーが現われた。入学式で私を襲ったグループのリーダーである。

もう一つの、出入りとは、授業中に、自分たちが座る椅子と喧嘩道具持参で、無言で押し入ってくる他校の面々のことで、目的はその教室に居る敵対者を授業終了後、仲間への連絡をさせずに即確保するためである。
授業中の担当教師の、あきらめ、彼らの存在を見ないように授業を続ける表情は、今も私の中でありありと残っている。授業終了後、予定通り、或る一人を、その人物は入学式で私を襲った一人である、が連れられて行った。行き先は体育館裏である。
彼らがされたと同じように、彼らが他校へ出向いていたことは自ずと想像はつくが、事実は知らない。ただ、同じ問題を抱えていた幾つかの中学校名を耳にしていたので、想像はほぼ当たっていると思う。
各学校の教師間でどう対応するかの話し合いは、幾つもあったはずであるが、問題は解決することなく続いていた。

長く信念をもって取り組んで来た人々によって時間は、新しい歴史を創り出す。私の母校も同じである。今では地域の一層の開発も進み、落ち着き、平穏に学校生活送るにふさわしくなっているとのことである。
それでもこの問題が人々の心から完全に消え去ったとは思えない。これも歴史と言う厳粛な事実であろうか。

教師になって10数年後であったが、同じ市内でのこんな場面を聞いたことがある。
在日韓国人二世の中学校社会科教師が、授業で差別について熱弁をふるっていた時、或る生徒が、突然自身の机を叩き「うるさいっ!」と叫んだという。この抗議した生徒は、旧被差別部落が居住地であった。この生徒は、この教師が、自身が経験してきた差別の歴史を熱く語っていたのだろうが、言葉が上滑りしたのか、10代のその生徒は「活きた言葉」として直覚し得なかったのではないかと私は思っている。
この感覚は、教師になって数年後結婚し、二人の子どもを授かり、内一人が、中学時代の或る教師の他の生徒を巻き込んでのネグレクトや、高校時代の授業のいい加減さ、生徒への迎合から、中学校及び高校(いずれも公立校)教師への不信、葛藤が始まり、心身疲弊し、23歳で早逝したことにも通じている。一人の親としてまた、同じ教師として、これらの事実は私に自問自省を強(し)い、大きな影を落としている。

彼らはほんの一部であり、その被差別部落全体を表わしているわけではない。ただ、眼前でのそれらは私にとってあまりに衝撃的であった。
その衝撃の強さを、彼らと同じ地域から通学するそうでない他の生徒に、自主的に思い及ぼす余裕は、私にはなかった。しかし、無謀で挑戦的ともいえる彼らの行為に苦しむ、同じ地域の彼ら彼女らを同じクラスの身近な生徒から知ることになるのである。

10代前半に沸き上がる異性への憧れは美しい。ほのかな抒情を呼び起こす。私もそうだった。女子生徒と会話することはひどく恥ずかしいのだが、思い切ってすることで得意満面にさえなった。会話の内容はたかだかしれたことで、例えば、試験と言うトピックの後など、会話の場が作りやすかった。複数で話し掛けるのである。もちろん一人で敢行する勇気ある、男子生徒羨望の対象となる者もいたが、私には不可能な領域であった。

「試験どうだった?」
何という無邪気さ。これは彼女たちも同じで、やはり複数で応えるのである。「きゃっ、きゃっ、きゃっ・・・」としか表せないような、言葉であって言葉でない言葉が紡がれて還って来るのである。しかし至福のひとときであった。

男子生徒に限らず女子生徒からも、存在を認められる女子生徒がいた。
温和な美しさをたたえ、学業も優秀で物静かに光を放っていた。動じた彼女を見たことなどなかった。ましてや付和雷同など、彼女には無縁の言葉であった。少なくとも私は遠くから眺めるだけであった。彼女には孤高の輝きがあった。年上の生徒に思えた。卒業まで眺めるだけであった。彼女はいつも独りだったような印象が残っている。
彼女は、彼らの行為をどう思っていたのだろうか。嫌悪をもって無視し、じっと耐えていたのだろうか。それとも深い母性の心で見つめ、自身の内に閉じ込めていたのだろうか。彼女が表立って何かすることはなかった。
彼女が、彼らと同じ被差別部落の生徒であることを知ったのは、卒業して間もなくである。
家は貧しく到底進学は叶わず、就職が進路であったが、その地域の出身であることが彼女に就職先を選ぶ機会を与えなかった。なぜなら当時、全国のその地域名鑑なるものが、企業等に常備されていたのだから。そのため親、親戚の関係で就職することがほとんどであると伝え聞いていた。
時とともに彼女は遠い昔の一人となった。私がそのことに持ったことは、感傷的同情だけであった。
「彼女、どうしているんだろう?」
その名鑑、現在も秘かに、或いは公然と、存在するのだろうか。在るようにも聞いているが。

2年次のクラス担任の先生から思わぬ機会を与えられた。その地域から通学する一人の男子生徒に関して世話を頼まれたのである。
その先生が私を呼んでいるとの校内放送がかかった。私としては呼び出されるようなこともしていないつもりであったし、最近例の彼らとのもめごとはないがなあ等々、あれこれ思い巡らせながら、恐る恐る職員室に向かった。
当時は、今のように教師と生徒が友達同士のようなことはあり得ない。現在を善しとするかどうかは措いて。

「○○の世話を頼みたいんだが」○○とは、やはり同じ地域の一人(男子)である。
「はあ・・・・」
「勉強をやり直したいと言っているので、一学期間、教室での授業時、常に彼の横に座り、ノートの取り方など教えてやって欲しい」
「はあ・・・・」

承諾したはいいが、困ったことになったと思った。なぜなら他人に教える、いわんや導くなどという器量もなく、私が適任かどうか、なぜ私を選んだのか、自分のことでさえおぼつかないのに何で、と次々に疑問が沸き起こった。ただクラス生徒から、何でお前が、といった批判めいたことがなかったのは救いではあった。彼を取り巻く事情と彼の人柄を無言の中で了解していたのだろう。

授業での二人の時間が始まった。
予想したとおり私にとってそれは苦行だった。ちょっとした私の一言に、彼はあまりに従順に反応するので、なおさらであった。
今だから言える、他人に教えることほど自身の学びを強くする、などといったことは、私には単に美辞麗句に過ぎず、引き受けた後悔と自省の1学期間が過ぎた。彼はひたむきだった。私が教えられる時間であった。
彼は或る程度自身のリズムをつかんだようだった。相互学習は1学期間で終わった。安堵と同時に、少しの喜びもあった。
「彼、どうしているんだろう?」

二人の意志の強さに、ひたすらに大きさを思う、と同時に歴史の残酷さに思い到る。環境が人をつくるというならば、逆境ゆえの自身への厳しさだったのだろうか。
二人の人間性の高さに心打たれる。二人がその出自から持ち続け、更に深めた優しさは本物である。もし二人が教師になることができたら、仲間からも生徒からも愛され、慕われる素晴らしい教師になったことは間違いない。

私が二人と同じ立場に生まれ、思春期前期の日々を過ごしていたら、果たして二人のようにふるまえただろうか。何とも心もとない。

2019年11月14日

つかずはなれず、飄々(ひょうひょう)淡々(たんたん)と~“人間(じんかん)”生と孤独と愉しみと~

井嶋 悠

夏目漱石の傑作『草枕』の冒頭の有名な一節。 「智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」
で、つかず離れずこそ人間、己が気持ちよく生きる知恵だと74年間顧みて痛感する。
しかし、今もってその人生体験訓をきれいさっぱり忘れて、悔やむこと、若い時ほど多くはないがある。 或る人は「それって寂しい考えだね、孤独だね」と憐れみ、蔑(さげす)むかもしれないが、生まれるときも死ぬときも独りなんだから、それが一番自然態なのでは?と、いささかの意地を張る。
若いときはそうは行かないかもしれない。が、この身勝手さで中庸では、と当事者の葛藤を慮(おもんばか)りながらも、青年時に出会った人々、また息子・娘を見ていてそうと思う。 だから「絆」との言葉、「ああ、あれね、絆創膏の絆ね。」と茶化したりする。
もっとも、漢和辞典で絆を確認すると字義に「自由を束縛するもの」とあって、我が意を得たり…、とニンマリしている。

「いじめ」は、言ってみれば、つき過ぎの、徹頭徹尾の悪である。
ただ、いじめ=子ども同士、或いは大人同士の視野から離れるべきだ。教師の子どもへのいじめの何と多いことか。教師自身が自覚していない無意識?なそれも多々ある。中にはそれを教師愛と思っている輩(やから)さえいる。いかにも教師らしい?そして私は元その中高校教師だった。

地球の東西文化で、人と人の在りようについて、その能動性と受動性、積極性と消極性が言われる。
「己の欲するところを人に施せ」 『聖書』
「己の欲せざるところは人に施すなかれ」 『論語』
やはり私は儒教心をどこかに秘める東洋人、より限定すれば東アジア人、なのかと思う。 根拠は、前者を言われれば、「そうとは思いますが、私にはどうも…、距離を置く指向で…」とか煙に巻いて逃げる。

とは言え、「つく」と「はなれる」の境は微妙に難しい。まさしく阿吽(あうん)の機微だ。これも「東洋的調和」かもしれぬ。 この人と人の延長上に、地域と地域、国と国もあるのではないか。
とすれば、日本の今日、対アメリカ、対韓国、対中国……はどうなのだろう。
対アメリカ、これはもう「つく」の極みで、流されっぱなし。角立ちっぱなし。 そのアメリカ(アメリカだけではなく欧米?)の教育を倣(なら)って、主体性(アイデンティティ)確立のための、ディスカッションがどうの、ディベートがどうの、と小学校から喧伝され、実践されている。
と言う私は、現職時代からどこか胡散臭い芝居性を感じたり、なんでそのアメリカで暗殺が多いのか?(だからアメリカで暗殺が多い?)と幼稚な疑問を持ったりしていた。今もそれはあまり変わっていない。

対韓国。 最近ひどく感情的で、それはお互い様とは言え、機微とか間(合い)など立ち入る余地もなく、情や智云々以前の混沌(カオス)状態とも言える。 このへんについては、既に2回投稿した。ただ、簡単に要約すれば、何かと疑義の生ずること必定なのでその内容については省略する。
ここで言えることは、『日韓・アジア教育文化センター』が発足でき、20年間続けられた人(その韓国人)との出会いの幸いである。 或る在日韓国人(大韓民国民某地区団長)が私に言った。
「井嶋さんは良い韓国人と出会った」と。ここで言う良いの意味は難しいが、私の中で韓国・朝鮮の「恨」の文化―その背景にある31年間(正しくは41年間)の日本による植民地支配―が、私の心の棘となっていることが根底にあることが、より繋がりを深めているのかもしれないと思っている。
そこにあるのは、「己の欲せざるところは人に施すなかれ」である。


因みに、もう30年も前のことだが、アメリカからの、ベネズエラからの、タイからの、私の最初の勤務高校への留学生(女子で、1年間)が制作した日本語による[創作絵本]で、彼女たちが日本(人)に、何を伝えたかったのか、あらためて観て欲しいと希う。 今も彼女たちのメッセージは確実に生きている。《その絵本は、日韓・アジア教育文化センターのホームページ[http://jk-asia.net/]「活動報告」の「教育事業」で確認できます。》

かつての日本の首相吉田 茂は、「元気の秘訣は?」と聞かれ、「人を食ってるからだ」と応えたとか。
もちろんこれは、「嘲(あざけ)る、馬鹿にする」といった侮蔑的な意味はなく、彼のイギリス仕込みからのユーモア(ウイット?)である。 そのユーモアとウイットの違いは、前者は情緒的で、後者は理知的、日本語になおすと前者は「諧謔(かいぎゃく)」後者は「機知」とのこと。
とすれば、この合理と理知尊重の現代、ユーモアはウイットの下位? したがって「ダジャレ」「親爺ギャグ」は、下位の中の最下位…。 このギャグ、英語にして「gag」、漢字にして先の「諧謔」の「謔」の貴重な掛け言葉?で、私は現職中、授業でこれを発作的に連発することがあり、乙女たちの(最初の勤務校が女子校)「先生!もうやめてください!お腹が痛くて胃が飛び出しそう!」と言わしめた実績がある。
もっとも、冷めた理知高い生徒は正に侮蔑の視線で眺めていたが。

そして今、政治と歴史知らずの私は吉田 茂に敬意を表する。
もっと身近な人では誰だろう?と巡らせてみたが、出会った人でそれに近い人は何人かいるが、意中の人はいない。
「かなしみ」[悲劇]より「おかしみ」[喜劇]の難しさとの証左かもしれない。
身近ではないが、作家の田中 小実昌(1925~2000)とか俳優の小沢 昭一(1929~2012)を思い浮かべてエッセイを読んでみた。
前者は非常な真面目さが行間に漂っていて、その点後者も真面目さは変わらないのだが、日常のことを採り上げたエッセイに人を食ったおかしみを感じた。40年続いたラジオ番組『小沢昭一的こころ』(通算10355回)は何度か聴いたことはあるが、ただただ氏の軽妙洒脱、秀逸な話芸に感嘆、抱腹絶倒し、それが何によったのかは記憶がない。話芸の神髄?

「退廃」(『言わぬが花』所収)という氏の短いエッセイがあり、氏曰く「文化は爛熟の果てに退廃するものである」と書いているのだが、単語によってはカタカナを使い、腹をよじられること必定の名文。
氏が喜劇「社長シリーズ」で、中国人役で出ていたことを思い出した。フランキー堺(1929~1996)もよく出ていたし、何と言っても彼の場合『幕末太陽伝』(1957年・川島 雄三監督)[この映画で小沢は脇役で出ていた]での演技は神業的だったが、氏が写楽の研究家で、映画『写楽』の制作者でもあり、大学教授という社会的地位に就いたこともあってか、小沢昭一のあのおかしみは、どうしても浮かんで来ない。そもそも氏の文章を読んだことがない。申し訳ない。

おかしみとしての「人を食ったような」の類語、連想語として40語ほど挙げてあるものを見つけた。 その中で、私が共感同意した言葉は以下である。
【孤独・どこか哀しい・さびしげ・飄々とした・しみじみとした】
つかず離れずが、飄々淡々に通ずることの、或いは飄々淡々と在ることの奥義には、つかず離れずあり、との発見。
そう言えば、小沢昭一は酒を呑まず食べることを愛し、独り食べ物屋に行くことも多かったそうだが、俳優の哀しい定めで、行けば店主や客からあれこれ話し掛けられる災いを書いていた。 私は俳優でもテレビに顔出す人種でもないその他大勢の一人だが、氏の気持ちに共振している。
職人に憧れる若者が増えているらしい。人間(じんかん)のならい、ヒトとヒトの関わりに疲れたのだろうか。
私も妻も次の生、どうしても人ならば、職人になりたいと思っているところがある。理由は、その技の妙もあるとは思うが、先ずヒト相手に仕事をしなくて済む魅力である。
民藝運動の推進者にして、「民藝」との言葉を編み出した人、柳 宗悦(むねよし)流に言えば「無心・無想の美」。 やはり漱石は偉大だった。

学校(私の場合、職業体験からの言葉として言えるのは中学高校)の一方の主役、教師はその人と人の機微をもっと察知、演技!して欲しい、と少なからず思う。もちろん自省を込めてである。 そして、保護者も自身を振り返り、なんでもかんでも学校、要は教師に、学校に何でも委ねる発想は、子ども・生徒たちにとって二重三重のマイナスになることに気づいて欲しい。
そもそもユーモアとかウイットに必要不可欠なことは「聞き上手は話し上手・話し上手は聞き上手」ではないのか。 教師には子どもの立場、心理お構いなしの一方的饒舌家が多い。これも自省自戒である。

と書いて来た私は、長男(兄)が生後直ぐに死去し、幼少時は次男にして一人っ子で、両親離婚により小学校後半は親戚に預けられ、中学校から父と継母との生活。高校時代に妹ができ、その妹は38歳にして癌で旅立つ。異母兄妹。したがって人生の基本は長男。こういう10代から20代は、先述の考え方に何か影響するのかどうかと思い、以下の説明を知り、なるほどと思った。 私は、なかなか複雑、めんどうな?ヒトのようだ……。

第1子の性格<性格の特徴>
• 人に気を遣いがち • 神経質 • 我慢強く、主張を飲みこみがち • 面倒見が良い • 責任感が強い • 真面目で努力家ゆえに学業優秀な場合が多い • 認められたい願望が強いがゆえにハイレベルなポジション目指す場合が多い
末っ子の性格<性格の特徴>
• 圧倒的にモテる人気者 • 天性の甘え上手で依存心が強い • 喜怒哀楽が激しい • 好き嫌いが多い • わがままで自分勝手 • 要領がよく世渡りがうまい • 負けん気やチャレンジ精神が強い
1人っ子の性格<性格の特徴>
• 執着心や物欲が弱い • マイペースでのんびり屋 • 争いごとが苦手 • 好意を示されると弱い • 自分大好き人間 • 世界観が独創的 • こだわりが強い

2019年10月14日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅲ 中等教育[時代]後期(高等学校) その2

井嶋 悠

前回、全体的な事と高校卒業して10年後に、我が師となる国語科の先生二人のことを書いた。
今回は、他教科の何人かのやはり個性豊かな先生方に登場していただき、それらを通して、高校教育について考えを馳せてみたい。
劣等生であったがゆえに、ひょっとして考える好材料になるかとの期待も込めて。

【英語】  何人かおられたが、すべて男性日本人教師だった。  
精緻に文法を教授される若手の先生がおられた。先生は、黒板を一杯に活用し、何色かのチョークを使い、時に自問自答を含め、見事なほどに教えられるのであるが、私など到底ついて行けず、ただただ呆然と黒板を眺めていた。多くの生徒は、あの先生はいずれ大学に移るだろう、と大学の授業内容も知らずに勝手に言っていた。そしてどうなったかは知らない。

ここで、別のやはり真面目な婚約中とおぼしき男性英語教師へのちょっとした悪戯を紹介する。 その先生の授業は、見開き1ページで1課構成の英文解釈参考書であった。
先生は、毎時間初めに前回の小テストをされ、その上で次に入って行かれるのだが、「今日は誰にしようかなあ」と呟きながら指名される。そこには、何ら統一性がなく、はてさてどういう形で指名されるのか、一部で話題になった。
そこで、或る生徒の「前回のテスト優秀者が当たるのではないか」との発言が妙に説得力を持ち、その正否を証明しようということになり、実験台に指名されたのが私だった。
授業前日、懸命に復習等小テストに備え用意万端整え、稀有なことに授業を待った。
そして当日。何とそれまで一度も指名されたことがないにもかかわらず、いつもの「誰にしようかなあ」との呟きの後、私が指名されたのである。
数人の私たちの微笑みの眼が行き交った。

【日本史】 50代前後とおぼしき先生がしばしば毅然とした口調で言われた「歴史はうねりだ」との言葉は、その前後は覚えていないが、強く心に残っている。暗記モノの、知識の日本史ではなかったのである。 考えることに大きな影響を与えたが、大学受験とは別だった。
因みに、某私立大学受験で日本史を選択したが、当日見返しも含め最短の30分で退室した。その大学には合格した。

【世界史】 若手(30代だったように思う)の先生は、教科書として某出版社の大部な受験参考書を使い、それで授業をされ、生徒に質問し、答えるとそれは参考書の何ページのどこに書かれているかを確認され、正解だといたく満足げな表情をされていたのが印象に残っている。

他教科にも個性甚だしき先生方がおられたが、際限がないので、最後に数学から一人登場していただく。尚、音楽、美術は教えを受けたのかどうかすら記憶がない。  
その先生は大変きれい好きで、チョークをそれ用の金属の筒状のものに差し込み、黒板消しも静かに使われていた。ただ、私たち生徒から少々軽んじられていた。と言うのは、問題集授業で優れ者の生徒が入手した、「教師用解答書」そのままに、生徒の黒板解答を説明されていたからである。

【英語を第1言語・母語とする外国人教師[Native Speaker]の授業】   
なかったと記憶している。要は、英語の授業は、文法・読解・作文であった。  中高校時代、外国人英語教師に限らず外国人との出会いは皆無であった。
そんな人間が、教師としての最後の10年間、インターナショナル・スクールとの協働校に勤務するとは…!  ただ、そこで「公立英語学習」と“好奇心”が、会話することに有効であったことを実感し、外国人との会話は分不相応に増えた。もっとも懶惰(らんだ)な私、飛躍的進歩とは程遠かったが。

体育館は戦時中の工場跡そのままで、どうひいき目に見ても体育館にはほど遠く、部活動、生徒会活動 も低調で、小高い丘の上にあると言えば聞こえはいいが、登校時は往生した。
そして紹介した個性豊か な先生たち。今と違って(と思いたいが)、先生は先生、生徒は生徒のタテ社会。
受験生としての「四当五落」を切実に信じ、苦悩していた友人。
試験の点数ばかりを気にして、得意と する生徒に点数を確認し(因みに、私のところには国語、それも主に現代文で確認に来ていた)勝った、 負けたの狂騒動の、修学旅行で布団蒸しにされた同窓。
ガールフレンドができて休み時間はいつも二人 で過ごしている同窓男子を横に見て、サッカーや野球で発散していた私たち(一部)。
少々悪さが越して 他校に転校した中学からの同窓男子。
多くの男子生徒が憧れる“マドンナ”から、誰が年賀状をもらえ たか、何でお前がもらえたんだとやっかむ者もいて…。言い出せばキリがないのでこのへんで止める。
まあ青春時代と言えばそうだが、先の附高=不幸が甦る。 そんな中、それぞれに進路を決めて、それぞれぞれの道に。 私は浪人。仕事柄、74歳の今も現役がいる。

思い返せば思い返すほど、我ながらどこまで晩熟(おくて)で、お人好しなんだ、とつくづく感じ入る。情けない 話しである。
小学校、中学校、高等学校、それぞれに色彩があり、高校など灰色イメージがあるが、どうしてどうし て見ようによっては最も色彩豊かに浮かび上がって来る。とは言え、高校時代に戻りたいなどとは微塵 も思わないが、あの3年間は、大人への脱皮の一直線だったのだろう。だからその分憂鬱でもあったの かもしれない。

2019年10月3日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅲ 中等教育 [時代]後期(高等学校) その1


井嶋 悠

Ⅲとあるのは、個人的体験から「学校教育」を考える愚文の、小学校篇中学校篇に続く、第Ⅲ篇:高校篇との意味である。
個人的体験とは、自身の生徒時代及び33年間の私学中高校3校(33年間)での国語教師時代、そして23歳で世を去らざるを得なかった娘の学校不信であり、それらからの私の学校教育に係るホンネである。
このような気持ちに到らしめたのは、74歳という年齢になったことが私に何かを働き掛けているのだろうが、一番初めに記したように、旧知の友人でない或る方の私への一言が、大きく作用している。
いろいろなことがあり、いろいろな人に会い、いろいろな思いに駆られ、今日まで様々な人々の友愛、恩顧があってこそこんな私が来られた、と自照自省している過程で、その言葉は発せられた。
その言葉は何かを意図するものではない、当人の素直な感想なのだが、私にとって余りに痛烈であった。

「どうしてそんなに屈折してるの?!」

今後、その方とお会いすることはないとまで思わせたほどの、きつく突き刺さったこの言葉。非難するのではなく、人生を振り返る契機(きっかけ)をつくって下さったとの意味で感謝している。
本題に入る。

就職する生徒も多い時代、特に意識することなく高校進学の道にいた。そのための「進路指導」が、特にあったわけではなかった。
ただ中学3年次の修学旅行[当時は新幹線などなく、“修学旅行列車”で車内泊をし、東京方面に行った。]の列車内でクラス担任が行なっていた。“個人情報”など関係なく生徒たちがわさわさしている中で。このゆるやかさは好きだ。良い時代だったと思う。
一言で指導は終わった。「池附、受けたらどうや」。
池附とは、大坂教育大学付属高等学校池田校舎の略称である。他に学年で10人余りが受験することになった。
今回は、その高校で得た教育私感である。

高校になると、生徒も教師も中学以上に個性的だったとの印象が残っている。ただ「進学校」で、である。要は、全員が大学進学を前提としている高校である。
私は自身の教師体験から私学進学校は苦手である。高校時間=問題集解読時間のように思えてならないからである。
もっともその進学校と言っても2種類あることは知った。一つは、余裕ある進学校。一つはただ進学校で、私が最初に教師になった私学は前者であったので少しは私自身心に余裕があった。しかし二つ目の学校は後者で、これはどうにもついて行けず2年で退職した。
以前に投稿した、家族共々地獄の3年である。

立ち戻って、生徒自身の時。
私は合格の歓喜もなく、漫然と時に流れに身を置いていたといった風情であった。ただ、合格手続きに行った際、事務室窓口で入学式までの大量の課題には唖然、呆然した。 (尚、その課題の後始末は、入学早々の試験で確認され、校舎入口に全員の成績と氏名が、成績順に大きく公表された。学習(主に理数系)嫌いな私の自業自得とは言え、最初の屈辱である。)
賢い(≠勉強ができる)同窓は、入学間もなく、付高=不幸と看破していた。教科学習、課外活動等々含めての学校時間と考えれば、なるほどと後に得心した。

と言うことで、今日当然のように言われる「個の教育」を考えることを目的に、私にとって個性的教師を何人か取り上げる。
もちろん生徒にも多種多様な思い出深い存在はあるが、学校教育の主要素は教師にある、と教師体験からの自省と教師に係る娘の悲鳴があるからである。
教科全体(特に「5教科」)で言えることだが、「進学校」の標榜がそうさせるのか、概ね教科書学習は2年次に終わり、後は多くが問題集(それも高程度の)をすることが多かった。(この記憶は、かなり大雑把ではあるが、そういった印象、記憶が濃い)。
また2年次後半から(一学年三クラス×50人前後)三クラスは『国立文系』『国立理系』『その他』の組に分けられた。あくまでも“られた”であって、自主的選択ではなかったように覚えている。

【私に係る余談】
初め『国立文系』のクラスであったが、数学に全くついて行けず、或る日、勝手に『その他』クラスに移った。しかし、事前に伝えていなかったため、或る教師が逃避行(さぼり)と思ったらしく、『その他』クラス生徒に確認され、そうでないことが判明、私は叱正の難を免れた。
それにしても、「その他」とは、今日では到底考えられない呼称である。ただ、前二者の名称を考えれば、単純明快名ではあるが。

以下、強く心に残っている個性的教師数人を紹介する。
高校の教師像を考える一資料として。進学校と言う制約があるが。劣等生の私のこと、授業内容に係る記憶はほとんどない。
尚、表現に際して尊敬語表現に不備な点が多々あるが了解いただきたい。
圧倒的に男性教師が多く、ここではすべて男性教師である。
現在、その母校は進学校としての地位を一層定着させているが、仄聞では私たちの時代とは比較にならないほどに変わったようで、教科学習、課外学習併せて、自由な佳き校風にあるとのことである。

【国語】二人紹介したい。
◎一人は、生徒に非常に怖れられていた40代前半の教師で、古典を専らにされていた。先生は、いつも教科書を用いて授業をされていた。
何でも大学院で能楽を学び、剣道4段とかで、4,50センチほどの竹棒を携帯し、実に姿勢よく且つ朗々とした声で、黒板の文字も颯爽と授業をされていた。 先生は、教室に立っておられるだけで、近寄り難い緊張感を漂わされていたのである。
しかしなぜか、私をかわいがってくださり、時に私が後方に座っていると、「井嶋!前に座れ」と、かの竹棒で教卓の真ん前をさされるのであった。
この私への愛情が、後に、三つのことで深くつながるなど、誰が想像し得ただろうか。その三つのこととは、  
 一つは、私を非常に嫌悪していた(その理由は今もって分からない)或る教師が、職員会議で私の退学(放校)を持ち出し、先生が抗弁くださり、その動議は当然のことながら否決された旨、他の教師から伝え聞いたこと。  
 一つは、先生に乞われて長期休暇中の身の回りの世話をすることとなった。 先生は、旧家の子息で、老母と同居され、結婚、長女の出生、離婚と目まぐるしい流転もあり、私が大学進学後も世話は続いた。 そこで直面したこと。先生はアルコール依存症であり、ギャンブル依存症でもあったのである。そして長期休暇中は、ほとんど入院されるのである。しかし、私の中で反発、批判する気持ちは微塵もなく、可能な限り世話をした。  
 一つは、先生は後に公立高校に異動され、私が大学院生の時、一学期だけであったが、その高校の非常勤講師を仰せつかった。その数年後(この数年間のことは私の身辺事情の変容であり、ここでは省略する)、私が27歳の時、私を私立中高校の教育の世界に導いてくださったのである。   
つまるところ、この先生の導きがなければ、今の私はいないのである。恩師である。

◎もう一人は、いつも気難しい表情の50歳代の教師である。
教科書も指導されたのであろうが、私には難問問題集(現代文)の先生との記憶が強い。ただ、どういう問題に取り組もうが、必ずと言っていいほどに、女子生徒がいるにもかかわらず我関せず、終わりはストリップの話しで落ち着くのである。「赤や青のスポットライト云々」と始まるのである。私を含め多くの男子生徒は、おっ来たとほくそ笑むが、誰も軽蔑していなかった。
やはり近寄り難い人格がそうさせたのであろう。   
修学旅行(南九州)でこんなことがあった。先生は引率責任者として来られた。或る夜、就寝時間後、日頃私たち数人から、試験の点数競争ばかりする嫌な奴と思われていた生徒一人に“布団蒸し”の罰?を加えたところ、襖を破ってしまった。更には恒例?の枕投げを部屋越しにし、欄間を壊してしまった。
先生は、翌朝出発前に旅館に謝罪され、私たちを一切咎められなかった。無言である。その時、怖れが畏れに変わった。   
私が教師になってから、年賀状を出すようになった。いただく年賀状には、常に短い漢文・漢詩が添えられていた。私が劣等生であることを承知されてか鉛筆で返り点、振り仮名がつけられていた。劣等生が国語教師になったことへのご配慮なのであろう。   
或る時、一冊の書が送られて来た。『芸道の研究』である。私は二度畏れた。   
先生が亡くなって後、息子さんと会う機会があった。北海道の高校で教師(体育)をされ、20有余年が経つ。

次回は他教科の先生方のことを、その 2として記す。