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2022年8月2日

『老子』を読む(八)

井嶋 悠

第31

 夫れ兵は不祥の器、物或いはこれを悪(にく)む。…君子、居れば則ち左を貴び、兵を用うれば則ち右を貴ぶ。

 吉事は左を貴び、凶事は右を貴ぶ。…人を殺すことの衆(おお)きには、悲哀を以ってこれを泣き、戦い勝てば、葬礼

を以ってこれに処(お)る。

◇生徒にとって学校は戦いの場とも言える。何と戦うのか。学習?クラブ活動?人間関係?その結果さまざまな弊害も生まれる。それは思春期前期後期の非常に微妙な心の状態、身体変化の中高生ならではのところもある。
自身の中で「勝った」と確信した時、彼ら彼女らは葬礼への態度を持ち得るであろうか。それぞれの時に於いて一心に戦っている生徒ほど相手の心への慮りが増える生徒がいる。教師にそれだけの心を持ち得る者があろうか。
そうして考えてみると、「受験戦争」との言葉のあまりの巨きさに、改めて気づかされ、例えば高校野球の監督会議で頻りに不正行為[勝つためには手段を選ばず]への注意がなされることの寂しさに思い到る。

第32

 道は常に無名なり。樸は小なりと雖も、天下に能く臣とするもの無きなり。

 はじめて制して名有り。名亦た既に有れば、夫れ亦た将に止まることを知らんとす。止まることを知らば、殆(あや)

うからざる所以なり。

◇小学校一年生の初々しさは何物にも換え難い。あの眼の輝き。先生を絶対と視る透き通った心そのままの眼。樸。しかし、周りには別の樸がひしめき合い、我先にと競い合い、彼ら彼女らは優劣を知り始める。疲れて止ろうとすると大人たちはついつい叱咤激励する。彼ら彼女らに不安定な波が立ち始める。かなしいことだ。
小学校一年生の担任教師は、ベテラン教師でないと務まらない。区別、差別を存分に知った教師の吸引力。

しかし、今、保育所・幼稚園を経て、果たしてその像はどうなのだろうか。小学校高学年で既に学級崩壊が、始まっているというではないか。

なぜそのようなことになったのか、なるのか、大人達こそ立ち止まって熟考すべき時なのではないか。

第33

 人を知る者は智[知恵者・知者]なり。自ら知る者は明[明智・明察]なり。人に勝つ者は力有り。自ら勝つ

者は強し。足るを知る者は富む。強(努)めて行う者は志有り。

◇学校は、知恵者を育てるのではなく、明智な人物を意図的に育むのが本来ではないか。知識に溢れた人が優秀と言う学力観ではなく、学ぶこと一つ一つに自身を映し出すことで生じる学力。そのためには「静」の時間が、必要だ。忙しくすることを善しとする大人から距離を保つべきだ。わずかな時間で良い、じっと自身を視る。
そのことで他者との関係に平衡性が生まれる。例えばイジメは平衡性の意図的破壊であり、だから犯罪である。それを教師が生徒にすることさえある。子どもは誰を信じ、平衡感覚を培えば良いのか。

第34

 大道は汎として其れ左右すべし。万物はこれを恃(たの)みて生ずるも、而(しか)も辞[ことば]せず。…常に無欲なれば、

小と名づくべし。万物これに帰するも、而も主と為らざれば、大と名づくべし。…聖人の能く其の大を成すは、

其の終に自ら大と為らざるを以って、故に能く其の大を成す。

◇学校は静かに構え、生徒を受け容れなくてはならない。学校は器である。器が常に動けば不快な気分になる。

器を形成するのは、一人一人の教師、大人である。しかし言葉を弄ぶ教師が多過ぎる。先生って、そんなに偉いの?私は何度思ったことだろう。私はその教師だった。だから私は老子に魅かれる。

第35

 大象(たいしょう)を執れば、天下往く。安、平、大(泰)なり。

これ(道)を視るも見るに足らず、これを聴くも聞くに足らず、これを用いて尽くすべからず。

◇(学校)教育の主眼は、一人一人の人格形成にある、と言って否定する者はないと思うが、それが難しい。何

を以って、そのときどきの年齢に応じた人格陶冶の成果を表わし得るかが、具体的であるようで抽象的で分かり

にくい。そこに教科学習と言う具体性の必要性があるのだろう。そして私たちは「主要五教科」とか「芸能科」などと、老子が聞いたら卒倒するようなことを当然のごとく言い、している。

小学校中学校で、音楽・美術・体育・技術家庭・書道の充実を、自身の子ども体験からも、希望する大人は多い。私案の「中等教育と高等教育」の変革は、その点での、またいろいろな場面で使われる[総合]や[国際]との用語の再考になるのでは、独り自負している。