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2019年10月3日

33年間の中高校教師体験と74年間の人生体験から Ⅲ 中等教育 [時代]後期(高等学校) その1

井嶋 悠

Ⅲとあるのは、個人的体験から「学校教育」を考える愚文の、小学校篇中学校篇に続く、第Ⅲ篇:高校篇との意味である。
個人的体験とは、自身の生徒時代及び33年間の私学中高校3校(33年間)での国語教師時代、そして23歳で世を去らざるを得なかった娘の学校不信であり、それらからの私の学校教育に係るホンネである。
このような気持ちに到らしめたのは、74歳という年齢になったことが私に何かを働き掛けているのだろうが、一番初めに記したように、旧知の友人でない或る方の私への一言が、大きく作用している。
いろいろなことがあり、いろいろな人に会い、いろいろな思いに駆られ、今日まで様々な人々の友愛、恩顧があってこそこんな私が来られた、と自照自省している過程で、その言葉は発せられた。
その言葉は何かを意図するものではない、当人の素直な感想なのだが、私にとって余りに痛烈であった。

「どうしてそんなに屈折してるの?!」

今後、その方とお会いすることはないとまで思わせたほどの、きつく突き刺さったこの言葉。非難するのではなく、人生を振り返る契機(きっかけ)をつくって下さったとの意味で感謝している。
本題に入る。

就職する生徒も多い時代、特に意識することなく高校進学の道にいた。そのための「進路指導」が、特にあったわけではなかった。
ただ中学3年次の修学旅行[当時は新幹線などなく、“修学旅行列車”で車内泊をし、東京方面に行った。]の列車内でクラス担任が行なっていた。“個人情報”など関係なく生徒たちがわさわさしている中で。このゆるやかさは好きだ。良い時代だったと思う。
一言で指導は終わった。「池附、受けたらどうや」。
池附とは、大坂教育大学付属高等学校池田校舎の略称である。他に学年で10人余りが受験することになった。
今回は、その高校で得た教育私感である。

高校になると、生徒も教師も中学以上に個性的だったとの印象が残っている。ただ「進学校」で、である。要は、全員が大学進学を前提としている高校である。
私は自身の教師体験から私学進学校は苦手である。高校時間=問題集解読時間のように思えてならないからである。
もっともその進学校と言っても2種類あることは知った。一つは、余裕ある進学校。一つはただ進学校で、私が最初に教師になった私学は前者であったので少しは私自身心に余裕があった。しかし二つ目の学校は後者で、これはどうにもついて行けず2年で退職した。
以前に投稿した、家族共々地獄の3年である。

立ち戻って、生徒自身の時。
私は合格の歓喜もなく、漫然と時に流れに身を置いていたといった風情であった。ただ、合格手続きに行った際、事務室窓口で入学式までの大量の課題には唖然、呆然した。 (尚、その課題の後始末は、入学早々の試験で確認され、校舎入口に全員の成績と氏名が、成績順に大きく公表された。学習(主に理数系)嫌いな私の自業自得とは言え、最初の屈辱である。)
賢い(≠勉強ができる)同窓は、入学間もなく、付高=不幸と看破していた。教科学習、課外活動等々含めての学校時間と考えれば、なるほどと後に得心した。

と言うことで、今日当然のように言われる「個の教育」を考えることを目的に、私にとって個性的教師を何人か取り上げる。
もちろん生徒にも多種多様な思い出深い存在はあるが、学校教育の主要素は教師にある、と教師体験からの自省と教師に係る娘の悲鳴があるからである。
教科全体(特に「5教科」)で言えることだが、「進学校」の標榜がそうさせるのか、概ね教科書学習は2年次に終わり、後は多くが問題集(それも高程度の)をすることが多かった。(この記憶は、かなり大雑把ではあるが、そういった印象、記憶が濃い)。
また2年次後半から(一学年三クラス×50人前後)三クラスは『国立文系』『国立理系』『その他』の組に分けられた。あくまでも“られた”であって、自主的選択ではなかったように覚えている。

【私に係る余談】
初め『国立文系』のクラスであったが、数学に全くついて行けず、或る日、勝手に『その他』クラスに移った。しかし、事前に伝えていなかったため、或る教師が逃避行(さぼり)と思ったらしく、『その他』クラス生徒に確認され、そうでないことが判明、私は叱正の難を免れた。
それにしても、「その他」とは、今日では到底考えられない呼称である。ただ、前二者の名称を考えれば、単純明快名ではあるが。

以下、強く心に残っている個性的教師数人を紹介する。
高校の教師像を考える一資料として。進学校と言う制約があるが。劣等生の私のこと、授業内容に係る記憶はほとんどない。
尚、表現に際して尊敬語表現に不備な点が多々あるが了解いただきたい。
圧倒的に男性教師が多く、ここではすべて男性教師である。
現在、その母校は進学校としての地位を一層定着させているが、仄聞では私たちの時代とは比較にならないほどに変わったようで、教科学習、課外学習併せて、自由な佳き校風にあるとのことである。

【国語】二人紹介したい。
◎一人は、生徒に非常に怖れられていた40代前半の教師で、古典を専らにされていた。先生は、いつも教科書を用いて授業をされていた。
何でも大学院で能楽を学び、剣道4段とかで、4,50センチほどの竹棒を携帯し、実に姿勢よく且つ朗々とした声で、黒板の文字も颯爽と授業をされていた。 先生は、教室に立っておられるだけで、近寄り難い緊張感を漂わされていたのである。
しかしなぜか、私をかわいがってくださり、時に私が後方に座っていると、「井嶋!前に座れ」と、かの竹棒で教卓の真ん前をさされるのであった。
この私への愛情が、後に、三つのことで深くつながるなど、誰が想像し得ただろうか。その三つのこととは、  
 一つは、私を非常に嫌悪していた(その理由は今もって分からない)或る教師が、職員会議で私の退学(放校)を持ち出し、先生が抗弁くださり、その動議は当然のことながら否決された旨、他の教師から伝え聞いたこと。  
 一つは、先生に乞われて長期休暇中の身の回りの世話をすることとなった。 先生は、旧家の子息で、老母と同居され、結婚、長女の出生、離婚と目まぐるしい流転もあり、私が大学進学後も世話は続いた。 そこで直面したこと。先生はアルコール依存症であり、ギャンブル依存症でもあったのである。そして長期休暇中は、ほとんど入院されるのである。しかし、私の中で反発、批判する気持ちは微塵もなく、可能な限り世話をした。  
 一つは、先生は後に公立高校に異動され、私が大学院生の時、一学期だけであったが、その高校の非常勤講師を仰せつかった。その数年後(この数年間のことは私の身辺事情の変容であり、ここでは省略する)、私が27歳の時、私を私立中高校の教育の世界に導いてくださったのである。   
つまるところ、この先生の導きがなければ、今の私はいないのである。恩師である。

◎もう一人は、いつも気難しい表情の50歳代の教師である。
教科書も指導されたのであろうが、私には難問問題集(現代文)の先生との記憶が強い。ただ、どういう問題に取り組もうが、必ずと言っていいほどに、女子生徒がいるにもかかわらず我関せず、終わりはストリップの話しで落ち着くのである。「赤や青のスポットライト云々」と始まるのである。私を含め多くの男子生徒は、おっ来たとほくそ笑むが、誰も軽蔑していなかった。
やはり近寄り難い人格がそうさせたのであろう。   
修学旅行(南九州)でこんなことがあった。先生は引率責任者として来られた。或る夜、就寝時間後、日頃私たち数人から、試験の点数競争ばかりする嫌な奴と思われていた生徒一人に“布団蒸し”の罰?を加えたところ、襖を破ってしまった。更には恒例?の枕投げを部屋越しにし、欄間を壊してしまった。
先生は、翌朝出発前に旅館に謝罪され、私たちを一切咎められなかった。無言である。その時、怖れが畏れに変わった。   
私が教師になってから、年賀状を出すようになった。いただく年賀状には、常に短い漢文・漢詩が添えられていた。私が劣等生であることを承知されてか鉛筆で返り点、振り仮名がつけられていた。劣等生が国語教師になったことへのご配慮なのであろう。   
或る時、一冊の書が送られて来た。『芸道の研究』である。私は二度畏れた。   
先生が亡くなって後、息子さんと会う機会があった。北海道の高校で教師(体育)をされ、20有余年が経つ。

次回は他教科の先生方のことを、その 2として記す。