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2015年9月4日

老いの繰り言? 義憤? 或いは 結晶性知能[crystallized intelligence]を自戒に

井嶋 悠

9月1日は「防災の日」、とのことを私70歳・妻68歳「へー、そうなんだ」と顔を見合わせて3日経つ。

「災」、例によって白川静著『常用字解』で字義を確認する。
もちろん、私の或る魂胆があってのことで、[…巛は水災、洪水の災難(わざわい)をいい、それに火を加えて火災をいう。のちに災は水災・火災だけでなく、すべての「わざわい」をいう。]とある。
期待に当たらずとも遠からずながら、「すべての」との表現に救い?を得る。

自然災害突き詰めて見れば人災、とさえ思うほどの明治維新以降の近代化、人間の前に天は、自然は跪く(ひざまず)との人間絶対志向の世、日本、地球に過ごす老一人の牽強付会……。
私は、自身を、物心ついて以来1970年前後の「全共闘」時代も含め非政治的であることを善(よ)しとし快として来たが、ここに到って「反」政治的な自身に開眼?しつつある。
もちろん、「老いの繰り言」との苦笑また時には冷笑は重々承知しているが、私の中では悲憤慷慨、義憤にも似たものが沸々としている。
こう決定的に思うに到ったのは、先日の総裁・首相無投票再選の報に接した時である。

人間営為による終末的様相をこれほどまでに突きつけられれば、この憤りを人の人たる哀しみに溢れた自然な発露と誰が否めようとさえ、思っている。
これは、教師経験からの言葉で言えば「絶対評価」としてであって「相対評価」ではない。
1993年以降、日本を源流に、韓国の、中国の、台湾の、日本語を学ぶ人、教える人を核にして、『日韓・アジア教育文化センター』なる活動を、時と共に必ず生ずるそれぞれの言い分あっての離合集散の人間関係を経ながらも、何人かの熱意の賜物、今も何とか続けている。
その過程で、「母国愛から母国批判はするが、他国の賞讃はすれど批判はしない」との信を自得している。

あまりに酷(ひど)過ぎて、馬鹿馬鹿し過ぎて、哀し過ぎる。
それに若い人たちが、無気味なほどにおとなし過ぎる。なんでそこまでして大人に、追従し、挙句の果てに政治家にやりたい放題させるのか。仮に生きるための面従腹背としても、過ぎたるは及ばざるではないのか。

形容語はそれを使う人の価値観の投影。だから現政府の施策、その哲学を支持する人々40%の真逆に私はある。
もっとも、そういう人たちからすれば、「政治とは非情冷酷なもの、おまえがごとき文学部出の芸術好きなボンボンのおセンチになど付き合ってられない」と言うことなのだろうけれども、私は私。
無惨を実感する事象を、多くは既に投稿しているので、重複承知で敢えて列挙する。

永 六輔氏の次の言葉を我が身に引き寄せて。

――「若いんだからしかたがないって、怒るのをやめちゃっちゃ、何のための年寄りだかわからないよ。怒ってなきゃダメだよ、年寄りは」

(その職人の言葉への永氏の一言。
「最近、年寄りがほんとに怒らなくなりました。もうあきらめちゃったんでしょうかね。」)――

[『職人』岩波書店・1996年刊より]

ところで、この書で永氏は「職人」と「芸人」を並列して書いている。
大して話術力もなく、白々しい作為的表情で、ただただ騒々(わわ)しくはしゃいでいるだけの芸人が、都心の高級マンションで生活し、そしてそれを認めている観客、その双方に、終末的怖ろしさを直感している私としては、永氏の自然な良識を見る。さすがだ。

 

○現首相は、己が名前を冠した「アベノミックス」や「三本の矢」を「津々浦々に」と意気軒昂、得々とまくし立てていたが、地方は、多くの国民は実感していると思っているのだろうか。

――実感している人は、少なくとも私の周辺には誰一人いない。そもそも自身の名を冠する傲慢。
この構想をお膳立てし、支えた学者たち(曲学阿世)は、今、何をしているのだろうか。多くは大学教員だが、意気揚々と学生に持論と功績を講義しているのだろう。
少し前のことだが、私の好きな落語家三遊亭小遊三さんが、寄席落語の枕で、「この節、寄席に来て下さる方はお金持ち」と話し掛け場内微妙な空気が流れた時、師匠の戸惑った表情が忘れられない。と同時にますます好き(ファン)になった。――

○女性の社会参画の数値目標提示要求に見る相も変らぬ男社会観。

――量より質。女性も男性も自問自答、謙虚にあるべきではないか。私の無理な!?人生からの自省。
ネオナチズムの日本人リーダーとツーショットに及んだ二人の女性の、政治権力を持つ党・内閣の要職者の、本人を含めた事後説明とうやむやに見る薄気味悪さ。
それとも現内閣及び与党は、ネオナチズムを公認しているということなのだろうか。
その延長上に、アメリカ絶対正義の安保法制があるのだろう。――

○先進国中第1位を10年以上続ける自殺王国日本。「子どもの貧困」が6人に1人。沖縄等米軍や発展途上国世界への予算編成、資金援助(時に無償供与)での億単位の支出。その契約のための首相直々の1回平均数千万円使っての歴代第1位の外遊数。にもかかわらず財源不足を社会福祉に重ね増税等の国民負担の強要。更には国民一人一人の金融資産を含めた管理統制の強化。

――この感覚って、国民をコケにした虚飾と傲慢の最低の品性、精神的貧困ではないのか。そのような人たちが国を動かす危うさ、空怖ろしさ――

○塾あっての小中高大進学が当然、必然そしてそのための教育費の高騰。西洋社会の学校教育への未だに続く偏愛。そして大学進学率が50%を越え(2人に1人が大学生)、大学格差は以前にも増して確定的。それぞれの関門(入試)の個性重視を謳う方法でさえ画一化。学力テストと入試。不登校。生徒間、生徒教師間、はたまた教師間のいじめ。自殺。

――予算補助、カウンセラー等の加配で事足れり、では収拾つかない現状。学校教育・社会からも「国の在り方」が問われている。にもか
かわらず、自己体験ゆえの自省と自己嫌悪から明確な、今も聖職世界を矜持しての学校社会=教師の閉鎖性、保守性、権威性、独善性。
子どもを実験台にした、机上遊び(官僚性)改革。子どもは大人の自慰的駒ではない。
フランスに起源を持つ「国際バカロレア」教育を、高校での上級日本語指導を直接に、また通信で経験した者として、例えば、日本の「横断的総合的」教育の頓挫とその原因究明もなく、実践も研究も、また運営も未経験で夢と理想を語る人がいるが、軽薄で劣等感の日本人を思わずにはおれない。(ダジャレを一つ。語るは騙る?)
有名学校(主に中高校大学)に入学したその一事だけで、自己研鑽意識もなく卒業し、その学校名を笠にした一部(?)の独善と自信、とそれがまかり通る人生、社会への甘え。
海外在留子女保護者の、国内インターナショナルスクールの日本人保護者の、一部(?)の傲慢。――

○2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けての途上でのほころび。世界陸上等での、謙虚さを完全に外に遣った余りの井の中蛙的礼
賛と自己満足的応援。

――ここにも露わになっている言葉の弄び。責任の所在をうやむやにする説明と責任回避。結果が出るまでの独善と傲慢と、結果が出てからの評論と予算請求と選手育成と言う名の統制管理。――
やはり、繰り言、愚痴でしかないのだろうか。義憤と言うにはおこがましいのだろうか。

 

養老 孟司さんと玄侑 宗久さんの、現代日本・日本人を斬る的な対談『脳と魂』(筑摩書房・2005年刊)の中で、養老さんは、結晶性知能[crystallized intelligence]と老人の明智について触れている。
クリスタルのようなインテリジェンス。何と美しい響きと内容の世界だろう。

[結晶性知能について、書では次のような注が書かれている。

加齢によって発達する知能。計算力は暗記力など、ほとんどの知能能力は20歳ころをピークに衰える。これを流動性知能というが、それに対して、一般的知識や経験を総合した判断力、理解力など、状況に対処する能力は高齢になるほど発達するとされる。]

ただ、老人の言葉=結晶的知能ではない。当たり前のことだが。世には老人を御旗、楯にした傍若無人を知っているし、それを他山の石としてのことである。

この注を押し広げて考えれば、高齢になる前に様々な理由で死を迎えた人々も、その個の尊い歴史から時間の長短とは関係なく結晶性知能があるはずで、その感知は受け手の感性と想像力の問題ではないかと思う。

元教師として、教師は「教える・育てる」は言うが、「教えられる・育てられる」を言う人は少ない、とこれも自省を込めて思う。
教師は、それぞれの校風、方針等で営まれている学校の、眼前の多様な生徒によって創られる。
抽象的語法での、学校と教師と生徒で語られることではない。
「25人学級3クラス1学年」でも不平不満をこぼす教師は多い。それは、多忙な教師時間の中で、具体的個別的に教育に取り組もうとしているからなのか、それとも教師の傲慢からなのか。

 
私には一切の気配りや分別なく、心静かに、心委ね、話せる老若男女が、既に天上に在る人も多いが、幸いにも今も何人かいる。
その中の或る方(今年傘寿を迎えられた私の今も良き理解者で、現在も教育世界で要職にある女性)と、わずかな時間であったが、古稀を迎えた今夏、再会することができた。深い喜びを心に刻んでいる。