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2013年10月2日

先生方、自身の驕(おご)りに気づいてください!―教師の、生徒へのいじめ(パワハラ)―後編

井嶋 悠(本センター代表・元私学中高校国語教師)

 

.教師の生徒への眼に見えないいじめ(パワハラ)

娘が味わった目に見えるいじめ(パワハラ)は、近年多数顕在化している。

しかし、ここではでは、私自身が以前から疑念を持っていた学校世界に多々ある、教師の眼に見えない、或いは教師が無意識下に、時に生徒への、教育への強い愛情の発露との思いから行い、結果として生徒へのいじめ(パワハラ)となっている幾つかを取り出し、なぜそれがいじめ(パワハラ)なのかの私見を表すこととした。

そこには、時代と社会、教育、学校を考える重要な問題が内蔵されている、と私は思う。

ここに記す教師の独善と権威主義がなくならない限り、昨今のいじめ対応は、所詮その場その場の対症療法であり、官僚や政治家の自己満足、いわゆる揶揄侮蔑の意味での“官僚的”対応に過ぎないとさえ思うし、
そもそも国としての「いじめ対策」の計画発案する“エリート”官僚の多くは、更にはその人たちを支える研究者は、例えば娘が味わった哀・悲しみ・痛みを、観念的には理解し得ても、全霊的に直覚できる人は少ないとは思う。
そして教師世界の閉鎖性も手伝って、一部教師を益々独善に向かわせることになるように思える。

それほどに「根源的ゆえに急進的」との意味でのラディカルな課題であり、だからこそ教職休職者、また離職者が多いのでは、と休職経験者である私の我田引水ながら思う。

と言う私の根底には学校、教師への可能性、信頼、期待があってのことで、それは33年間勤められた支えでもあり、娘も共有していたと思っているのだが、娘を知る旧知の人物の、娘の死を知っての私への次の一言は、今もって脳裏を駆け巡っている。

「お嬢さんは、学校に期待されていたんですか?!」

発言者
[現在50代前半の弁護士(女性)。大学文学部を卒業後、就職、結婚そして出産を経て、或る日、弁護士を志し、2年の研鑽後、司法試験に合格。昔から語学に興味があり、英語・フランス語・韓国語[履修順]に堪能で、また人権を課題とした事例にも取り組んでいる。]
以下、事例と私見を挙げる。

尚、専任教員として3校、非常勤教師として2校の私学を経験し、各校の特性からの生徒・保護者の言動、行動にも疑問は多々あるが、ここでは触れない。

【いくつかのパワハラ(いじめ)事例と私見】

 

知識の多さを誇示することで、生徒たちに発言する気持ちを萎えさせる先生

――所属教科の知識は、足りなければ補うのが自明当然であるが、何でも知っているかのような横柄さで対応する先生は多い。

それが、権威主義と結びつくので相当ややこしいこととなる。
知識の豊富さ=優秀の図式なのだろうが、若い生徒たちは、ほんの一部を除いて言葉を理性と感性の間でさまよいとらえているがゆえに(一時流行った「意味わかんないっ」などその好例かと。)、耐えられないものを感じてしまう。
瑞々しい感性は、若い人の(とりわけ10代の)宝物であり、大人は確実にその瑞々しさを喪失しつつ年齢を加えている。
そうでない大人は、ほんの一握りで、且つそれを維持深化するにどれほどの努力を払っていることか。
要領のいい生徒は、知識による強圧の先生に対して無視するが、それが評価を益々下げることになり悪循環に陥る。
時に「うるさい!」と反旗をひるがえす生徒もいるが、そういう先生の前では思うつぼである。
なぜなら、そういった先生たちは「あいつらまだ何も知らない、わからない“ガキ”」と思っているのだから。
「人(人間)が言葉を使う、その人間とは?言葉とは?」の原点を、先生は自身の10代を思い起こし、再考すべきではないのか。――

親愛の情の後ろに見え隠れする権威主義にある先生

――言葉づかい(その語彙、調子等)や態度で、生徒に親愛の情、親近感を自分から出していく先生は多い。また昨今、そのような教師は、「良い先生」との評価を受けることも多い。

はたしてそうだろうか。
それらは、民主主義の下での、感傷的な、昔の良い先生像、例えば威厳、聖域感からの皮相な反動に過ぎないのではないか。(但し、民主主義そのものについての吟味は、今はしない。)
と言うのは、「親愛」の教師が、時間も含め或る限界が表に出て来ると、適当な口実をつけて問答無用としているのに何度も出会った。民主主義の難しさに葛藤しない先生がそこにある、権威主義。

その時に生徒たちが思うことは「なんやかやいいこと言うけど、最後は結局それか」で、自由な議論を、と言われ先生の方向に人為的に誘導されていく自分に、そして先生に腹立たせる。
そして先が見えて来れば、積極的には発言しない。生徒は益々冷め、先生は生徒に悲嘆する。

テレビ等で非常に好意的に紹介されている、アメリカの有名大学の講義でさえ、或る学生との問答で「もういい」と、その有名な先生が議論を切っていた。――

教育の、社会の理想をとうとうと限られた場所で語る先生

――誰しも理想を持ち、描く。いわんや10代後半は、である。

しかし、理想は一つではない。にもかかわらず、例えば、教室といった限られた場所で、己が教育の理想を、数十人の生徒を前に、時に時間を無視して語る先生。

それは、或る理念理想で創設された私学に多い。
情熱的な先生、との評価が生まれるが、そこにある二つの独善に目をつぶっている。
一つは、その先生が、あたかも一人で、理想に向かい、実現への努力をしているとの独善。
一つは、教室では(更には教員社会でも)一人一人先生は殿様、というあの独善。

共通しているのは、自己絶対発想である。学校世界に多いことは、かなり前から指摘されている。
多くの生徒は苛立ち、また或る生徒は自身の存在を恥ずかく思い、責め、黙し、外から見れば一生懸命に聞いているように見える。
時に爆発させる生徒もいるが、多くは冷ややかにそれを傍観し、他に波及することは少ない。

ところで、そういう先生をカリスマ的に崇めるのは、女性(生徒・保護者)が多く、そういった形で理想を語る先生は、男性が多い。なぜ?――

現代日本の教育の歪みに関わらざるを得ない?先生
(この項は、最初の「知識と言葉(表現)」の内容と重なるところもありますが、敢えて記します)

――大手予備校の「小論文」の指導資料(経済学部進学希望の志望理由書の指導)を見る機会があった。

上級レヴェルで、また私が経済に無知だからだろうが、心頭を直撃したことは、「大学(ここでは、教養と専門の2課程を持つ4年制)って、なんのためにあるの?」であり、
高校からすれば、「大学(厳密に言えば大学教師)は高校に何を求めているの?」である。

ここまで高度な内容[経済の入門?]を消化?しなくては、“有名(難関)”大学には入れない不可解な現実。予備校が盛況なわけだ。

限られた時間。知育徳育体育、全人教育等々、百花繚乱の教育論
学校社会の保守性、閉鎖性大学進学が50%を超えることでの大衆化と益々の格差。増える専門学校進学の賢い?選択。
そして若者の学力低下を、理系文系の特性を無視し、時に感覚的に言挙げする大人。
その狭間でもがく生徒の救世主?

限られた時間で結果を出す自信と豊富な語彙(知識)で自身の型(その内容と語彙)にはめる意気軒昂な?指導。やらせ?一方でのカリスマ的人気。その小論文は「誰の小論文?」との自然な疑問。疑問を持てば大学に行けない?

かつて小論文入試が導入されて数年後の或る大学教員の嘆き。「小論文評価をしていると工場の、それも日本の優秀な工場の、ベルトコンベアの商品を思い浮かべる。」

この先生は、今、どうしているのだろう?――