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2015年9月30日

小さな国際人・大きな国際人 そして、おぞましい国際人 ~私のささやかな「国際」体験から~ [その1]

井嶋 悠

《今月(9月)中に投稿したく整理したが、いささか長くなったので2回に分けることにした。ただ、今月のトピックの引用が[その2]のため、次回、場合によっては違和感をあたえることになるかもしれない。》

 

私は国際人ではない。そのかけらもないと思う。かと言って、狭隘な国粋人でもないと思っている。 後で記すように、英語が、外国語ができないから、との(或る意味単細胞的)理由ではなく、私に「際(きわ)」に生きる意思力、精神力がないからである。しかし、いろいろな巡り合わせから「国際」に縁ある学校世界(3校)や難民センター経験(日本語教師)を重ねた。 今回はそんな人間の「国際」についての私感である。 娘は、そのようなことに考えが及ぶ前に早逝した。生きていたらあれこれ話ができたかと思う。残念だ。

国際(化・社会)は「国」を前提とし、グローバル(化・社会)は「地球全体」を前提とする用語かと思うが、いずれにせよ“絶対”という傲慢に細心の注意を払いながら、その用語の再確認或いは自問(再自問?)を通して、日本の現在を再考する時に迫られている、と重ねて思う。
私の言葉の土壌は、とにもかくにも「国際」を意図した、私学中高校の国語科教師(専任としては3校)を心棒にした多様でスリリングな33年間であり、「子を持って知る親の恩」を、「良妻は夫を良夫にする」(元は英語のことわざのよう)を身をもって知る晩稲(おくて)も甚だしい古稀を終えた70年間の人生である。 とにもかくにも? この言葉には、いささか不穏な響き、私の傲慢が出ているとは思うが、やっと私の「国際」が言えるようになった、その軌跡でもある3校での心に強く刻まれ、考えることを促した体験事例を挙げることにする。

[尚、「帰国生徒」「帰国子女」の二通りの表現について、後者の「子女」の字義から前者を使う傾向が多い が、「子女」の意味には男女あり、前後の文脈から私の単なる感覚で両語を使っている。]

このことは、虚栄と慢心が増幅する世にあって、呻(うめ)く大人や子どもが、静かにしかし激しく内に、内に向かっていると直覚する現代日本での、公教育の限界と、今も続く学校(一部の教師/生徒/保護者)の独善と驕慢への、娘の死に到る発端者である同業の中高校教師の一人としての、痛切な自省ともつながっている。
言い古された言葉「カネ・モノ・ヒト」のヒトとは、どんな“ひと”を言っているのだろう、と。

一つの学校は、名称に「国際」はない伝統と優秀生徒を誇る中高大併設女子校で、英語教育(中でも中学校)では、この100年変わらず日本随一だと、門外漢とは言え私は思っている。 その高校に編入した帰国生徒第1期生(アジア〈日本人学校〉・アメリカ〈現地校〉・ 中米〈日本人学校とインター校〉からの痛罵。「この名門校が、何で国際!?」

【私見】
独善と権威志向(例えば、人を学歴から判断する指向)の生徒に耐えられなかったのだろう。いわんや、高校からの編入ゆえ、中学で難関入試を潜り抜けて来た自負高い生徒から白眼視を受け、一層強くなったことが想像される。
3人の生徒たちは併設の大学に進学し、帰国子女教育に係る卒論に取り組み、指導教授からの依頼もあって、当時、校務で帰国生徒担当をしていた私は協力者となった。
彼女たちは、帰国子女教育で常に問われる変革の期待を込めた課題「学力観」を、自身の海外での生活体験、学校体験から問うたのであり、そこから「なぜ、世界を視野に生きる女性の育成を目指し、明治時代に創設(創設者はアメリカ人女性宣教師)された学校が改めて『帰国生徒受け入れ校』として名乗りを挙げたのか」と提起したと考えている。
それから30年余り経つ。学力観(私の場合、国語学力)はどう変わっただろうか。旧態のままで学力評価が行われている、と言えば言い過ぎだろうか。「AO入試」なるものが採用されて20年以上経つ。当時、心ある大学教員は、既に小論文等での表現の画一化を指摘していたが、塾講師も含め教師指導法での、己が“雛型づくり” は変わったのだろうか。大同小異ならば、なぜなのだろうか。

尚、学園は「高校からの受け入れ」を10年程続けたが、内部改革等々もあって退いた。

 

一つの学校は、創設都市からのイメージと時代様相を読み取った戦略から「国際」を冠していたが、実態は塾との裏提携とも言える“典型的”新興(女子)進学校である。

【私見】
1991年新設期に夢を抱いて異動。しかし、学園組織上副校長(実質は校長)を中心とした閉鎖性、独善性による異常なまでの現実志向!に耐えられず2年で退職。帰国生徒、外国人生徒受け入れを言ってはいたが、あくまでも現実志向からの言葉に過ぎなかった。
尚、その総合学園学校法人理事長で仏教徒の先生とは人間的接点を直覚することがあって、 退職後も交流が続き、理事長最晩年、「遅すぎることだがいろいろなことが明白になった。」と私に悔悟と謝罪を言われ、1年前、還浄(げんじょう)された。
保護者達からも疑問、不信と改革の希望が提示され、私は微妙な立場に立たされたが、既に退職届を提出していて、何ら働きを為し得なかった。
そのことと言い、理事長とのことと言い、《現実》の複雑さを思い知らされたが、それはあくまでも個人的学習であって、家族への犠牲は甚だしく、にもかかわらず家族の献身的支えがあって生き長らえることができた。

 

一つの学校は、「国際」を冠する、1学年75人前後の、帰国生徒と外国人生徒を主対象に、一般生徒(この表現には未だに違和感があるが、他にないのでこのまま使う)を加えた私学中高校と、インターナショナル・スクールとの、1991年に創設された日本で初めての協働校である。
基本的に教科、課外活動は、英語力によって可能な限り両校生徒の合同クラスが作られ、英語によって行われる。また、その逆のインター校生徒の「国語」への参加もある。
インター校は、外国籍(日本との二重国籍も含む)が原則の、英語が第1言語学校社会(幼稚園から高校まで)で、日本語は「JS(JAPANESE AS SECOND LANGUAGE)としてあり、そこに5名ほどの日本人日本語教員が在籍する。
小学校(或いは幼稚園)から国際バカロレア[IB]プログラムを採用している。
この協働体制は、当時、教育界、研究者間では「新国際学校」と称されていた。 私の場合、中学3年次の「国語」に出席していた生徒(日英の二重国籍)とその生徒が高校2・3年次、他の生徒とともに、IB最終課程「日本語」上級クラスを担当。

【私見】
先の退職後、何という幸い!いろいろな人びとの救いを得て2年間の浪人生活の後、最初の専任校の退職時校長の尽力で就職。48歳の阪神淡路大震災の直前である。
そこに到るまでの留学生やインドシナ難民への日本語教育の経験を重ね、その協働校で自覚した「国際」。 得た糧はあまりに多く、多様で、それは際限なく思い起こされるほどで、ここでは教職員・生徒に分けて、1,2の体験(具体的事例)だけに留める。
鮮烈と清新さで胸に迫って来たことは、日本側に所属した帰国子女であり、外国人子女であり、そしてインター校関係である。
ただ、残念なことに、私は、日本側の当時の校長との軋轢、と言うよりは幾つかの限界を痛覚に自覚するに到り、妻の理解を得て、定年1年前59歳で退職し現在がある。
それから10年、私の退職後、某私学法人に統合され、現在「新国際学校」と言われることはない。

〔インター校の教職員との交流〕
○以心伝心から言葉へ? 言葉から以心伝心へ? 初めに人がある? 初めに言葉がある?
バイリンガルであろうとモノリンガルであろうと(私は後者で、英語力は40年余り前の公立中高 校の英語中レベルで、一方インター校で日本語が理解できる人はごく少数)、相互理解は先ず人 があってのことを知る。言葉の前に人であり、そこでの直観力の大きさである。  そして、心割って話せる英語話者の、イギリス人、アメリカ人、オーストラリア人、カナダ人、  またアジア系の人を知る。

二人の英語母語者の言葉を引用する。
「あなたの公立教育英語で十分。後は必要が発達を促す。でしょ!?」

「ここは日本。日本語ができない、学ばない私に責がある。時間的、体力的に厳しい。でもこれは言い訳」(この人はインター校の人望篤い女性校長で、後にアメリカに帰国し、大学院に進学。
私は、一時期、年功序列で教頭職に就き、2週間に1度の両校の管理職会議に出席。常に両校の日英(米)バイリンガルの専門秘書(二人とも日本人女性)が通訳として同席していたが、私が私の英語力を詫びた時の言葉。

 
○契約社会の厳しさ。 教員たちは9月から翌年6月までの契約が基本で、終身雇用制ではない。
あくまでも個人の力量が判断され、且つどのような教員派遣組織から着任したかは、彼ら彼女らの矜持に関わる。
協働校のインター校はIBプログラム採用校でもあり、アメリカに本部を置く信頼の高い組織から派遣されている。 だからこそ教員の評価監察は非常に厳しく、2,3年に一度、学校現場教員からの本部への報告に基づいて、権限を持った人間が来日し、意見を聴取し、面接が行われる。これは、管理職、一般教員区別なく行われ、私の在任中二人の校長が契約解除となり、二人は次の職場探しに奔走していた。
とは言え、日本の終身雇用制を善しとする人はほとんどなかった。
それは、帰国子女なる英語がないことと通ずる。世界を幾つも観て最後母国に還ることが自然という風土が為せることだろう。

ここ何年か、日本国内の一部でIBプログラム採用が、期待をもって語られている。声高に言う人の中に見受けられる西洋偏愛性のことは今触れないが、現在日本の教員意識と小学校(場合によっては幼稚園)から高校までの敬意をもった相互信頼関係の変革なくして採用は至難ではないかと思う。 人あっての理念であり、その実現である。
そもそも小学校入試段階から塾の力なくして入学なしの日本でできようがないと思う。もっとも、既にIB対応の塾が、国内外にできているが。

〔生徒との出会い〕
日米二重国籍生徒と10年余りのヨーロッパ三カ国生活の帰国生徒(共に男子生徒)との出会い。

○日米二重国籍生徒
父がアメリカ人(黒人)で母が日本人。ニューヨーク生まれ。外見は父親。その父親が音楽家(ギタリスト)で、その資質を受け継ぎポップ系のダンス等に関心を抱く。幼少時代の冷やかし、差別的言葉等つらい体験を経て、中学校から入学。少し落ち着く。(このような生徒の親が、日本で子どもが安心して行ける日本の学校はここぐらいしかない、と異口同音に言うのをしばしば聞いた。)
私と彼との出会いは高校生の時。3年次、某私立大学主催の「小論文コンテスト」があり応募を薦め、見事入選。
その表彰式で、某テレビ局が取材に来て、女子アナウンサーが彼にインタビューした時の様子。

――「ニューヨーク生まれですか。カッコイイ!!英語もペラペラ?」とたたみ掛け、彼は 表情を変えることなく、ただ黙って頷くのみ――    このインタビュー、その女子アナウンサーだけのことではないと思う。テレビでの同系の軽薄さは、今も枚挙がないのではないか。しかし、これを軽薄と取るのは、若者の感性についていけない偏屈な大人と言うことなのかもしれない。
ニューヨークで映画修業をした日本人の若い映画作家が言っていた。“まずい状況”に陥っている若い日本人も多い、と。
このことは、海外帰国子女教育に携わった者は、ニューヨークまたアメリカだけでなく、いろいろな地で、親も含め様々な問題を起こし、抱えている日本人があることは周知だと思う。

○ヨーロッパ(スエーデン・ドイツ・イギリス)に10年在留した帰国生徒
彼との出会いは高校2年次。 温厚な表情とは裏腹に批判的洞察力が鋭く、独りで行動することを尊ぶ。海外で日本向け学習に消極的だったこともあり、大学入試では苦労する。 幾つかの私立大学の説明会に積極的に行き、某私学の志に感銘し、帰国生徒枠で受験し入学。
しかし、日々の講義を通して知る、一部教師・学生の志と現実の乖離を体感し失望する。 何とか卒業するも就職はままならず、その過程で精神療法的なことに関心を寄せ、修練を積み、正業とするまでになるが、家庭的にも困難な問題を抱え、生活安定までには行かず、強い批判精神と自己信頼で克服を図ろうとしつつ、現在31歳になる。
彼が在籍中、保護者会と教員との集まりで、彼の母親は強い口調で訴えた。
「私たち大人(親)は良いんです。逃げられる場所があるのですから。子どもたちにはないんです。」
この言葉は、今も私の中で強く響いている。

旧知の教育研究者との会話で、統計を取ったわけではないので単に印象論に過ぎないが、帰国生徒の 心の不安定は、女子より男子の方が多い旨言ったところ、関心を示された。
進学の不安と在籍校の現状、家庭環境、また海外在留体験の相違等、幾つもの要素を吟味しなくては ならないが、ここ数年、母性と父性に関心を寄せる私としては、その研究者の関心視線と重ねて確認できないか、と思ったりする。 その研究者は『異文化教育学会』に所属している。

海外帰国子女教育は日本を映し出す縮図である。そして国内の学校世界は、国内の政治・社会を見事なまでに映し出す。 否、学校社会が、政治・社会を創り出しているのかもしれないが。

体験を幾つか書いた。 そして私の「国際」とは、結局簡単なことに落ち着いてしまう。「際」である。 際に生きることは難しい。或る際と或る際に生きる厳しさ。先の学会の間(はざま)に視点を持つ視座。
イギリスとは違った自然、風土にある島国日本の歴史。意図的に他国との共生を生きようとするならばまだしも、自身の意思とは関係なく生きざるを得ない場合。それも幼少時に。
以前、シンガポールのガイドが言っていた言葉が思い出される。「日本人は羨ましい。日本語だけで生きようとすればそれができる。私たちはマレー語と英語と中国語ができなければ生きて行けない。」

自国と他国での体験、人々との出会いから自身の源泉[最近の用語で言えばアイデンティティ?]を探し求めながら、自己を生き、活きる生。求められる意志強固な強い精神力。それに向かう人が「国際人」。
このことは、国際との大きなことではなく、日々の家庭、学校、職場、地域に在っても同じだと思う。 民族、人種、文化等、何の偏見もない自然な対面があってこその異言語、異文化への理解であろう。志が高ければ高いほど必要な高い研鑽。
だから私はそのような老若男女に接する度に畏敬する。そして私の知る限り、そのような人は国際人であることを誇示しない。そもそも自身を国際人とは思っていない。古来、東西そうであろう。