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2014年11月19日

私が「学校」「教育」を“語る”ことの大切さと虚しさと疾(やま)しさと B.新たな教師挑戦期 その1 「教師は人間である……」

井嶋 悠

「二人」の政治的人間

 Ⅱ  権威と権力の哀しい性

□権威者、権力者を後ろ盾に、自身の意のままになる取り巻きを作り、アンチ者を、政治家がどうかは知らないが粘質的嫉妬深さで、陰に陽に誹謗中傷し、その人たちを暗鬱に追いやり、時に職場から排撃し、自身が権威者、権力者を指向する「二人」、その出会い

権威と権力は、諸刃の剣かもしれない。
人間社会の世は、権威(者)と権力(者)があってこそとにもかくにも運ばれるとも思える、が同時に、世を、人を醜悪、危険に向かわせる、との諸刃の意味で。
凡愚な私は、権威と権力には関わりたくないと直覚する。
権威や権力に暴力的、言葉が過ぎるならば拘束的、なものを思うから。
ただ、権威は、私の心が清澄を直覚するときは畏敬する。しかし権力には一切そのようなことはない。

そんな私だから、「二人」の言動、行動への違和感が、より強く生まれたのかもしれない。

分類的に言えば、私は「無神論者」であり「無政府主義者」の類(たぐい)なのであろう。但し、「論者」とか「主義者」と言うほどのおこがましさはない、との限定つきで。そんな日本人は多いのではないかと思う。

私の語感では、権威は宗教的で、権力は政治的で、その私は人の子で、心に光と闇を持ち、だから宗教に魅かれる自身を否定できないし、1970年前後の“政治の季節”を青春期に体感したこともあってか、生きている限りにおいて政治から逃れられないことを“頭”では承知している、無党派の、最大公約数的日本人の一人である。

その私が、「新たな教師挑戦期」の二つの学校で、それぞれ冒頭に記した人物と出会うのだが、諸事情から管理職的立場(あくまでも的)にあったこともあり、この私でも無策に終始したわけではない。
しかし、二人とその上司ともう一つの権威と権力のタテ関係は、学校法人組織内で、当然のごとく私より二人が重用重視され、私の苦情、異議申し立ては、体よく却下されるのが通常であった。
その己が非力は、一つは2年後、一つは5年後の私の自主退職につながるのだが、それとは別に何人かが、憤りと不本意の中去って行った。
その人たちがその後どういう道を歩んだか断片的には聞き及んでいるが、今はそれ以上触れない。

それが、退職前後の保護者等々との対話から或る兆しがあったとは言え、一方は20年、一方は10年の時間を経た、私60代になって、私の偏屈な!歯ぎしりで終わらず、先の二人の権威志向と権力乱用が明かにされたのだから、天の不思議を感ずる。
仏教は、その本来から、権威を指向し、権力に固執するのは、根本的な矛盾である。
仏教伝来以来、世俗を旨とする世にあって軋轢、対立があったし、だから超俗的、より言えば聖明的・神聖的、なものが尊ばれ憧憬され、今日に到っているように思う。
老荘の、また究極の仏教とも言える禅が私たちを魅きつけるのは、そんなところにあるのではないか。
絶対も相対も突き抜けた中道、中庸の世界。
そして、個と個との発想ではなく、天上天下唯我独尊、ただただ個に内向する魅惑と不安に駆られている昨今の私は、「親鸞は弟子を一人も持っていない。」との言葉の重さに気づかされる。

西洋社会の礎を形作っているキリスト教は、唯一絶対神を奉じる宗教である。
聖書に次のように記されている。

「イエスは…言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」    [マタイによる福音書]

「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、およそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」                  [ローマの信徒への手紙]

日本での新教・旧教キリスト教徒は、伝来以降今も、総人口の1%から2%と言われている。
私は「教師原点習練期」に、キリスト教主義[新教・プロテスタント]の学校に奉職した経験からも、キリスト教を批判する心も意志もない。そもそも無神・無宗教の「無」は、すべてにつながり、他者の信仰を咎めるものは一切ないのだから。

因みに、韓国では、キリスト教信仰者は約30%で、仏教信仰者は約20%と言う。
この差は、歴史や風土的環境によるのかもしれないが、キリスト教信仰に関して、なぜ欧米化に勤しむ日本で増えないのか。

誤解を怖れず私的な余話を。
日本独自の神道について、命の土壌・自然と「八百万の神」の雄大な永遠性にあって、「天皇」という存在に清浄な心象を描く私を否定しない。
これは、加齢とその間の多様な体験が、日本人の私にそうさせている、言ってみれば天皇と私の中にある日本人の論理でない歴史につながるのかもしれない。
そして、この心象を思うとき、生前、昭和天皇に強く魅かれていた娘の幾つかの言葉(教示)が甦る。

但し、「天皇制」との「制(度)」への、また国家神道といった意図的政治的思惑から天皇を権威と奉りたてる、そういった人為が入ったその瞬時から、それを徹底的に避け斥ける私も確実にいる。

先に進める。
「二人」の権威志向と権力乱用について、幾つもある事例からその象徴的事例と、その後日談を書く。
二人とも当時50代後半の男性である。

一人は、
教職員や保護者に向かって公事を話すとき、主語は理事長であり、その理事長との対話を求めると理事長の多忙を理由に、自身が拒絶する。
そして、日々の現場にあって、個に籠り、防御壁を作り、現場の意見を問答無用として専制する。
その時、腹心に据えた教師から現場の状況を収集し、理事長に報告し、苦境を訴える。その報告の人物関係の筆頭に私が置かれた。
更には、理事長に進言し、某大手塾責任者数名の接待(夕食会)を理事長と本人で行う。その際、理事長の一言があったのか、私は何度か席を同じくした。
主旨は本校(中学校)への進学指導要請である。何となれば、小学校での教師による進路指導は行われないからで、塾の進路指導を通して生徒確保につなげるためである。

因みに、某私立小学校では、いつからか保護者(主に母親)間で“有名中学校”進学校となり、6年次の3学期は、塾での総仕上げと中学校受験のため欠席者が多く、学校として自主登校・公欠扱いとしている。

更には、有名私学中高校元校長を“特別校長”に招聘し、広告塔として利用する。(尚、その校長は、私の原点習練期での勤務校の或る時期の校長である。)

赴任して2年後、私は退職し、教師生活終焉を覚悟するも、公私幾人かの人々(その一人が、何と先の理事長で、『日韓・アジア教育文化センター』の礎石と推進に尽力くださる、という不可思議!)の支えを得て、日本語教師を含め4つの非常勤職(私学校・塾・難民センター)の2年間を過ごす。
そして、或る方の尽力で新たな職場に赴任するが、そこで何ともう一人と出会うことになる。

【その後日談:20年後】

艱難辛苦甚だしい2年間にもかかわらず、限られた対話から理事長の仏性的なものを直感していた私は、退職後、対話の機会をお願いし、度々お会いした。もちろん上記人物のことなど一切触れることなく。
その時の理事長の心はいかばかりであったろう。

私の教師人生終盤時、理事長が病に倒れられた最晩年、療養中のご自宅での理事長との対話で言ってくださった言葉。
「すまなかった。氏(上記の一人)は良い人だと思っていた。しかし、氏が健康上等の理由で退任した時、すべてが分かった。どこに、何が保管されているか等々一切わからず、後任はゼロから始めざるを得なかった。」
私は、心では激しく感謝し、その言葉を静かに聞いた。
その数か月後、浄土真宗の仏教徒でもあった理事長は、還浄された。88歳だった。

 
一人は、
学園全体責任者が中心となり次期校長の候補者選びに入った時、敬虔なクリスチャンを自認公言する彼は、同じく候補者(5人)の一人であった私にこう言い放つ。
「神が与えた試練ならば受ける。」
資質的なことへの自覚、また妻の助言からも、そもそも受ける意思のなかった私ではあるが、その一言に偽善と傲慢を直覚し、且つ責任者の「私としては誰でも良いんですがね」に接し、候補者から明確に離れた。ただ、その責任者の発言は、候補者を等しく視るとの善意であったかとも後に理解したが。

校長に就任することとなった彼は、取り巻きを形成し、意に沿わない人物を陰に陽に排し(時には夫人もそれに加担し〈加担させ?〉、私にも夜間自宅に非難の電話があった。)、対外的には自身がかのT大学出身であること、また校長であることを誇示し(或る言説によれば、これはT大的劣等感とのことだが、決して卒業学科を出さない)、それぞれの職務成果をほとんど自身の成果と喧伝する。
そして様々な場面で、財政関連も含め学園を私物化し、自身を専制君主化する。

私へのそれに係る発言を二つ。

問題意識の厳しい、時に激越でもあった40代前半の女性教師に関して「僕の前で彼女の名前を出すのは止めてくれ」。

海外出張から帰って報告書を学内一斉に送信(詳細報告はインターネットを活用していた)し、校長室に行った時のこと。曰く「今後、報告は私だけにするように。」そして「今後、海外出張をしないように。」
それを言った直後、取り巻きに取り込もうとしている教師が入って来て「現地(出張先)邦人の感謝の声を聞きましたよ」と言った時の、校長の甚だ困惑した気まずい表情。
それを黙って見、一切何も言わなかった私のいやらしさ。

【その後日談:10年後】

以下は、私が、定年(60歳)1年前に退職して5年ほど後に耳にしたこと。

学園責任者への道を画策し、それがほぼ内定した直後取り消され、運営者としても、指導者としても、また研究者としても何ら実績がないにもかかわらず、西欧を源流とする教育課程の解説書を出版し、その権威!として某有名私学の新構想の責任者に就任したが、数年後、解任されるに到る。
(蛇足ながら、校長から学園責任者への道を閉ざされ、上記校に転じる際、校長の後任に、彼の取り巻きの一人を指名し、現在に到っている。)

因みに、その教育課程について、私は幸いにも指導経験をし、その経験から学んだことを西洋文化偏重或いは相も変らぬ従属的劣等感の視点と併せて、以前、このブログに書いた。

その後については、彼のことだから策を弄し、四方八方自薦を展開し、現在もどこかで然るべき立場にあるのだろうが、私にとってはどうでもよいことである。
同じ人の子、多くの過ちを重ねて来た自身を顧み、天は視ているとの畏怖をもって。

これらを書くことで、人々は私をいろいろな形で非難、批判するだろう。
ただ、これらの事実を知ることで、教育を、また社会を、更には日本を考える一助として欲しいとの願いが、同じく教師の対応が一端となって7年間の心身葛藤の末力尽きた娘のことと併せて、ある。

(その娘の事で、娘の個性の強さを言った人がいる。親子一如を思えば、私への批判でもあるのだろう。発言者の社会的立場の高さや高学歴から、なおの悲憤と、同時になるほど、とも思う。)

命あるもの、世に生まれ出ることは死への始まりであり、その終焉は誰も知らない。そして人はそれを時に戦々恐々とし、時に意図的に忘れ、日々を過ごす。

《ただ、日本は、老若終焉自己決定者が、先進国・文明国で世界1,2位を争う、恥ずべき国である。何が和の国かと思う。日本の誇りは、やはりカネ・モノだけなのか。どこまで堕ちるのだろう。》

いっときの悦楽を求めることに心傾く私も、またその虚しさも、人並みに少なからず経て来た私であるが、今、直截にはまだ遠いとは言え、世俗の権威と権力に酔い痴れ惑う人間の哀しい性に、じんわりと、しかしかなりの確かさをもって同感同意している。

日本の大きな転換期でもあった14世紀前後の南北朝時代、単なる無常・出家者ではなく、人の情念を我が身としてとらえていた吉田兼好の『徒然草』から、今回のテーマに係る一節を引用して終える。

兼好は、名利に惑える愚かさ、高位高官となることに腐心する愚かさを記した後、次のように続ける。

――智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きを喜ぶなり。ほむる人そしる人、ともに世にとどまらず。伝へ聞かん人、又々すみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉は毀(そしり)の本なり。身の後の名残りてさらに益なし。これを願ふも次におろかなり。――

「二人」は、これをどう読むのだろう。
かく言う私は、無常の真意がまだまだ自身の体、血肉となっていない。生死一如はほど遠い。
夜ともなれば百鬼夜行、その一鬼・死への怖れは間欠泉よろしく噴き上がり、おののくばかりである。
そんな時、書くことは、その巧拙深浅など一切関係なく、私の弛緩剤になっている。
と同時に、亡き娘の失意と無念と哀しみの私なりの鎮魂表現でもある。

古稀となる来年2015年も続けて行けたらと思う。