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2018年9月20日

君死にたまふことなかれ

井嶋 悠

生あるものはすべて死を迎える。その死を自ら手繰り寄せる人も少なからずいる。数年前まで先進国の中で非常に高い自殺率であった日本は、年々減少傾向にあるが、それでも世界で第6位(2016年段階)で、中でも女性の自殺は第3位とのこと。
一衣帯水の国・韓国が第3位となり深刻度が増して来ているが、ここでは、風土や社会背景等の国比較或いは、減少傾向での施策の成果を言うのではなく、日本の現状を量の問題ではなく、質の問題としてとらえられるかどうか自身を整理してみたい。

政治家が国民のために働くのは自明過ぎる自明だが、その「国民」解釈が違って来て(多様化して来て?)、言葉では「社会的弱者」を言うが、実態は「社会的強者」のための政治に堕しつつあるように思えてならない。心ある人は何を今更、と冷ややかに言うだろう。
だからと言って私は、野党を支持しようとは思わない。同じ穴の貉(むじな)(狐)。自己[自党]主張・正当化更には絶対化と相手への誹謗による集散の繰り返し。人間世界の縮図そのままの。
そもそも政治家に期待することが致命的に間違っている、心平和に、美味い食と酒を味わいたいなら、政治家の登場する報道を見ないこと、話題にしないこと、と言われるのが常態化しつつある現代日本。

なぜか“脂ぎった”=政治家のイメージ。議論の大切さを言いながら問答無用の高慢。言葉の弄(もてあそ)び。よほどのテーマでもない限り、無党派の、選挙に行かない選挙民が、数年前からほぼ半数。私も含め。ただ、ここ数年は意識して投票に行っている。覆う虚しさ。そこまで自身を貶(おとし)めたくないとの自己防衛本能の顕れ?選挙民の権利放棄と十分承知しつつも。
そして政治家に「いただいた国民の皆様の支持云々」と言わしめ、形容語(大小とか強弱とか美醜とか…)が、その人の価値観を表出するとの見方に立てば、戦前の不安様相を映し出すかのような言葉の数々。
学校教育、社会教育の緊要の課題。

 

先日、衝撃のニュースに会った。哀し過ぎる!
「2016年までの2年間で、産後1年までに自殺した妊産婦は全国で少なくとも102人いたと、厚労省研究班が5日発表した。この期間の妊産婦の死因では、がんや心疾患などを上回り、自殺が最も多かった。」全国規模のこうした調査は初めてとか。そして続ける。
「妊産婦は子育てへの不安や生活環境の変化から、精神的に不安定になりやすいとされる。研究班は「産後うつ」なのメンタルヘルスの悪化で自殺に至るケースも多いとみて、産科施設や行政の連携といった支援の重要性を指摘している。」
やはり政治無関心は無責任にして醜態で、いつしか「暴力」への呼び水加担者へ……。

キリスト者が人の死に際して言う。「神が、あなたは十分つとめを果たしたのだから戻っていらっしゃいと言われたのです」と。私も娘の死に際して、或るキリスト者からこう言われ、どこか心の落ち着きを得たように思えた。私はキリスト者ではない。が、キリスト教を批判、否定する者ではない。
この母たちにも神はそう言ったのだろうか。そうは思えない。あまりに哀し過ぎる。
キリスト教や仏教また儒教でも、その自殺観は分かれているようだが、私は自殺を悪とは思っていない。いわんや罪とは思わない。本人の哀しみ、激情そして葛藤、厳粛な意志決定を想像すればするほど。
しかし、周囲の哀しみを知ればなおのこと、積極的に肯定もできないし否定もできない私がいる。

日本の、物質文明社会が当然とするかのような現実での、貧困化という矛盾。過疎化と過密化の両極的動きの中での核家族化の功罪。華美な一面的情報の氾濫の、とりわけ青少年の心の揺れ。仕事と家事の両立に係る主に都市圏での政治の貧困、政治家の空疎な言葉。無記名の誹謗中傷を含めた膨大な発信、情報。それを直ぐに手元で確認できることの負の側面。
抱えきれないが抱えようとする生真面目さ。襲い来る将来の不安、孤独、寂寥との狭間での自問自答。常よりもより鋭敏に震える神経で生命(いのち)に、死生に思い及ぼす、と同時にそれらを否定しようとする葛藤。

支援が広がりつつある。そのことで思い留まった母もあるだろう。しかし、その支援を拒否する(拒否と言う響きが強過ぎるならば避ける)心も、不安定な時にある心の動きではないのか。鬱(うつ)、うつ病症。医師や専門職としてのカウンセラー、相談員のもとに行くことの、或いは来られることの、する側とされる側の相性感も含めた煩わしさ。「自分が弱いからだ、自分だけなのだ」といった自責感情。
知人友人親族等々様々な人々の貌が浮かんでは消える中、不安と寂しさに思い巡らせ、独りであることで、何とか心落ち着かせ自身に戻ろうとする自我の葛藤。これらも鬱の症状なのではないだろうか。
支援は大事なことだが、どこまでも人間と人間の問題として机上の空論にしないことの難しさを、私なりのこれまでの直接間接経験から思う。

自殺は、いつの時代も、いかなる国・地域にあってもなくなることはないという冷厳な現実をどう受け止めれば良いのか。あの戦争のように。問い続ける、人間が、人間とは?と、永遠に……。
いわんや、自身の分身である幼児(おさなご)を置いて命を絶つ、そのあまりの哀しみにおいてをや。
それでも自問したい。自殺を断罪するのではない答えの端緒を見い出したい。「自殺者が少なくなる、否、限りなくゼロに近くなる国・地域は、どうあればできるのだろう?」と。宗教に委ねることなく、自身の実感の言葉として。
やはり、もっと政治に厳しく関心を持つべきなのかもしれない。と同時に、日本の構成員の一人として、自身の代だけではない「私の想う社会の、日本の在るべき姿」を考えなくてはならないのではないか。
その時、学校教育の時空がいかに重いものかが、視えて来る。観念[知識]の言葉で留まるのではなく。

「君死にたまふことなかれ」とは、与謝野 晶子が、日露戦争(1904年~05年)に従軍する弟のことを切々と詠った詩の有名な一節だ。その詩を転写する。
この機会に、この歌が、一部で言われる反戦歌かどうかも併せて、改めて確認したい気持ちも込めて。

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる
暖簾のかげに伏して泣く

あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

その弟は、第2連にあるように、大阪・堺の由緒ある和菓子屋の跡取りで、戦争から無事帰還したとのこと。因みにこの戦争で死んだ日本人は11万5600人、ロシア人は4万2600人。そしてこの戦争後、日本は帝国主義列強国の一国として太平洋戦争に向かって行く。累積され続ける死者と歴史と現在。
今日本はどうなのか。私は浮き世を憂き世と思う質(たち)からか、ごく限られた国以外、日本を含め多くの国々が、己が一番、己が正義で、帝国主義国家を今も目指しているように思える。だから、先の報道はより哀し過ぎる。

私はこの歌を、反戦といった社会的な歌とは思はない。
平塚らいてう(1886~1971)との「母性保護論争」からすれば対社会意識の強さや、晩年の「ありし日に 覚えたる無と 今日の無と さらに似ぬこそ あわれなりけれ」との歌から、旧家の跡取りの弟を通して社会[国家]に物申す思いは取れなくもないかもしれないが、やはりこの詩は純粋に弟を想い、同時にかつての自身が実家から与謝野 鉄幹のもとに走ったことを重ねた、切々とした情の歌だと思う。