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2014年9月7日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと その3 教師だった私の心に刻印された生徒・保護者・教師の言葉と私感

A.

教師原点習練期

アメリカ人女性宣教師によって120年前に創設された女子中高校[17年間勤務]

 

A-Ⅲ

    (海外)帰国子女教育

井嶋 悠

私にとっての(海外)帰国子女教育とその原点

 

【従兄弟の一撃】

(海外)帰国子女教育との出会いは、前回の「外国人子女教育」と同様、否それ以上に私に、日本の、日本内の、社会・教育の正負を映し出す鏡であることを気づかせた。そして私の教師生活の大半がこのことへの関わりでもあった。

とは言え、今回記すことは、教師として、その原点習練期に、日本の学校教育、日本社会を考える具体的な場に在った幸い体験であるが、同時に、その後、より明確な自己を持ち得なかった私の弱さの自省表示序章でもある。

帰国子女教育に係わって数年しての1980年代前半のころ、従兄弟が私に発した一撃。
その従兄弟は、法曹界に在って、国内外で確かな足跡を残し、現在は引退している。

「学校はきれいごとばかりだ。自分は、日本国民として、父親として、日本で、海外で、献身してきたつもりだ。長男の高校入学に際して、なんだかんだ言って拒絶する。何が帰国子女教育だ!」

ヨーロッパの或る国に外交官として赴任し、長男を現地校に入れ、父子共々数年間の貴重な体験を重ね帰国(東京)した時、高校進学で突き付けられた現実からの、私への一言が上記である。
その長男は、何校か訪ね歩き、或る私立高校にかろうじて入学が許された。
背景には幾つもの日本の課題が絡まっているように私の以後の経験から思い、学校を一方的に責めるのは手落ちであると思うが、ここではその指摘だけに留める。

尚、表題で(海外)としたのは、現地での、学習塾を含めた教育事情見学や学校説明会(私が訪問したのは、欧米とアジア地域)で、現地の教育環境、家庭環境を知る機会を得たが、それは例えば日本人学校に赴任したといった直接経験がないので(  )を付した。

 

【「私たち大人はいいんです。子どもたちは逃げ場所がないんです」】

(海外)帰国子女教育と言うと、どこか特別視している印象を与えるが、私の心の根底に在ることは、「私たち大人はいいんです。子どもたちは逃げ場所がないんです」(ヨーロッパ3国に10年余り在留した父親が企業派遣家庭の母親の言葉)と、私に話された母親の呻吟を切り捨てるかのような、それは父親へ非情の言い方にもつながるのだが、学校教育の根っ子は国内外、世界同じだとの思いである。

或る時、中近東地域への企業派遣の父親からこんな話を聞いた。

「週末に男だけで一杯飲んでカラオケに行くなんて日本人だけだ、なんて冷ややかに言われますが、美空ひばりの「川の流れのように」などを歌うと、止めどもなく涙が溢れ出て来るんですよ。」

国内での単身赴任さえ経験のない私だが、ひどく共振し、黙ってその場を想像していた。

学校教育の根っ子、それはことさら言うのも馬鹿馬鹿しいが、「個の可能性を自他で発見し、その個を伸長させ、公私未来の礎を作り、世に送り出す場」で、私の場合、日本のそれである。
その際、私に最も肉薄する世界・言葉は、教師であり、父親としての経験からの中高校世界である。
だからなおのこと、前回の投稿のように「総合的学習」と「IB教育」に見る欧米偏重劣等観が悲しく、恥ずかしい。

小さな国際人】

英語には「帰国子女」にあたる一般的用語がないと言う。だから敢えて「期待」などとは言いようもないようだが、日本では、(海外)帰国子女に、名誉を、或いは迷惑、不快を、直覚させること多々あることをしっかりと承知した上で、期待がある。
その一つが、もう何十年来言われている「小さな国際人」。

「国際人って?」「そもそも国際って?」と、悪しき「内向き」指向の狭隘ナショナリストではないつもりなのだが、私は思う。
そのきっかけを差し出したのが、私が教師歴6,7年頃の1970年代後半、高校1年次編入での帰国子女受け入れ校を表明したときの最初の生徒たち7名の内、とりわけ3名である。

「(海外)帰国子女教育は、日本の、日本内の、社会・教育を映し出す鏡である。」
正負においてあおれを実感した最初である。

皮膚感覚で「国際」を体験した帰国子女は、時に厳しい提言を、自身にとって活きた言葉として発する。
その最初の私への能動者が彼女たちであり、後に併設の大学も含めた学園冊子『帰国子女を考える』の作成ともなった。

彼女たちは、家庭のそれとともには、「名門校」への帰国第1期生として期待も大きかったかと思う。
しかしそれが、3名にとっては、疑問の契機となった。
3人の入学前の学校歴は以下である。

一人は、香港日本人学校から。一人は、ベネズエラのインターナショナルスクールから(彼女は、学齢を一年下して入学)。一人は、アメリカの現地校から。

問題提起の要点は「国際(人)」についての、経験からの本校・学園への疑問―それは、英語ができる、学力優秀=国際人? また生徒・教員に見る閉鎖性、保守性への疑問―で、それを基に、併設の大学での卒業論文に「国際(人)考」を3人共同執筆で取り組むことになる。

その貴重な体験に、その後のインターナショナルスクールとの協働校勤務での多様な帰国子女との、またインターナショナルスクール教職員、生徒、保護者との出会いを経て思う「国際人」を記す。

英語や外国語ができるという前に、自身を、天空下、無言の自然を畏敬し向き合い、知識・人為を弄することなく、自然と人に、さらりと交わり(古代中国の「君子の交わりは淡きこと水の如し」)、正に無為自然に生きる人が、国際人の始点であり、そして真義ではないか、と。

「宇宙船地球号」という言葉は人為であるが、宇宙も地球も人為の賜物ではない。
現実世界は国・地域とかまびすしい。そこには意図された人為がいつも働いている。
「二つのもの・ことが交わる」[際]に快を見い出す人にとっては、実に動的な魅惑に駆られる、と同時にそれぞれの時に独善的な国家性に苛立つ世界。
しかし、魅入られた人々にとって、より交流を広げ、深めるには、自身が拠って立つ所の「際」に接する国・地域の言葉が必要であろう。逆はない。
その言葉は、人間(人柄・人間性)あっての言葉である。術を弄した言葉は虚しい。

だから人間性豊かな英語母語者にとって、「英語ができる」=「国際人」が、いかに不快かは明らかである。
先のインターナショナルスクール協働校では、そんな英語母語者と多く出会った。
そのことは次回以降の「新たな教師挑戦期」で記したいと思っている。

私が人として、教師として尊敬する日本人英語教師の一人(女性)は、英語を母(国)語とする人が敬意を表するほどの質の高さであるが、それをおくびにも出さない。

「能ある鷹(猫)は爪を隠す」

このことわざは日本だけで通用する古人の知恵なのだろうか。それともその日本にあって、今では死語なのだろうか。

「人のふり見て我がふり直せ」「墓穴を掘る」……を重々承知で一言。
活きた力量も豊潤な人柄とほど遠い人物が、厚顔無恥そのままに闊歩する現代日本だから一層思う。
過去の日本の総理大臣で「英語ができる」との恥ずかしい過信から失敗した事実も思い浮かぶ。

「姿は似せがたく、意は似せ易し」】

近代を問い続けた批評家小林秀雄のエッセー「言葉」から教えられた、江戸時代の思想家・本居宣長の言葉観。

「姿は似せがたく、意は似せ易し」。なるほどと思う。

と言う私には隠すものはもちろんのこと、その前提さえない身ではあるが……。

ところで、「国際人」と言うときの「国」には、今、「国家」の響きを思うのは私だけであろうか。
「国」は、「郷土・故郷・あなたのクニは?」に通ずるそれが、先ずあってのことなのではないか。
その両者が交わるところから、「国際」での人と人の交わりが始まると思う。
その時、最も大切なことは、両者のそれぞれの、自然に湧き出る人への、自然への寛容であろう。
その寛容を知るとき、私たちは己への甘さ、厳しさの不足に思い到る。

「謙譲語」を敬語の三つの柱の一つとして持つ日本語を母(国)語とする者として。
だから、喧伝される「愛国心」の言葉は、時に「ほめ殺し」になる懸念を私は持つ。

そこから発展させて東洋の、或いは仏教の歴史を持ち出すのは、余りの管見、独善なのだろうか。

アメリカ的】

私が、これまでに出会ったアメリカ人(主に教師、保護者)に、実に“アメリカ的”でない、或いはその“アメリカ的”に辟易しているアメリカ人が結構いたし、またアメリカ現地校から帰国した生徒の「教室に在って、日本に帰ってほっとした」旨の発言にも接したが、このことはスピーチ・プレゼンテーションでの表現法で、アメリカ的を善しとする人々からは、例外、非国際人、少数派として排斥されるのだろうか。

日本に関心を寄せる外国人が、日本の、日本語だけを、それも方言の強い日本語を、当然のごとく話す田舎(私が先ず思い描くのは、なぜか農村である)の老人に会って「彼ら彼女らは国際人だ」と感銘するのは、その老人たちが人為を超えて、無為自然を示しているからではないのだろうか。
これは逆も同じであろう。
アメリカに関心を寄せる日本人が、アメリカの田舎で無為自然を直覚させる英語老人に出会ったとき。

そして思う。「国際」は「民際」あってのことではないか。
しかし、最近「民際」と言う言葉をあまり耳にしない。それだけ時代は政治的になっているということなのだろう。
うっとうしい限りである。
それも、物質文明を、軍事増強あっての平和を、国是とするかのような富国・強国からの現代日本だからますます寂寥感が漂う。

【[海外子女]から[帰国子女]へ】

そんな現代日本にあって、私が言う富国も強国も白紙の帰国子女は、或る日突然のように「際」に立たされ、海外子女となる。
そこでは、国内転勤、転校で体験する異文化体験とは比にならないほどの異文化体験が、彼ら彼女らを待っている。
しかも受け入れる側の子どもや大人の持つ「日本」への視線があって。

在留地生活、学校生活にあって、適応することに、時に耐えることに、莫大なエネルギーが費やされるが、そのことが寛容さを育むとも思う。
就学校として、日本人学校、インターナショナルスクール、現地校(この場合、ほとんどが英語圏)が考えられるが、在留地によっては、選択の余地がない場合もあるし、複数の選択肢がある場合もある。

日本人学校の余裕度は否定できないが、子どもたちを守り育む場が学校との最前提にし、海外在留生活だからこそ親子協同しての、家庭。家族また日本、そこから親は自身と子の、子は自身の“個”に思い及ぼせる時間が持ち得るととらえれば、当事者でない無責任を承知で、選択肢の有無による正負は一概に言えないのではないかと思う。

しかし、適応叶わず、精神的に追い込まれた彼ら彼女らも確実にある。同じ帰国子女として。

「帰国子女? エリートね。英語ペラペラでしょう。えっ!? ニューヨーク生まれ。羨ましい!」の残酷さ、軽薄さを、今も何ら自省なく突っ走るマスコミはどれほど自覚しているのだろうか。
「隠れ帰国子女」という言葉が生まれる背景を私たちはどう受け止めているのだろうか。

次回以降、「新たな教師挑戦期」で知り得た厳しい諸例について触れられたらと思う。

改めて思う。先の、ヨーロッパ3国に10年余り在留した企業派遣の母親の言葉、

「私たち大人はいいんです。子どもたちは逃げ場所がないんです」の重さ。

しかし、この母親の言葉は、一方で、大人の硬化した心と頭では覚束ない、若者の瑞々しい感性があっての、自身の子どもたちへの、例えば日本国内に留まらず世界視野での「平和」貢献といったことへの夢と期待にもつながっているのではないかとも思う。
だから、時に親の帰国生を迎える私たち教師への言葉は、哀しみを湛えた痛烈なものとなる。

3人の2,3年後での、アメリカ現地校からの帰国生徒の、礼拝時のこんな発話がある。

―私の母親を含め数人の日本人母親たちの会話にあった「アメリカまで来て、アジア人とは付き合いたくないですよね」を聞いた時の私の狼狽(うろたえ)と哀しみ、分かっていただけますか。―

存在感を持つ或る中高校】

「原点習練期」での私と帰国子女教育、の最後に、帰国子女教育で存在感を持つ他校のことを記す。

その学校は、1980年、帰国生徒受け入れを主たる目的に京都に創設された学校で、勤務校と同じくキリスト教教育同盟校であり、帰国生徒間交流を何度か行なった。
これは、そのとき出会った、やはり私に考えることを求めたエピソードである。
尚、この学校の実践は、後に関わることになる研究会『帰国子女教育を考える会』(日本人学校等派遣経験教員を含む小中高大教員、保護者、企業や行政関係者で構成される研究会)でも多くの示唆を与えられた学校である。

創設初期のころ、自由をうたいながらピアス禁止に、校長に直談判に行った或る女子生徒、交流での快活な発言、態度から私に強い印象を与えたフランスからの帰国子女、と校長の議論は並行線をたどり、彼女は退学してフランスに戻った。
彼女のその後は聞いていないが、きっと確かな生を築いていることと想像している。

その学校には付設の寮があり、彼ら彼女らが身に着けて来た文化と日本文化の間(はざま)での日夜の生徒・教師間の対話のこと、また旧来の学力観から抜け出る試行錯誤のことなど、帰国子女教育を活きた形で知り、考える、勤務校では到底体験できない、少なくとも関西では唯一の学校であるかと思う。
その学校には「受け入れ校」に相応しく、「国語科」に「日本語科」があり、その横の連携から副読本教材を制作するなど、衆目を集める教育活動を展開していた。

創設から30年余り経った今、生徒の、保護者の、学校のどのような変容があるのか、例えば帰国子女受け入れを標榜する某中高校長の「ぼた餅論」など、理想と現実、学校と社会と教師に関して、上記研究会等で多く示唆を得たが、これも次回以降のこの原点形成期を土台にした新たな挑戦期のところで触れられたらと思っている。

 

その次回からの、新たな挑戦期であり、教師生活最後17年間の教育体験学習は、家庭と外部の人々の支えと励ましと導きなしには、教師以前に到底生きて来られなかった、我利我利的に言えば何とも破天荒な記録でもある。