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2018年12月14日

雪 螢 ―俳句再発見・再学習― Ⅰ

井嶋 悠

雪螢とは綿虫のこと。雪虫とも言うとのこと。綿虫が科学的には正しいのかもしれない。しかし、響きはもちろん雪螢が美しい。学名はトドノネオワタムシ。

11月末の午後、庭先で純白の綿毛のようなものを抱えた虫が数匹、飛行範囲は半径1,2メートルほど、私の背程の高さの空(くう)を幽かに舞っていた。
毎年、晩秋となると見ていたことを思い出したが、今年は違った。時は瞬く内に過ぎ去ると実感するのが人の常だが、一年はやはり一年だった。一年=365日×24時間×60分×60秒……。私もどこかで、なにかがあって、変容していたのだろう。思い当たる節はないこともないが。

思わず手に取った。身の丈5ミリあるかないか。黒の縁取りの透明な翅に薄っすらと黒いたて筋が何本か走り、黒くくりくりした輝きのある両の眼。腹に綿毛を抱えて。しばらく掌(てのひら)に止まっていたが、また静かに飛び立った。幽寂な中での幽意の時間。
ほんとうに“別世界”あの世が在って、そこにほんとうに閻魔大王が居て、審問を受け、記憶している限りのすべての己が善悪を申したて、我が懺悔が受け入れられ、来世の希望を生命(いのち)あるものでとの限定で聞かれたら、願わくばこの雪螢になれれば、との思いが一刻(いっとき)に通り抜けた。

ひょっとしてと思い、歳時記を見てみた。冬の季語。初雪近くなると北日本で見かけるとある。幾つか俳句が並べてあった。心に懸った二句を挙げる。

[綿虫や そこは屍(かばね)の 出でゆく門] 石田 波郷

[綿虫を 齢(よわい)の中に みつゝあり]  能村 登四郎

俳句を嗜む方々への大いなる失礼を一顧だにせず「雪蛍」で俳句をものしてみた。「静穏の 齢(よわい)噛みしめ 雪蛍」

俳句を、国際化時代の世界にあって世界に誇れる日本文学であるとか、欧米に知らしめた人は明治時代のラフカディオ・ハーン(小泉 八雲)であるとか、西洋の小学校等で自身の母語による俳句創作学習に採り入れているとか、はたまた五音七音は日本人のDNAに組み込まれているとか、聞き、なるほどとは思っていたが、今回は雪螢が縁で、思わぬ方向に私を導いてくれたようだ。

最近、二つの句が頭を過ぎることが、間々ある。

一つは、【咳をしても一人】 尾崎 放哉

一つは、【旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る】 松尾 芭蕉

前者の、咳―も―一人
後者の、旅―夢―枯野―かけ廻る

両句の言葉の重なりから迫り来る、人が人であることの、自身を照射しての、孤独の激烈な自覚。激情を覆う静寂。詩人の詩人たる由縁。
この機会に、教師時代の昔を顧み、幾つかの俳句“授業”の今の齢での私的「予習」を試み、明日の私につなげられたらと思い、投稿することにした。
採り上げるのは、松尾 芭蕉。与謝 蕪村。小林 一茶。自由律俳句。から数句。
Ⅰ、は松尾 芭蕉。

松尾 芭蕉(1644~1694)

老若不問で“国民的俳句は?と問えば、第1位に予想されるのが、
【古池や 蛙飛びこむ 水のをと】はなかろうか。芭蕉43歳の句である。

この句、初案は「飛んだる」だったとか。それを読んだとき軽やかさがあって、これも良いのではと思ったが、近代の俳人で国文学研究者の加藤 楸邨(しゅうそん)(1905~1933)が言うには、「言い方の芸に過ぎない浅い芸で、改案(飛びこむ)は深層の揺らぎそのものを言い表している」とのこと。確かに。
己が軽薄、凡俗さを今更ながら思い知った次第。

「をと(音)」に関連し、かつての授業で「蛙の大きさは?」「数は何匹か」、とその理由共々聞いたことがある。あれこれ意見が出て、最終的に「トノサマガエル」くらいの大きさで、一匹であることにほぼ全員得心していた。
その時、アメリカからの帰国子女が「アメリカでは日本にはいないような大きな蛙で、その跳ぶ距離を競う遊びがあった」と言ったところ、その蛙が古池に飛びこんだらきっとドボーンだ、となって大きな笑いが起こった。生徒たちは、自ずと静寂の日本的美を味わっていたのであろう。
因みに、英訳されたこの句を見た時、蛙が複数形のものもあった旨紹介すると、生徒たちの多数は一匹を良しとしていた。難しい言葉で言えば、清閑の直覚であろう。

かてて加えて、芭蕉がこの句を発した時、古来日本では蛙の鳴き声は多くの歌や句に登場するが、飛ぶ動作の視点で扱ったのは芭蕉が初めてで、そこに居た俳人たちが感嘆した旨伝えたところ、先の音と併せて日本人の感性を自身の内に垣間見る機会になったようだ。

このような旧体験を統合することで、研究者の解説「閑寂枯淡の風趣」「蕉風開眼の句」との言葉が、今、改めて静かに心に沈んで行く。
こんな授業をしたらこの句だけで一時間[50分]となりそうだ。やはり国民的句なのであろう。
とは言え、受験進学意識の高い(強い?)生徒、学校では、「ここは大学ではないっ!」との顰蹙(ひんしゅく)が予想されるが。

中高大或いは高大一貫教育を標榜する学校(多くは私学)はあるが、どこまでタテの意思疎通と目標の共有が為されているか、多くは疑問で、今もそうならこの少子化時代、もったいないことである。

【石山の 石より白し 秋の風】
『奥の細道』所収 北陸の山中温泉へ向かう途次 那(な)谷寺(たじ)にて

私が初めてソウルを訪ねたのは、30年近く前の秋だった。ソウル市庁の近くのホテルに逗留し、近辺の大通りに立って市の北側にそびえる山を見た時、ふとこの句が浮かんだ。
山の名を「北漢山(プカンサン)」と言い、市内を流れる大河「漢(ハン)江(ガン)」の北側にあるところからこのような名称がつけられたとか。この山は幾つかの峰で構成され、一帯は国立公園で、市民の、また観光客の憩いの場所として多くの人が訪れている。
標高836mで決して高い山ではないが、14世紀に建てられた王宮景(キョン)福宮(ボックン)の後景にそびえることもあってか、見る者に迫り来る威容感のある、花崗岩(御影石)の山で、山肌が随所に見える。
その日は晴天で、郊外の田舎道の路傍には私の大好きなコスモスが溢れ咲き、秋風は爽やかな透明感を漂わせていた。ソウルに都を設けた理由として、北からの異民族侵攻の自然防塞としての北漢山、漢江を中心にした生活基盤との考えがあった、と以前読んだことがある。

そんな静やかな光景に在れば、誰しも、日本が1910年、南から侵攻し、中国を源とする「風水」思想を踏みにじり、景福宮に日本総督府を設営し、36年間の植民地支配を行った事実が脳裏をかすめるのではないだろうか。

芭蕉は加賀の国で白い秋の風を想い、私は異国ソウルで芭蕉の句を想い巡らせたのだが、当時『日韓・アジア教育文化センター』への端緒となることなど、誰が想像し得ただろうか。
日本側で、設立を支援くださった某学校法人理事長はすでに世を去られ、韓国側の主な推進者であった日本語教師たちの何人かは定年後の生活を過ごされている。時の無常と無情に思い到る。しかし、今も活動に献身くださっている方々もある。出会いの幸いと継続の喜び。
これなら30分くらいで、授業は終えられるであろうか。

「白」は黒とともに神秘性の強い色である。『常用字解』(白川 静)によれば白骨化した頭蓋骨を表わす象形文字とのこと。霊的なもの、霊性を思ったりする。その白を表わした芭蕉のやはり心に刻まれた名三句を挙げる。

【海くれて 鴨のこゑ ほのかに白し】

【明(あけ)ぼのや しら魚しろき こと一寸】

【葱(ねぎ)白く 洗ひたてたる さむさ哉】

妙味溢れる美の世界に導かれる。

 

【一家(ひとついえ)に 遊女もねたり 萩と月】
『奥の細道』越後・親知らず(親不知)の海岸にて

芭蕉はユーモアも解する情の人だったとか。
この句は、実際にあったことではなく芭蕉の虚構の句だそうだが、仮にそうとしても、芭蕉のほのぼのとした人柄が偲ばれる句であると、私は思う。そして、萩と月(両語とも秋の季語)が、遊女と芭蕉の存在を際立たせているように思える。
このことは、この句の前の日記文を読めば明らかである。その一端を引用する。

――一間(ひとま)隔てて面(おもて)の方に、若き女の声二人ばかりと聞こゆ。年老いたる男の子の声も交りて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし。伊勢参宮するとて、(中略)白浪のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし《おちぶれさす、の意》あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契り、日々の業因(ごういん)いかにつたなしと、物言ふをきくきく寝入りて(中略)《翌朝、芭蕉と曽良の衣装姿から僧と思った遊女たちは、大慈の恵みをいただけ、仏道にお導きくださいと涙ながらに訴えたが、芭蕉は》「ただ人の行くにまかせて行くべし。神明(しんめい)の加護かならずつつがなかるべし」と言ひ捨てて出でつつ、哀れさしばらく止まざりけらし。――

とあり、その後に上記の句が書かれている。

この芭蕉の人としての情けに関して、一句加える。

【猿を聞く 人捨て子に 秋の風いかに】『野ざらし紀行』所収

古来中国に端を発し、猿の声は哀調を帯びたものとして多くの歌や句で採り上げられて来たとのことで、この句の前に次の文がある。

――富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨て子の哀れげに泣くあり。(中略)露ばかりの命待つ間と捨て置きけん。小萩がもとの秋の風、こよひや散るらん、あすや萎れんと、袂より喰い物投げて通るに、《この後に先の句が記され、以下のように続く。》
いかのぞや。汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け。――

ここに当時の社会現状としての、主に農村での堕胎、間引き、捨て子の実態を合わせた時、生徒たち、私たちは何に思い到るだろうか。
その場に居た芭蕉は、後年「余が風雅は夏炉冬扇のごとし」と言い、世俗に対して無用のわざと言うのだが、捨て子を前にせいぜい「袂より喰い物投げて通る」だけの無力な自身に痛切な痛みを加えている、と或る研究者は記している。改めて同情と愛情の問題に引かれて行く私を思う。
これまた生徒たちとの対話をして行けば、一句で一時間[50分]、否、二句だから不可能か……。

生徒もそろそろ芭蕉から脱け出たく次の授業に心移るかと思うので、最後にこの齢だからこそ、と同情心を煽って採り上げたい一句。

【旅に病(やん)で 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る】

鬼気迫る感あるひたすらに凄み漂う句である。私の、年齢を重ねた証しなのだろう。
旅は人生になぞられる。
少し前になるが、若い女性看護師が、何人かの高齢者を殺めた報道があった。テレビ報道で映し出された彼女の表情、眼に、得も言われぬ寂しさ、虚ろさを直覚した。彼女は3か月に及ぶ精神鑑定の結果、刑事責任を問えるとの結論に達した由。直覚は単に私の感傷で、彼女は平然と実行にうつしたのかもしれない。しかし、彼女にも幼少児期の、思春期の時代があって幾つもの、あるいは看護師への夢を抱いていただろうと勝手に想像すると、生きることの切々さが襲い来る。彼女の犯罪を是認し擁護するのではないが、あの眼を想い浮かべるとあまりの哀しみが私を覆う。
彼女にとって、この芭蕉の句はどのように響くのだろうか。7年前、彼女より少し若い年齢時の娘の永遠の旅立ちを見送った、おセンチな爺さんとやはり一笑に付されるだけだろうか。

芥川 龍之介は、1918年26歳時、『枯野抄』を発表している。師芭蕉の重篤を聞くに及び集まった弟子たちの、師の臨終、死を見守る様子を表わした一篇である。そこでは、弟子たちの心理や動きを、見事な筆致で活写している。

「…限りない人生の枯野の中で、野ざらしになったと云って差支えない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分たち自身を悼んでいる。」との、エゴイズムの視点から弟子たちそれぞれの心を推量想像して。

2018年11月18日

自由[FREE]であるということ~安田さん解放報道に接して~

井嶋 悠

私たち『日韓・アジア教育文化センター』が、NPO(非営利活動)法人の申請をし、内閣府から承認されたのは2004年9月17日のことである。当時は、事務所が2県〈私たちの場合、大阪府と兵庫県〉にまたがるときは、都道府県でなく内閣府であった。
後に、すべて主たる事務所の在る都道府県の管轄となり、10年前、代表(理事長)の私が栃木県に転居したため栃木県(庁)内となり、毎年度末の報告書類は、それまでの内閣府から栃木県となった。他に税務署(国税局)も関係するが、私たちの場合、従事者すべて無償であったので特に問題はなかった。ただ、法人県民税納付で免除申請制度があり、幸いにも認められ、税務関係での年度末手続は派生しなかった。

今、全国でNPO法人は52,000余りあるとのこと。それらの法人が、毎年所属都道府県に報告書を提出しているわけである。
年に一回とは言えこの煩雑さは、事務能力の無い私ゆえなおさらのこと、光陰矢のごとしは益々実感せられ、常にその憂鬱さに追われている心持ちであった。

にもかかわらず申請したのはなぜか。
法人が持つ公共性の説得力と公益性といった、信頼感への期待であった。いわんや、日本だけでなく、韓国、中国[香港・北京]・台湾の人々で構成されているのだから。
活動は、主催企画への助成金獲得も数年続き、また若い映像作家やデザイナーたちとの出会いにも恵まれ順調に進んだ。[詳細はhttp://jk-asia.net/を参照ください。]
しかし、私の勤務校退職(一応定年退職)や栃木県への転居から数年経ち、組織の維持、継続に難題が立ちはだかることになる。

理由は二つ。
一つは、「非営利」とは言え、収益事業が定期的にあっての運営、継続であることの痛感。
一つは、栃木県が目指す県と企業や法人等との協働推進と私たちの目指すことの方向性の違い。
だからなおのこと、全国の52,000余りの法人の浮沈に実体験から正負いろいろなことに思い及ぶ。

私たちは今年2018年9月2日,NPO法人から撤退を決議した。法務局登記上は「解散」であるが、私たちは、これまでの活動実態の継続を願い、あくまでもNPO法人からの撤退であり、実質は全く変容していない。
ただ、この手続きも、何度も栃木県県庁所在地・宇都宮法務局(往復約3時間)を訪ね、幾つかの書類の書き方等教示を受け、書類を整理提出し、数日後登記に解散が明記されても「清算結了登記」を別に申請しなくてはならない。かてて加えて県庁担当課にも提出しなくてはならない。

認可後間もなく経ったとき、韓国の或る人曰く。「それだけ拘束(しばり)があっても助成金はなし?!」
形式と内容(実質)に係る違和感。
しかし、解散登記が受理されることでの、安堵と実感する開放感。自由感。と同時にふと過る不安感。

そして改めて考えさせられる「NPOって何?」
メリットは?先に記した公共性、公益性という名目での庇護。 デメリットは?諸規定による煩わしさ。否、これは、私の運営資金のための日常事業活動の意志と発想収集と実践力不足の証しだったのだろう。10人以上の「社員」が申請条件の一つだったのだから、なおさらのこと私の責任…。「自己責任」…。
この経験からの顧みは、先述した栃木県の「協働」指向の背景ともつながる。

このことを国或いは地方自治体側からすれば、国或いは地方自治体に自身たちの責任で申請し、それに対し、承知したということは、公的“お墨付き”すなわち「権威?」を与えたのだから、報告義務は、その形式がどうであれ、派生して然るべきことであり、撤退するならどうぞ、ということになる。但し、「立つ鳥跡を濁さず」、規定に従い円滑にされたし、と。
とは言え、そのお墨付きが、今52,000余りあるということには、どうしても合点行かない私がいる。
この経験が、改めて自由について考えることになったのだが、それに大きな拍車を掛けたのが、フリー・ジャーナリストの安田 純平さんの解放、帰国であった。そこで、私がこだわった言葉が、「フリー」と「自己責任」である。

安田さん自身、2004年の新潟での講演で、以下のような発言をしている。
――フリーのジャーナリストというものは、紛争地域であっても事態の真相を見極めるためにリスクを負って取材に行くものだ」とし、「常に『死』という自己責任を負う覚悟はできている」と。――
また、 ――冬山の遭難者やキノコ採りのお年寄りも、自己責任ということか。政府に従わない奴はどうなってもいいという風潮が、国民の側から起こり始めている」として、「政府を無条件に信用する国民が増えてしまい「民主主義の危機」を痛切に感じている」。――

他にも、政府に対して、
「日本政府を『自己責任なのだから口や手を出すな』と徹底批判しないといかん。」
「日本は世界でもまれにみるチキン国家。」
「現場取材を排除しつつ国民をビビらせたうえで行使するのが集団自衛権だろうからな。」
などと、痛撃を加えている。

日本国憲法での、「公共の福祉に反しない限り」との制御を共有―この共有が、例えば道徳上云々同様、時に難しい課題にはなるのだが―した上で、[基本的人権の尊重][思想、表現等の自由]を出すまでもなく、上記安田さんの発言をとやかく言うつもりはない。ただ非常に過激ではあり、だからより考えることになった。
しかし、行政や政治家の第一の義務であり責任である、国民各人の幸福を追求する権利を守り、実現に導くとの視点に立ったとき、フリーであることと自己責任のことが私の中で混乱し始めたのである。
簡単なもの言いをすれば「フリーなんだから放っておいてくれ」と言われ、国(国家)は、「はいそうですか。お好きにどうぞ」と言えるのかどうか、これは国としての責務[義務]の放棄ではないのか。
それともすべてに対応は不可能なのだから、犠牲は或る程度やむを得ない、との別の表現なのだろうか。

私の知人にフリー(本人はフリーランスと表現している)で仕事をしている人がいて、彼の場合、半分はフリーで、半分は一つの組織に所属している。なぜか。生活としての、より多彩な仕事成就としての、生きるためである。
また、日頃こんなことを言っている知人もいる。事実かどうかは制度上を含め確認していないのだが、「無国籍であることの自由さを大事にしたい」と。

「自由人」という言葉の響きは心地良い。しかしフリーランスで生を築く人との意味では、厳しい現実を思い知る。
私は今、年金生活者である。(尚、年金生活者と言っても多様であり、その現在と将来に問題が指摘され、年金等、先進国を矜持する日本の福祉と施策の惨状は周知のことである。ただ、ここではこれ以上立ち入らず、概括的な意味で使う。)
死は解放(死が解放?)との考え方に立てば、より自由人に近づいたと言えるのかもしれないが、要は自身の意思、意識の問題なのだろう。

父は、人生の前半は勤務医であったが、後半は開業医であった。後半期、例えば、患者さんが父を前に「風邪のようで…」とでも言おうものなら、「それは私が判断することだっ!」」と叱責するほどで、時には患者さんに向かって「もう帰れっ!」とまで言うほどの個性(あく)の強い医師であった。その父が晩年、「俺のような医者は俺で最後だと思う」と、何処か寂寥感の響きでぽつりと私に言ったことがある。 そんな激しさを持った父は、一方でしばしば泥酔していた。

自由人は、人間の孤独を身をもって直覚し、それを克服し、真に孤独を自覚してこそ為し得るのだろう、と私は思う。生易しいものではない。私には遠い人ではあるが、先に言ったように距離は近まっているようにも直感する。
ただ、これらは大人の世界のことで、その大人に向かう途次のことではない。一部の若くして死を迎えざるを得なかった人々を除き、多くの人はその途次を経る。

私学の中高校教師時代、様々な公私立の中高校教師と会話する機会を得た。 と同時に、私もその中高校時代を経て来た一人であり、自由と学校に係る多種多様な経験をし、生徒(同世代)を知った。

私が、
中学生で知った、生徒の校内外での、更には教師への暴力事件と教師の無力と社会背景の自覚。
高校生で知った、学習と進学と大学名の問題。
大学生で知った、己の無気力と引きこもり。
大学院生で知った、学生運動と傍観することの自責。
東京放浪時代に知った、己が人間的限界。
教師時代に知った、教師であることと大人であることの揺れ。
これらの体験から10代の生徒たちに思うこと。 それは、複雑微妙な10代で「自由」について思案し、試行錯誤し、生きることと己が自由観の入り口をつかんで欲しい。

英文学者であった池田 潔(1903~1990)の『自由と規律』(1949年刊)は、青春時代の必読書的一冊として今も引き継がれている。
しかし、これは上層(上流)家庭に生まれ、17歳で渡英し、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学につながる、非常に限られたエリート集団であるパブリックスクールでの筆者の体験書で、昏迷混濁する現代日本に今も有効性を持つとは思う。
ただ、その底流にあるものを考えなくては、「自由の前提としての規律」といった単なる、それも特別な階級(階層)環境の、特別な学校での経験を通した道徳本に堕してしまう。

では底流に在るもの・こととは何か。
自身の存在が誰かによって認められ、自己確認の情を直感し、それぞれに自尊への思いを抱くことではないか。
生徒は生徒の年代での、教師は教師の年代、人生経験での、大人としての、そして育む愛の、もたらし手としての。
そのそれぞれの自覚から生まれる教師と生徒の信頼関係、相互敬愛心。 当たり前過ぎることであるが、現実はどうか。
あまりに各々相互の、生徒教師間の懐疑、軋轢、不信がギスギスし過ぎていないか。
もっともこれは、どんな中学高校を思い描くかによって変わることで、私が直接間接に知った例を挙げる。
3校の女子校と1校の男女共学校(すべて私立)の例。
ここでの共通主題は「自由」で、内3校は服装自由、1校は制服校。尚、1校は高校のみで、3校は中高一貫校である。

A校:創立以来、服装規定なし。特に問題となる服装はなし。但し、一時期、高校卒業式での華美さが問題となったが、生徒同士の批評も影響したようで、後落ち着く。

B校:創立以来、基本は私服で、行事等によっては制服使用(「標準服」制度)。服装の自由が拡大し、授業中に机上に飲み物を置き始め、教員間で問題となるも、時の校長の断で自由となる。

C校:創立以来、服装規定なし。ピアスを某生徒がつけたところ問題となり、その生徒と、禁止を言う校長の「自由」に係る議論の末、生徒は自主的に退学、転校。

D校:以上の例を知り、制服規定のある学校教師が発した言葉。「ウチでそれやったらメチャクチャなことになる」

【備考】某私立男子中高(大学)一貫校の例と限られた公立校の例

○中学高校は同一敷地内にあるものの、校舎も教員も校則(学校方針)も全く別。 中学:制服があり、徹底的に管理指導する。 高校:全く校則なしで、すべて生徒の自主性に委ねられる。

○公立高校によっては、自身で時間割を編成し、それに合わせて登校する私服校もある。

これらの差が生ずる要因の一つ、或いは決定的とも思えるそれは、自身の所属する学校への、及び自身 への「自尊」に係る意識、感情の高低ではないか、と。 その感情起因は学力差或いは偏差値差。入試問題の難易度。そして進路進学結果の社会的評価が大きく彼ら彼女らの心を覆っている。
生れてわずか十数年での被格差感情。 これらはやむを得ない現実として受け止めるべきで、ことさら俎上に上げること自体が、やはり無意味なことなのだろうか。 しかし、それでも次のことに思い及ぶ。

☆入試と塾・予備校在籍と中学高校在籍校学習との問題。
⇒塾・予備校を廃止したら、各学校段階でどのようなことになるのか。
【補遺】
○高い志をもって創設された或る私立校での場合
塾教育批判を掲げていたが、後に学校[各教師]が描く教育実践が、
学力不足でできないとの不満に変わって行った例がある。この問題の
背景に在ることとは何だろうか。
○新聞全国紙の塾・予備校教育論と毎年の大学合格状況、偏差値情報の
矛盾

☆家庭の経済力と学力の問題と教育の機会均等の問題。
⇒教育の無償化がもたらすことは、結局経済的余裕のある家庭への恩恵になるのではないか。そうならば、ではなぜそうなるのか。

☆各個を活かし育む教育の問題。
⇒多様な価値観、人間観があっての社会、との意識と学習内容の多様性は為されているのかどうか。

☆「不易流行」と教育の問題
⇒世界の中の日本の在りよう像に関して、国民間で共有できているのかどうか?  なぜ今、日本型?「インターナショナルスクール」が乱立的に開設されているのか。

これらの事例から、限られた選択の自由、結果としてある自己責任について、子どもや家庭(保護者)にその原因を帰することができるのであろうか。
各学校段階の入試方法として「考える力」「表現する力」云々と改革が言われているが、そもそも可能な限り客観的評価をどうするのか、また入学後どのような指導を行い、次にどう備え、送り出すのか、各学校段階でどのように検討され、実践されているのだろうか。

今、少子化にして高齢化だからこその千載一遇の時機と考え、学校と教育、教育と学力について、背景にある社会観と併せて再考する視座は、大学の大衆化による負の側面が顕在化し、高校卒業後の、また大学学部卒業後の進路に多様化が進む現在、必要なことではないのか。
人生のごく初期段階で、しかもあまりにも限られた時間内(数年間)で、人格さえとまで思えるほどに優劣意識を持たせ、持たされることが、果たして日本にどれほどの有効性を持ち得るのか、甚だ疑問である。

安田純平さんは、大学までの過程とフリー・ジャーナリストへの高く、強い自尊の人だと思う。氏は私には遠く及ばない人のように思えるが、解放以後の報道に関して、少なくとも氏を英雄視することには抵抗がある。しかし、帰国後の氏の幾つかの発言から、氏の繊細な人間性のようなものも同時に感じている。それが私の感傷からの思いなのか、理知からのそれなのかは未だ整理できていないが。

2018年10月12日

帰国子女[教育]の記事に触れて~今もなお続く日本人の“孤島”気質~

井嶋 悠

先日の奈良県天理市の「村八分」問題が報じられ、話題となっている。
村八分は、疎外、排斥であって、要は「いじめ」の一形態で、そう考えれば地域に限らず人の集まる所、学校、会社等到るところで在る。
以前、長野県でのこんな例も聞いた。それも長野県に限らずよくある話として。
県や市町村の、時には国の、行政が、過疎対策として移住奨励を発信し、田舎暮らしに憧れ都会から自宅を処分し、家族で移住して来る家族。そこには、自然は在るが、人の情はなく、それどころか疎外、排斥され、一年も経たずに近くの都市圏に移る例が、少なからずあるとのこと。 こういう施策を概念的、官僚的というのだろうが、この村八分は、英語にもあるので世界共通のようだ。ニホンザルの世界にもある旨聞いたことがあるから、高等動物の哀しい性(さが)なのだろうか。 高等ゆえの生き辛さ……。

私たちが10年前から住んでいる北関東の、幾多の温泉と山々、高原が広がるいわゆるリゾート地を有する市で、私たちの一画は10軒の家があり、内(うち)、外来者は私たちを入れて4軒である。ここでも近隣地住民を含めた自治会組織があるが、ゴミ捨て等々での疎外はない。それどころか、隣家の人が、自治会に加入するとあれこれ役割が回って来るので都会から来た人は入らない方が良い、とまで言ってくださったほどである。
ただ、都会からの人の中に、敢えて一切関わりを持とうとしないと言うか、自身から周囲を疎外している場合がある。これまでのその人の歴史がそうさせるのか、地方者を見下しているのか分からないが、幾つかの言動行動から察するに後者だと思う。

これらの疎外、時に蔑視は国間・地域間問題にもつながる。対韓国・朝鮮や、対被差別地域等々。

と言えば、「お前はどうなのだ?」と詰問されるだろうが、自身の70有余年で一度もない、と断定的に言える。的、と記したのは、自身は全く意識していなくとも、される側からすれば《している》と取られることもあったかもしれないからである。例えば、中学生時代、被差別地域問題について、東京から転校した私は、正しく“身をもって”知らしめられた経験を持つので。(これについては以前投稿したのでこれ以上は措く。)

 

私の最初の勤務校は、二人のアメリカ人女性宣教師が、明治時代に創設したキリスト教(プロテスタント)主義の、歴史ある中高大一貫教育の女子校だった。 今から50年近く前のことである。勤務して数年後、高校1年次での「帰国子女受け入れ校」の公式意思表示をし、私はその校務に携わる機会を得た。実に新鮮な経験で、以後の教師人生にあって、その問題は常に私の中に意識されていた。
ところで、この「子女」との表現については反対があるが、辞書の意味説明も含め、私は「子女」で良いと考えている。

受け入れを始め数年が経ったとき、アメリカからの現地校に在籍していた或る帰国生徒が朝の礼拝時[中高生約900人が講堂に集まり行う]、海外体験を話す機会があった。一喜一憂を語るのだが、次の一節に今でも忘れない衝撃を受けると同時に、然もありなんとも思った。
何人かの日本人の母親の会話を聞き、彼女は悲しみと学びを得たと言うのである。母親たち曰く、

「アメリカにまで来てアジア人と付き合いたくはないわよねえ」

この延長上に、今もある英語ができる(それも聞く・話す)=優秀、そこから生まれる嫉妬、また英語を第1言語とするアジア系アメリカ人等教師への拒否反応がある。
帰国子女を特別視することから生れる妬みからの反発、疎外そして村八分感情の抱く子どもと大人。私自身その様を幾つも見聞きした。一例。

「あの子たちはずるい」

勤務校は、特に関西では有名な難関校で、且つ英語教育は非常に充実し、中学部に入学するに当たり、進学塾の優等女子生徒が多く、『帰国子女特別入試(編入試験)』への抵抗感である。
尚、その勤務校は20年ほど前から中高大内部改革の一環もあって受け入れ校から撤退している。

 

これらの事例は、今、解決、解消しているとは、教師生活最後の10年間勤めた『新国際学校』と称されていた(今、いるとは言えないと私は思っている)、欧米系のインターナショナル・スクールとの日本で初めての協働校での様々な経験からも、到底思えない。それどころか、一層増しているようにも思える。
少子化と高齢化の現代日本が抱える大きな問題の、学校社会[学校教育]での側面がそこにあると思う一人だが、それについても何度か投稿しているので省略する。

つい最近、朝日新聞と[GLOBEインターン]という団体の方による記事を知り、愕然とさせられた。
帰国子女教育に携わる中で、40年も前に多くの関係者から教えられ、自覚した「帰国子女教育なる表現をなくすこと、なくなることが帰国子女教育である」に共感していた一人だったから。それが今も旧態然としてある事実。
社会変革、意識改革の実際の途方もない難しさ…。
因みに、帰国子女を表わす英語はないと欧米の教師たちは言っていた。世界を移動し、人生を深め、最後は祖国(母国)に戻ることの素晴らしさを思っている人たちなのだから。
以下、一つの啓蒙として書かれたと思われる二つの記事を基に、私なりの教師経験で得た私見を記す。

尚、現在、小中高校での帰国子女[海外在留期間1年以上]は、毎年12,000人を超える。
そもそも「帰国子女(教育)」を採り上げる場合、その帰国子女の海外在留時の期間、年齢及び在籍校を明確にしなければならない。それは、今もって帰国子女=英語ペラペラの偏見が蔓延し、「隠れ帰国子女」なる事象がなぜあるのかを理解するためにも肝要なことである。
具体的言えば以下の諸事項である。

○期間及び年齢  10歳前後に本人の言語根幹ができる(言語臨界)との学説に従えばなおさらで、どの年齢で、何年間、どういう学校に在籍し、家庭での言語はどうだったかによって、本人の言語力、学力等が多様となる。

○在籍学校種類  保護者の赴任等地域によって選択肢が限られる場合もあるので一概に言う危険性がある。

考えられる在籍学校種類
・日本人学校
・現地校(主には英語圏]
・インターナショナル・スクール(英語を第1言語とした国際学校)
[注]上記2校で「ESL(English as aSecond Languageの略)」クラスの
有無も重要な要素となる。
及び
・補習授業校(土日のみ開講で校長、教頭は日本からの派遣、教員は現地採用)への在籍有無

備考
上記の学校で複数校可能な場合、本人と保護者の帰国後をも視野に入れた意向が更に重要となる。
その他、塾通学や通信教育受講、また家庭教師等、広い視野で本人の背景を視る必要がある。
例えば、英語圏以外の現地校(「国際クラス」併設の現地校も含め)で精神的問題を抱えた生徒がある。

 

これらの前提を明示し、広く帰国子女教育を考えることは、偏見をなくす第一歩であると思う。と同時に、記事の受け止め方も変わって来るであろう。だからこそ「海外・帰国子女教育」との用語が成り立つのであり、言ってみれば帰国子女教育と海外子女教育は表裏一体要素を強く持っていると言える。
「純ジャパ」「変ジャパ」「半ジャパ」との(ジャパはジャパニーズJapaneseの短縮形であることが分かれば、その意味は理解できるだろう)揶揄的表現に記事も少し触れているが、それらの発話者の視点は、日本を軸、起点にしたそれであり、とどのつまり受け入れる側、教師・生徒の意識の問題である。どこまでも「大海の孤島」に拘泥するか、その気質を一つの風土として捉えながらも多様な世界を自然態で感嘆、得心し、自身の批評眼を持つか。柔らかな感性と複眼思考の必要性。

先に、私がインターナショナル・スクールと日本私学との協働校に勤めたことを書いた。英語力など公立中高校机上的学習の域そのままの私が、10年間の在職中に、インターナショナル・スクールの教職員・保護者・生徒からどれほど示唆、教示を得たことか。
このことは、日本を再考、再発見する良い機会ではあったのだが、不遜を承知で言えば、日本側学校での日々はほとんどがそれまでの繰り返しであった。

最後に二つの記事から若干の引用をし、私見を加える。
※「  」引用部分  《  》私見

「「TOEIC」テストの世界順位は40位」(因みに1位はバングラデシュ)

《帰国生徒に英語を期待するならば、聞く・話す・読む・書くの、何を、どういうレベルで期待するのかを明確にする必要がある。「英語ができる」の意味の多くが、先述のように聞く・話すだとしても、確かな4技能の英語力を持つ生徒自身が、話すでの発音(例えばイントネーションと方言)、文法(例えば敬語)の問題点を指摘し、一方で、英語力が中高校教科学習程度の教師、大人、社会はそれに気づくこともなく誉め讃えている。》

 

「漢字や地理などの日本特有の勉強ができなくなった代わりに英語ができるようになったのでトントン」との、帰国子女で現在20代の男性の発言。

《帰国が前提でない海外在留子女は別にして、帰国が予定されている場合、どっちかの発想ではなく、家庭でのわずかな時間で補いはできるはずである。
ただ、社会の教科書に関して、巻末の索引の固有名詞等漢字の振り仮名には、きめ細やかな配慮が必要であると思う。これは、大人が索引を上手に利用して効果をあげるように、帰国子女に限らず、多くの子どもたちにとっても同じではないか。
これと関連することで、帰国後の保護者の子どもの進路への意識(何かと異論の多い領域で軽率には言えないが、性差の違いも生ずる)、すなわち学校選び、が重要な要素となる。その時、夫が赴任している場合、母親の子どもに対する学歴や学力そして将来への希望図が非常に大きな影響力を持つ。そこに親子の会話、家庭力が求められる。もう20年以上前かと思うが、海外在留家庭を「囲炉裏型」の家庭と言った研究者がいた。
海外における日本人社会の閉鎖的タテ構図[例えば官庁関係、企業関係(大・中・小企業)等の位置関係は、国内で感ずる以上の強さで歴然として在るのだから尚更である。それとも、海外だからこそ共生感が芽生え、今では、国内に在る厳しい現実をとうに克服しているのだろうか。》

 

「日本では、みんな一緒が良いとされる。みんな一緒のランドセル、みんな一緒のうわばき、みんなで掃除しましょうみたいな。ちょっとでも違うとのけ者というか、変な目で見られます。アメリカだと、違うのは当たり前。」

《よく聞く話で、確かに日本の?学校の特性として指摘されることではあるが、学年、性別、地域また通学校によってさまざまな部分もある。
インターナショナル・スクール協働校での経験では、逆に日本の学校文化を誉める欧米人教師や保護者もある。例えば、掃除習慣。また朝のクラスホームルームの存在。》

 

「(アジア圏の)日本人学校での、生徒たちの行儀良さときれいな言葉遣いが、当たり前だと思っていたが、帰国して入学した学校の荒れた(授業態度、給食時の喧騒、廊下での疾走等)姿を前に疎外感を感じた。」

《小中日本人学校派遣の教師から何度聞いたことだろう。初めて準備、計画した授業ができる喜び。生徒たちの態度のすばらしさ。それもあってか、帰国子女またその保護者は、限られた公立校以外私立受け容れ校希望が多い。地域、家庭と学校の問題がそこにあると考えられるが、派遣教師が帰国した場合、“荒れた学校”に配属されると聞いたことがある。今はどうなのだろうか。(派遣教師の95%以上は公立学校教員)

 

「帰国子女の3つのタイプ。1つは日本語日本ベースの帰国子女。2つ目は滞在国の言語や文化がベースの帰国子女。あと、どっちつかず。」

《2つ目は、日本の現状から考えれば、ほとんどが英語圏からの、と思われるが、その生徒がどのような形で、それをベースにしているかが課題だろう。その時、同じ英語圏であっても、アメリカ・イギリス・オーストラリア・カナダでは教師の意識も違うことも理解する必要がある。2つ目のそういった生徒は、帰国子女を主としている受け入れ校がよりふさわしいとは考えられるが、日本でそのような学校は稀少である。ただ、それでも問題は噴出する。その際の大きな要因は、教師側の意識の問題にある。》

 

今では、国際化、グローバル化、宇宙船地球号等々の表現は、当たり前のようにある。 その表現と実態に思い及ぶとき、「国際語」としての英語と自身の関わり、価値観をしっかりと持ちたいものである。そこに、自身の中の日本(人)性がどのようにあるのかも含め。 1970年前後の海外・帰国子女教育から40年余りが経過し、その教育はどう変わったのか、また海外駐在員家庭環境また駐在員派遣形態に変化はあるのか、漫然ととらえるのではなく現在の視座から把握することで、海外・帰国子女教育が、国内の教育を、更には社会を映し出すことに眼を向ける、その意義の大きさを改めて思う。 それは眼を向ける人物の、(学校・家庭)教育観、(日本・世界)社会観の自己確認ともなるのだから。

2018年9月20日

君死にたまふことなかれ

井嶋 悠

生あるものはすべて死を迎える。その死を自ら手繰り寄せる人も少なからずいる。数年前まで先進国の中で非常に高い自殺率であった日本は、年々減少傾向にあるが、それでも世界で第6位(2016年段階)で、中でも女性の自殺は第3位とのこと。
一衣帯水の国・韓国が第3位となり深刻度が増して来ているが、ここでは、風土や社会背景等の国比較或いは、減少傾向での施策の成果を言うのではなく、日本の現状を量の問題ではなく、質の問題としてとらえられるかどうか自身を整理してみたい。

政治家が国民のために働くのは自明過ぎる自明だが、その「国民」解釈が違って来て(多様化して来て?)、言葉では「社会的弱者」を言うが、実態は「社会的強者」のための政治に堕しつつあるように思えてならない。心ある人は何を今更、と冷ややかに言うだろう。
だからと言って私は、野党を支持しようとは思わない。同じ穴の貉(むじな)(狐)。自己[自党]主張・正当化更には絶対化と相手への誹謗による集散の繰り返し。人間世界の縮図そのままの。
そもそも政治家に期待することが致命的に間違っている、心平和に、美味い食と酒を味わいたいなら、政治家の登場する報道を見ないこと、話題にしないこと、と言われるのが常態化しつつある現代日本。

なぜか“脂ぎった”=政治家のイメージ。議論の大切さを言いながら問答無用の高慢。言葉の弄(もてあそ)び。よほどのテーマでもない限り、無党派の、選挙に行かない選挙民が、数年前からほぼ半数。私も含め。ただ、ここ数年は意識して投票に行っている。覆う虚しさ。そこまで自身を貶(おとし)めたくないとの自己防衛本能の顕れ?選挙民の権利放棄と十分承知しつつも。
そして政治家に「いただいた国民の皆様の支持云々」と言わしめ、形容語(大小とか強弱とか美醜とか…)が、その人の価値観を表出するとの見方に立てば、戦前の不安様相を映し出すかのような言葉の数々。
学校教育、社会教育の緊要の課題。

 

先日、衝撃のニュースに会った。哀し過ぎる!
「2016年までの2年間で、産後1年までに自殺した妊産婦は全国で少なくとも102人いたと、厚労省研究班が5日発表した。この期間の妊産婦の死因では、がんや心疾患などを上回り、自殺が最も多かった。」全国規模のこうした調査は初めてとか。そして続ける。
「妊産婦は子育てへの不安や生活環境の変化から、精神的に不安定になりやすいとされる。研究班は「産後うつ」なのメンタルヘルスの悪化で自殺に至るケースも多いとみて、産科施設や行政の連携といった支援の重要性を指摘している。」
やはり政治無関心は無責任にして醜態で、いつしか「暴力」への呼び水加担者へ……。

キリスト者が人の死に際して言う。「神が、あなたは十分つとめを果たしたのだから戻っていらっしゃいと言われたのです」と。私も娘の死に際して、或るキリスト者からこう言われ、どこか心の落ち着きを得たように思えた。私はキリスト者ではない。が、キリスト教を批判、否定する者ではない。
この母たちにも神はそう言ったのだろうか。そうは思えない。あまりに哀し過ぎる。
キリスト教や仏教また儒教でも、その自殺観は分かれているようだが、私は自殺を悪とは思っていない。いわんや罪とは思わない。本人の哀しみ、激情そして葛藤、厳粛な意志決定を想像すればするほど。
しかし、周囲の哀しみを知ればなおのこと、積極的に肯定もできないし否定もできない私がいる。

日本の、物質文明社会が当然とするかのような現実での、貧困化という矛盾。過疎化と過密化の両極的動きの中での核家族化の功罪。華美な一面的情報の氾濫の、とりわけ青少年の心の揺れ。仕事と家事の両立に係る主に都市圏での政治の貧困、政治家の空疎な言葉。無記名の誹謗中傷を含めた膨大な発信、情報。それを直ぐに手元で確認できることの負の側面。
抱えきれないが抱えようとする生真面目さ。襲い来る将来の不安、孤独、寂寥との狭間での自問自答。常よりもより鋭敏に震える神経で生命(いのち)に、死生に思い及ぼす、と同時にそれらを否定しようとする葛藤。

支援が広がりつつある。そのことで思い留まった母もあるだろう。しかし、その支援を拒否する(拒否と言う響きが強過ぎるならば避ける)心も、不安定な時にある心の動きではないのか。鬱(うつ)、うつ病症。医師や専門職としてのカウンセラー、相談員のもとに行くことの、或いは来られることの、する側とされる側の相性感も含めた煩わしさ。「自分が弱いからだ、自分だけなのだ」といった自責感情。
知人友人親族等々様々な人々の貌が浮かんでは消える中、不安と寂しさに思い巡らせ、独りであることで、何とか心落ち着かせ自身に戻ろうとする自我の葛藤。これらも鬱の症状なのではないだろうか。
支援は大事なことだが、どこまでも人間と人間の問題として机上の空論にしないことの難しさを、私なりのこれまでの直接間接経験から思う。

自殺は、いつの時代も、いかなる国・地域にあってもなくなることはないという冷厳な現実をどう受け止めれば良いのか。あの戦争のように。問い続ける、人間が、人間とは?と、永遠に……。
いわんや、自身の分身である幼児(おさなご)を置いて命を絶つ、そのあまりの哀しみにおいてをや。
それでも自問したい。自殺を断罪するのではない答えの端緒を見い出したい。「自殺者が少なくなる、否、限りなくゼロに近くなる国・地域は、どうあればできるのだろう?」と。宗教に委ねることなく、自身の実感の言葉として。
やはり、もっと政治に厳しく関心を持つべきなのかもしれない。と同時に、日本の構成員の一人として、自身の代だけではない「私の想う社会の、日本の在るべき姿」を考えなくてはならないのではないか。
その時、学校教育の時空がいかに重いものかが、視えて来る。観念[知識]の言葉で留まるのではなく。

「君死にたまふことなかれ」とは、与謝野 晶子が、日露戦争(1904年~05年)に従軍する弟のことを切々と詠った詩の有名な一節だ。その詩を転写する。
この機会に、この歌が、一部で言われる反戦歌かどうかも併せて、改めて確認したい気持ちも込めて。

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる
暖簾のかげに伏して泣く

あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

その弟は、第2連にあるように、大阪・堺の由緒ある和菓子屋の跡取りで、戦争から無事帰還したとのこと。因みにこの戦争で死んだ日本人は11万5600人、ロシア人は4万2600人。そしてこの戦争後、日本は帝国主義列強国の一国として太平洋戦争に向かって行く。累積され続ける死者と歴史と現在。
今日本はどうなのか。私は浮き世を憂き世と思う質(たち)からか、ごく限られた国以外、日本を含め多くの国々が、己が一番、己が正義で、帝国主義国家を今も目指しているように思える。だから、先の報道はより哀し過ぎる。

私はこの歌を、反戦といった社会的な歌とは思はない。
平塚らいてう(1886~1971)との「母性保護論争」からすれば対社会意識の強さや、晩年の「ありし日に 覚えたる無と 今日の無と さらに似ぬこそ あわれなりけれ」との歌から、旧家の跡取りの弟を通して社会[国家]に物申す思いは取れなくもないかもしれないが、やはりこの詩は純粋に弟を想い、同時にかつての自身が実家から与謝野 鉄幹のもとに走ったことを重ねた、切々とした情の歌だと思う。

2018年8月31日

八月・「戦争」への想像力を ~死者・孤児・政府設置慰安所を通して~

井嶋 悠

今日、2018年8月が終わる。「平成」最後の8月である。

戦争は人が人である限り避けられないのだろうか。
最近の輿論調査によれば、「やや」を含め生活に満足しているとの回答が70%を超え、これまでで最高値だったとか。この基因の一つに「朝鮮戦争」「ベトナム戦争」の戦争特需があるとの視点はどのように受け止められているのだろうか。

1945年8月15日の敗戦(終戦)前、3月から7月にかけて沖縄で、6日広島で、9日長崎で、アメリカ軍による殲滅(せんめつ)と言っていいほどの攻撃にさらされた。(本来ならば、東京をはじめとする都市への空襲も採り上げなくてはならないが、ここでは沖縄、広島、長崎に留める。)
と言う私は、長崎原爆投下の2週間後、敗戦の8日後、8月23日に長崎市郊外の小村で生まれた。戦争を知らない世代のはしりである。京都人の父が、海軍軍医として赴任していた関係である。

「終戦」と「敗戦」との言葉遣い。当時の人々の安堵の情で言えば先ず終戦ではないか。しかし、日本国憲法に第9条の「永久」との言葉を省察すれば「敗戦」である、と私は思う。
戦争は、勝者であれ敗者であれ、多くの死者を意図的に作る最大の暴力である。それぞれがそれぞれの正義の旗の下、その正義のため大小を問わず権力者は、国民を、市民を有無言わさず戦場に駆り出し、殺戮を奨励し、そして弔う。何という傲慢、矛盾。

現代日本にあって、その戦争に不安、更には危機感を持つ人は身辺にも多い。ここまで猥雑に米国追従をしていれば、然もありなんと思う。暴力に麻痺し始めているようにも思える。憤怒憤激日毎にいや増すとは言え、私にとって日本がすべてだ。日本が好きだ。当たり前のことだが。
あまりにも「内向き」との非難を受けるだろうが、今の私には[国際(教育)]も[異文化間(教育)]も遠い思い出にある。とは言え、ここでナショナリズムとか国粋とかを持ち出す気持ちはさらさらない。
「輪廻転生」が事実で、次の生も人ならば(私自身、そうありたくないが、天が選択肢を与えてくれるのであれば海の一粒の小石になりたいと最近思い始めている)、日本以外に他など考えられない。そもそも他国・地域の人々には迷惑なことだ。未来永劫のご縁……。

私たちは、あの太平洋戦争で、沖縄戦で、広島と長崎で死んだ人の数を大枠でも承知しているだろうか。更には「戦争孤児」のことを。「防波堤」になった女性たちの、その国家施策のことを。
知らないのは私や限られた人だけかもしれない。しかし「風化」が一層危惧されている。風化はいつしか、悪しき権力者やそれを取り巻く人たちに翻弄される途に向かわせる。気づいたときは『いつか来た道』となる。杞憂ならいい。
しかし、少しでもその可能性があるならば、その責任は戦争を知らない世代の私たちにある。ここには世代差はない。否、若ければ若いほど責任は重い。次代を担う命なのだから。

感傷(センチメンタル)は安らぎと危うさの表裏である。これは自戒でもある。
因みに、北原 白秋の詩『この道』の歌詞は以下である。

この道はいつかきた道 ああ そうだよ あかしやの花が咲いてる
あの丘はいつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ
この道はいつかきた道 ああ そうだよ お母さまと馬車で行ったよ
あの雲もいつか見た雲 ああ そうだよ 山査子の枝も垂れてる

「人の命は地球より重い」。これは、先日、2歳の男の児を救出した、その人生、行動、言動、表情が証する純粋で高潔な人柄の“スーパーヒーロー”尾畠 春夫さん(78歳)の言葉である。
この言葉、旧来使われている。1970年代時の首相が、ハイジャックによる人質と服役中の犯人たちの同志との交換解放で使った言葉でもある。この首相の場合、いろいろと批評もあるようだが、尾畠さんの場合は注釈なしに重く深く響く。これを日本のそして世界の政治家はどう受け止めるのだろうか。虚しさについ襲われる。
だから、今回、私の欠如を補い、あらためて心に銘じたく、このような表題をつけた。


【戦死者】
 以下《  》は、私見或いは私的体験である。

 沖縄戦死者(1945年3月26日~1945年7月2日)

  日本 188,136人(沖縄県出身者122,228人(一般人94,000人、軍人・軍属28,228人) (他都道府県出身兵 65,908人)内、集団自決 約1000人・日本軍による住民殺害 約1000人

《高校時代の授業(だったと思う)で、沖縄の海岸の断崖から主に女性が次から次から飛び込む(中には幼児を抱え)映像が今も鮮烈に残っている。沖縄の歴史を知れば知るほど、私たちは沖縄の人たちに甘え過ぎてはいないか。カネと犠牲は常に言われることだが、私もとどのつまり内地の“富者”の身勝手な言になるのだろう。》

Ⅱ 広島被爆死者 (被爆後間もなくの死者で以後の死者は含まれていない)

約14万人(強制徴用の朝鮮人、中国人等。外国人留学生、米軍捕虜を含む)

《最初に(約45年前)勤務し18年間在職した神戸女学院は、主にプロテスタント系のキリスト教学校教育同盟校の一つで、広島女学院も同盟校であった。その時、被爆と朝鮮人をはじめとする外国人犠牲者の取り組みに大きな敬意の関心を持った。ただ持っただけだったが…。
また、原爆資料館を父大江 健三郎さんの子息光さんが、見学後ロビーで、父に「すべてだめです」(後に「です」と言ったか「でした」と言ったかで話題になったが、私は「です」と思っている。)の一言は衝撃だった。
昨年だったか、式典に登壇した首相に対して「帰れ!」との怒号が飛んだが、首相は一切意に介さず被爆国としての役割、責任を、「核兵器禁止条約」に未だ署名することなく、ここでもアメリカ追従そのままに述べた。尚、このことについては、最後に視点を変えて触れる。》

Ⅲ 長崎被爆死者 (被爆後間もなくの死者で以後の死者は含まれていない)

約7,4000人

《父は海軍軍医として被爆者の治療にも携わり、私が中高校生時代、その時の様子を聞いた。各家庭に油を供出させ、雑巾に浸して当てるだけが治療であったとか。原爆投下に限らず敗戦濃厚の情報は、当時砂糖をあまるほど所有していた軍人上層部、町の有力者、医師等特権?階層の一部の人たちは把握し、戦後に備えて部下等を動かし準備を始めていたとか。その人たちの戦後とは一体どうだったのだろう?と思う。京都に戻った父は大学内権力闘争?の煽りを食らって、何かと苦難の道を歩まざるを得なかった。》

Ⅳ 太平洋戦争死者 (以下の数字は概数)

日本人は軍人 330万人、一般人 80万人
朝鮮人は軍人 22万人、一般人 2万人死亡
台湾人は軍人 18万人、一般人 3万人死亡

[その他の国]
中国 1000万人  インド 350万人  ベトナム 200万人  インドネシア 400万人  フィリピン 111万人  ビルマ 5万人  シンガポール 5千人 モルジブ 3千人  ニュージーランド Ⅰ万人  アメリカ人41万人  オーストラリア2万5千人

《太平洋戦争の主導者は東条英機であったが、辞世の歌の一つに「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」があり、最後「天皇陛下万歳」とA級戦犯者の何人かと乾杯し、絞首台に上がった旨知り、無性に腹が立った。戦争責任問題は今も議論になっているが、天皇に関しては、当時の現人神としての存在、また幾つかの言動から、私は責任の一端はあるがそれ以上はないと思っている。
開戦の12月6日のニュースを聞いた多くの文人たちの言葉、それも讃嘆の、を見ればますます己が不勉強、怠惰を思い知らされ、戦後第1期生としてそのまま生きて来ている。》

【戦争孤児】

123、511人

[注]孤児とは両親がいないこと。 片親でもいれば「遺児」
・父が戦死、母が病死、または戦災死。
・両親ともに戦災死。
・母か父の片方が戦災死、片方の親が病死して、両親ともにいない子ども

《野坂 昭如原作のアニメ『火垂るの墓』は、心揺さぶる作品には違いないが、「毎年見せられてもういい」と、小学校時代の息子が言っていたのには思わず笑えた。元同じ教師として、学校側の企画の繰り返しは分からなくもないが、やはり“過ぎたるは及ばざるがごとし”ということか。
戦後の闇市を、生まれ持った?才知を発揮して駆け抜けた少年少女たち、将来への希望を見出せず哀しみと失意に生きた少年少女たち。澤田 美喜(1901~1980)の「エリザベス・サンダース・ホーム」を拠点に、生きることを得た少年少女たち。更には悪事に身を沈めた少年少女たち。……。
戦後の復興の基礎にその少年少女たちがあって今、他界した人も多い。》

【慰安婦】

1945年8月 連合国軍兵士による強姦等性暴力を防ぐために、連合国軍占領下の日本政府によって設けられた慰安所『特殊慰安施設協会』(国営国立慰安所!)。東京・横浜をはじめ、江の島・熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知、広島、静岡、兵庫、山形、秋田、岩手等日本各地で5万3000~5000人を募集。翌年3月連合軍の指示で廃止。しかし、多くの彼女たちが街娼等に。

《今もって「慰安婦問題」の十全な整理、解決しない現状にあって、日本は敗戦直後に、連合軍による性犯罪防止を目的に、『特殊慰安施設協会』なるものを政府が率先して創設した。このような例は、世界にはないという。翌年廃止されたとはいえ、創設目的とは裏腹に開設中にも連合軍による性犯罪は多発した。日韓合意・日朝合意は解決済みと言うが、上記のようなことにどれほど真摯に向き合って、戦後処理をしたのだろうか、同じ日本人として疑問は残る。

「男女共同参画」とか言葉は多く語られ、何と時には数値まで示されるが(そもそも数値を示すこと自体、男優位の「してやる」発想を感ずる)、戦後、謙虚に欧米の歴史と実状を学び、在るべき男女平等を、憲法第14条を持ち出すまでもなく、実施していれば、世界での女性の社会的役割度は最低レベルと指摘される醜態もなかったことだろう。にもかかわらず、やれ世界の、アジアのリーダー等々かまびすしく言っているが、大人として恥ずかしくないのだろうか。
これまでに公私で出会った女性(中でも30代以上)からその存在感、生きる性(さが)の自然態での強さを痛感する一人(男)としてひどく滑稽に思え、さびしくなる。言葉をそこまでないがしろにしていいものだろうか。
尚、戦争性犯罪に関して「引揚者、とりわけロシアからの」の残虐な被害実状も改めて心に刻まなくてはならないが。》

私のまとめと一つの書の紹介

戦争を知らない私は、これらの酷(むご)い事実をどれほど承知し心及ぼしているだろうか、とこの年齢、環境[年金生活者]の今、遅れ馳せながら自省、自責する。
結局は、経済が人生・生活のすべてとの考えに無感覚で来たのではないか。
1956年(私が11歳)の経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言され、1954年~1973年の「高度経済成長期」に、一方で公害問題、都市への人口集中による都鄙の格差拡大等、現在につながる問題が顕在化する中で少年期青年期を過ごし、40歳前後から50歳前後に「バブル時代」を、そしてその崩壊の時代を生きて来た一人として、己が意識の低さに汗顔恥じ入る。いわんや元教師の、二人の子の親として。言い訳に過ぎないが、だからこそ現在の日本に敏感になっているとも言える。

この心の無惨を若い人、とりわけ学校年齢の青少年、に繰り返して欲しくない。
想像力を培うことの意義。人が人の心に思い遣る力。ゆったりと、時間に追われるのではなく、自身の時間を持つこと。これが源泉、人生の礎だと思う。ではどうすれば良いのか。

学校学習でのあれもこれもの各教科教師の意識の見直し。塾(進学塾)の廃止。受け入れ側教師と送り出す側教師の教科内容に沿った意思疎通。“みんなしている”発想やマスコミの無責任に振り回されたかのような「おけいこ事」の整理。それらに伴っての入試改革。学力観、学校制度の根本的改革。
本来の「ゆとり・心の余裕」。新版“そんな急いでどこへ行く”のだろう?
少子化、高齢化社会だからこそ、千載一遇の機会ととらえ、制度の、意識の変革の好機にできないだろうか。

先日、こんな本に出会った。2000年に翻訳、刊行された『ヒトはなぜ戦争をするのか?』アインシュタインとフロイトの往復書簡を収めた書である。

これは、第一次世界大戦(日本も英米仏等23カ国の連合国として参戦した1914年~1918年の戦争)後、アインシュタインが国際連盟から、1932年「人間にとって最も大事だと思われる問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」との依頼を受け、精神医学者のフロイに送り、往復書簡が実現したものである。

[備考:
アインシュタイン/上記書の刊行後1年、ナチスが政権をとり、その年、アメリカに亡命。1939年アメリカ大統領ルーズベルトに核兵器開発を進言。1945年、広島と長崎の惨禍を知り後悔。1946年以降、核兵器反対を唱え続け、併せて国際連合に世界政府結成を促す。

フロイト/1938年、イギリスに亡命

〔参考〕1930年前後の日本
ファシズムの台頭・治安維持法の確立・満州事変・朝鮮侵略・国際連盟脱退

以下、二人の言葉から、今回の私の意図と重なるところを幾つか引用する。

【アインシュタイン】

「国際的な平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を完全に放棄し、自らの活動に一定の枠をはめなければならない。」

「国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ、自分の身を犠牲にしていく―このようなことがどうして起こりうるのだろうか。答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」

「「教養のない人」よりも「知識人」と言われる人たちのほうが、暗示にかかりやすいと言えます。「知識人」こそ、大衆操作による暗示にかかり、致命的な行動に走りやすいのです。なぜでしょうか?彼らは現実を、生の現実を自分の目と自分の耳で捉えないからです。紙の上の文字、それを頼りに複雑に練り上げられた現実を安直に捉えようとするのです。」

【フロイト】

「権利(法)と暴力、この二つは正反対のもの、対立するものと見なすのではないでしょうか。けれども、権力と暴力は密接に結びついているのです。権力からはすぐに暴力が出てきて、暴力からはすぐに権力が出てくるのです。」

「人と人の間の利害対立、これは基本的に暴力によって解決されるものです。動物たちはみなそうやって決着をつけています。人間も動物なのですから、やはり暴力で決着をつけています。ただ、人間の場合、(中略)きわめて抽象的なレベルで意見が衝突することさえあります。ですから、暴力とは異なる新たな解決策が求められてきます。とはいっても、それは文明が発達してからの話です。」

「人間の衝動は二種類ある。一つは、保持し統一しようとする衝動。(中略)これをエロス的衝動と呼ぶことができる。(中略)もう一方の衝動は、破壊し殺害しようとする衝動。(中略)エロス的衝動が「生への衝動」をあらわすのなら、破壊への衝動は「死への衝動」と呼ぶことができます。(中略)異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っていくのです。しかし、破壊への衝動の一部は生命体へ内面化されます。(中略)精神分析学者の目から見れば、人間の良心すら攻撃性の内面化ということから生れているはずなのです。」

85年前の二人の懸念、指摘は、“解決済み”だろうか。
万物の霊長は人間?先進国は文明国?国家愛と郷土愛と世界愛はたまた地球愛…。人間とは何かの問いの答えは、人類があるかぎり永遠に不可能?上昇のない螺旋階段?人間と自然と神(天)。
そして戦争が絶えることはない……。
そのとき、日本が日本らしさを自問し、できることはあるのだろうか……。

小独裁者?が時折頭をもたげる現代日本また世界。その浅薄な饒舌と巧みな暗示に惑わされないよう、己がゆとりを意識し、想像力を培いたいものだ。
重ねてそれは学校年齢段階の最重要課題でもある。

2018年6月28日

大人(おとな)になる・大人である

井嶋 悠

2020年から、成人年齢が、欧米の多くがそうであるように、18歳に引き下げられることになった。私たち[日韓・アジア教育文化センター]の仲間である韓国・中国は20歳のままであるが。現代の社会状況また教育事情、更には情報〔過多〕社会事情からも得心できる決定だと思う。

今回、「大人(おとな)」各人各様、世代、考え方、生き方によって「理想の、或いは善しとする大人像」は違うと思うが、私の大人像について自照整理したい。これも、数限りなく過ちを犯し、やっとのことで得つつある心中の、「他山の石」「人の振り見て我が振り直せ」である。

10年ほど前の発言である。
「最近、地下鉄などで老人に席を譲る若者が減りましたねえ。」
発話者は、私より少し若く、韓日で敬愛され(世代交代から主に50代以上の人々から)数年前に定年退官し、今悠々自適の日々を過ごしているソウルの高校の韓国人男性日本語教師である。彼は【日韓・アジア教育文化センター】の役員でもある。
その彼は続ける。「譲られる老人にも問題がある。譲られて当然との姿勢。そのことへの若者の反感反撥がある。韓国は儒教の国と言われているのですがねえ。」

 

「老人」を“印籠”とするかのように、社会的弱者であることに同情を寄せさせ、己が絶対の聴く耳持たず、持論を滔々と弁じ、傍若無人な振る舞い、障害者等に該当しないにもかかわらず優先駐車場に車を停め等々に、日本で、現住地で少なからず出会った高齢化大国日本の末席を汚す私は、彼の言葉に同意同感する。
これらは「好事門を出でず、悪事千里を行く」の類と思いたいが、併せて、昔は云々、とか田舎の人は善良だ、といった例の文言を言うつもりもない。それらは或る偏見だと思っている。
私たちの家は、関東北部の豊かな自然に囲まれた清閑の地にあり、この地域の居住者は10世帯。半数は移住者で、後の半数は地元の人である。移住者の4世帯は首都圏から(内1軒は別荘)、そして私たち関西からである。最近こんなことがあった。
この1年程野良猫が3匹居ついているのだが、その理由は首都圏からの移住者2人にある。1人は時折来る別荘族の老人(男性)で、来ては餌を与え己が猫愛を言い、もう一人は50代後半の男性で、こちらで単身〈家族は東京〉仕事をしている。後者は、不在中の昼になると「にゃんにゃんにゃん」と自分で吹き込んだテープを定期発信している。(さすがに今は止めている)
私たち夫婦は、その無責任に憤っているが、直接に言えず、そうかと言って市役所に言えば密告者として直ぐ特定され不快になること明々白々。
そんな中、先日6匹の子猫が現われた。当然、実に可愛い。私はひたすら抑制し、眼が合っても無視し近づかない。心切ないのはもちろんである。しかし二人とも一切知らぬ態である。二人は、それぞれに社会的上層人(何をもって上層とするかがあるが、ここでは富裕者としておく)で、一人など某国の子ども支援をしていてそれを吹聴している。
尚、私たち夫婦は、結婚以来継続して犬を飼っていて、現在5代目である。

気になって、犬や猫の「殺処分」の実態を確認してみた。
2015年度の殺処分数は、約8,2万頭(現在、哺乳動物は匹ではなく頭を使うようだ)[内、犬が1,6万頭、猫が6,7万頭。]1日に換算すると225頭。それでも自治体や民間団体の尽力で10年前の3分の1に減少しているとのこと。
放置し、殺処分に到る理由について、この調査では以下のように記されている。

『やむを得ない事情もあるかもしれないが、大半は人間の身勝手な都合による。例えば、引っ越し先に連れて行くのが面倒。世話が面倒。避妊手術をせず無計画に産ませた。可愛くなくなった。飽きた。』等々。

上記二人は、身勝手の一つの極ということだろう。
以前、殺処分の任にある人が、インタビューにその身勝手を怒っていたことを思い出した。
そしてペットショップでは、犬や猫が高値で販売されている。都心の店で、子犬、子猫が40万円50万円で売られて(この言葉自体、非常に抵抗があるが、そのまま使う)いるのを見たことがある。

一方で、東京都内でさえ問題が顕在化しつつある家庭の、子どもの貧困。更には、しばしば指摘される世界の子どもたち、大人の、貧困と内戦等による飢餓、命の危機の現在。
錯綜、不明の時代、現代……?否、永遠の!課題、難題。
高齢化と少子化の途を突き進む日本にあって、アメリカ・中国・ロシアの「大国主義」と一線を画し、「小国主義」(田中 彰[1928~2011]日本近代史研究者)「小国寡民」(老子)の再検討の時機ではないか、と思ったりもする。
反面教師だった一小市民の反時代的意見?

土地の人から「首都圏から来て山中に犬を棄てて帰る人がいる。」と聞いたこともある。他にも、大型家電製品を廃棄する人もあるとか。
言うまでもなく、ここで言う「人間」とは「大人」である。そして老人は、大人の先輩格である。

【付記】犬の養育には非常に経費がかかり、それは猫の比ではない。そして私たちは最近保険に入った。世は“癒し、癒し”の時代!?保険をもっと充実、拡大すべきと実感として願う。

いささか唐突、牽強付会の感を持たれるかとは思うが、犯罪統計を見てみる。
報道等を見聞きしていると、犯罪の過多を印象づけている人は、私も含めて多いように思うが、実際は逆である。例えば、私が25歳の時の1970年と今(2016年統計)では、特異な犯罪(例えばオウムサリン事件や相模原障害者施設殺傷事件)はあるが、刑法犯罪の全体数及び人口10万人中の発生率もおおむね減少傾向にある。「オレオレ詐欺」等の詐欺犯罪も。
なぜ過多の印象を持つのか、マスコミの取り上げ方(劇場型?ドラマ嗜好?)なのか、政治(家)の意図なのか(不安を煽ることでの支配管理指向?)、国際化のなせることなのか(不法外国人への転嫁?)…。
「島国日本」の長い歴史の自省と試練の過渡期なのだろうか。
いずれにせよ子どもに与える影響を思えば、すべての責は大人にある。
ところで、著しい増加傾向にあるのが「児童虐待」である。つい先日、あまりにも酷(むご)く哀し過ぎる『結(ゆ)愛(あ)ちゃん虐待死事件』があり、逮捕された父母は何を語っているのだろうか。
このことについては、私の教師及び親の体験からいずれ整理したいとは思っているが、ここでは参考に統計数字を挙げ、専門家の一節を引用しておく。

○相談件数  1990年    1,101件

2016年   122、578 件

虐待死   2012年   99人
(内、虐待死 58人  心中死 41人(この数は、2006年の142人をピークに以降、増減を繰り返している。)

○川崎二三彦氏・児童福祉司(1951年~)著『児童虐待』のまえがきより。

「保護者は子育てのさなかに、なぜかその子を虐待してしまい、虐待を繰り返しつつ日々の養育にたいへんな労力を費やす。他方子どもは、虐待環境から逃れたいと切に願いながら、同時にその保護者から見捨てられることを恐れ、あくまでも保護者に依存して生きていこうとする。だから児童虐待は、保護者にとっても、また子どもにとっても大いなる矛盾であり、必然的に激しい葛藤を引き起こさざるを得ない。」

「児童虐待の問題は単に関係者、関係機関、あるいは専門家等に任せるだけ
では決して解決するものではないということだ。児童虐待を生み出したのがわが国の社会だとしたら、それを克服するにも社会全体で取り組む、つまり私たち一人ひとりがこの問題に真剣に向き合い、考える必要があるのではないか、と私は思う。」

様々な場面、世相を通して、現代の大人は「カルイ・カルクなった」との苦言を聞くことは確かに多いが、では昭和の、大正の、明治の、江戸の……時代の人は[重厚長大]だったかどうか。先の犯罪統計と同じで、安易に言い切れるものではないのではないか。平成の30年間を迷宮の時代と言う人があるが。
ただ、情報の溺死寸前ほどの氾濫状況、匿名による責任回避の誹謗中傷の無軌道(と言う私は、現政府等のように制度化、管理化推進者ではない。だから難しさを一層思う)、また時間の余裕の無さは、過去にはなかったことだけは確かだろう。
メール等現代情報機器を使った陰湿ないじめ(子ども同士、大人同士、大人の児童生徒学生への)、そして自殺。石川啄木の「はたらけど はたらけど猶わがくらし 楽にならざり ぢっと手を見る」と状況等は違うが、経済大国にして先進国を喧伝する日本での[ワーキングプア]。

次代の日本は、18歳で社会的に大人として承認された若者に始まり、現20代30代40代50代60代の人々によって創られる。70代の私やそれ以上の世代は、それをあたたかく見守ると同時に、己が正負行為からの自照の言葉を送り、託し、何かの役立ちを願う立場にある。
もっとも、小学校同窓の一人(女性)は、病を抱えながらも、土日以外は毎日午前2時に起床し、自転車で仕事場に行き、現場を夫と切り回し、家事も疎かにすることなく精励している。
先日、或る70代後半の女性国会議員が、テレビ取材で意気揚々得々と現役宣言をしていたが、世の「定年」という現実、それぞれの場・世界で、悲喜こもごも心身尽くして来た人々を無視したかのような発言に、国政に係わる人の尊大傲慢を痛感した。大仰に言えば、そこに日本の病巣を見た。先の同窓生との質の決定的違い。

時代を、世相を端的に表わすと同時に、次代の創造の礎である「教育」に思い到らざるを得ない。
その私は、教師失格を自認しているにもかかわらず教育に発言しているのは、27歳の大人時から33年間の体験(私学中高校3校での専任教諭生活)が、“私の言葉”を少しは持ち得たと思っているからで、それは「反面教師」からの自照自省であり、且つ息子と娘の親としての自省の基でもある。

人間として生を得たからには、様々な欲望と自我との間で闘う宿命を背負わされていて、そこから逃れられるのは、自己鍛錬(様々な修業)か死以外にはない。葬儀の際の「お疲れ様でした。ゆっくりとおやすみください」の重い響き。
私をはじめ多くの人々は、とりわけ大人は、どこかで折り合いをつけ文字通り懸命に、一喜一憂日々刻々悶々悪戦苦闘している。私の投稿は、教師として過ごした、また親として過ごして来ている自身の整理であり、生への、自我への執着であり、そのための折り合いと言ってもいいかもしれない。

「五慾」と言う言葉が仏教にある。「五」は地球上の[木・火・土・金・水]と、天と地の交錯を表わしていると言う。「業(ごう)」と言う言葉がかすめる。

【参考】五慾
5つの感覚器官に対する5つの対象,すなわち形態のある物質 (色) ,音声 (声) ,香り (香) ,味,触れてわかるもの (触) をいう。これらは,欲望を引起す原因となるので五欲という。財欲、性欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲の五つも五欲という。

 

大人(たいじん)になることは、難行だが憧憬でもある。しかし私は、それにはほど遠い小人(しょうじん)である。時には小人こそ人間らしいと居直ったりもしている。そんな折、この地への移住を決断した妻、それに何ら異議を示さなかった私。「婦唱夫随」。
得た座学ではない学び。自然の体感。そして6年前の娘の死。自照自省への意思が頭をもたげ始め、投稿をはじめて3年が過ぎる。と言って小人を脱け出たわけでもない。ただ私の中で何かが変わったとは思っている。

現職時代、議論の大切さを唱えながら「聞く耳持たず」の独善家、社会変革を言いながら「事大主義者」、慇懃無礼な何人かの大人(おとな)(教師)、それも社会的地位のある人々や、生徒を直接間接にハラスメント対象とする大人(教師)に出会った。小人を棚に上げ、強い苛立ち、憤慨を、そこから嫌教師観を持ったが、今、幾つかの心の層を経て、少しは澄明度が増したのか、その人たちは私の心から消えつつある。遅ればせながら、である。
因みに、前者の大人について言えば、内二人は、辞職を決意させるほどに私の人生を大きく変えた人たちである。

完全な或いは完璧な大人など、世界広しと言えども無いと思う。あれば神も仏も無いはずだから。
かの一休禅師は「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」と言ったそうだが、死に際し、盲目の側仕えの女性(森女)に「死にとうない」と言ったとか。

精神的視点からの「大人像」(条件)を記した文章(筆者不明)から、要点を順不同で挙げる。

《成熟している、思慮分別がある、感情的でない、単眼的でない、長期的大局的判断ができる、自立している、言動行動に責任が持てる、自律できる》

どうだろうか。要は、寛容にして泰然自若。これまでに出会ったそういった人たちの貌が浮かぶ。
ただ、己に照合すると、引用した言葉自体の意味確認も必要であるが、それぞれ反対表現を考えると茫然自失、頭がくらくらして来る……。
大人になって半世紀余り、大人であることの難しさ。

2018年2月13日

『日韓・アジア教育文化センター』回顧   ~韓国・高校・日本語教科書DVD制作の節目に感謝をもって~

井嶋 悠

                はじめに

昨年(2017年)夏、7回目[内、6回は本センターの仲間で、日韓を越えて対話の出来る韓国人男性の高校日本語教師・朴(パク) 且煥(チャファン)先生が主幹で、1回は中学校用を含む。もう一件は、急な事情でセンターの仲間ではない別の韓国人日本語教員主幹のもの]となる、韓国の高校用日本語教科書映像版【DVD】制作に携わった。
[附:文末に撮影の「実際」のリンク先を掲示]

 

私にとってこの活動[事業]の最後になると考えていて、また朴 且煥先生も恐らく最後の教科書執筆になるだろうと話していたこともあり、一つの節目として、今回この撮影活動の顛末と私感をまとめることにした。
これが、現在の日韓問題への、また“未来志向”への日本での有用な参考となることを、更には日本として、アジアを、「国際」を考える何らかの示唆となることを願っている。

 

『ソウル日本語教育研究会』との出会い、或いはDVD制作に到るまでと私

そもそも『日韓・アジア教育文化センター』なるもの、少数の限られた人だけが知る、いわゆる知る人は知る、知らない人は知らない存在ではあるが、発足者の一人として自己史と重ねた概要を記す。本センターの骨格の一部であるとの自負も含め。

尚、活動内容、活動実績の詳細は、ホームページ【http://jk-asia.net/】を視ていただければ具体的且つ全体的に理解いただけると思う。

Ⅰ 或る学校法人理事長の厚意、或いは苦境が幸いをもたらす

日韓・アジア教育文化センターの源流は、1990年までさかのぼる。
当時、私は公務の、それが私事にまで及ぶ自身が招いた艱難辛苦を実感する時期にあった。その時の支えは、私の公私すべてを呑み込み、言葉で表わすことなく、日々を『一日生涯』精神そのままに、二人の幼少児の母親である妻であり、幽かに光明感じさせる言葉を与えて下さった数人の方々である。

私が自身を「日本語知らずのモノリンガル国語科教師」であることに、身をもって知らしめたのは、ひときわ偏差値の高い生徒が集まる女子中高校に赴任したこともあるが、外国人高校留学生やインドシナ難民への日本語教育体験、また帰国子女教育の体験が大きい。
それがあって、私は国語(科)教育と日本語教育(日本語を第2、第3…言語とする人への教育)の、“タテ(縦)”のつながりではない、“ヨコ(横)”のつながりからみえて来る国語(科)教育の在りようを考えたい、と小中高大のごく一部の教員と研究会『関西日本語国語教育研究会』を発足させ細々と活動を続けていた。尚この国語(科)教育と日本語教育の関係は、今もってタテ関係、別領域として当然のように意識されている。

一方で、私の教師原点である勤務校から、夢を追って飛び出したはいいが、赴任先の校長とその人物に追従(ついしょう)する一派の社会的虚偽に強い懐疑を持ち、彼らから言わせれば後ろ足で泥をかけるようにわずか2年で退職した。
しかし、組織の不可思議さとでも言うのだろうか、退職したにもかかわらずその学校を含む法人(小学校以外、幼稚園から大学までを開設)理事長の厚意で、法人全体の『国際理解教育センター』を創設し、非常勤講師として同法人の別の高校に在職し、家族の糊口をしのいでいた。

そのような折、二つの貴重な機会を、やはり理事長の厚意で持つことになる。
一つは、1993年、韓国との出会い。
一つは、1995年、カナダでの福祉教育或いはその社会的実践の見聞。

Ⅱ カナダの障害者教育と実践の見聞[1995年]

後者は、カナダのモントリオールを基点に、主にダウン症の青年たちで構成されるレストランと彼らによる影絵ミュ-ジカル上演事業〔団体名「Famous People Players」〕活動である。本国だけでなくアメリカの心ある人々に支えられ、ブローウエイでの上演実績もある。
私に与えた感銘は大きく、彼ら彼女らから、阪神淡路大震災(1995年)で浮かび上がった社会的弱者の問題への啓発を得たく、日本(神戸)招聘を試みたが、私の能力、力量を遥かに越え、私の中では頓挫した。ただ神戸の福祉団体・機関の尽力で来日が実現した。このような事情から、それがどのような波及効果をもたらしたかは詳らかではない。

Ⅲ 『ソウル日本語教育研究会』との出会いと『日韓・アジア教育文化センター』発足へ

1990年、一衣帯水の韓国・ソウルで日韓国際理解教育(或いはオープン教育)が開催された。
ここで言う国際理解教育とは、『国際理解教育事典』(1993年刊)の「国際理解教育の目的」から要約すると、「宇宙船地球号」の一員として「経済大国」の日本は、何をしなければいけないのか、どのようなパートナーシップをもって、国際意識を育成するのかをテーマとした教育なのだが、私は参加を希望し理事長の許諾を得た。
しかし、「国際(社会・人)」の意味理解が不十分だった私は(今は私なりに得心できる解釈要素はあるが)、世界の日本語教育の約40%を占める東アジア地域の中等教育機関[中学校・高等学校]で最も多い韓国の現状を、この機会に知りたく思い、韓国人日本語教師の紹介を知己の日本人教育研究者に依頼し、実現した。
そこで出会った一人が、創設間もない『ソウル日本語教育研究会』の役員で先の朴 且煥先生である。この出会いが、中国や台湾の日本語教師との出会いにつながって行く。
『日韓・アジア教育文化センター』の名称由来が理解いただけると思う。
名称決定時「教育・文化」との思いもあって、以後1994年から始めた「日韓韓日教育国際会議」「日韓アジア教育国際会議」では、2011年まで続き、広く文化視点からテーマも採り入れている。

その時、私の心底に岡倉天心の『東洋の理想』の冒頭に触れた時の興奮、また鈴木大拙の「日本的霊性」との言葉への直覚が、夢想的憧憬として非現実性を重々承知しながらも横たわっていた。
と併せて、江戸時代の朝鮮通信使一行と彼らを迎える江戸の人たちを描いた木版画に登場する、好奇心(野次馬性)と感嘆の一市井人と同様の感情。

ここであの「大東亜共栄圏」に触れておく。
「あれは当時の私たちにとっても理想だった。ただ日本は行動において大きな過ちを犯した」
これは、阪神地域の大韓民国民団の、阪神淡路大震災で心身疲弊の極に達した親交のあった或る団長の言葉である。

【余談・後日談】その1

朴 且煥先生ともう一人の先生との夕食後の言葉。「会長命令で女性[ホステス]のいる酒席への案内を言われている。いかがでしょうか。」との問いかけに私が辞退したところ、「これまでに来られた日本語教育関係日本人は、ご自身から願われる場合もあったのですが……。」と。
朴 且煥先生曰く「お断りにならなかったら、今日の交流、協働はなかったかもしれない。」
私たち相互理解の会話の唯一無二の潤滑油は酒で、その場には女性教師もいた。

Ⅳ 映像作家たちの出会い

1994年に始まった交流(国際会議)の過程の中での、若手の映像作家たちとの出会いが、或る時の会議の映像記録制作となり、それが教科書のDVD制作につながって行く。
その作家たちとの出会いを創ったのが、苦境を経て当時『新国際学校』(2001年に日本で初めて創設された、私学一条校《私立学校》とインターナショナルスクールとの協働校)と称されていた中高校在職時に出会った、インター校在籍のS君である。彼は卒業後、ニューヨークの大学で映画を学び、帰国し、東京で活動を始めていた。
更には、初期の会議での朴 且煥先生の模擬授業「歌って学ぶ日本語」の講師をしてくださった方も、先の知己の人の働き掛けで実現し、その方とは現在も交流が続いている。

【余談・後日談】その2

S君との出会いは、彼が中学3年次での日本側の国語授業への参加〔彼の父は日本人・母はイギリス人〕と、在籍の大阪インターナショナルスクール(第1言語、共通言語は英語)で実施されていたIB[国際バカロレア]教育課程での「日本語」である。
ここ数年、IB教育が一部の教育関係者で話題になることが増え、本来はフランスが出発点で、世界の多くのインターナショナルスクールで展開されているが、日本の私学一条校でも採用されつつある。
ただ、その相違については、「日本語」プログラムが或る条件のもとで実施されているとは言え、十分な検討、確認が必要であろう。尚、昨年(2017年)日本で「IB学会」が創立されている。
日本で、10数年前、「横断的総合的学習」(総合学習)が導入されたが、「ゆとり教育」総批判と歩調を合わせるように過去の遺物と化した感がる。とりわけ「横断的総合的学習」(総合学習)にはIB教育に通ずる内容もあり、小中高校一体で考えなければならないにもかかわらず、それぞれの現場任せにしての対症療法的施策には、他の施策同様、日本の限界を感ずると言えばあまりに傲慢か。

日本語教科書映像補助教材[DVD]制作

韓国では、大統領が替わる毎に、教育課程の見直しに合わせ、教科書の改訂が行われ、その都度、教科書編集と新たなDVD制作が必要になる。ただ、DVDはあくまでも補助教材であり、編集・制作の必要条件ではないので、筆者や出版社によってはないところもある。
改訂とは言え、根幹はほぼ同じで(中学校用も含め)、日本への1年間の留学生(女子生徒)を中心に、学校・ホームステイ先・街等での、様々な会話で日本語基礎習得が図られる。

以下、撮影に入るまでの経緯と私なりのコメントを記す。
撮影日数は3日~4日に凝縮して行われる。多くは11月~12月にかけて。一度だけ夏に撮影。
スタッフは、先述したS君を端緒として知り得た、映像作家、デザイナー、著述業等5人で、彼らはすべてフリーランスで活動している。

学校探し[発音の関係、東京の街であること、との希望から首都圏に限られる]

受け入れ校(撮影許可、協力校)が決まれば、3分の2が達成できた感があるほどであるが、それは言い換えれば最大の難関でもある。国際交流団体、機関に打診、依頼する方法もあるが、私自身が意思疎通に不安を持つこともあり、それは最後の最後の手段と考えている。主人公の留学生役は、許諾いただいた学校の生徒を基本に決定するが、希望者等ない場合、一度、外部機関(例えば、日本語学校等)に打診し、選出したことがある。(有償で)学校関係での撮影内容 [以下、その都度いささかの変更もあるが、基本共通事項を記す。]
そのような中、埼玉県内の公立中学校・高等学校、神奈川県内の高等学校、東京都内の私立高等学校に、知己の教員の尽力で実現した。
基本は、これまでに出会った学校関係者で、私たちの良き理解者への打診であるが、私の教職時代がすべて関西であることもあって、首都圏の場合、非常に限られて来る。

※ホームルームクラス
※職員室・図書室・保健室等
※部活動
※昼食(食堂)
※登下校

【許諾された校長からの苦労談】

○学内協力者(生徒・教職員)の決定

○交流が韓国となることでの保護者会の不一致[嫌韓・反韓感情…]

○ホストファミリイの決定(保護者会への依頼)

○教職員、保護者への周知徹底と合意形成

○学外撮影(羽田空港・浅草等都内)での引率問題

○公立校の場合、教育委員会との連絡、手続き

 

ホストファミリでの撮影内容

※父母兄弟(姉妹)との会話、また外出
※食事場面

【許諾された家庭の苦労談】

○父母の出演[不可の場合、学校教師も含め外部者に出演依頼した
ことがある]

○食事等での材料また出前等調達
[ほとんどの場合、私たちが事前に購入準備]

○韓国側の希望部屋への対応[時には若干の模様替え。
もしくは学校内の和室等を代用]

 

街中での撮影内容

※祭りと露天(夏祭り、たこ焼き等)
※食事(お好み焼き、カレー等)
※部活動試合
※見物(浅草、スカイツリー等)
※空港での送迎

【スタッフの苦労談】

○事前場所確認と場合によっては事前予約

○撮影の際の関係者以外の人々への細心の注意と配慮

○時期外れ(部活動試合、祭り、露天〈金魚すくい等〉)の場合の写真
との合成作業
[金魚すくいの場合、スタッフが金魚卸店を事前に見つけ、そこで
撮影(冬期)]

○撮影器具等の管理と運搬

 

《撮影終了後の韓国・出版社との編集作業に関して》
これは、上記スタッフの監督が中心となって行うが、韓国の「直近文化」(これはこれまでの経験で、何事も直前に怒涛のごとく行動するのが韓国国民性と思える、私の勝手な表現)と日本的慎重さと締切の問題から、なかなか微妙な問題を抱えることになる。
経費問題
これまで為し得たのは、先述のスタッフ5人の理解と献身、そして出演等、時に無償で、受け容れて下さった方々の協力以外何ものでもない。

日本円と韓国ウオンの交換比率が概ね1:10の経済事情、及び教科書出版会社[韓国]の予算構成から、制作費は出版社予算と日本の一般的予算はほぼ1:2で、妥協点をどこに求めるかが、現実的なもう一つの大きな課題となる。

撮影は数日の限られた時間だが、その瞬時々々の何と濃密なことか。終了したときの安堵と喜びと疲労がそれを証している。
私の役目は、無事故で終わるよう遠目から見守ること、休憩時、昼食時に買い出しに行ったり、会計をすること、そしてロケ隊が出掛けたとき荷物の見張り番留守番役といったところだろうか。
私の到らなさからの関係者への失礼、失態は察して余りある。
一方、
出演を承諾した生徒たちの活き活きした表情。監督・スタッフの指示を聞き、心から楽しむ姿。DVDを見聞きしはしゃぐ韓国の高校生の姿が眼に浮かぶ。無意識の国際交流の実践。

或る協力校で教員が言った「この子たちは褒められたことがないんです」との言葉の重たさ。

出演した高校3年生の或る生徒が言った「まだ将来の見通しが立たない」との言葉の重たさ。

協力くださった学校関係者、それ以外の方々への深い感謝は、あらためてここでことさら言葉に表すまでもないだろう。
私の教師時代とそれ以降の私を、幾多の様々な貌(すがた)を思い浮かべ静かに省みる時間を持てる幸い。

ありがとうございました。

 

DVD内容のリンク先   https://vimeo.com/255377059/ca13e62d62

2017年5月17日

[犬好き・猫好き] ―元教師の学校回顧方々―

井嶋 悠

プッシィ キャット[pussy cat]。かわいい人(主に女性への呼びかけ)[『グランドセンチュリ英和辞典(三省堂)。]「主に」との真意も、せいぜい「かわいこちゃん」ぐらいしか知らないが、子猫のあの表情、姿は犬に優るように思う私は、しかし犬好き“派”である。時の流れは、愛も変容するとは言え、「かわいさ」に上下区別などあろうはずもないが、である。このかわいいを、漢字交じりにすると「可愛い」。「愛」を[いとおしい・かなしい]の両意を想う私としては、それが「可・できる」との変換には、ふと微笑みが起こる。
その私は40歳前後以降犬を途絶えることなく飼い、今、1歳の男の子がいる。夫婦で「私たちにとって最後かもしれないね」と言いながら。

因みに、先の英和辞典で[cat]を引けば、二つ目の語義に「意地悪女」とある。意地悪、とは凄いが、世智的に賢い人は、男女を問わず概ね意地悪とも思える。もちろんこれは私の劣等心の為せる独善で、女性の強さへの男性からの一方的的印象に過ぎないが、“母性”を憧憬する男性に共通するのではないかとも思ったりする。女性の意地悪さに快感!?を覚える現代日本の男性?
猫は賢い。犬はバカだ。(関西人の私だが、私の語感としては「あほ(う)」よりバカなのだ。)

夏目漱石は、自宅に迷い込んだ黒猫を主人公にして傑作を著す。内容の思索性は主たる猫で、おかしみは犬、と言えばあまりに牽強付会か。漱石は猫の死に際して墓碑をつくり、死亡通知を知人等に送付したとのことだが、自身は二者択一的に言えば犬好きだったとか。
かの、映画『男はつらいよ』の名セリフの一つ、おいちゃんが寅さんに言う「バカだねえ、ほんとバカだねよねえ」の、あの響き。

雑文に余談を加える。
あの響きは森川 信(1912~1972・何と還暦の若さ!で亡くなっている。才子は短命!?)だからこそ出せた響きだ、と後継の二人には悪いが思う。そう思って渥美 清(1928~1996)を思い浮かべると、日本伝統大型犬の秋田犬の風貌に似ている……。
私は3か月後に人生72年を迎える。その間自身を賢いと思ったことはない。もちろん、親(とりわけ父親)はもちろん、生徒学生時代の教師を含め他者から賢い評をされたことは皆無に近い。だから、私は犬に(無礼を承知で)感情移入するのかもしれない。子猫時代を終えたあの賢い(醒めた)風情はどうも近づきにくい。

[『男はつらいよ』からの更なる余談。]
妹「さくら」役の倍賞 千恵子さんの猫的、氏の実の妹・倍賞 美津子さんの犬的な、その女優性。かつて千恵子さんの演技力、存在感に圧倒され、心酔していた私だが、最近、美津子さんに千恵子さん以上のそれを感ずる。それが表現の直接(直截)性、間接(象徴)性と加齢(老い)そして死への嗅覚につながるのか、単に私の気ままなのか、よく分からないが。)
世で多く言われている「犬好き・猫好き」の特性をインターネット情報から勝手に要約すると、以下のようである。

【犬好き】
感情表現が豊かで積極的で行動的・寂しがり屋・思いやりが深い・尽くすことが好き・安心感への希求が強い。

【猫好き 】
物静か・マイペース・ツンデレ好き(このツンデレという言葉は初めて知ったのだが、「つんつん」と「でれでれ」を複合した言葉だそうで、要は気分屋と私は理解している)・心配性だが冒険好き。
また、或る研究結果では次のような指摘もあるとのこと。 「猫好きは犬好きより内向的で感受性が強く、独創的な発想を持ち、猫好きの方が、知能指数が高い。」 自照し、旧知の人々を思い起こせば得心できることは多く、且つ33年間の中高校教師生活が見事に甦る。ただ、「知能指数」については、知能指数そのものに懐疑的だから全く疑問ではある。

日本の古代からの絵巻物を見るとそこかしこに登場する犬と猫、人とのつながり。歴史としては犬の方が古く、生活(実用)と愛玩(この愛玩の用法、手元の『現代国語例解辞典』・『漢語林』及び『グランドセンチュリ英和辞典』(pet)でも軽侮的説明はないが、「玩」の意味にはあって、「愛玩」は時に軽侮の意味合い(ニュアンス)で使っている思うこともあり、猫好きは女性のイメージ(smart & cool)が強いだけになおのこと抵抗が湧くが、他に適切な用語が見つけ出せないのでこのままにする)で言えば、犬は生活(実用)との併用傾向があるが、猫は愛玩であろう。

清少納言は『枕草子』で、犬に係ることを2か所(それも生活と愛玩それぞれ一つ。やはり才媛だ)で書いている。 章段順で言うと、9段で彼女の犬好きを偲ばせる「愛玩」を、23段で「生活(実用)」に係る彼女の感性として。

【9段の要旨】清少納言が仕える一条天皇が溺愛していた猫を、同じく飼われていた犬(名:翁丸)が、周囲の者たちのからかいに、まるで言葉が分かるかのように乗って脅かせたことで打たれ、棄てられる。しかし、あろうことか帰って来て、作者も含め翁丸を案じていた人々と感動 の再会を果たす。

彼女は、その翁丸を「しれもの(痴れ者:バカ者)」と、打たれ棄てられる段階で形容しているのだが、それは「あのおバカさん」との、犬好きからのニュアンスであることは、翁丸との再会での翁丸と彼女の心の交流描写からも明らかだと思う。おいちゃんの寅さんへのあの表現と重なって私には響く。

【23段の要旨】すさまじきもの(興ざめするもの・不快感を与えるもの)の冒頭、彼女が挙げている事。
ほゆる犬。」

今日、愛玩が主流で、猫にしても犬にしても家族の一員、それも家族構成者として、との感覚は、家族内間の呼称表現からも日本的とも言われる。だから無責任な飼い方は非人間的(非人道的)と糾弾される。更にその入手、飼い方が、欧米と違ってあまりに情的(感傷的)なこともあって、結果からの糾弾にはより拍車が懸る。

先の[犬好き・猫好き]が、学校社会を彷彿とさせる私的根拠は以下である。

先ず学校。
家庭のしつけまで学校に委ねられるほどに家族的なことを善しとする時代。(その善し悪しは、小中高大の組織上のこと、塾との関連を含めた学力観、また時代様相或いは日本の方向性等考慮しなくてはならないことが多いので今は立ち入らない。)
生徒。
中学2年生前後あたりから、猫派に行く者、犬派に行く者が、はっきりし始める萌芽思春期前期の昂揚。尚、中学2年生前後は心身急成長もあって、自・他へ“厳しい”時期であることは今も変わらない。

教師。
教師間にあっても、生徒間にあっても孤独な存在で、極一部に神的(仙人的?)な人もなくはないが、つまるところ一介の人間で、「教室では殿様(大将)」と言われ、時には体罰までして従わせるのはその裏返しとも思える。そういう教師を教育熱心と評する人もあるが、それは教師であることの甘えと驕りを助長するだけだと思う。
職員(教員)会議・教授会のタテマエとホンネ、総論と各論の交雑した時間は、何度かの会議議長経験からも否めないし、周知のこと…?
もちろんこれらも自照自省での発言。

その教師に先述の犬好きの[感情表現が豊かで積極的で行動的・寂しがり屋・思いやりが深い・尽くすことが好き・安心感への希求が強い]を重ねると大いに得心できる。
とすれば、猫好きの教師は犬好きより精神的苦労(悩み)が多いことが考えられるが、「猫好きは犬好きより内向的で感受性が強く、独創的な発想を持ち、猫好きの方が、知能指数が高い。」は、高校生に支持される可能性が高いように思える。
私の女子校、男女共学校体験(男子校はない)で言うと、学力優秀生徒は概ね女子ではあった。

あらためて教育の難しさとの当たり前のことに行き着く。公・私立学校の別なく種々多様な学校。一例を挙げれば、中高校(13歳前後~18歳前後、人生80年の現代日本で人生15%ほど終えた年齢)段階で、学力差(勉強ができる/できない)からの“不明”の謙虚さに、疾風(しっぷう)迅雷(じんらい)の速さで諦めに、少年少女を追い込むほどの学校差。

学校が多様であれば、「良い」先生像も多様なはずで、ここでも形容語の主観性、私感性に思い及び、教師晩年期の少しは自身の言葉で話す余裕が持てた時、生徒たちに、とりわけ「表現」に関して、形容語はその人の生き方・価値観を表わすからくれぐれも要注意と繰り返し諭したことが懐かしい。これは私に言い聞かせているだけだったのだが、
いつも思う。どうして大人は、大人による子ども・若者への、教師による児童生徒への【いじめ】の、調査の有無に始まり、実態を積極的に世に問わないのか、と。既に公表されていれば私の不勉強。
[国づくり・世づくり・人づくり]の形容語はいつも!「民主的・平和な・優しい」……。
教師資格取得の必修科目『教育論』関係の観念性は、当然批判の対象にあるが、理論と実践(現場)を知ってこそ批判できるとの弁(わきま)えも、おびただしい失敗と試行錯誤から持ち得たこと。
犬も猫も人の心を痛切に癒す。人は、私は切々と「哀・愛(かな)しみ」を直覚する。以心伝心…。

深く心沁(し)み入る叙情歌(バラード)『You raise me up』(『シークレット・ガーデン』〈アイルランド人の女性/ノルウエー人の男性のデュオ〉・2002年)「あなた(おまえ)は私を元気づける、奮い立たせる」の意。
「ストレス」との言葉が、日本社会で常用語となり、心身不調の自然にして当然の弁解語とさえなって、どれほどの年数が経つだろう。

大都会の犬・猫販売店では、当地での一般的価格は破格的廉価で、40万円50万円は当たり前のようになり、中には100万円の評価!?を受けた子犬、子猫が特別ボックスに鎮座?する。血統とか、コンクール賞等々でそうなるのだろうけど私にはその差はとんと分からない。

更には医療費の膨大さ。我が家の最近の犬2代が世話になっている医院は、非常に良心的とされているが、1回の診療費が1万円以下は珍しい。昨年飼い主の娘を追って逝った犬の晩年期の医療費を教訓に、保険に加入しているが、それでも特に春先の予防接種等初期必要額は、年金に大打撃を与える。
その医院でのこと。若いお母さんが子犬(娘さんが拾って来た犬とのこと)の予防等診療支払時の呆然絶句していた顔が忘れられない。帰宅後家庭内会話はどうであったろう?
私の家から車で30分も行くと、そこは那須連山の麓の温泉湧き出る高原(リゾート)地で、宿泊関連等レジャー施設、別荘、ペンションが幾つも在る。大都市圏から来た一部の人が、愛玩しているはずの、犬や猫(多くは犬のようだが)を棄てて帰る、との話を土地の人から聞いたことがある。そのとき妙に納得し、同時にそういう自身を懐疑し、嫌悪する感覚に襲われる。しかしこの感覚はいつしか過去のこととなる無惨。

自然との共生を己のものとし、行動しなければならない時代に生き、私は、花を、野菜を、そして犬を育て慈しむ幸いに、5年前23歳の娘を天上に送ったとは言え、今在るが、どれほどに言葉(観念)を弄んでいることだろう。
デジタル・国際社会にあって私のような英語もできない(学習から逃げていた)アナログ人は、黙って立ち去って行くべきなのかもしれない。それでも、学校改革、教育改革は、社会改革があってのことではないかと、理屈的にはその逆なのだろうけれど、想う。

日本はいつごろからこれほどに成金の、放言の「幸(さき)はふ(栄える)」国家となったのだろうと、昨年秋、九死に一生を得、幸いにも先月古稀を迎えた妻と、氾濫するマスコミ情報下、溺れ死なないよう何とか息を継いでいる。
ここには、“三代続く”江戸っ子下町育ちのカミさんと一応京都人の私の間に異文化はない。「下町の人情」の、「京都人」の、負の変容への残念さとさびしも加え。

2017年4月5日

「汝、自身を知れ」 ―那須・茶臼岳での遭難事故からの自照自省―

井嶋 悠

後悔先に立たず。
人生、経てば経つほどに後悔幾重にも、と思うは私だけだろうか。
後、1週間もすれば娘が、23歳にして憂き世穢土から浄土に旅立って5年が経つ。「一日一刻が永遠」の浄土にあっては、悪業宿業にも似た後悔など、その言葉さえあろうはずもないのだろう。
親としての後悔。教師としての後悔。そして生きて来た途での後悔。
娘に憂き世穢土を知らしめた一つに学校教師があることを思えば、私が教師であったことの「後悔先に立たず」の天のとんでもない皮肉。難詰。

子が親より先に死に向かう、子の、親の、極まりない哀切。
恥ずかしながら、この歳になって『かいなでて 負ひてひたして 乳(ち)ふふめて 今日は枯野に おくるなりけり』(良寛)との歌を、『日本の涙の名歌100選』(歌人:林 和清氏編(1962年生)で知った。

因みに、『わが人生に悔いはなし』は、石原裕次郎、1987年のミリオンセラー曲[作詞:なかにし礼、作曲:加藤登紀子]。大ヒットしたのは、後悔ばかりの苦い人生がいかに多いかの証しではと、歌詞の「はるばる遠くへ 来たもんだ」に向かえば、中原 中也の『頑是ない歌』に向かい、「桜の花の 下で見る 夢にも似てる人生さ」に向かえば、西行の、「願わくは 花のもとにて 春死なむ その望月の 如月のころ」(娘も愛誦していた)に向かう、へそ曲がりの私は思う。
石原裕次郎は、52歳で肝臓がんで亡くなり、私は今夏73歳を迎える……。

先日(3月27日)、家からほど近い(車で30分ほど)那須連峰の一山茶臼岳で、栃木県内の7校山岳部の合同雪山訓練中、雪崩で、7人の男子高校生と引率教員の1人(すべて私たち居住地の隣市にある県立大田原高校)が亡くなり、40名が負傷した。
事前の手続き、携帯品等準備、現場での判断・対応を、責任者の記者会見等報道で知る限り、教師の、惰性(馴れ合い)・過信、要は「驕り・傲慢」以外何ものでもない、と女子サッカー草創期(1980年前後)に中学・高校の女子サッカー部監督[顧問]やスキー講習(中学校3年生以上の希望生徒が対象で、指導は引率教員)行事をしていた元教師として思う。私の場合、たまたまこれほどまでの社会的問題になる事故がなかっただけのこと。
世の災害の大半は「人災」で、「天災」はごくわずかである、と自覚し始めた昨今だからなおのこと自省自責に駆られ、様々な過去の場面が私の内を駆け廻る。「自然」その意味の再自覚の緊要。
ところで、160mにわたって生じた雪崩の起点は、「天狗の鼻」とか。これも天の采配なのだろうか。

蛇足を加える。
これは教師だけのことではない。人が、“大人”が、「絶対」との言葉を安易に、しかも自信と気概に満ち溢れ使う感覚、意識の怖さでもある。罵詈雑言を叱咤激励と言い、打ちひしがれ、死すら想う若者に、“軟弱”と追い打ちをかける。
そこまでして日本は、世界の、経済大国によるリーダーでなければならないのか、とやはり偏屈な老人私は思う。

「汝、自身を知れ」
紀元前4世紀、人の善・悪・真を美の華から求め、華開かせたギリシャの時代、アポロンの神殿の入口に記されていた言葉。それから25世紀、2500年。死は一切の例外なく訪れるが、自身を知る、「無知の知」は途方もない苦行難行を経た者だけが知り得る。
私は? 正真正銘の無用の自問。

元中高校国語科教師の或る時期、古典授業の易さをうそぶいていた無知・無恥を正直に告白し、古典の、もっと限定すれば国語教科書の重さを、あらためて自身に言い聞かせたく、吉田兼好『徒然草』134段から、その一節を、少々長くなるが、引用する。
人一人一人が謙虚であってこそ社会・国は謙虚になる。「市民」「国民」そして「子ども」「大人」と言う時のそれぞれの具体像の確認のために。と他者(ひと)に言う前に「後悔先に立たず」を繰り返す私のために。

【古文のため、読みづらさを思われる方があるかもしれないが、せっかくの名文、引用部分の大意要旨を参考に、その音調、律動を味わってほしい。】

《備考:吉田兼好・鎌倉時代末期13世紀から南北朝時代中期14世紀の人。『徒然草』は、筆者50代の、1330年~1336年にかけての著作と言われている。今から700年近く前の文章である。》

《補遺:芥川 龍之介(1892~1929)は、35歳で、妻と二人の児を置き、自ら死を引き寄せた、その2年前に刊行した箴言集『侏儒の言葉』の中で「つれづれ草」として、次のように書いている。

「わたしは度たびこう言われている。――「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」しかし不幸
にも「つれづれ草」などは未だかって愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」
の名高いのもわたしにはほとんど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにも
しろ。」

※〔上記補遺私感〕
稀有の才を天与され(後に、それが本人を苦しめたと私は思っているが)、今の私の半分の年齢で命を絶ち、社会様相、学校制度等環境の相違から同じ地平から比較できないが、肯んずる私もいる。しかし、当時の中学校は現高校で、「大学の大衆化」に象徴される学校教育現状と少子化、効率優先の、モノ・カネ本位社会、更には知識偏重の限界的弊害の今、彼が生きていたらどのように言ったか想像の興味が湧く。
ただ、彼のような俊才にとっては、教科書は所詮教科書で、私の自省「教科書で教える」驕りではなく「教科書を教える」ことを再考している立場とは相容れないかとも思うが。

【引用部分の大意(要旨)】

人は、他人にばかり眼を向けるが、最も分かるはずの自分自身のことに眼を向けない。自身の姿形(風貌)、心の、また技芸の在りようを自覚している人こそ優れた人である。だから他者(周囲)の誹りにも気づかず、すべては、利己の貪欲が自身に与えた恥、辱(はずか)しめである。
これを、先の『侏儒の言葉』で言えば、「阿呆はいつも彼以外の人人をことごとく阿呆と考えている。」ということになるだろう。

【引用本文】

―賢げなる人も、人の上をのみはかりて、己を知らざるなり。我を知らずして、外(ほか)を知るといふ理(ことわり)あるべからず。されば、己を知るを物知れる人といふべし。

貌(かたち)醜(みにく)けれども知らず、心の愚かなるをも知らず、芸の拙きをも知らず、身の数ならぬをも知らず、年の老いぬるをも知らず、病のをかすをも知らず、死の近きことをも知らず、行ふ道の到らざるをも知らず、身の上の非を知らねば、まして外の誹(そし)りを知らず。[中略]貌を改め、齢(よわい)を若くせよとにはあらず。拙きを知らば、なんぞやがて退かざる。老いぬと知らば、なんぞ閑(しづ)かにゐて身をやすくせざる。[中略]

すべて、人に愛(あい)楽(げう)(親愛の意)せらずして衆に交はるは恥なり。貌醜く、心おくれにして出で仕へ、無智にして大才に交はり、不堪(ふかん)(下手の意)の芸をもちて堪能(かんのう)の座に連なり、雪の頭を頂きて、盛りなる人にならひ、況んや及ばざる事を望み、かなはぬ事を愁へ、来たらざる事を待ち、人に恐れ人に媚(こ)ぶるは、人の与ふる恥にあらず。貪る心にひかれて、自ら身を辱しむるなり。[後略]―

娘が与えてくれた自照自省、その拙文を投稿する私。赤面羞恥するばかりで、兼好の言う具体例である。それでも、娘の鎮魂があっての自己整理を続けなければ、との私もいる。それが私の老いに生きること、と「咳をしても一人」(尾崎放哉(1885~1926)の鬼気にはほど遠い肝に銘じている。

後悔は、動物のドキュメンタリー映画を観ていると人間だけの所為(所業)とも思えないが、人間ほど繰り返す愚かさはないようにも思う。それは明日命に直接に関わるからだろう。理屈[言葉]を弄する暇(いとま)などないということなのだろう。
そう考えると、『侏儒の言葉』から繁く引用される「人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である」との表現は、書き手が古今東西の文化(芸術)に精通した、近代叡智の人だっただけに再びあれこれ思い巡らせたりするが、私の時間は限られている。
やはり「後悔、先に立たず」に帰着する……。

 

2017年3月15日

遊び、その二つの字義、解放と隙間が育む、想像・創造力 [学 校]

井嶋 悠

前回に続く表題が、今回の駄文投稿の主点である。
末席を汚すとは言え一応京都人であるということで言えば、私の「京わらんべの口ずさみ」でもある。ただ、あくまでも教師及び親の体験からのそれではある。
[注:私の教師体験[専任教諭としての3校(内2校女子校、1校共学校]の制約或いは限界;
大都市圏の私学で、中高一貫校(内1校は大学併設)、自由の標榜、全員が大学進学希望]

10代での「解放と隙間」としての「遊び」、自我を、教師・他者と模索し確認できる、1時間が1分ではない1時間は1時間の時間。
10代を卒えた後、先進国、文明国、経済大国等々、世界を導くと矜持(喧伝)する国の一日本人として自由・自主の人生に向けて。怜悧聡明は愚直であってこそ。蝸牛の争いを直覚できる広量。対症療法の、しかもモノカネ施策の貧しさ、まやかしへの嗅覚。古稀は稀でなくなり、後期高齢者まで5年ある長寿大国の現代日本。
私はその視点から18歳選挙権に同意するし、併せて18歳成人とし、中学高校を8年制とし、原則20歳高校卒業、との学校制度下で、自律への自己確認の時間を願う。高校義務化も視野に。〈自由と言う言葉の使い方は難しい。義務教育との言葉が持つ拘束性ではなく、陰陽ない選択肢が可能な学校の意として〉
(「原則」としたのは、自己確認と志向の多様を思えば長短の幅は必然で、ただ、そこでは[基礎・基本]と教科のこと、教師意識、改革のための社会意識の転換等、総括的に考えなくてはならない。ただそれらに係る現状、私案は教師として、親としての体験と自省を基に以前投稿したので省略して以下進める。)

管理・放任でも、全体・画一でも、また今日の差別的使い方ではない個にとっての「主要」教科の自覚への、個が個として活きる教育。次代の創造的日本のために、少子化の今だからこそ、財政を理由にした中高校の統廃合は甚だしい矛盾、モノ・カネ効率第一主義の勝手な統制で、ましてや都鄙の格差是正を正論として言うならばなおさらのこと。例えば、校舎等の養護施設、保育所等への有効利用での教育効果は計り知れない。
教育現場から退いて10年、限られた情報しかない私ながら、現在も生徒は「ギチギチでギスギスと生き」(前回の投稿で使用した表現)のままだと思う。そのとき私の脳裏に浮かぶ生徒とは、或る“英才”を見い出された「特待生」やそれに類する待遇を受けたり、「優秀な子どもはどこの学校にいても優秀」、また要領が良いとの意味での優秀者ではない、その他の圧倒的多数の“普通の”生徒である。

 

学校は、塾・予備校は広報・説明会で声高に言う。「個を大切にする、活かす教育」。
それを言う時の恥ずかしさと罪悪感、そして時間(多忙!と時に誇らしげに言う時間)を持ち出す不遜。これは、何人かの生徒への献身で自得満足していた管理職或いはそれに準ずる職を経験した私のこと。それらの記憶が鮮やかによみがえる。教師という大人の勝手と観念(言葉)遊戯。
学校にとっては多数の中の(相対の)一人(個)だが、親にとっては絶対の一人(個)を、教師としてはもちろんのこと、親としても、親族等知人の事例からもどれほど痛み知らされたか。
最後の奉職校は「絶対評価」を信条としていたが、授業の集成である定期試験の内容や方法、各生徒の把握等、巨視的且つでき得る限り客観的にできたか、少なくとも私には自信はない。
(尚、10段階評価の奉職校で、全員〈1学年3クラスで学年生徒数約140人前後〉常に全員「9」評価をする教師があり、一時教員会議で議論されたがうやむやとなった)

「歳月人を待たず」。すべては時間(時が経てば忘れる)が解決する?
「風化」書くことで改めて気づかされる自然の悠久な歴史と[ふうか]との音声的響きへの高慢。

 

「考える力」(想像を広げ、考え、試行し、創造性を養い、自身を知ろうとする力)を、との「当然」を初めての真理のように言い、入試での出題をインタビューで驕り高ぶる上級学校の管理職等の相も変らぬ無恥。その橋渡しをし、進路指導まで司るほどの絶対的信頼度を誇る塾・予備校の不変?の構図。
(因みに、学習塾通学(ここでは英語等外国語学習塾は視野に入れていない)は日本独特かと思いきや、ソウル・北京でも高く、「東アジア」独特の文化?との視点から考えてみるのも興味深いかもしれない。)
この狂騒にも似た受験戦線に人生の土台となる競争原理があり、それに打ち克ってこその素晴らしい10代そして未来との感動談、美談。それを引き立たせる?悲談と劣等、敗者意識、諦め。前者<後者は言い過ぎか。

 

「遊びをせんとや生まれけむ  戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば  我が身さへこそ揺るがるれ」

これは、前回冒頭に引用した書と同じ『梁塵秘抄』に収められていて、今日(こんにち)度々引用される一つ。
無心に遊ぶ子どもの声を聴く老境からの感慨と解説される。老いでの生の終わりを自覚し、己が生涯を回顧する姿を思えばそうであろうが、年齢を離れ“大人”になった、との複雑な感慨ではないか。出会う幼な子すべてに神々しい愛らしさを実感する我が身に狼狽(うろた)え慌てる今。

上記では、「遊」と「戯」の二つが使い分けられている。白川静『常用字解』で意義を確認してみる。

「遊」:もと神霊があそぶこと、神が自由に行動するという意味であったが、のち人が興のおもむくままに行動して楽しむという意味に用いられるようになった。
「戯」:もとは軍事・戦に関わる語であった。(説明を要約して引用)

現在、私たち多くは「遊ぶ・遊(ゆう)」を使っている。
日本は、古来ありとあらゆる場に宿る八百万の神々と交会し、春夏秋冬豊潤な自然との共生が産みだすアニミズム(精霊信仰)の国。[幽・かすか・はるか「幽玄」]につながる「遊」。

【余談】私の名は「悠」(悠々・悠然)。1945年(昭和20年)8月23日、長崎市郊外で出生。父は海軍軍医で被爆者治療に従事。その父がこれからの日本を願っての命名。「名は体を表わす」の一つ?と、父母慈悲の恩をどこか知識的なまま天上に送った者として自嘲的に思ったりする。

 

日本人は「遊び下手」と言われる。
それは「真面目人間」ということなのだろうが、古人曰く「過ぎたるは及ばざるがごとし」に限りなく近づくことさえ多々ある。先人の多忙=充実・苦行(の愉悦?)の働きがあっての高度経済成長と今の恩恵があるとはいえ、今日の若い世代には頭の中の感覚のようにも思える。10年余り前に某大手企業幹部から聞いたエピソード。部署で新人歓迎会を上司として企画したところ、主役の新人が揃って参加せず、理由を聞いたところ「どうしてアフター5まで同僚でなくてはならないのか」との返事だったとのこと。
とは言え、数多の海外進出企業を含め、日本人は今もって、遊びと仕事・勉強(労働)の明確な区別、切り替えがあいまいで、いつも労働を引きずり、仕事と遊びの合理的切り替えこそ善、と承知しつつも徹しきれず、中には後ろめたささえ持つ、中高年はもちろん、多いのではないか。何にでも「道(どう)」をつけ、禁欲的指向を真善美とする。色の道も「色道」。「道楽」「極道」また「好色」の用法に見る日本的、日本性おもしろさ?

中国やヨーロッパの、仕事と遊びを切り離して人を視るのと違って、仕事の優秀さ、実績があっての遊びを評価する日本性を言い、江戸時代の文化に担い手に「遊び人」の存在を指摘する、例えば樋口清之(1909~1997:歴史学者。日本史関係の啓蒙書を多く執筆し、その一つ『日本人の歴史8 「遊びと日本人」』)のような人もいる。
世界が公認する勤勉なその日本人が何年か前から郷愁する江戸時代町民生活・文化。近代化と日本人。明治維新への心情を根っ子にしての賛否両論。
先日の「プエミアム・フライデー」。このネーミングも含め、政治家と官僚の「国民」基準の偏向の再びの露呈、街頭インタビューに応える若い社会人(おそらく時代の先端等大手企業や役所の人たち?)の応え(もっとも、それらはマスコミの取捨選択であろうが)の心の貧相。それらに苛立つのは私だけか、と思えば、愚策と怒り心頭の人々も少なからずあって一安心。

 

旧聞ながら、国文学[日本文学]の卒業論文で、女子学生に人気の近現代作家は太宰 治(1909~1948)とのこと。理由は彼の美男振り[見てくれ]と母性(本能?)を刺激する[甘え]からとのこと。その太宰の、作家自身と思われる父[私]の生活断片を描いた作品に『父』と言うのがある。
「義のために、わが子を犠牲にするといふ事は、人類がはじまって、すぐその直後に起った。」(『旧約聖書』創世記を土台にしての表現)に始まり、「義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。」で終わる短編小説である。
主人公の父[私]は、どうにもならない見栄っ張りの女好きの家庭をかえりみないとんでもなく小心な男として描かれている。(だから母性をくすぐる?)。その彼が「義のために遊ぶ」と嘆く(居直る?)。彼自身、その義の正体を探しているのだが、非常に日本的と思え、「私」の死に急ぐ姿が視えるようでもある。と、どこか得心する私がいる。ただ、39歳で道連れ的情死した太宰と違い、妻に言わせれば、変で妙で屈折的なそれだとのこと……。

ところで、「遊び」には二つの字義がある。[いずれも『ウイキペディア』より引用]

一つは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、を満足させることを主たる目的として行うもの。【解放】

一つは、機械や装置の操作を行う機構(ユーザーインターフェイス/マンマシンインタフェース)に設けられる、操作が実際の動作に影響しない範囲のこと。あるいは、接合部などに設けられた隙間や緩み。【隙間】

ギチギチにしてギスギスの生の刻々、融通性のない、謹厳実直の日本人? 老荘が言う「無用の用」を憧憬するが頭だけに留まってしまいがちな日本人……。明治維新での、「脱亜入欧」、無条件降伏からの奇跡の復興と高度経済成長での、「(欧米に)追いつけ追い越せ」から、「追いつかれ、追い越され」に。襲われる不安と焦燥、そして謹厳な責任感。
民主党《現民進党》政権時代、現党首の「二番ではだめなんですか」発言とその場の微妙な反応を報道で見、非常に愉快な、しかしどこか違和感を持った記憶が過(よ)ぎる。

英語に次のようなことわざ(『マザー グース』の一節)があることを知った。

「All work and no play makes Jack a dull boy. [dull:鈍い、退屈な]

※念のために「play」を英和辞典[『ライトハウス英和辞典』研究者]で確認するが、その多義から、一面的にとらえる危うさを思うが進める。

遊びの二つの価値[解放]と[隙間(余裕)]。解放があってこその遊び。隙間があっての遊びの成立。
1973年の交通標語「せまい日本 そんなに急いで どこへ行く」をもじれば「先進長寿の経済大国日本そんなに急いで どこへ行く」……。
日々の束縛から解放され、たとえ一時であれ自由の時間と空間に浸り、自己を問い、明日の生の活力を得るはずの「遊び」にもかかわらず、疲れ、そんな自身に苦笑する日本人…。
子どもと大人の、それぞれでの、また相互での、『いじめ・虐待』も遊びの欠如が一因とさえ思う。
言葉が、記号の形式だけに堕した頭でっかちの世界。直ぐに条例化、法制化し、それで事足れりとする安易さに潜む全体主義化の不安と人間不信の現代。

1970年代から使われるようになり、今では日本語化しているとも言える「レジャー」[leisure:暇な、余暇]の軽薄な響き。しかしこれらの感覚は「時間つぶし」との言葉に抵抗感を持つ私の、旧態然発想なのかもしれない。

 

フランスの文芸批評家、社会学者、哲学者である、ロジェ・カイヨワ(1913~1978)は、遊びの基本的な定義を以下の通り記述している。                           (その著『遊びと人間』の解説からの孫引き。下線は引用者)

  1. 自由な活動。すなわち、遊戯が強制されないこと。むしろ強制されれば、遊びは魅力的な愉快な楽しみという性質を失ってしまう。
  2. 隔離された活動。すなわち、あらかじめ決められた明確な空間と時間の範囲内に制限されていること。
  3. 未確定な活動。すなわち、ゲーム展開が決定されていたり、先に結果が分かっていたりしてはならない。創意の工夫があるのだから、ある種の自由がかならず遊戯者の側に残されていなくてはならない。
  4. 非生産的活動。すなわち、財産も富も、いかなる種類の新要素も作り出さないこと。遊戯者間での所有権の移動をのぞいて、勝負開始時と同じ状態に帰着する。
  5. 規則のある活動。すなわち、約束ごとに従う活動。この約束ごとは通常法規を停止し、一時的に新しい法を確立する。そしてこの法だけが通用する。
  6. 虚構の活動。すなわち、日常生活と対比した場合、二次的な現実、または明白に非現実であるという特殊な意識を伴っていること。

 

この遊び観、学校にあてはめてみると、私感が論外のデタラメとも思えない。
その学校。(中学校・高等学校)
日常的にして非日常的世界。(この日常・非日常という言葉、私が20代・1970年代、頻りに耳目に触れた言葉で、私の中で明確な理由を説明できない或る抵抗感が伴うのだが使う。)
「俗」にして「聖」の、「ケ・褻」にして「ハレ・晴れ」の、「私」にして「公」の、「普段」にして「祭り更には政(まつりごと)」の、思えば不思議な世界。その両極間を行ったり来たり彷徨う生徒、教師。

体験での知見例。キリスト教主義の学校で、プロテスタント系(私の勤務校)よりカソリック系で多い在学中受洗者。

私的(個人的)自由、公的(集団的)自由の接点への模索と試行、そこで知る抑制、規制、束縛。神経脈の細分的発達と不安、理想への憧憬と葛藤。心身発達の不調和と混乱。「青の時代」。疾風怒濤の10代。それぞれの方法で駆け抜けようとする生徒たちと大人然と居る、或いはそう在らざるを得ない教師たちとの協働社会
「家庭内暴力」「いじめを含めた校内外暴力」は、中学2年14歳前後をピークに中学高校に多いことは、今も昔も変わらない。人間発達の自然? しかし、低年齢化して小学校高学年で増加傾向にある今。
個人の複雑化に拍車を掛ける過剰情報、社会の複雑化。その中での“勝ち組・負け組”との、旧時代の感覚のままにマスコミが煽る風潮作り。一方での観念的正義、道徳。後ろでそのマスコミを操る人たちについて「青の若者」はどれほどに察知承知しているのだろう。
長寿化、少子化と世界の、国際化からグローバル化(地球船時代)指向にもかかわらず。

かつて、心通じ合い協働していた識者たちが懸命に提示した「新しい学力観」との言葉がよみがえる。その識者たちの多くも既に引退した。繰り返される、そのときどきでの「新しい」学力論。風化……。
中学生の英語の時間「過去完了」との表現に出会い、驚き、半世紀以上が経った。