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2020年12月15日

人権意識 ―中学校時代の私と教師時代の私の回顧―

井嶋 悠

第二章 入学式

私は父親の勤務異動もあって、東京の叔父叔母宅に一時期預けられ、そこの小学校を卒業し、関西に戻った。私たち一族の菩提寺は京都市にある。数年ぶりの親子生活が始まった。中学校はN市の公立中学校である。N市は永い歴史を持ち、産業も盛んで、開発も進み、住宅地として当時からも発展途上にあり、現在も日に日に変貌している。

入学式を終え、私は一人ぽつねんとして指定された学級にあったが、ほとんどの生徒は小学校での旧交を温めるに忙しく楽しげであった。公立中学校ゆえの通学校区があり、多くの生徒にとっては小学校の延長上であった。
私が座った席は最前列で、隣にはやはり一人どこか寂しげで、孤独を漂わせた男子が座っていた。思いきって声を掛けた。何を言ったかは覚えていない。子犬同士がじゃれ合うようなそんな少しの時間だった。5分ぐらいであろうか。クラス担任の先生が来られ、一時間ほどの連絡等が終わり解散。私の母親はすでに帰宅していた。
私は帰宅すべくグランドを横切り、通用門の方に向かっていた。一人である。その時である。

4,5人の生徒に取り囲まれ、怒声と殴る蹴るの集中砲火を浴びることとなった。問答無用である。数分ほど続いただろうか、解放され、新しい学生服はグランドの土にまみれ、私は痛いといった感覚より、何があったのか皆目分からずただただ呆然と立ち上がり、一目散に家に向かった。
近くには通り過ぎる生徒もいたが、止める者はいなかった。後で分かるのだが、君子危うきに近寄らず?だったのかもしれない。彼らは意気揚々と引き上げて行った。彼らの満足げな笑い声がそれと分かった。

母はただただ驚き「どうしたの?」と聞くが、当事者の私が分からないのだから、それ以上会話は続かなかった。夕方、父が帰って来て、事情を知り、何かを直覚したようではあったが黙っていた。
父の帰宅と前後して、クラス担任ともう一人の先生二人が来宅された。
おそらくグランドにいた誰か(おそらく保護者であろう)が教師[学校]に伝えたことで訪問することになったのだろう。見舞い方々の様子伺いと事情説明の訪問である。
父は、この時、現実が抱える地域事情をはっきりと理解した。直覚通りであった。校区内にある被差別部落の問題である。
父は関西人としても、この地域事情は或る程度承知はしていたようだが、このような形で、それも入学式の日に知ることになるとは予想外のようであった。
父親は関西に戻るにあたって、幾つかの私立学校の情報を集めていて、(その情報の中に、地域の問題があったかどうかは定かではないが、おそらく父の頭の隅にはあったと考えられる。)入学相談にも出かけたとのことである。その一校(有名な進学校)で父は対応した教員への強い不快感、不信感から一喝して帰ったと言う武勇伝?を後になって母親から聞き、公立中学校が妥当ということになったらしい。

私を襲った彼らの言い分は、先に記した教室での隣席の生徒の尊厳を、彼らの積年の鬱積、怒りに思い及ぶことなく不用意に、しかも暴力的に踏みにじったことへの仲間として制裁である、というのである。隣席の生徒は、彼らの仲間だったのである。クラスが一か所にならないよう分けられていた。
子犬同士のじゃれ合いで、こともあろうに頭をこづいたことが思い出され、それが決定的に尊厳を傷つける暴力行為であったというわけである。当時私もこづかれたのだが、私の側については制裁の趣旨から当然の報いということである。

私にとってすべて初めてのこといささかの恐怖はあったが、両親と教師たちの話し合いで翌日から、不登校にもならず、心新たなに登校することになった。
そこには大人の配慮があったわけであるが、私自身の楽天性?がそうさせたのかもしれない。
学校内外で、彼らと眼が合った時の彼らの眼差しにたじろぐものがあったが、彼らにしてみれば私がごとき者に、いつまでもかかずらっている暇などないということか、視線は次第に彼方に去って行った。しかし全く消え去ったわけではなく、後々間欠泉のごとく襲い掛かって来ることになる。その総仕上げとも言うべきが、卒業式であった。そのことは後の章で記す。

入学式に始まり、卒業式で終わる3年間の日々は、今にして思えば、私に社会的目覚めを持ち始めさせ、濃密な学校時間となった。私の思春期前期の始まりである。

第三章 様々な彼ら彼女ら

東京にあったとき、被差別部落問題[同和問題]を学校で、また大人から知る機会はなかった。それは、私の居住地も関係していたのかもしれないが、何も知らず、知らせず、だった。
東京の近隣地域では、被差別部落に係る問題があったことを、大人になって知った。にもかかわらず何もないようにしていたのは、東京が全国から人が集まってくる雑居性がそうさせたのかもしれないし、首都東京との自負心また虚栄心が隠蔽していたのかもしれない。私にはよくわからない。

N市に移ることでなぜそのような地域が存在するのか、その歴史と現在について徐々に知ることとなる。それも授業や講演会といった形でなく、入学式の一事をはじめ日々の学校生活から知って行った。
私に手ひどい痛みを与えた彼らは4,5人で一つのグループを形成していた。クラスは一クラス一人といった形で分けられていたが(小学校からの情報、引継ぎであろう、と思うのだが、学校としては居住地の住所から自明のこととして承知していたとも考えられる)、日々出席していることは少なかった。彼らの溜まり場は校舎裏の外階段下か、体育館(兼講堂)裏であった。その使用例としてこんなことがあった。それもかなりの頻度で。
裕福な家庭の男の子に眼をつけ、(女の子にはしなかった。彼らのせめてもの礼儀だったのだろう)何かしら口実をつけ金銭を持って来させ、それを受け取る場所として使っていたのである。教師は眼中にない。なぜなら教師は見て見ぬふりであることが多く、彼らはそのことを承知していたからである。
それは他の生徒たちにも十分伝わっていたが、なぜ腫れ物に触れるようになっているのか、そこに到る様々な経緯が小学校時代にあったのだろう。教師に伝える生徒はほとんどいなかった。

私はこの災難からは免れていたが、或る親しくしていた生徒は、時に毎週のように言われるがまま校舎裏に連れて行かれていた。そして1回200円前後渡すのである。当時私の月の小遣いが500円だったから、彼の貢額は高額となり、彼の家庭で気づかないことはあり得ず、学校に何らかの相談、訴えがあって然るべきであったろう。
その連行度数が、或る時期から減ったように思えたが続いていた。その彼が諦めの表情で苦笑しながら私に話したことがあった。それを聞き、私は何もしなかったのも一方の事実である。
私たちへの彼らの「ちょっと貸してくれやっ」の「くれ」は「よこせ」を意味していた。例えば、ボールペンとかシャープペンシル(当時は貴重品であった)を学校に持って来る軽率さはなかった。私は一度軽率にもボールペンを持っていき、彼らに貸してくれを言われ、当然戻ってくることはなかった。これは学外でも同じであった。こんな経験をした。
同じクラスの男子の家の前でキャッチボールをしていた時のことである。キャッチボールの相手の子が、100メートルくらい先に彼らを認めるやいなや私に言った「隠せ!」そして彼の家の中に逃げ込んだ。

彼らの行為は、事情がどうであれ決して許されることではない。しかし、それがまかり通っていた。おそらく学校が、教師が、教育委員会が、問題のあまりの大きさのために機能不全に陥っていたのだろうと、後年、公私立の違いはあるが、学校組織に加わった一人として推察した。
教師になって何年かした或る時、母校のその中学校の管理職教師とたまたま会話することがあったが、「当時は荒れていましたからねえ」とまるで他人事のように言っていた。
あの時おられ、苦悶の中にあった教師がこれを聞き、どう思うだろう。私の余計なお節介だろうか。

彼らの行動は、時に体育館裏での血の騒動となり、他校生徒の“出入り”事件ともなった。
血の騒動とは、彼らのグループに属さない同期生の一人(一説には、彼らと違う地域で同様の歴史を背負った者とも、私たちの間では、ささやかれていたが)と、かのグループリーダーとの、いずれが頭領かを決める昼休みの決闘のことである。私や在校生は電線の雀の群れよろしく外通路の柵に並び、体育館裏で繰り広げられている顛末を想像し、いずれ出て来るであろう二人を待っていた。20分ほどであったか、血だらけになった同期生の肩を抱え、余裕の表情のリーダーが現われた。入学式で私を襲ったグループのリーダーである。

もう一つの、出入りとは、授業中に、自分たちが座る椅子と喧嘩道具持参で、無言で押し入ってくる他校の面々のことで、目的はその教室に居る敵対者を授業終了後、仲間への連絡をさせずに即確保するためである。
授業中の担当教師の、あきらめ、彼らの存在を見ないように授業を続ける表情は、今も私の中でありありと残っている。授業終了後、予定通り、或る一人を、その人物は入学式で私を襲った一人である、が連れられて行った。行き先は体育館裏である。
彼らがされたと同じように、彼らが他校へ出向いていたことは自ずと想像はつくが、事実は知らない。ただ、同じ問題を抱えていた幾つかの中学校名を耳にしていたので、想像はほぼ当たっていると思う。
各学校の教師間でどう対応するかの話し合いは、幾つもあったはずであるが、問題は解決することなく続いていた。

長く信念をもって取り組んで来た人々によって時間は、新しい歴史を創り出す。私の母校も同じである。今では地域の一層の開発も進み、落ち着き、平穏に学校生活送るにふさわしくなっているとのことである。
それでもこの問題が人々の心から完全に消え去ったとは思えない。これも歴史と言う厳粛な事実であろうか。

教師になって10数年後であったが、同じ市内でのこんな場面を聞いたことがある。
在日韓国人二世の中学校社会科教師が、授業で差別について熱弁をふるっていた時、或る生徒が、突然自身の机を叩き「うるさいっ!」と叫んだという。この抗議した生徒は、旧被差別部落が居住地であった。この生徒は、この教師が、自身が経験してきた差別の歴史を熱く語っていたのだろうが、言葉が上滑りしたのか、10代のその生徒は「活きた言葉」として直覚し得なかったのではないかと私は思っている。
この感覚は、教師になって数年後結婚し、二人の子どもを授かり、内一人が、中学時代の或る教師の他の生徒を巻き込んでのネグレクトや、高校時代の授業のいい加減さ、生徒への迎合から、中学校及び高校(いずれも公立校)教師への不信、葛藤が始まり、心身疲弊し、23歳で早逝したことにも通じている。一人の親としてまた、同じ教師として、これらの事実は私に自問自省を強(し)い、大きな影を落としている。

彼らはほんの一部であり、その被差別部落全体を表わしているわけではない。ただ、眼前でのそれらは私にとってあまりに衝撃的であった。
その衝撃の強さを、彼らと同じ地域から通学するそうでない他の生徒に、自主的に思い及ぼす余裕は、私にはなかった。しかし、無謀で挑戦的ともいえる彼らの行為に苦しむ、同じ地域の彼ら彼女らを同じクラスの身近な生徒から知ることになるのである。

10代前半に沸き上がる異性への憧れは美しい。ほのかな抒情を呼び起こす。私もそうだった。女子生徒と会話することはひどく恥ずかしいのだが、思い切ってすることで得意満面にさえなった。会話の内容はたかだかしれたことで、例えば、試験と言うトピックの後など、会話の場が作りやすかった。複数で話し掛けるのである。もちろん一人で敢行する勇気ある、男子生徒羨望の対象となる者もいたが、私には不可能な領域であった。

「試験どうだった?」
何という無邪気さ。これは彼女たちも同じで、やはり複数で応えるのである。「きゃっ、きゃっ、きゃっ・・・」としか表せないような、言葉であって言葉でない言葉が紡がれて還って来るのである。しかし至福のひとときであった。

男子生徒に限らず女子生徒からも、存在を認められる女子生徒がいた。
温和な美しさをたたえ、学業も優秀で物静かに光を放っていた。動じた彼女を見たことなどなかった。ましてや付和雷同など、彼女には無縁の言葉であった。少なくとも私は遠くから眺めるだけであった。彼女には孤高の輝きがあった。年上の生徒に思えた。卒業まで眺めるだけであった。彼女はいつも独りだったような印象が残っている。
彼女は、彼らの行為をどう思っていたのだろうか。嫌悪をもって無視し、じっと耐えていたのだろうか。それとも深い母性の心で見つめ、自身の内に閉じ込めていたのだろうか。彼女が表立って何かすることはなかった。
彼女が、彼らと同じ被差別部落の生徒であることを知ったのは、卒業して間もなくである。
家は貧しく到底進学は叶わず、就職が進路であったが、その地域の出身であることが彼女に就職先を選ぶ機会を与えなかった。なぜなら当時、全国のその地域名鑑なるものが、企業等に常備されていたのだから。そのため親、親戚の関係で就職することがほとんどであると伝え聞いていた。
時とともに彼女は遠い昔の一人となった。私がそのことに持ったことは、感傷的同情だけであった。
「彼女、どうしているんだろう?」
その名鑑、現在も秘かに、或いは公然と、存在するのだろうか。在るようにも聞いているが。

2年次のクラス担任の先生から思わぬ機会を与えられた。その地域から通学する一人の男子生徒に関して世話を頼まれたのである。
その先生が私を呼んでいるとの校内放送がかかった。私としては呼び出されるようなこともしていないつもりであったし、最近例の彼らとのもめごとはないがなあ等々、あれこれ思い巡らせながら、恐る恐る職員室に向かった。
当時は、今のように教師と生徒が友達同士のようなことはあり得ない。現在を善しとするかどうかは措いて。

「○○の世話を頼みたいんだが」○○とは、やはり同じ地域の一人(男子)である。
「はあ・・・・」
「勉強をやり直したいと言っているので、一学期間、教室での授業時、常に彼の横に座り、ノートの取り方など教えてやって欲しい」
「はあ・・・・」

承諾したはいいが、困ったことになったと思った。なぜなら他人に教える、いわんや導くなどという器量もなく、私が適任かどうか、なぜ私を選んだのか、自分のことでさえおぼつかないのに何で、と次々に疑問が沸き起こった。ただクラス生徒から、何でお前が、といった批判めいたことがなかったのは救いではあった。彼を取り巻く事情と彼の人柄を無言の中で了解していたのだろう。

授業での二人の時間が始まった。
予想したとおり私にとってそれは苦行だった。ちょっとした私の一言に、彼はあまりに従順に反応するので、なおさらであった。
今だから言える、他人に教えることほど自身の学びを強くする、などといったことは、私には単に美辞麗句に過ぎず、引き受けた後悔と自省の1学期間が過ぎた。彼はひたむきだった。私が教えられる時間であった。
彼は或る程度自身のリズムをつかんだようだった。相互学習は1学期間で終わった。安堵と同時に、少しの喜びもあった。
「彼、どうしているんだろう?」

二人の意志の強さに、ひたすらに大きさを思う、と同時に歴史の残酷さに思い到る。環境が人をつくるというならば、逆境ゆえの自身への厳しさだったのだろうか。
二人の人間性の高さに心打たれる。二人がその出自から持ち続け、更に深めた優しさは本物である。もし二人が教師になることができたら、仲間からも生徒からも愛され、慕われる素晴らしい教師になったことは間違いない。

私が二人と同じ立場に生まれ、思春期前期の日々を過ごしていたら、果たして二人のようにふるまえただろうか。何とも心もとない。