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2015年5月27日

「すなほならずして、拙きものは女なり」 ―されど「男は妻から(治まる)」―

井嶋 悠

 

表題の「すなほ・・・」は、吉田兼好『徒然草』(鎌倉時代末期1330年ごろ)の一節である。
その前後では、女は、ひねくれものとか、我執が深いとか、道理を知らぬとか、おしゃべりとか、賢女は人間味がない等々と、惨憺たる評である。
もっとも、恋愛、愛慾対象としての女[「色好み」の美]論では賞讃の嵐だが、これについては王朝貴族の伝統美への考え方と関わり、軽々に是非を言うことには注意しなくてはならないと思う。
ただ、個人的には、生と美を包む「悲・哀と愛」しみと、男女の中で重なるものがあるように思える。

(不勉強で、兼好のこの女性観について、男性(それも古典的?)の解説等には接しているが、女性の側からの意見は未だ確認していないので、この機会に是非確認したいと思っている。これも[ブログ]と言う自己整理の功かもしれない。)

私は、人並みに女性への関心はあるが、とりたてて恋愛崇高信奉者でもない。
しかし、生い立ちや職場(男女差別のない〈はずの〉学校社会)、また他の機会での、能力的、人格的に優れた女性との出会いから、女性敬愛者にして男尊女卑懐疑者ではある。
だから、時代と立場の違いがあるとは言え、兼好の酷評には全的に同意していない。

(尚、海外帰国子女の在留地生活形態から母親の影響の強さが指摘されている中、帰国子女を積極的に受け入れる学校教員時代、理想を生徒の前も含めて滔々と語る同僚(男)が、或る男子高校生のことで私に「あいつはマザコンだ」と言い放ったことがあった。その瞬時、私は「マザコンで何が悪いっ!」と感情を爆発させた思い出もあり、私の中の“マザコン”要素は否定しない。)

私が言う能力的とは、当たり前のことながら学歴など関係なく、他者の意見を傾聴し、独善を振りかざすことなく対話と仕事をする人であり、人格的とは「謙虚」を体感的に熟知し、実行している人のことである。

その私は、自省を込めて、現代日本の危機は男女問わず謙虚の喪失であると思っている。

その気持ちを表わしたのが「男は妻から(治まる)」の副題で、女と妻は違うとの指摘もあろうかとは思うが、現実の日々での女性は、妻を通してしか知らない私の活きた言葉である。

ジョルジュ・ミシュレなるフランス人(フランス革命でも活躍した、18世紀の政治家にして歴史家)は、次のように言っている。

―妻は夫の娘である。……妻は妹でもある。……妻はまた母でもあり、男を包んでくれる。ときとして男が動揺し、模索し、空には自分の星
がもう見えないという、そんな闇の瞬間に、男は女の方をみつめる。すると星は女の眼の中にあるのだ。……―

さすが、フランス革命に尽くした人だけのことはある。

彼が言う妻が、私が言う謙虚かどうかは知らないが、
映画『かくも長き不在』(アリダ・ヴァリ・演)や『居酒屋(マリア・シェル・演)』に登場する女主人公に魅かれる私としては、能力と謙虚を兼ね備えた女性であろうと思っている。

これを書いている今日[5月24日]、白鵬が破れ、同じモンゴルの若者照の富士が初優勝を飾り、来場所の大関を確実にした。
繰り返される、時の流れと人・命あるすべてのもの、との係わりの寂しさ、虚しさを再確認しているが、同時に、私の中で、独り横綱として日本の国技を支えて来た“外国人”白鵬への、ここ最近繰り返されている手のひら返したバッシング[白鵬たたき]に見る非人間性、独善性、それを誘導するマスコミの、横綱審議会委員等への嫌悪・不信が益々募っている。

例えば、NHKの一部?アナウンサーの道学者的言葉、横綱の品格を諭す審議会委員の中で、どれほどの人が人間としての品格を持っているというのだろうか。
そこには、不完全な万物の霊長ゆえの苦悩を持っている同じ人としての眼差し、優しさ、謙虚は微塵もない。
日本の“嗚呼!勘違い!”を改めて直覚させられている。
24日千秋楽の解説は、もちろん北の富士氏であったが、うまく言葉が出ませんと言葉を詰まらせていた様子に、私の勝手な想像とは言え、氏の人格の高さを思わずにはおれなかった。
今回は、そんな私の、女あっての男、妻あっての夫についての雑考である。

高齢化社会となり、定年も65歳とするところが増えて来ているので、次の感慨は65歳以上の人が多いかもしれない。
曰く、今の若者は、こらえ性がない、耐える力がない。
話の重心が若者の自殺ともなればそれに拍車がかかる。
それを言う御仁は、私の体験では、それぞれの世界、道程で、矜持からの自尊を持ち得た人々のように思う。もちろん、独善的自己顕示の虚栄を響かせるような言葉を言う御仁ではなく。
その私には、古稀直前ながら先の感慨が過(よぎ)らない。それは、私の中で達成感とかそういった矜持がない証しなのかもしれない。

思想家・唐木順三(1904~1980)が『自殺について』(1950年刊)で言う、次の言葉に共感、同意している私なので。

――思想と感覚の乖離に苦しんだはてに自らを殺していった人々は、我々の苦しみを典型的に苦しんでくれたのである。――

(因みに、氏の、太平洋戦争・東京裁判で絞首刑となった7人のA級戦犯の最期について、広田弘毅、松井岩根への敬愛漂う言葉、他の5人の辞世の歌を介した厳しく断ずる言葉に、大いに頷き、同時に自省を促す。
そして、娘が生前好意的に発した人名の一人が、広田弘毅であった。
和歌の素人で浅学のこの私でさえ、5人の辞世歌は酷(ひど)過ぎる。昭和天皇はどのように受け止めたのだろうか。)

人+憂=優。
憂き世にあっては、「生きる力」はやはり耐える力なのであろう。
乗り越え、生き抜いて来た人は優しい。
しかし、形容語にはその人の人生と生の価値があることからすれば、頓挫した人の優しさもあるはずだ。
そして、前者の優しさより後者の優しさに親しみと、時に敬意さえ寄せる、言葉だけを弄する勝手で無責任な、私が、いる。

「めめしい」は「女々しい」と書く。反対語は「おおしい・雄々しい、男々しい」。
男のささやかな抵抗?
神(天)は男女の特性が、それぞれにまた一体として活きる共同体を描き、創生した、と思う。
先ず、母系・母権から始めた。やがて人間の哀しい業、利他を言いながらも結局は利己の、“戦い・戦争”が始まり出し、肉体力に勝る父系・父権に移行した。

日本は天照大神を始源とする。
「元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。」と言った、
平塚らいてう(1886年明治19年~1971年昭和46年)を思い起こす人も多いと思う。
では、今、日本で「病人のような蒼白い」女性は、なくなったのだろうか。

川端康成が、ノーベル文学賞受賞スピーチで引用した道元禅師の歌、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり」や古来の“春秋論争”に、太陽と月のそれぞれの美に、日本人と自然を見る私は、らいてうの言葉に、彼女の生の激情と併せて二つの叫びを見る。
女性を隷属する男性への怒りと、それぞれの美をないがしろにすることへの怒り。

このことは、江戸時代が、私にとっては「武士道」よりも「かかあ」が先ず浮かぶことともつながる。
西洋文化圏は、聖書文化からも父性優先世界と思っているが、そこにも近代化=西洋化・西洋に追いつけ追い越せの歪、無理が日本人にはある、と思うのは私だけだろうか。
「かかあ天下」に漂うほのぼのさ。安らぎ。男の勝手と承知しつつも……。
女性の、無限の、自然の愛の深さ。母性。母なくして子は育たぬ。
大地も、大海も、根底に流れる「母」。
「母なる大地」「(今は消えてしまった)海の漢字に込めた“母”」

【参考】

「かかあ天下」は、英語でどういうのか。[『アンカー和英辞典(小学館)』から]

――彼の家はかかあ天下でね。何をするにもまずかみさんに相談してからなんだ。

He’s a real henpecked husband ; he never does anything without asking his wife first. [henpecked husband  恐妻家]

私注:
英語圏文化に精通していないが、ここには「かかあ天下」のほのぼのさはないように思える。
否、ほのぼのなどということ自体が、男性優位発想なのだろうか。

その日本の男女同権度(男女平等度)は、142か国中、104位とのこと。
(因みに、1位はアイスランド。2位から4位は北欧三国。アメリカは20位。9位でアジアでの1位はフィリピン。中国は87位。韓国は117位)

104位、さもありなん、と思う。
何が先進国!?何が世界のリーダー!?何が積極的平和主義国!?……。
先進国とは? リーダーとは? 積極的とは?

男女同権、共同社会を声高に言う今の首相の、立法・行政の要人たちの、言葉の端々、行間に漂う偽善。
しかし、女性の任用の数量的拡大だけで解決するのではない。併行しての無用な男性の、また現社会的で既に活躍している女性の、猛省、更には潔い自覚的撤退の必要を思う。
その物差しこそ能力と人格ではないか。
それを決めるのは高人格の他者である。自薦者の醜態を幾つも見て来た。

以前、職場(インターナショナルスクールとの協働校)を共にした、外国人も含めた同僚から典型的なアメリカ人と言われていた、その親愛の情の豊かさから、多くの生徒に慕われていた男性教員の言葉。

「会議等で、私が、私は、と他人よりちょっとでも先に言う姿に辟易した。疲れる。」と。

そのアメリカ人は日本人女性との結婚に憧れていた。

【備考:その職場での同じ英語圏のアメリカ人・イギリス人・オーストラリア人。カナダ人の関係は、なかなか興味深いものがあった。】

繰り返し教育と社会の価値観の変革の緊要さを思う。
学校教育世界は、地域の、国の社会状況を見事なまでに映し出す。だから教育が変われば社会も変わると言える。その教育を変えるのは、大人であり、特に教師であると痛切な反省、人の振り見て我が振り直せ、から思う。

例えば、海外・帰国子女教育世界。
その家庭を含めた在りようは、時代を反映する。海外在留の大半を占める企業派遣や官庁派遣の実状は、30年前40年前とどのように変わり、そのことで、保護者・子どもの意識はどう変わったのか。
派遣教員の、通信教育の、海外進出塾の実状に変化はないのか。
また、
少子化に伴う主に私学経営からの女子校の、男子校の共学化でどのような変化をもたらしたのか。
「良妻賢母」「強い男」育成を学校目標とする女子校での、男子校での、過去と現在での「良」と「賢」また「強」は違うのか。違うなら、そこにどのような社会意識が反映しているのか。
現代だからこそ女子校の再評価を、との声も聴く。それは、旧来の男観女観の意識変革が動いているととらえることができるのだろうか。

日本社会の方向性、そこに生きる生徒の年齢、地域の、家庭の環境、学校の教育目標の違い等々、多様な現実・現場を無視した抽象的教育論の、それも理想(ロマン)を己が絶対善も併せて語ることの空虚と寂寞そして高慢に気づかない教師や研究者・評論家。

太平洋戦争とその前後の日本の近代化を再確認し、高齢化、長寿化そして少子化の現在を、正の社会的試練ととらえ、付け焼刃的対症療法ではなく、民主主義国家《日本》としての長期的展望と戦略を明示しなくてはならない時を迎えている日本。そこにこそ“専門家”の役割があるのではないか。
それが、今の、内閣・研究者・マスコミが導く姿なのだろうか。
私には、到底そうは思えない。

展望と戦略で思う具体的なことについて少し挙げる。

乳幼児から老人までの福祉の充実、被災地(福島、宮城、岩手等々)復興の加速化、物価高騰に見合う一部大企業や公務員だけではない国民の所得増加、地方再生(創生と言う用語は使い方を間違えている)の裏付けとなる財政、自衛隊の“軍隊”化の経費、等々。

にもかかわらず、平均5000万円前後を掛けて歴代首相最多の外遊をする首相。その必要と成果は?被災地支援以外の海外の資金供与、増税の根拠の過去の施策を覆い隠す言い分、等々。

これらを肯定的に承認するのが良き日本国民、とはあまりに不可解と思うのだが、それは前回書いた。

精神科医で随筆家であった斎藤茂太《1916~2006:和歌史に名を残す歌人にして精神科医斎藤茂吉(1882~1953)の長男で、弟は同じく精神科医で作家(もっとも後年躁鬱病を発し、そんな人間がするのはおかしいと精神科医を廃業)北杜夫(1927~2011)》の、短いエッセー『私の死論は「夫が先に死ぬ」』を思い出した。
世間のことに全くと言って疎い自身を自覚して、妻に先立たれたらどうしよう、との強い不安を仲間と共に日ごろ話している、といった内容である。
いたく共感同意した。

給料をはじめ金銭及び、衣食住一切の管理運営をし、「よくまあこれまで世の中の諸々を知らずして生きて来られたねえ」「今の若い女性ならとっくに離婚だろうねえ」とさらりと言い、私立中高校では稀有な所属校を3度変え、或る時期の2年間、二人の子どもの母として物心苦境に陥っても一切苦言を言わず、先に引用したジョルジュ・ミシュレの言葉「星は女の眼の中にある」を、高低・強弱の抑揚なく淡々と言うカミさんを娶り37年が経つ。

カミさんの星の言葉を一つ挙げる。

これは教師であった私の自己嫌悪と重なるのだが、学校世界の、とりわけ校長をはじめ教師の独善、権威志向、要は私が言う「人格」の真逆が、最高潮に達した定年1年前59歳で、一切退く決意をした時のカミさんの言葉。

「いいよ。何とかなるよ。」

そのカミさんが、娘の、教師が一因となる7年間の苦闘にひたすら向き合い、護り続け、死を経て持つ、教師への激烈な不信と、マスコミ登場する教育研究者、評論家、またマスコミ人の独善と傲慢への痛罵。

娘に先立たれた上に、このカミさんに先立たれたらと思うと、手すりのない吊り橋に立たされた気持ちに襲われ、不眠症的症状を招くことさえある。

かの一休禅師が88歳!で死を迎えたとき、森女(しんじょ)[一休77歳の時からの弟子であり、一休に深く愛された盲目の旅芸人の女性]の膝を枕に「死にとうない」と言った由。
その一休さんの言葉を幾つか引用する。

女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む。

世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり。

南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ。

親死に 子死に 孫死に。

大人(たいじん)と小人(しょうじん)の致命的差を承知し、想像を絶するあまりに遠い世界ながら、羨ましく、妬ましく、憧れる、そんな共感を持つ私もいる。

あれこれ思い悩ます第2の人生、老いの“青春”の日々である。