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2015年7月17日

60でもなく、80でもなく、70の手習い ―いつ、どこから訪れるか分からない“境”―

井嶋 悠

 

怠け者の私が、人生数えるほどしかない自学自習から、日々を重ねる力を得ている。
来月古稀を迎える身としてはうれしいのだが、どこか複雑な思いも湧く、この2年余りである。
かの「十五にして学に志し」に始まる孔子の言葉(人生道)は七十歳で結ばれる。曰く、
「心の欲する所に従いて、矩(のり)〈きまり〉を踰(こ)えず」と。10年前の六十歳は「耳順う(耳順)」。
天下自由人の境地と言えようか。
まだまだ観念の中で蠢(うごめ)いている私に過ぎないが。

向学の源泉は、娘の7年間の苦闘の末の、2012年、23歳での死であることは、知る人ぞ知る、である。
その端緒が、33年間の私の生業と同じ中高校教師であるから、元々「先生」なる者に信を置かない妻は以来、ことのほか「学校」「教師」の2語を忌み言葉とし、口に出さない。

私と妻は恋愛結婚である。能天気と親不孝そのままに、28歳にして正職に、しかも何と教師に、就いて5年後である。それまでに妻を知る人々は驚いたそうだ。然もありなん。
量数で言えば、私を良き教師と評価する人は少数である。
だから、私がただただ事実に基づいて、思うままにこの【ブログ】に書く学校のこと、教師のことは、少数の読者での多数は非難、無視である。もっともなことである。
有り難くも読んで下さる多くの方は、私の公私を知る旧知の教育関係者なのだが、中には「こんな長いもの誰も読まない」と内容以前の発言もある。
しかし、読者は量より質よ、と居直っている。賛同する人は、私が知る限り多くは教師ではない。
「教師らしくない教師」との評語は教え子からも受けた。それは、私にとって心地よい響きであり、励みでもあった。娘は生前そんな私を聴き、見、優しく遠くを見るかのように微笑んでいた。
ただ、それも59歳が限界だった。

余哀と言う言葉に心揺さぶられるにもかかわらず、誤解と矛盾を承知で、私は娘に感謝している。
娘の怪訝な、しかしいつもよく分かってくれていたあの貌(かお)を思い浮かべながら。

作家・坂口安吾(1906~1955)が言っている。

――悲しみ、苦しみは人生の花だ。悲しみ苦しみを逆に花咲かせ、たのしむことの発見、これをあるいは近代の発見と称してもよろしいかもしれぬ。――[『悪妻論』(1947年)]

さすが一時代を創る人は違う。孔子が言う「不惑」の歳での言葉である。

坂口安吾は、この8年後、49歳で、天上人となる。彼は“無頼派”と言われる。
私は、青年時代、この“無頼派”に憧憬を持った。遅くしての正職は、それがあるやもしれぬ。
妻は、アル中で死んだ高校時代の、私を教師に導いた恩師の影響だと言っている。憧れは背景があってのことだから、当たらずとも遠からずかもしれぬ。
しかし、単なる憧れで終わって、私は今も生き、恩師は私が結婚する少し前に孤独の中で旅立った。

自学自習と言葉紡ぎ始めたその途次に、次のような言葉にも出会った。

「境は線にしかすぎないが重い扉が立てられ、いつも閉ざされ、ただ一つだけ通れる道がある。それは橋であったり、峠であったりする。村と村との境を追分ともいうが、向こうの世界に行くためにはここを通らなければならない。そこを境というが、この境を越すためには危険がともなう。だからここには神が祀ってある。それが境の神である。」

「人間は人生をいくつかに区切って境を設けるが、時間の流れにもまた境がある。これを刻とか節という名で呼んでいる。そうして時の境を神秘化しようとする。」

[上記はいずれも『日本人物語 5 秘められた世界』(1962年)の編者・関敬吾(1899~1990)「はじめに―生活文化の秘密性―から」]

私の“境”への、娘の、娘による天からの啓示なのだろうか……。

余計なことだが、私が在職中の20年ほど関わり得た「(海外)帰国子女教育」について、更には「外国人子女教育」について、この「境」の視点から、出会った多くの生徒を思い起こしていずれまとめたいと思っている。

善悪ではなく、好悪の問題に過ぎないのだが(教師というのは、得てして好悪と善悪をほぼイーコールで話すことが多いと思う。もっとも、教師に限らないかもしれないが)、私自身不可解にして、時に苛立ち、時に有頂天にさえなる、69年間の人生と33年間の教師人生があったから、この2年ほどの時間に、或る新鮮さを直感するのかもしれない。
ひねり出す言葉は、稚拙にして、知識量の圧倒的少なさは致し方ないが、“私の言葉”との矜持はある。矜持と言う堅苦しい言葉を使ったのは、不遜・傲慢に陥らぬよう心掛けているからである。
しかしただの一小人(しょうじん)で、表現未熟者を自覚しているから、数多の言行不一致があるのは明らかである。

教師の世界は、教職免許取得者の世界である。

《ちょっと余談》
大学教師はそれとは違うはずだが、資格基準が甚だしい。「ドクター浪人」なる言葉が、高学歴貧困者の問題が生じて、20年以上なるのではないか。
以前、或る私立大学の知り合い教員から聞いた話。
准教授(当時は助教授)1名の公募に、そうそうたる高学歴者100人ほどが応募して来たとのこと。
今はどうなのだろう。大学の大衆化の一側面(その正負については今措くが、負の側面の方が強いように思う一人ではある)、大学院進学者の増加に伴い、学位取得者も多くなり、一層就職厳しいとも聞く。

因みに、ここ何年か「大学院教授」との肩書きをよく目にするが、あれも大衆化の中での教授側からの「差別化」の一つなのだろうか。学部教養課程教授と専門課程教授との差別化と同じ構造での。

閑話休題。

教員資格取得のためには、あれこれと必修講座を履修しなければならない。その時、経験から言えば、教師になって最も活きた力と思考、思案の土壌となるのは「教育実習」である。
私の実習校は、大阪の下町の公立中学校で、国語授業以前の問題にどう向き合い、取り組むかが求められる難しい学校だったからより強く思うのかもしれない。1968年、23歳の時である。
家庭の貧困と親の不在に向き合っている子どもたち、寂しがり屋の子どもたち、騒々しい教室で沈思黙考する数少ない子どもたち、休み時間にはじき豆そのままに生き返る子どもたち………。
どれほど私の心をとらえたことだろう。
幾つもの「武勇伝」を残した。
或る時、授業が始まっているにもかかわらず教室を走り回っている男子生徒の襟首を捕まえて尻を蹴とばしたことがあった。
クラス担任で、国語科の、指導教師の30代の女先生は言われた。微笑を浮かべて。

「毎年実習生を受け入れているが、あんなことしたのは、あなたが初めてよ。」

沈思黙考していた女子生徒から感謝され、蹴っ飛ばされた男子生徒はそれ以降、昼食時間、運動場での遊びにしばしば私を入れるため教員室に誘いに来た。
その時は、或る一事で過ぎ去ったが、時と共に私の糧となった。
その指導の先生は、市井の日本近代文学研究者(本業は公務員)の奥様で、実習が縁で、夫君が主宰する同人会にいつも誘ってくださった。私は同人の方々の迫力ある話を黙って聞き、ただ酒を呑んでいただけだったが。
15年ほど前、夫君は亡くなられ、指導の先生は、音楽家の娘さんに護られながら静かに余生を過ごされている。

そんな私は、人に恵まれ、以下の私学3校で専任教諭を経験し(非常勤講師を含めれば6校)、或る時から、先に触れた(海外)帰国子女教育、外国人子女教育に加えて日本語教育に携わり、実に多様な老若男女、人々と出会い、教師体験を積んだ。

・明治時代、アメリカ人女性宣教師によって創設されたキリスト教主義女子中高校。(大学も併設)
・国際都市での新たな国際教育を目指して創設された女子中高校
・インターナショナルスクールとの協働校という日本で初めての共学中高校

娘の在籍中高校は本人の意思から公立校で、高校1年次中退後卒業までは私立(単位制)である。

自身と娘から学んだことを、娘の死を境に、自省し、まとめる時間を続けている。まとめは、あくまでも体験から得た私の価値観、人生観からの、主観を基に客観を目指した言葉である。
こんな私だから教師聖職者的に礼賛したり、知識的(概念的)な教育言葉は少ない。
或る人が、私を屈折者と評したことがあった。私は正直なだけと思っていたのだが。
「正直は最良の策」(Honesty is the best policy.)世の東西、異文化はないようだが、私の場合、策略を用いる才がない、つまりバカ・アホウだけなのかもしれない。

それでも、これから、どこかで、私の学校論?教育論?を読んでもらえるなら、それも教職(とりわけ中高校の)を希望する若者に、中でもこのわがままを絵に描いたような私をオモロイと直感する若者に読んで欲しい、と傲岸にして、無恥そのままに願っている。
もっとも、この時間、いつまで続けられるかは、体力と気力、特に体力、次第としか言いようがないが。

栃木に移住しての10年の間に向き合った娘や生母の死、霊が最後の?お別れ?のためか、円形の透明なゲル状の形になって深夜、寝室の壁伝いに訪れることを経験しているとは言え、聞くわけにもいかず。

哀しみのどん底に突き落とされた親、子、大人、若者のことが、また障害を背負いながら懸命に生きる人々のことが、毎日のように伝えられる。
生活格差は広がり、それとつながる教育の、福祉の益々の歪(ゆが)み、そして平和に係る無責任極まる暴走が、露わに顕在化し、未来への不安と絶望の瀬にある人々が増え続ける寂しい日本社会そのままに。
その度毎に、私は、妻に気づかれないT・P・Oで、私の独り善がりと無為を責める。
そして、江戸っ子“おっかあ”の妻は、らしく外に感情を出すことを恥とし、淡々飄々と日々を重ねている。

亡き娘は、死の1年前の東北大震災の時、体力問題からボランティア活動に参加できない己の無為を、どれほど呪い、責めていたことだろう。