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2015年10月6日

小さな国際人・大きな国際人 そして、おぞましい国際人 ~私のささやかな「国際」体験から~ [その2]

井嶋 悠

《10月のトピックを加えて再整理した》


小さな国際人

 

これは、20年以上前にさかのぼるだろうか、帰国子女の知見を活かして、日本社会、学校社会の活性化への期待を込めてされた表現である。
文科省の統計によれば、一昨年(2015年)の帰国児童生徒は、小学校6,604人・中学校2,408人・高校2,053人、中等教育学校83人の、合計11,146人である。つまり11,146人の「小さな国際人」が帰国した。この数字は毎年ほぼ同じである。
果たして、受け容れる大人、とりわけ学校社会・教員の意識はどう変わっただろうか。 彼ら彼女らが、学校や社会に何を還元することを期待し、それをどう実践しようとして来ただろうか。
これは、33年間、帰国子女教育・外国人子女教育を意識した私学中高校数校に在職し、10年前に退職した私の、一期一会の悔悟を底に置いた、内省からの断片的自問である。

☆英語以外の言語(外国語)への配慮の少なさはなくなっただろうか。

海外で身に着けた英語以外の言語の帰国後保障については、その言語を主軸とする学校以外、ほとんどなかったが、今はどうなのか。 なぜ、保障が難しいのか。
英語が国際最優先語としてある限り、週時間数及び課外活動時間数と講師  と生徒数の比そして人件費からの限界である。公立も同様かと思う。  その点、英語を第1言語とするインター校は余裕がある。
こんな生徒とも出会った。
日本人学校中学校を卒業後、1年だけインター校に在籍し帰国し高校に編入 した男子生徒。日常会話程度の英語力であったにもかかわらず「帰国子女枠」で某有名私学に入学(試 験は、書類と面接のみ)したときの本人の言葉。「こんなんで良いんだろうか。」
その良心溢れる生徒、大学入学後、強い不安定状態に陥った。

☆「隠れ帰国子女」はいなくなっただろうか。

日本人学校出身者は、帰国子女と呼ばれることに抵抗する傾向があった。その背景にある帰国子女=英語ペラペラ風土のため。 「ペラペラ」との軽薄の極み的用語が象徴しているが、地域によって日本人学校生徒の非常に限られた日常への理解は進んだのだろうか。
また英語ができる=優秀、という“日本性”に反発した英語力の非常に高い女子生徒。教師と翻訳業にはなりたくないと心に決めていたが、翻訳業に就くことになり苦笑していた。
ところで、英語圏以外の現地校在籍生徒への理解と対応は進んだのだろうか。 ドイツの現地校に2年間在籍し、爆発寸前までに追い詰められて帰国した高校編入した男子生徒との出会いがあった。

もう一つ。上海の現地校(中学校)国際クラス(英語による教育を主にしたクラス)に在籍した女子生徒。私の在職校に受験したが、日本語・英語・中国すべてにおいて不十分との理由で不合格に。私もその決定の一員ゆえなおのこと、その生徒のことは機会ある毎に辛く思い起こされている。

☆作文評価での国語科と社会科教員の教科意識はどれほど改良されただろうか。

これは、作文テーマの内容によって一概には言えないが、両科教師の内容優先からの評価で良いのかどうかとの問題で、社会科と国語科の評価は、違って然るべきではないのか、との学習指導方法とも関わることである。
またその際、「基礎学力」への学校としての明確な視点が必要となる。(あれも知らない、これも知らない、との教師発言はよく聞かれることである。もっとも、これは大学併設校での、高校への大学教師の苦情としてもよくあることであるが。)
基礎学力がないため目指す教育の実践が難しい、しかし基礎学力に係る学内合意の不十分と入試方法とのジレンマにあった心ある教員たちが在職していた新しい教育を目指す学校は、今どのような教育を展開しているのだろうか。

☆国語(科)教育と日本語教育の連動はどこまで進んだであろうか。

日本語教育を経て国語(科)教育へ、とのタテの連動はしばしば言われるところだが、両教育のヨコの連動はどれほど深められているだろうか。 これは、言葉と学力そして[表現と理解]での、それぞれの学年齢での学力観につながることである。
学力優秀ではない或る私立大学で、日本語教育に係わりのある教員たちが、表現と理解の教材を編集作成し、実践指導を行っていた。

☆積極的、能動的人物を高評価とする視点は今もそうなのだろうか。

私が出会ったアメリカ現地校から帰国女子生徒の次の言葉は、今も心に強く響いている。
「日本に帰ってホッとした。なぜって、アメリカでは常に自身をアピールしなくてはならず、いつも背伸びして疲れ果てたが、日本では自身のペースで静かに在ることで存在感を認められるから。」
尚、その生徒は全米で非常に高いレベルのテニス実績があり、帰国後、テニス名門校に誘われ入学したが、練習方法での違和感とそれによるけがで、私が在職していた高校に途中編入した。

併設のインター校の明るく陽気な典型的アメリカ人と同僚から言われていた社会科の男性教員。シンガポールの名門インター校に異動し、休暇で日本に立ち寄った時の言葉。「日本が良い。なぜなら、あちらはとにかく私が、私は、の世界で疲れる。日本に帰りたい。」であった。

☆企業の要請に応えるのが帰国子女教育との視点は今も有効なのだろうか。

「産学共同」に疑問が提示された時代に学生生活を過ごしたからか、そもそも企業不向きの人間だからなのか、この視点には驚いたが、今はどうなのだろうか。
そもそも企業派遣の実態が、例えば私が係わり始めた1970年代と今では、大きく変化しているが。

☆日本人学校派遣の管理職、一般教員問わず、私自身幾つか見聞した、現地在職中また帰国後の“醜態”は、もう過去のことになったのだろうか。

これは、派遣経験の先生方を問わず、ほとんど不問にする教員が多いが、私学教員であったがゆえか、或る日本人学校を訪問した際、現場教員から秘密裏に相談の夕食会に招かれたことがあった。内容は管理職の横暴といった非常に難しくデリケートな問題で、私が助言できるようなものではなく詫びるしかなかったが、その数か月後、校長と異議申し立てをしていた現場教員何人かに、文科省より任期途中での帰国命令が出された。喧嘩両成敗ということなのだろう。
海外派遣教員は、公・私立学校教員の勤務(待遇)制度の違いもあって、ほとんどが公立の小中学校教員で、文科省からの派遣の形を採っていて、その待遇は非常に恵まれている。旧知の教員で校長として派遣された人が赴任先の立派な住居を見て、この恵まれた環境をしっかりと心に留めて精励したい旨言われていたことが、そうでない居丈高な教員事例を知っていただけに、一層印象に残っている。
まだまだ脳裏に浮上して来るが、思い起こせば起こすほどに、いかに多くのことを学んだか、しかし何もできなかった私がいる。

海外帰国子女教育は日本を映し出す縮図である。 そして国内の学校世界は、国内の政治・社会を見事なまでに映し出す。否、学校社会が、政治・社会を創り出しているのかもしれない。
日本の確かな国際化!と日本の存在感への活きた智恵の担い手たちへの教育、海外帰国子女教育そして二重国籍所有者を含む外国人子女教育の重層的展開を、元教師だからこそ言える傲慢との指弾を十二分に承知しながらも願っている。

 

大きな国際人


これは、先日、南アフリカに歴史的勝利を遂げ、一昨日(10月3日)にサモアに快勝した日本ラグビー代表の試合を見て、先の「小さな国際人」と併称したく、私が勝手に言っている言葉である。
私たち夫婦は、サッカーよりラグビーに強く魅かれているので、以下の内容は妻も同様の思いである。 (因みに、妻は長男が小学生時、ラグビーを薦めたが彼は拒み、中学で軟式テニス、高校で硬式テニスに励み、そこそこの戦績を残した。なぜ、ラグビーを断り、テニスに向かったかは、少年期後半時から鮮明になった彼の個性で、私たちは大いに得心している。)

日本代表メンバーは30人で、内、外国出身選手(日本国籍取得5選手を含む)が過去最多の10人で、主将は、ニュージーランド人の父とフィジー人の母を持ち、日本人女性との結婚後2013年に日本国籍を取得したリーチ マイケル選手(国籍取得に合わせてマイケル リーチを改めている)である。副将は五郎丸選手。
テレビ中継(録画)を観ていて、得点の要になっている多くは外国出身選手で、かつての日本代表ではほとんど見ることができなかった強靭な肉体からの力とスピードの、地響き的闘志に溢れていた。
これは、ヘッド・コーチのエディー・ジョーンズ氏(彼の母は日本人で、夫人も日本人である)による、世界で例を見ないほどの4年間の徹底的鍛練の成果とのことなのだが、コーチや監督の言葉を実現させるのは選手であり、サモア戦で元日本代表の大畑氏と共に解説をしていた元日本代表で、エディー・ジョーンズ氏の下で前半期アシスタントコーチであった薫田氏が言っていた。
「これまでも同じような練習は重ねて来た。」と。
それが、なぜ今回光栄を勝ち得たのか。そこには外国出身選手の存在があったからだと私は思う。
彼らの体力とエネルギーと感性(センス)の日本人選手への影響、相乗効果そして信頼関係。彼ら「大きな国際人」あっての歴史的勝利。 しかし、予想通り!外国出身選手が多過ぎるとの批判が出ているそうだし、そもそもテレビで、彼らがあってこその今回の栄光表現が、極力(意図的?)抑えられているように思えてならない。 中高校教師時代の或る時期、女子サッカーの監督をしていたとはいえ、私の無知なのか、テレビの保守性、閉鎖性、或いはこのような大会があるとしきりに叫ばれる「日の丸を背負う」に見え隠れする国粋性なのか。

ラグビー代表は以下の3条件と実に緩やかで、だからこそ今回の戦績につながったのではないか。

【代表条件】  ・出生地が日本   ・両親、祖父母のうち一人が日本出身  ・日本で3年以上、継続して居住

彼らは、日本、日本文化、日本人との出会いから日本を愛し、日本で生き、鍛練し、代表に選ばれた、日本・日本人が名誉に思い、敬愛すべき人たちではないか。
南アフリカ戦中継でアナウンサーが「大和魂」と一瞬叫んでいたが、あれはどんな思いからなのだろう?未だに根強くある武士(というよりサムライ?)の猛々しさを言いたかったのだろうか。

江戸時代の思想家で日本文学研究者・本居 宣長の多くの人々を引きつけてやまない歌。(本居宣長は「大和心」と言っているが、一応「大和魂」と同意語として扱う。)

「しきしまの やまと心を 人とはば 朝日ににほふ 山ざくらばな」

漂う深い静けさ、清澄な美しさ。そこに直覚する大和心(魂)。

ラグビーでのトライをした後の選手の静。 先のアナウンサーはその後言わなかったのは、場違いを自覚したのだろう。

オリンピックや「世界×××」とのスポーツ大会が開かれ、日本人選手も多く参加しているが、無責任な叱咤、期待が多過ぎないか。とりわけ格闘技的要素の強いスポーツの場合。
しばしば聞く敗者日本人選手の言葉。「世界の壁は厚い・厚かった」。 この究明はどれほど行われているのだろうか。
協会や政治家は、相も変わらず国粋的精神論を言い、報奨金を持ち出す、その軽佻浮薄。
若い選手を育てるための学校課外・部活動やクラブ組織の、国際性(広い視野と合理性)を持った指導者の育成とその人たちの生活保障の体制作りはどれほどに進んでいるのだろうか。

英語なくして未来はないような言い方で進められる小学校での英語学習、「主要5(4)科目」が揃ってできて優秀或いは当然視する個性の画一化。塾教育失くして受験なし。そんな日本にあって、体質や気質の遺伝的要素、歴史的要素からアジアでトップであっても世界で通用しない現実に眼を背けたようなメダル狂騒。これって、慢心そのものではないのか。
かてて加えて、熱しやすく冷めやすい国民性と言われて久しい日本人。 例えば「なでしこジャパン」。既に退潮傾向のようにも思えるが、その前の「女子ソフトボール」の熱狂は今どうなのだろう? 選手はマスコミのブーム作りの道具に過ぎないのか。

その日本で、幾つもの大会が、そして再びオリンピックが開かれる。そのための準備、招聘そして実施のための様々な工事、施設建設。そこに動く莫大な経費。 政府等はその経済効果を言うが、高齢化と子どもや働き手の貧困が問題になっている今、それらの大会開催に際し、大都市圏だけでない全国視野で、いつ、どのような効果が表れるのか、具体的説明はどれほど広く行われているだろうか。
その専横的偽善さえ直感する中で、エンブレム問題で見事に露わになった開催主体者・機関の密室性と責任転嫁と恐るべき金銭感覚。これは、2020年東京オリンピック招聘での、当時都知事の、各国理事たちを前にした招聘スピーチでの「私たちはキャッシュで用意できる」と手を振り上げ声高に言った下品に、私の中ではつながっている。

「権力を持つこと」の愉悦に浸り、自身を超人か神かのように自負しているとしか思えない国民(納税者であり、国債購入者)への愚弄、冒涜。 結局は、カネ優先の日本でしかない、と批判されて、真っ当に応えられるのだろうか。まあ、10中8,9弁舌さわやかに応えるのだろうけれど。

このカネ指向は、最近の大相撲にも言える。
国技をしきりに強調する人が多くある中(私は、鍛えられた肉体と髷と浴衣、着物姿に艶(つや)やかな華の美を思う、江戸期感覚での愛好者で、国技などと言う堅苦しさにどうしてこだわるのか全く理解できない一人である。)、現実にはここ何年か外国人力士で優勝が争われ、それを憂える人も多い。
挙句の果てに、あれだけ誉め讃えていた白鵬関(横綱在位中8年余りで、30歳!)を、或る時期から手のひら返したようにそしる人々、マスコミ。そんな人が、己が人をどこかに捨て置いて国技、国技と言う滑稽さ、馬鹿馬鹿しさ。

騎馬民族と農耕民族では、遺伝的資質として上半身、下半身の強さの違いがあるといった学説を読んだことがあるが、仮にそうだとして、では日本人力士の台頭を叶えるならばどうすれば良いのだろうか。

年6場所に加えて途方もないほどに組まれる巡業日程、そしてけが人の多さ。なぜ4場所制に戻そうとしないのか。高い入場料と満員御礼にこだわる協会、NHKの姿勢。 そこに力士をあたかも道具扱いにしたかのようなカネ優先指向を観るのは、あまりに偏った、非国民的なことなのだろうか。
現代日本と若者論にある“ハングリーさ”の喪失はよく言われるところだが、大相撲界の次代を担おうとする若者の減少はやむを得ないのだろうか。

ラグビーは15人での競技だから同列に言えないが、今回の日本代表のような国際人の働きを、かの根性論ではなく日本に向ける視点はないだろうか。 日本人の国際化のためにも。

 


おぞましい国際人

 

これは「国際人」の項に入れること自体に甚だしい疑問を持つが、なんせ世界(彼の言葉で言えば国際?)のリーダーを自負する、一国の貌(かお)?!である首相なのだから並べた。但し、おぞましいである。
英語もしくは外国語堪能=国際人とは思えない私で、歴代の首相で英語力に自信?があったがために、とんでもないことになった事例も聞いたことがあるので、見方によっては矛盾を承知で言う。
国の命運を左右するほどの権力を持った存在で、他国が唖然、冷笑し、一部(と思いたいが)のアメリカ人でさえ苦笑するほどに追従(ついしょう)し、国民の、自衛隊員の命を多数党の暴力で、戦後だけでも朝鮮半島、ベトナム、中近東に、己が絶対正義、世界の警察意識のアメリカに委ねる法案を、憲法改正!を視野に強行突破させた人が、英語の研鑽を全く感じさせない、その神経が怖ろしい。

【余談:元教師として適不適賛否あろうかとは思うが、私の場合「せる・させる」の使役助詞を、生徒・      保護者にどの程度使うかが、私の教師評価基準でもあった。】

そして、税金をまるで私物化するように外遊に、海外諸国・地域に供与し、日本の平安生活と大国振りを顕示し、自身に取り入る一部の国民しか眼中にない厚顔無恥、痛みとか哀しみなど己が辞書にないかのように多くの国民の厳しい現実を見て見ぬふりの非人間性。
ポスターに口髭〈ヒトラー髭〉を書き込んだ初老男性に拍手喝采する人は、私も含め多い。
そんな人間が国際人であろうはずがないが、彼を支持する人が多いのだから致し方ない。 正におぞましい、である。
「学ぶ」は「真似ぶ」から転じた言葉との由。A級戦犯の一人であったが、無罪放免となり、後に首相として日米安保条約を強行採決後辞任した祖父を真似ようとでもしているのだろうか。

尚、A級戦犯の主、東条英機の処刑を前にしての辞世の歌から二首引用する。 現首相、内閣、与党を支持する40%前後の人々にとっては感慨ひとしおなのだろうか。

「明日よりは  たれにはばかる ところなく 彌陀のみもとで  のびのびと寝む」

「今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ」

更にこんな報道もあった。 首相の最大支え手?の官房長官の、有名芸能人結婚に係る「産めよ、増やせよ、国に貢献せよ」発言。ここまで下卑てしまえば言葉が泣く。
これらについて、また同系の教育世界で仕事を共にした人々のことは、何度も触れたし、これ以上自身を寂しくさせたくないので止める。

安保法案強行採決に際して、それに同意した議員を次回選挙で落選させよう、とのアピールを知ったが、先ず私たち一人一人がこれまでの棄権を内省し、そこからの連帯を、と思う。 私は与党野党支持なしの無党派であるが、政治を変える息吹に加わることは可能だと思っている。

テレビのニュース等で、首相が映ると直ぐにチャンネルを変える人、「もう、日本は終わりよっ。徹底的に叩かれてやり直さない限り無理っ。」と言っている人も周りに多い。私もその一人だが、だからと言ってあさはかな“英雄(ヒーロー)待望”者でもないし、“最終戦争”願望者でもない。

それまで政治への積極的関心者ではなかった私が、今、目覚めつつ?ある。古稀の功?