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2022年10月24日

『老子』を読む 十二

井嶋 悠

第46

 罪は欲すべき[欲望]より大なるは莫(な)く、禍(わざわ)いは足る[満足]を知らざるより大は莫く、咎[罪過]は得る[貪る]を欲するよりいたましきは莫し。故に足るを知るの足るは、常に足る。

◇学校教育における「常に足る」という状態は、どんなことを指すのだろうか。公立、私立の別、また公立校の伝統の多少、私立校のとりわけ宗教系学校が掲げる理念。そこからどういう姿が抽出できるのだろうか。例えば、生徒が一人一人人生の重荷を抱え込み始めても、日々に充足な学校時間を体感し、校門を出る……。中等教育の、初等教育や高等教育にない困難さに思い到る。

第47

 聖人は、行かずして知り、見ずして明らかにし、為さずして成す。

 「脚下照顧」己が内を視よ。
 「見性成仏」己を知ることが仏を知る。
 「春は枝頭にありてすでに十分」

◇今日、学校教育で頻りに掲げられる「国際」。考え、経験し、知れば知るほど曖昧模糊、実態が見えなくなる国際。名目だけに堕してしまう形式化。英語教育の充実、国際交流の取り組み、海外子女の受け入れ校としての帰国子女教育等々。一期一会の生徒と日常化が形骸化に堕してしまう学校[教師]の現実。日毎に問われる学校力のための教師の一体化。
権力者は不安感、危機感を持つ時、民衆(生徒)の眼を外に向けさせる。ここに異文化はない。

第48

学を為せば日々に益(ま)し、道を為せば日々に損ず[減らす・減る]。これを損じて又た損じ、以って無為に至る。無為にして為さざるは無し。

◇伝統を持つ学校は、泰然と構える。伝統の重み。その伝統校も初めがあった。歴史の時間を積み重ねることで成就される伝統。あれもこれもの忙しさの危険。一心不乱の日常化の難しさ。

第49

 聖人は常に心無く、百姓の心を以って心と為す。[善不善すべて善とし善を得、信不信すべて信とし信を得る。]百姓は皆其の耳目を注ぐとも、聖人は皆これを閉ざす。「無知無欲」

◇優れた教師は己が価値観を生徒に押しつけない。生徒のすべての心を得ようとする。それを為し得るのは、己を無知とすることにある。しかし、生徒たちはそこに物足りなさを思う。そのためにも優れた人物は、日々刻々無知無欲を積み重ねなくてはならない。至難である。大人の世界でこそ通ずることなのかもしれない。それでも、私学の宗教系学校でその宗旨も知らずに入学して来る親子もあるのが現実である。

第50

 生に出でて死に入る。生の徒[柔弱]は十に三有り、死の徒[剛強]も十に三有り。人の生、動いて死地に之(ゆ)くも、亦た十に三有り。其れ何の故ぞ。其の生を生とすることの厚きを以ってなり。
(猛獣から攻撃されない・甲兵とならない)其の死地無きを以ってなり。[生命に執着するという死の条件がない]

◇学校は母性の世界である。しかし、一方で父性を求める。その調和が理想の学校へと導く。老子は「無」を言う。無は母性父性すべてを呑み込んだ世界である。カソリック系のとりわけ女子生徒に、在学中の受洗者が多いのもそれがゆえかもしれない。