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2015年5月13日

私は「非国民」? ――現内閣支持率が今も51%前後あることに訝(いぶか)る69歳の私感――

井嶋 悠

このブログへの投稿を始めて2年が経つ。娘の無念の死の1年後からである。
意志薄弱、無為徒食に生き、今夏古稀を迎える年齢もあってか、続けることに心折れ、消え去ることがままある。
そんなとき「自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。」という作家・原民喜の言葉を、原民喜への無礼を承知しつつも、思い起こし自身を励ます。

原民喜は、中高校の国語教科書によく採り上げられる一人で、1905年に生まれ、1951年に自殺した、広島で被爆した気品あふれる作家である。(ひたすらに愛した妻は1944年に病で逝去している。)
その彼に1949年(昭和24年)に発表された『鎮魂歌』という、自身の被爆から生まれた、読む者を引き入れてやまない作品がある。
その一節にある言葉が、しばしば引用される先の言葉である。
前後と併せて引用する。

――恐ろしい日々だった。滅茶苦茶の時だった。僕の足は火の上を走り廻った。水際を走りまわった。
悲しい路を歩きつづけた。ひだるい長い路を歩きつづけた。真暗な長いひだるい悲しい夜の路を歩きとおした。生きるために歩きつづ
けた。生きてゆくことができるのかしらと僕は星空にむかって訊ねてみた。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ
生きよ。
僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だった。お前
たちは花だった。――

原民喜に無礼と書いた。
広島被爆の死者・行方不明者73,000人余り。被爆後5年間での死者約20万人の事実を前に、私は娘を追想して、励みとするのだから。
それに、「ために」と私が言うのはおこがましく、偽善的なことは自覚しているから、「自身のために」と思っているのだから。

ただ、私たち親が誇りに思っていた、終生人を疑うことを知らなかった娘が、中学校教師の「イジメ」を端に、高校教師への不信を経て、7年間の心身苦闘の末、2012年、23歳で天上に昇った、そのことで突き付けられた、教師として、親としての自省、自問自答、贖罪と憤怒。娘の不憫。娘の志し、絶対の孤独へのおののきを言うでもなく言っていた娘、それらを合一しての「自身のため」である。

今回もそこからの拙文である。
前にも書いたが、私は一応“京都っ子”の端くれながら、東京に魅かれる一人である。
それは、小学校と20代の放浪地が東京であったこともあるかとは思うが、漫画家で、江戸時代考証家で、随筆家で、更には「そば通」の、46歳で癌のため早逝した杉浦日向子さん(1958年~2005年)に、とりわけ文章に、魅了されたことが大きな背景にある。
その日向子さんを教えてくれたのが、三代続く江戸っ子(新橋)のカミさんである。(因みに、数年前から寝食共にしている我が家・4代目の愛犬の名は「ひなこ」とカミさんが命名した。)
だから、魅かれるのは「東京」ではなく「江戸」である。

江戸時代は士農工商穢多非人の身分階級社会云々、ではなく、日向子さんの描く、貧しくとも心優しくつつましく、己が生をおおらかに楽しむ人々の姿に、現代日本の喪失の寂しさと回帰の願いを見た一人である。
と言っても、「貧すれば鈍す」「貧乏人のひがみ根性」を否定する気はないし、そうかといって「貧にして楽しむ」「貧は士の常」などと諭すつもりもない。
その上での現代日本人の一人の私の「日本、どこへ行く」の思いである。

(私は、30年ほど前、日本の大学に留学していた韓国人学生から聞いた彼ら彼女らにとって[にほん・にっぽん]の響きの違いの説が強く心に残ったこともあり、日本は「にほん」と読む。)

日本は、無条件降伏の太平洋戦争敗北から奇跡の復興を成し遂げた経済(超)大国にして先進国と賞讃されている。
(但し、これについて朝鮮戦争、ベトナム戦争によるアメリカがあっての特需景気であることを横に、すべては日本人の勤勉に帰した言い方が多いが、これは朝鮮・韓国の人々、ベトナムの人々に対して非常に無礼な言い方だと思うし、またアメリカに過剰に恩義を思う必要もない、と思っている。)

その日本、先日、財務省が、全国民一人当たり830万円、総額1053兆3572億円の借金国であると発表した。
総額の数字は、もちろん実感性は全くなく、想像もつかないが、世界各国の国家予算(2012年)によると、1位アメリカ520兆7000億円、2位日本390兆7000億円、3位中国333兆8000億円で、30位があのギリシャで20兆1000億円とのことなので、途方もない借金であることは納得できる。
私は「学」、とりわけ理数系やそれに近い文系の経済等、が苦手で勉強不足も甚だしいので見当はずれを言うのだろうけれど、
テレビ報道で、経済の専門家が「借金なんて全く関係ない」旨の発言を、余裕の笑みで話しているのに接したり、国土的、資源的にも大国の両国と同列に言うのはおかしいとは思うのだが、アメリカも中国も借金大国とのことで、それらの言葉からすれば何ら心配することはないのかもしれない。

しかし、なのだ。

この数字、3人家族とすれば2490万円、5人家族なら4150万円の借金で、
世は物質文明、消費文明華やかに、或いは虚飾に溢れ、
物価は軒並み上がり、しかし所得は一部の人々を除いて現状維持ならまだ良いと慰められ、
中小の企業・商店等は廃業、倒産、転地に追い込まれるところ多く(例えば東京都内の有名商店街では、地代高騰でその地の商店が徐々に消え、大手商店等が流入してきている。いわんや地方では、である)、
今も仮設住宅居住者が約22万人もいる東北大震災と原発事故による地域復興でも、
更には高齢化社会での福祉についても、あたかも責任は国民にあるように財源不足を言い、
税金等公共収入と個人財産精査と把握に躍起になっている現代日本の立法府と行政府の要人たち、そしてその人々を支え、導く専門家たちとそれを喧伝誘導するマスコミ。

ごくごく普通に考えれば、自殺、心中、一家離散大国となってもおかしくない日本。
にもかかわらず、少子化に危機感を募らせ、目先のカネ給付での「産めよ、殖やせよ」に見る、国民をコケにしたかのような短慮。

私が生涯の仕事として33年間携わって来た学校教育(専任教員で奉職した私学中・高校3校は、すべて大学進学を前提とした矜持高い学校であった。これは私の実力とは関係なく、周囲の人々との恵まれた出会いからのものである。念のため。)と二人の子ども親の経験からも、その過酷な教育費の現状はすさまじい。 2012年度の文科省の学習費調査では、例えば私立中学高校から国公立大学進学の場合、約1450万円、私立理系なら約1750万円で、かの東大生の世帯年収は約60%が950万円以上。
かてて加えて、良い進学のために求められる、塾・予備校また家庭教師への学習費、自宅の部屋環境。
一方で広がる、大学の大衆化の負の側面と、それによるますますの有名大学志向と学歴差別の現状。

〔塾・予備校教育については、いかなる小中高校であれ行かずして次の段階への進学なし、が現実で、塾・予備校教育を批判する学校関係者の多くは“丸投げ”状態で、かく言う私も「小論文」以外はその一人であった。(「小論文」と言っても、予備校の上級クラスからすればお笑い草であろう。)
ただ、小中高大、中高大、高大といった形で継続付設し、生徒のほとんどがその大学に進学する学校では、建学等精神に基づいた担当教員・教科の意図、意志による検定教科書や問題集等使わない個性的(ユニーク)な授業が展開されている。もっとも、大学の保守的権威的閉鎖的教員からは、基礎知識がないとの苦情、非難もけっこうあった由。
私が勤務した学校はそのような学校でなかったこともあり、羨ましく思うことがあった。
最初の勤務校は、伝統のある中高大一貫校であったのだが、奉職後10年前後頃から、ほとんど他大学志向となり、内部進学者はごく少数で、時に劣等感さえ持って進学していた。この歪み、屈折も私に考えることを求めた。]

この社会状況が、すべての原因ではないが、しかし、ここ10数年来、先進国中1位の自殺大国の日本。全く関係ないと言えるのかどうか、私には甚だ疑問である。
小学生を含む生徒学生段階の若者の自殺について、若者の精神力の脆弱化を嘆く大人は多いが、カウンセラー配置等の施策そのものが、対症療法の限界と言われ始めていることにつながっているのではないか、
また、
背景には、高齢化・長寿化社会にもかかわらず「18歳人生決定観」は生き続け、社会人での方向転換、再学習が難しい固陋さから抜け切れず、更には「階層」から「階級」指向へさえ見え隠れする虚栄的特権意識化、それともつながる人権意識の低さによる格差化があるように、私には思える。

尚、「階層」「階級」を国語辞典[『現代国語例解国語辞典』小学館]で確認すると、
「階級」《身分、職業、財産などを基準にして考えられる階層》とある。
「階層」と「階級」の決定的違いは【身分】(社会的、出自的序列)にあると言うことだろう。
その日本は、戦後以降「階層社会」と言われる民主国家である。

「日本は曲がり角に在る」と言われて久しい。それは、2011年の東北大地震と福島原発爆発事故で、或る意味限界的頂点に来ているように思える。
その日本のリーダーたる現首相は、放逸な独善者傾向をいや増すばかりで、言葉に誠意は微塵も感じられず、本人の意とは裏腹に?言葉を愚弄化し、人・国民を軽侮しているとしか響かない。
このような人物とは、幾つかの職場で仕事を共にしたので実感で伝わって来る。

独善と愚弄の根拠を二つ挙げる。

一つは、税金の使い方。

先ず、「外遊」の多さ。
2年ほどの期間に、歴代首相第1位で30数回(50ケ国前後)に及び、そのための経費(運航費、人件費等)は、期間や距離によって違うが、平均1回あたり5000万~6000万円(仮に5000万円として30回とすれば約15億円)、そして対外支援総額が6,5兆円で(この額は2014年度消費税分とほぼ同額)、被災地支援は当然のこととして欄外に置いて、支援に「共生」の愛情を直覚させることなく、心ある人はそれを「ばらまき」と言う。もちろんその心の有無とは関係なく私も。

この実状を知るための資料の一つに、衆議院議員からの質問へ首相名答弁書(2014年2月)がある。
実に慎重な?言い回し(政治家、役所の表現法?)の回答の中、次のように書かれている。

――……我が国の安全と繁栄の維持・強化、二国間関係の発展、国際社会の平和と繁栄の確保に向けて指導力を発揮していくことは、大きな意義があると考えられる。――

それぞれの抽象語の具体的内容や具体的成果の検討なしに漫然と読めば、もっともな文章だが実に虚しく思うのは、私だけだろうか。

例えば、盲目的偏愛のアメリカ追従にあって、オバマ大統領の【TPP】に係るアメリカ国民を前にした演説(農産物、畜産物の輸出拡大の約束)を、日本の農業、畜産業等団体からの嘆願書を承知したと言った首相は、どう聞いているのだろうか。
「政治(家)ゲーム」で、お互いに主張することで“落としどころ”を模索する一つの手、ということなのだろうか。

もう一つは、平和観。

現憲法は、占領下での、素人が短期間に作成したものと断じ、“強い”日本のための自主憲法制定をもくろむ。占領の核はアメリカであったのだが。
日米盟友の具体的証しをアメリカから求められたこともあるのだろう、「我が国を取り巻く危機的状況」を言い、「集団的自衛権」成立を急ぐ。
そこには、中国の、韓国の、ロシアの、尖閣、竹島、千島問題を糸口にしたそれぞれの国の具体的脅威の戦略を、また北朝鮮の、はたまたアラブ圏等の日本への具体的脅威情報を、客観的に把握しているのでは、とも憶測を働かせてしまう。
戦争は永遠になくなることのない人の業なのか、世界は、日本は、それほどに危機的状況に在ると言うことなのだろうか。
そうなら、日本(人)はその危機的状況に向かわせた一員なのかどうか、謙虚に自問しているだろうか。

それらともつながっているように私には感ぜられる、自民党要職にある二人の女性国会議員の、日本でのネオナチズム日本人リーダーとのツーショット事件の放置に見る怖ろしさ。

先日の5月3日憲法記念日の集会の一つで、ノーベル文学賞受賞者の80歳を迎えた大江健三郎さんは、
決して人の名を呼び捨てにしない温厚篤実な紳士にもかかわらず、何度も現首相の姓を呼び捨てにしてスピーチをしたとか。
よほど腹に据えかねていたのだろう。
この「世界人」の思いを首相はどう受け止めたのだろう?私は、日本の言霊観を、これも自省を込めて大切にしたく思う一人なので、とりわけ「人の名」を言うことには深謀遠慮を可能な限り働かせている。だから、唖然呆然とする現首相の姓名を言うことは忌避している。

いささか悪態が過ぎたかもしれない。
しかし、私の生と自省から発した言葉である。

「グループ一九八四年」という学者集団(一説では、当時学習院大学教授であった香山健一、一人とも)の著になる『日本の自殺』という本がある。
雑誌『文芸春秋』1975年2月号に発表され、当時大きな反響を呼び、3年前の2012年、解説等を付け加えて新書版で刊行されたものである。なぜ今再刊されたのか、我田引水を承知で私の悪態と一部つながる論説もあり意を強くしている。

現首相は読んだのだろうか。
読んだとすれば、さぞかし自分がその救世主だ、と確信しているのだろう……。