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2015年2月25日

改めて言葉と正義のこと、一寸 ―自己愛と相対の間(はざま)に浮遊する私―

井嶋 悠

 

内戦という戦争[それぞれが正義を掲げて行う公認の殺戮]が続くウクライナのかなり高齢と思われる老女が、破壊された家の前で、心の許容を遥かに越えた悲・哀しみからだろうか、矜持としての抑制を越えて、「平和以外なにもいらない」とかすかに流れる涙を拭うことなく呻(うめ)き出す姿を、報道で見た。
その老女の全身全霊を込めた言葉に対して、政府側は、親ロシア派は、欧米は、ロシアは、「そのために戦っている」とのそれぞれの「正義」を声高な言葉で発するのだろう。
残された敗者の悲/哀しみ。

それを繰り返して来た古今東西あらゆる地域の人類。私たち。もちろん日本も。
そしてマスコミは、“識者”を黄門の印籠よろしく後ろ盾に動員し、正義の解説(言葉)を重ねる。
何という虚しさ。人であることの避けられない!?おぞましさ。
それでも正義による殺戮は、これからも繰り返されるだろう。
ふと気づけば、そこに一方の正義に加担する私が居るかもしれない。

言葉は人を殺す。
それは時に銃や刃以上の残酷さを露(あら)わにする。と同時に、言葉は理性の象徴でもある。
この言葉の諸刃の剣を免れたいとする人は寡黙になり、また或る人は意図的に現世から遁(のが)れようとする。その言葉を、日本では「言霊」と言い、禅は「以心伝心」「不立文字」を唱え、西洋でも「沈黙は金、雄弁は銀」とする。
かく言う私は70年生き、ここ2,3年やっと“自身の言葉”で、それが少しは言えるようになったかな、と思っている。

私はその言葉が、生業(なりわい)のすべてで、33年間勤めた教員であった。しかも、思春期前期から後期にかけての10代前半から後半の6年間の国語科教員であった。
何人、私は“殺し”たことだろう……。
自覚し、悔やみ、猛省している事例は幾つもある。しかし、私が善かれと思って発した言葉(例えば、心苦しんでいる生徒への、「頑張れ」や教師絶対観からの正義派そのままに対話を強いる無神経、無責任の自己満足も含め)気づかないままの事例は私の天文学的数字だろう。空恐ろしい。

私自身、大人意識を持ち始めた中学生時代から、ひょんなことから28歳にして中高校教員になってから、尊敬と敬愛をもった教師は何人かあるが、その共通項は、学生に向かって自身を「先生」とは決して言わない人々であった。

そんな私が、全く別視点から気づかされた1年ほど前の衝撃。。
精神分析研究者として大学教員をしている40年ほど前の卒業生と40年ぶりに会った時に言われた言葉。

『苦悶していた中学3年のとき、先生に相談に行ったら、先生は「今、自分のことで精いっぱいでそれどころじゃない」と言われた。覚えてます?あの一言で、何か吹っ切れて、今の私があるように思っています。』と。

私の頭と心を駆け廻った言葉の数々。そして今も。

娘を、7年間の苦悶に追い込み、3年前の2012年春、23歳で死に到らしめた、その一因(娘の親への、周囲への配慮から、すべては後で分かることだが)は中学校の教員で、それは意識的、意図的な暴虐であり言葉だった。
その教員は、今、どこで、何をしているのだろう。母である妻が確信をもって言う「必ずや天罰が下る」もどこ吹く風に、己が絶対善で、教師生活を続けているのだろうか。
このことに真情から共感同意する人はごく少数で、あってもほとんどは社交辞令的タテマエである。
昭和10年代、癩病(現ハンセン氏病)作家、北條民雄の痛切な叫び「同情ほど愛情より遠いものはない」に50年近く前に衝撃を受け、今も未解決な私だが、この言葉の重さを思う。
その重さを直覚している人の私への言葉は少なくなり、しかしある時、静かな行間をたたえふと届く。

言葉は人と人の根っ子で、そこには人それぞれの正義があり、正義と正義の戦いが繰り返され、人々は、自然は、時に自身から命を途絶えさせる。それは、人類が絶え果てるまで続く。
だからこそ紀元前の東西文明の偉人たちは、「正義」を、「(仁)義」を、人の根源的徳目[倫理]として思索し、言葉を紡ぎ、私たちに遺している。
また唯一絶対神を信仰する人々は「神の言葉」に己を託し、捧げる。
情報社会、国際社会等々複雑多様化する現代にもかかわらず、その根底にあって人類誕生以来同じ苦悶と痛苦にまみれる私たちだからこそ、古人の思索が一層の重みをもってのしかかってきている。

「大道廃れて仁義あり、慧(けい)智(ち)出でて大偽(たいぎ)あり」との老子の言葉が過(よぎ)る。

《では、日本は、日本人は、この現代世界に在ってどうするのか。アメリカの属国的追従の「国際」ではなく、日本としてのどういう正義を発信するのか。「温故知新」の、日本の「故」とは何で、日本の「新」とは何なのか。》
これは、『日韓・アジア教育文化センター』の趣旨でもあるのだが、それは限りなく非現実的で、観念的なのだろう。

そして、結局は冒頭に戻っての堂々巡り……。

「寄らば大樹の陰」「長いものに巻かれろ」はたまた「見ざる、言わざる、聞かざる」が、子々孫々家内安全、己が安心立命への賭け率高い途(みち)ということなのか……。(超)難関有名大学やエスカレーター保証の有名大学への、入ることがすべてのようななりふり構わぬ進学狂騒。
それを御旗に掲げる或いはそこに生き残りをかけた中高校。そのレールを外れた生徒たちの心情、心意気に、私たち大人はまた教員は、どれほど耳を傾けているだろうか。学校によっては、卒業生(同窓生)の追跡は、有名大学進学と時々の“有名人”だけとも聞く。

「だからお前が如き小人はかかわるな」と、私にささやく声が聞こえる。
それでも、娘の、身内の、敬愛する人々の死に会い、その私が生より死への時間が身近になりつつある今、自省と言う懺悔を経て終焉に向かいたい、と拙いがしかし“私の言葉”を綴る私が居る。

「言葉は道具である」と言われる。
人は、人と、動物と、植物と、森羅万象と対話し、生の縁(えにし)を育む。言葉は、そのつなげる(時には断ち切る…)道具。
重・厚・長・大から軽・薄・短・小へ、は日本の技術の讃辞としてある。その具体の一つに道具がある。
そして現代は合理と効率そして高速が優先される。しかし(否、だからこそ)今、日本は混迷している、と私は思っている。
社会が、人が持つ非合理、感性を置き忘れさせた、と思っている。

若者の間でもテレビ離れが進んでいるとはいえ、今もって影響力を持つテレビ。(因みに、私は、離れる若者たちに大きな可能性と期待を寄せている。)
そのテレビに見る言葉の、先の(・)を外した「軽薄短小」の無惨。現代の一つの象徴。
例えば、
いつからか「キャスター」と呼ばれる不可解な人物の、
自明にして当然の美辞麗句を得意気に言う「コメンテーター」という有識者!文化人!の、
正統派女優史に列せられる或る女優(つまり“大女優”)が爽やかに喝破した「今、女優はいない。いるのはタレントだけ」[蛇足の私注:タレントとは才能、技量の意]が象徴する芸力貧相な芸(能)人の、
「アーティスト」の自称・他称に見る新しい?和製英語用法の厚顔無恥の、
言葉、言葉、言葉。

その彼ら彼女らの出演料(それも市民感覚では想像を超える高額報酬の由)が、スポンサー企業製品価格に、受信料(なぜ、視聴した分だけ支払う方法を導入しないのだろう?)に入っているという理不尽。
貧困家庭の子どもが7人に1人、世界の経済大国!日本の首都!東京での貧困問題の顕在化等々。
かてて加えて、率先してこの陰惨を克服すべき政治家の痛覚が麻痺し、玩具化した言葉。

やはり言葉は人を殺せる道具である。
だから細心の配慮が必要で、いつの世でも人が驕り高ぶって来るともう一つの人間の側面、良心が頭をもたげ、言葉についての書物が著される。(もっとも、真逆の日本礼賛、強い日本叱咤の類も増えるが)
日本は世界に冠たる職人(匠)の国、と讃えられる。
その職人たちに共通して見られる寡黙で、積年の修業が創り上げた淡々飄々の涼やかな眼差し、姿。羨望し、憧憬する非職人の私、私たち。

求められる大人の、言葉への執心と修練。子どもたちの言葉への想像力の練磨。とりわけ教師。
私が言うことの滑稽を嘲笑する人々を重々承知していても、懺悔と言う自省にあるからこそ痛切に思う。

中学校の国語教科書に、染織家の志村ふくみさんから聞いたことを基に書いたエッセーがあった。
それは、桜の妙(たえ)の色は、大地の養分を糧に凛と立ち、厳しい冬を経た、あの黒くごつごつした樹皮から咲き出る、との志村さんの話から言葉と人のことを書いたものだった。そう言えば、春咲きの球根は、地中で厳しい冬を越してこそ花弁の輝きが増すとのこと。
春の空色に映し出される桜をほのかに思い描き、筆者の意図を自身のことに近づける生徒も多い。
そのとき、日ごろ、言葉に執心し修練していない教師が、対話と「間」への配慮もなく、教師用虎の巻(公称は指導書)そのままにあれこれ言葉(知識の言葉)を弄して説明(時に説諭!さえ)すればどうだろう。
権威と閉鎖の教室でのとげとげしい時間と空間。か、と思えば迎合(おもねり)横溢の時間と空間。
合理と効率と高速を真・善とする「正義」からの『ゆとり教育』の導入と、数年後の同じ「正義」からの撤退。「(横断的)総合学習」も然り。

言葉の概念的官僚的遊戯。「できない奴は黙ってろ、謙虚(!)になれ」的競争社会。
それらを主導する、世を導く自負を高く掲げる学者、教育者、官僚そして政治家。更にはマスコミ。
ここにある二つの「正義」。そのせめぎ合い。時間と民主主義と多数決。

「諦めは心の養生」ということわざ《人生智》を思い出した。
しかし、孔子は70歳にして「自由人」と唱えた。

もう少し時間があるようだから、「自己愛」について、幼少期、青年期、壮年期、老年期に分けての具体から抽象への、韓国や中国の友人とも(失礼ながら日本語で)、対話できればと思っている。