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2013年12月17日

極私・的・教育小史 ①[まえがき・ 帰国子女教育或いは国際(理解)教育 その1]

井嶋 悠

まえがき

東京から北へ160キロほど行った、自然と温泉溢れる深閑のこの地に来て6年が経つ。

主産業は農業、酪農業、牧畜業、林業そして観光業で、車なしの生活は不可能な田園地、(ひな)の地であるが、商業施設、医療施設等々生活環境豊富な地方都市である。

本籍地京都の私が、1945年(昭和20年)長崎原爆の2週間後、敗戦後8日、長崎で生まれ、その後、松江・京都・東京・西宮・宝塚と転々として来たとは言え、思えば遠くへ来たもんだの感慨はある。

なぜここに? すべては、江戸っ子カアチャンの迅速な決断力と行動力の賜物である。

私が、小人、公に窮す、にあって定年1年前59歳にして中高校教師職を、さすが江戸っ子!?奥方も潔く同意し、辞した前後である。

もっとも、娘の苦闘時初期もあって、その後、私は関西に3年ほど居続けはしたが。

そして今、花壇と菜園に傾注しながら、[日韓・アジア教育文化センター]に腐心する日々。

棄てる人あれば救い出す人あり、心優しい日韓中の人々との出会いと支え。

量より質の体感。

天の過分な心遣い、厚遇。

同世代会えば病談義の咲き始め、の今日この頃、来し方、とりわけ自照自省の核心・学校世界を顧みる体験からの言葉[抽出]は、学者やマスコミ人の言葉とはまた違った説得力を持つのでは、と幽かに期してのこのブログである。いわんや沈思黙考に適地のこの地にあって。
不定期ながら極・私的に書き連らねる、直接体験から私の心に、良きにつけ悪しきにつけ、深く刻み込まれた教育テーマは、次の項目である。

国語教育と日本語教育・(海外)帰国子女教育・外国人子女教育・国際(理解)教育(順不同)

帰国子女教育或いは国際(理解)教育と私

その1

「きたない・くさい」

この地に来て4年目、10年来の腰痛治癒で手術を受けた。傷病名は重度「脊椎管狭窄症」。

当医師の手術後の言葉を援用すれば「神経がぐじゃぐじゃに絡まっていたので、下に流れるようにした。」
因みに、この医師は、言葉から明らかに東京人で、或る入院患者によれば、若いとき音楽の道か医学の道か迷ったとのことで、今はジャズピアノに陶酔している男性で、土地人・非土地人関係なく異口同音に言うように人格豊かな心技名医であると思う。人生史を聞きたくなる刺激を誘う一人であった。

その入院中に、土地の男性から聞いた言葉。

それが「きたない・くさい」。

発するのは首都圏から移住してきた家庭の小学生、発せられるのは同じ小学校に通う土地っ子。

まえがきに書いたようにこの地の魅力は、首都圏リタイア組の憧憬地でもあるのだが、最近は小学生の子を持つ保護者の移住も増えているそうだ。(尚、この地の職種現状から、その保護者の職種の多くは、自営業、自由業か、とも思うが、どうなのだろう?)

「きたない・くさい」

そして、先生も、言っている子どもの保護者もそれをとがめないとのこと。

なぜ?

あきらめ?

地方と都市の格差。

その都市での、12歳人生進路決定観を当然とし、そこにまつわる不可解なほどまでの私学指向、そして入学者の半数以上が、ここ10年来常に年収2000万円以上家庭と言われる“天下の”T大学、それらについて疑問を挟むことを疑問とする現代の常識。
否、首都圏内、東京都内ですらある貧困家庭と子どもたち。
そして併行してあるモノ世界に溺死寸前の日本と私たち。
それらを土壌に生み出され、文化人!?知識人!?気取りの、軽薄そのままのマスコミ人や芸(能)人、それも若い男女が増殖する、罪悪感なき差別意識

土門 拳がとらえた、昭和初期の冬の東北の子どもたちの貧しさと哀しみの一枚の写真を、貧困地に生まれた青年将校たちの怒りを思い起こすのは、あまりに非現代的なのだろうか。

帰国子女教育は、日本を映し出す鏡と言われ、半世紀近くになる。

海外在留の背景、期間等々の多様化で、私が初めて帰国子女教育に出会い、啓発教化された1970年代後半とは大きく様変わりしているように思うこともある今、どうなのだろうか。

「きたない・くさい」と、根っこは同じ心を発していることはないのだろうか。日本国内動向、世相に照準を合わせた塾産業の隆盛と過酷な塾間競争は激化の一途とも言われている中。

良識と良心を備えていた帰国生徒の中で、二人の帰国生徒の話を思い出し引用する。

一つは、1980年代にアメリカに滞留し、現地校に在籍した女子高校生の話。

「母親たちの、アメリカまで来て、アジア人とは付き合いたくはないわねえ、との会話を聞いた時の私の動揺。」

もう一つは、1990年代、アジア南部に滞留し、インターナショナルスクールに在籍した男子高校生の話。

「貧しい人々の居住地を車で通りかかったときの居心地の悪さ。哀しみを共有できない自身の苛立ち。」

※思えば二人とも、人の話を物静かに聞く、日本の教科学力は恐らく全国平均中くらい前後だったように、だからこそ私の心に深く刻み込まれ、懐かしく思い起こされ
ている生徒なのかもしれない。

国際理解という言葉の持つ、理[理屈・言葉]で解する、に留まらざるを得ないことの苦み、痛み・・・。

それとも、これは極私的私の限界であって、もう20年以上も前に聞いた、若い日本人シスターが、アフリカの奥地を、窓ガラスのない4輪駆動車で駆けずりまわっている姿は、心は、今も脈々と受け継がれているのだろうか。