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2018年11月18日

自由[FREE]であるということ~安田さん解放報道に接して~

井嶋 悠

私たち『日韓・アジア教育文化センター』が、NPO(非営利活動)法人の申請をし、内閣府から承認されたのは2004年9月17日のことである。当時は、事務所が2県〈私たちの場合、大阪府と兵庫県〉にまたがるときは、都道府県でなく内閣府であった。
後に、すべて主たる事務所の在る都道府県の管轄となり、10年前、代表(理事長)の私が栃木県に転居したため栃木県(庁)内となり、毎年度末の報告書類は、それまでの内閣府から栃木県となった。他に税務署(国税局)も関係するが、私たちの場合、従事者すべて無償であったので特に問題はなかった。ただ、法人県民税納付で免除申請制度があり、幸いにも認められ、税務関係での年度末手続は派生しなかった。

今、全国でNPO法人は52,000余りあるとのこと。それらの法人が、毎年所属都道府県に報告書を提出しているわけである。
年に一回とは言えこの煩雑さは、事務能力の無い私ゆえなおさらのこと、光陰矢のごとしは益々実感せられ、常にその憂鬱さに追われている心持ちであった。

にもかかわらず申請したのはなぜか。
法人が持つ公共性の説得力と公益性といった、信頼感への期待であった。いわんや、日本だけでなく、韓国、中国[香港・北京]・台湾の人々で構成されているのだから。
活動は、主催企画への助成金獲得も数年続き、また若い映像作家やデザイナーたちとの出会いにも恵まれ順調に進んだ。[詳細はhttp://jk-asia.net/を参照ください。]
しかし、私の勤務校退職(一応定年退職)や栃木県への転居から数年経ち、組織の維持、継続に難題が立ちはだかることになる。

理由は二つ。
一つは、「非営利」とは言え、収益事業が定期的にあっての運営、継続であることの痛感。
一つは、栃木県が目指す県と企業や法人等との協働推進と私たちの目指すことの方向性の違い。
だからなおのこと、全国の52,000余りの法人の浮沈に実体験から正負いろいろなことに思い及ぶ。

私たちは今年2018年9月2日,NPO法人から撤退を決議した。法務局登記上は「解散」であるが、私たちは、これまでの活動実態の継続を願い、あくまでもNPO法人からの撤退であり、実質は全く変容していない。
ただ、この手続きも、何度も栃木県県庁所在地・宇都宮法務局(往復約3時間)を訪ね、幾つかの書類の書き方等教示を受け、書類を整理提出し、数日後登記に解散が明記されても「清算結了登記」を別に申請しなくてはならない。かてて加えて県庁担当課にも提出しなくてはならない。

認可後間もなく経ったとき、韓国の或る人曰く。「それだけ拘束(しばり)があっても助成金はなし?!」
形式と内容(実質)に係る違和感。
しかし、解散登記が受理されることでの、安堵と実感する開放感。自由感。と同時にふと過る不安感。

そして改めて考えさせられる「NPOって何?」
メリットは?先に記した公共性、公益性という名目での庇護。 デメリットは?諸規定による煩わしさ。否、これは、私の運営資金のための日常事業活動の意志と発想収集と実践力不足の証しだったのだろう。10人以上の「社員」が申請条件の一つだったのだから、なおさらのこと私の責任…。「自己責任」…。
この経験からの顧みは、先述した栃木県の「協働」指向の背景ともつながる。

このことを国或いは地方自治体側からすれば、国或いは地方自治体に自身たちの責任で申請し、それに対し、承知したということは、公的“お墨付き”すなわち「権威?」を与えたのだから、報告義務は、その形式がどうであれ、派生して然るべきことであり、撤退するならどうぞ、ということになる。但し、「立つ鳥跡を濁さず」、規定に従い円滑にされたし、と。
とは言え、そのお墨付きが、今52,000余りあるということには、どうしても合点行かない私がいる。
この経験が、改めて自由について考えることになったのだが、それに大きな拍車を掛けたのが、フリー・ジャーナリストの安田 純平さんの解放、帰国であった。そこで、私がこだわった言葉が、「フリー」と「自己責任」である。

安田さん自身、2004年の新潟での講演で、以下のような発言をしている。
――フリーのジャーナリストというものは、紛争地域であっても事態の真相を見極めるためにリスクを負って取材に行くものだ」とし、「常に『死』という自己責任を負う覚悟はできている」と。――
また、 ――冬山の遭難者やキノコ採りのお年寄りも、自己責任ということか。政府に従わない奴はどうなってもいいという風潮が、国民の側から起こり始めている」として、「政府を無条件に信用する国民が増えてしまい「民主主義の危機」を痛切に感じている」。――

他にも、政府に対して、
「日本政府を『自己責任なのだから口や手を出すな』と徹底批判しないといかん。」
「日本は世界でもまれにみるチキン国家。」
「現場取材を排除しつつ国民をビビらせたうえで行使するのが集団自衛権だろうからな。」
などと、痛撃を加えている。

日本国憲法での、「公共の福祉に反しない限り」との制御を共有―この共有が、例えば道徳上云々同様、時に難しい課題にはなるのだが―した上で、[基本的人権の尊重][思想、表現等の自由]を出すまでもなく、上記安田さんの発言をとやかく言うつもりはない。ただ非常に過激ではあり、だからより考えることになった。
しかし、行政や政治家の第一の義務であり責任である、国民各人の幸福を追求する権利を守り、実現に導くとの視点に立ったとき、フリーであることと自己責任のことが私の中で混乱し始めたのである。
簡単なもの言いをすれば「フリーなんだから放っておいてくれ」と言われ、国(国家)は、「はいそうですか。お好きにどうぞ」と言えるのかどうか、これは国としての責務[義務]の放棄ではないのか。
それともすべてに対応は不可能なのだから、犠牲は或る程度やむを得ない、との別の表現なのだろうか。

私の知人にフリー(本人はフリーランスと表現している)で仕事をしている人がいて、彼の場合、半分はフリーで、半分は一つの組織に所属している。なぜか。生活としての、より多彩な仕事成就としての、生きるためである。
また、日頃こんなことを言っている知人もいる。事実かどうかは制度上を含め確認していないのだが、「無国籍であることの自由さを大事にしたい」と。

「自由人」という言葉の響きは心地良い。しかしフリーランスで生を築く人との意味では、厳しい現実を思い知る。
私は今、年金生活者である。(尚、年金生活者と言っても多様であり、その現在と将来に問題が指摘され、年金等、先進国を矜持する日本の福祉と施策の惨状は周知のことである。ただ、ここではこれ以上立ち入らず、概括的な意味で使う。)
死は解放(死が解放?)との考え方に立てば、より自由人に近づいたと言えるのかもしれないが、要は自身の意思、意識の問題なのだろう。

父は、人生の前半は勤務医であったが、後半は開業医であった。後半期、例えば、患者さんが父を前に「風邪のようで…」とでも言おうものなら、「それは私が判断することだっ!」」と叱責するほどで、時には患者さんに向かって「もう帰れっ!」とまで言うほどの個性(あく)の強い医師であった。その父が晩年、「俺のような医者は俺で最後だと思う」と、何処か寂寥感の響きでぽつりと私に言ったことがある。 そんな激しさを持った父は、一方でしばしば泥酔していた。

自由人は、人間の孤独を身をもって直覚し、それを克服し、真に孤独を自覚してこそ為し得るのだろう、と私は思う。生易しいものではない。私には遠い人ではあるが、先に言ったように距離は近まっているようにも直感する。
ただ、これらは大人の世界のことで、その大人に向かう途次のことではない。一部の若くして死を迎えざるを得なかった人々を除き、多くの人はその途次を経る。

私学の中高校教師時代、様々な公私立の中高校教師と会話する機会を得た。 と同時に、私もその中高校時代を経て来た一人であり、自由と学校に係る多種多様な経験をし、生徒(同世代)を知った。

私が、
中学生で知った、生徒の校内外での、更には教師への暴力事件と教師の無力と社会背景の自覚。
高校生で知った、学習と進学と大学名の問題。
大学生で知った、己の無気力と引きこもり。
大学院生で知った、学生運動と傍観することの自責。
東京放浪時代に知った、己が人間的限界。
教師時代に知った、教師であることと大人であることの揺れ。
これらの体験から10代の生徒たちに思うこと。 それは、複雑微妙な10代で「自由」について思案し、試行錯誤し、生きることと己が自由観の入り口をつかんで欲しい。

英文学者であった池田 潔(1903~1990)の『自由と規律』(1949年刊)は、青春時代の必読書的一冊として今も引き継がれている。
しかし、これは上層(上流)家庭に生まれ、17歳で渡英し、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学につながる、非常に限られたエリート集団であるパブリックスクールでの筆者の体験書で、昏迷混濁する現代日本に今も有効性を持つとは思う。
ただ、その底流にあるものを考えなくては、「自由の前提としての規律」といった単なる、それも特別な階級(階層)環境の、特別な学校での経験を通した道徳本に堕してしまう。

では底流に在るもの・こととは何か。
自身の存在が誰かによって認められ、自己確認の情を直感し、それぞれに自尊への思いを抱くことではないか。
生徒は生徒の年代での、教師は教師の年代、人生経験での、大人としての、そして育む愛の、もたらし手としての。
そのそれぞれの自覚から生まれる教師と生徒の信頼関係、相互敬愛心。 当たり前過ぎることであるが、現実はどうか。
あまりに各々相互の、生徒教師間の懐疑、軋轢、不信がギスギスし過ぎていないか。
もっともこれは、どんな中学高校を思い描くかによって変わることで、私が直接間接に知った例を挙げる。
3校の女子校と1校の男女共学校(すべて私立)の例。
ここでの共通主題は「自由」で、内3校は服装自由、1校は制服校。尚、1校は高校のみで、3校は中高一貫校である。

A校:創立以来、服装規定なし。特に問題となる服装はなし。但し、一時期、高校卒業式での華美さが問題となったが、生徒同士の批評も影響したようで、後落ち着く。

B校:創立以来、基本は私服で、行事等によっては制服使用(「標準服」制度)。服装の自由が拡大し、授業中に机上に飲み物を置き始め、教員間で問題となるも、時の校長の断で自由となる。

C校:創立以来、服装規定なし。ピアスを某生徒がつけたところ問題となり、その生徒と、禁止を言う校長の「自由」に係る議論の末、生徒は自主的に退学、転校。

D校:以上の例を知り、制服規定のある学校教師が発した言葉。「ウチでそれやったらメチャクチャなことになる」

【備考】某私立男子中高(大学)一貫校の例と限られた公立校の例

○中学高校は同一敷地内にあるものの、校舎も教員も校則(学校方針)も全く別。 中学:制服があり、徹底的に管理指導する。 高校:全く校則なしで、すべて生徒の自主性に委ねられる。

○公立高校によっては、自身で時間割を編成し、それに合わせて登校する私服校もある。

これらの差が生ずる要因の一つ、或いは決定的とも思えるそれは、自身の所属する学校への、及び自身 への「自尊」に係る意識、感情の高低ではないか、と。 その感情起因は学力差或いは偏差値差。入試問題の難易度。そして進路進学結果の社会的評価が大きく彼ら彼女らの心を覆っている。
生れてわずか十数年での被格差感情。 これらはやむを得ない現実として受け止めるべきで、ことさら俎上に上げること自体が、やはり無意味なことなのだろうか。 しかし、それでも次のことに思い及ぶ。

☆入試と塾・予備校在籍と中学高校在籍校学習との問題。
⇒塾・予備校を廃止したら、各学校段階でどのようなことになるのか。
【補遺】
○高い志をもって創設された或る私立校での場合
塾教育批判を掲げていたが、後に学校[各教師]が描く教育実践が、
学力不足でできないとの不満に変わって行った例がある。この問題の
背景に在ることとは何だろうか。
○新聞全国紙の塾・予備校教育論と毎年の大学合格状況、偏差値情報の
矛盾

☆家庭の経済力と学力の問題と教育の機会均等の問題。
⇒教育の無償化がもたらすことは、結局経済的余裕のある家庭への恩恵になるのではないか。そうならば、ではなぜそうなるのか。

☆各個を活かし育む教育の問題。
⇒多様な価値観、人間観があっての社会、との意識と学習内容の多様性は為されているのかどうか。

☆「不易流行」と教育の問題
⇒世界の中の日本の在りよう像に関して、国民間で共有できているのかどうか?  なぜ今、日本型?「インターナショナルスクール」が乱立的に開設されているのか。

これらの事例から、限られた選択の自由、結果としてある自己責任について、子どもや家庭(保護者)にその原因を帰することができるのであろうか。
各学校段階の入試方法として「考える力」「表現する力」云々と改革が言われているが、そもそも可能な限り客観的評価をどうするのか、また入学後どのような指導を行い、次にどう備え、送り出すのか、各学校段階でどのように検討され、実践されているのだろうか。

今、少子化にして高齢化だからこその千載一遇の時機と考え、学校と教育、教育と学力について、背景にある社会観と併せて再考する視座は、大学の大衆化による負の側面が顕在化し、高校卒業後の、また大学学部卒業後の進路に多様化が進む現在、必要なことではないのか。
人生のごく初期段階で、しかもあまりにも限られた時間内(数年間)で、人格さえとまで思えるほどに優劣意識を持たせ、持たされることが、果たして日本にどれほどの有効性を持ち得るのか、甚だ疑問である。

安田純平さんは、大学までの過程とフリー・ジャーナリストへの高く、強い自尊の人だと思う。氏は私には遠く及ばない人のように思えるが、解放以後の報道に関して、少なくとも氏を英雄視することには抵抗がある。しかし、帰国後の氏の幾つかの発言から、氏の繊細な人間性のようなものも同時に感じている。それが私の感傷からの思いなのか、理知からのそれなのかは未だ整理できていないが。