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2015年11月9日

昨年に続いての「恐山」参詣の旅 ~その途次途次で拾った幾つかの覚え書き~ Ⅲ 八甲田山・奥入瀬渓谷・八幡平

井嶋 悠

『昨年に続いての「恐山」参詣の旅 』Ⅲ(最後)である。

この拙劣文は、娘の死があっての、昨年の恐山参詣の感動、驚愕での今年であり、恐山を目標地とした私たち夫婦と愛犬の東北の旅の、私のつれづれである。
だから、恐山を詣でれば主目的は達成されたとも言え、そこからの(Ⅰ)花巻・遠野で、今回(Ⅲ)の八甲田山・奥入瀬渓谷・八幡平である。

付録が時に本誌にはない発見を与えることは、少年時代の雑誌に係る思い出も含めてある。などと言えば、娘の陽気な激怒必定だが、そんなアホな私の娘であることを善しと思い続けてくれた彼女のこと、きっとサラリと見過ごしてくれるだろう。
往路の遠野の佐々木喜善記念館がそれであり、復路の今記そうとしている“紅葉狩”がそれである。

私は今日この頃になってやっと、自然と人間のことが得心できるようになった、かな?と思う。
自堕落の20代前半を過ごしていた時、「自然は芸術を模倣する」との言説に触れ、蠱惑(こわく)的直感を持った一人で、しかし今、それは人の驕りの極みであって、人間誕生以来、少なくとも日本では、「芸術は自然を模倣する」の絶対真理に、晩稲(おくて)を越えた恥ずかしさで、到りつつある。
と言っても、そもそも私に芸術を述べるほどの素養や蓄えはなく、だから「芸術」の箇所を、社会とか国とか、また私の生業世界であった学校(中高校)を置いて、そこはかとなく思い巡らせている中での直覚である。するとどうであろう!そこから日本の歪み、危うさが炙り出されて来る。

そんな私たちが、恐山からの帰路に通った八甲田山・奥入瀬・八幡平での二つ(・・)の「紅葉狩」。 一つは、手に触れることのできる「紅葉狩」、一つは、人を一切拒絶し、有無言わせず圧倒する「紅葉狩」。
前者が奥入瀬での紅葉狩であり、後者が八甲田山・八幡平での紅葉狩である。

奥入瀬渓流に沿って、バスがかろうじてすれ違えるほどの土の道の、撮影適地とおぼしき端に車が止められ、人々は紅葉に触れ、カメラを構え、紅葉狩を満喫している。平日もあって日本人の多くは高齢者で、後は外国人観光客である。
人混みを極力避けたい私たちは、それらを横目で見ながら低速ドライブで通り過ぎ、人が少ない私たちの好適地で停め、いっときの紅葉狩を楽しむ。心安らぐ静閑な時間。

最近、高齢者(多くは男性)が、見るからに重そうな高級カメラを構え、自然に向き合う姿をよく見掛ける。写真には関心が向かない、非文明的なことの多い私だからだろうか、機械を介することで自然と同化せず、異化しているよう思えてならない。その人たちは、カメラを介してより強く同化していると反論するのだろうけれど、いつも疑問が湧く。だから、私は紅葉狩の本筋、正道から外れているとさえ思ってしまう。

奥入瀬に引き替え、八甲田山・八幡平のそれは、一本一本の樹々が、自立し、天意のままに、厳然と、もみじ(紅葉・黄葉)となって全山を覆い、その山々は晴れ渡った空を突き抜ける陽光を浴び、燦然と輝いている。正しく錦繍(きんしゅう)。
能楽での衣装は装束と言われ、それは公家の有職や武家の故実の衣服を指し、歌舞伎や舞踊とは違う格調の高さを意識してのことと言う。私の少ない鑑賞経験からも、豪奢と言う言葉にふさわしい、そんな輝きの風景である。
その合い間に舗装された一本の道が通っていて、行き交う車もほとんどなく、私たちは前後左右から迫るもみじ林に抱擁され、ひた走る。時折、見晴台として設けられた場所で車を停める。

そこで出会った中型トッラクで駆けつけ、手洗いを済ませ、機敏な動きで立ち去る颯爽とした若い女性。その地の人で、仕事か何かの行き帰りなのだろう。私は清澄な大気と絢爛な林を更に高める点景を想う。
大自然を前に頭(こうべ)を垂れ、跪(ひざまず)く私たちを、人為のない自然な息吹きそのままに、心に描く。
この地に生まれ、育ち、いま生きている人、とりわけ若い人は、日本の今の都市文明と、どこで、どう折り合いをつけているのだろう、と都会人の観念的無責任さで思ったりもする。

古来、秋は寂しさ、あはれの美としてとらえられ、現代人の私たちも多くは同感する。
しかし、それらは晩秋の、里山を、鄙地(ひなち)の、それも夕暮れ時を描いているのではないか。そしてそれを表現した人たちは、当時の有識者である。

例えば、百人一首での、また新古今和歌集にある「三夕の歌」の一つは、次のような歌である。

(百人一首)[さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ]

(三夕の歌)「心なき 身にもあはれは 知られけり しぎ立つ沢の 秋の夕暮れ」

また、才豊かにして煥発の日輪的女性清少納言は、『枕草子』の、古典中の古典として今も伝わる冒頭「春は曙。…… 夏は夜。…… 秋は夕暮れ。…… 冬はつとめて。……」で、それぞれの美を描写するに際し、「をかし《対象を観照する境地の美》」を駆使するが、秋では「あはれ《対象と一如となる境地の美》」を使っている。[左記「をかし」「あはれ」の説明は、栗山 理一編『日本文学における 美の構造』より引用。]

私たちが、八甲田山の、八幡平で出会った秋は、夕暮れの前の午後の時間であったが、気魄溢れる秋であり、「きっぱりと冬が来た (略) 冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ」(高村光太郎)に向かう秋である。
しかし、冬が厳しいことを否定する者はいない。
萬葉集の山上憶良が歌う「貧窮問答歌」に登場する農民たちが、言葉を紡いだとすれば、寂しさの秋をどう表わすのだろう。冬への不安を、春への一層強い望みを、気魄の秋の形で歌い上げるのだろうか。

尚、「あはれ」やその背景でもある「無常観(感)」の覚醒での、生の強い意志(気魄)についてはここでは触れない。

春は万物の命息吹く季節である。

「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」[紀友則・百人一首]であり、
「その子二十歳 櫛にながるる 黒髪の おごりの春の うつくしきかな」(与謝野晶子)であり、
死への気魄「願はくは 花の下にて 春死なん その如月の もちつきのころ」(西行)である。

そして、万葉期の額田王以来、貴族間(王朝)では春秋優劣論争が繰り返され、以下に引用する解説からも、そのことを受け容れる私たちがいるが、同時に、四季折々に美があり、優劣を論ずることの頑なさに疑問を持つ私たちもいる。

――「源氏物語」における春夏秋冬の用語例は春74、夏15、秋73、冬11となる(「源氏物語大成」による)。春秋が拮抗し、夏冬が格段にすくない。この割合は「古今和歌集」における四季の部立に相応する。すなわち春134首、夏33首、秋144首、冬28首である。また、「源氏物語」における春夏秋冬の用語例は春74、夏15、秋73、冬11となる(「源氏物語大成」による)。これから見ると、「源氏」の四季観は和歌的範疇に属し、繊細優美な王朝風雅の世界を基盤としているように見える。――

因みに、光源氏は、春秋優劣を決めることはできないと語り、先の清少納言は春夏秋冬それぞれ独立して美をとらえている。

【余談】
京都の冬は、私の幼少時生活体験(60年余り前)からもことのほか厳しく、平安朝の侍女たちに焦点化する清少納言の冬の描写に、彼女の天賦の才を思ったりする。

思わぬ秋に出会った私たちは、八甲田山と八幡平の錦秋が放つ霊気をどう受け止めるか、鋭気とするか、後(しり)ごみの気とするか。

娘は、先に引用した、西行の「願はくは 花の下にて 春死なん その如月(きさらぎ)の もちつきのころ」を、こよなく愛し、天は願いを聞き入れたのか、如月(新暦3月)ではないが、命日は4月11日だった。
私は、やはり先に引用した紀友則の「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」に、「しづ心なく」を全き理解できるほどの風流人士とはほど遠いが、「ひさかたの」の響きから広がる想像に導かれ、その「光のどけき 春の日」に陶然とし、法悦にも似た恍惚世界に引き入られる。それは嘆きから気魄に変わる意思ととらえたいこととして。
春夏秋冬。それぞれの美。自然の美。「芸術は自然を模倣する」
教育は自然をどのように模倣しているだろうか。

学校教育世界にあって、今では文化相対視点は当たり前のことで、そんな中にあって「異文化理解」と「異文化理解」との言葉があり、「人間」(じんかん・にんげん)と同様、あれこれと考えが巡る。
また、「個を育てる・伸ばす」との言葉も、ずいぶん前から言われているが、今はどうなのだろうか。
「主要5科目」「芸能科(主要5科目以外の教科)」といった言葉が、初等教育、中等教育の10歳前後から18歳前後までの感性研ぎ澄まされている時期、特に抵抗もなく教師、親、大人によって使われることはもうなくなったのだろうか。
長寿化、少子化の益々進む世。肉眼でしっかりと見入り、検証する時に在るように、やはり内省、自省から思えてならない。その見入る時間を個々で持つことができる、個々が「自由」を直覚し、思考することができる、そんな世であって欲しいと思う。
しかしその時、今、世は功利という人為が最善、最優先過ぎる、と思うのは、やはり老いの(人生を春夏秋冬に見立てた、晩秋から冬の死に向かうと言うあの)愚痴でしかないのだろうか。

《追記》
拙文とは言え、少しでも自分なりの納得を持ちたく、参考資料を求めて図書館に行く。幸いにも自宅より車で20分ほどのところに、充実した市立図書館がある。新たな発見、学びも多い。今回もあった。秋に係る私の八甲田・八幡平の感激の参考となる文章を探しに出掛けて。

豊島(とよしま)与(よ)志雄(しお)の随筆『秋の気魄』[「日本の名随筆 19 秋、所収」である。氏は、1890年(明治23年)~1955年(昭昭和30年)、芥川龍之介らと共に文学活動を展開した小説家・仏文学者である。

私の言う気魄とはいささか違うが、我田引水の我が意を得たり、2箇所引用する。

(冒頭)
「秋と云えば、人は直ちに紅葉を連想する。然しながら、紅葉そのものは秋の本質とは可なりに縁遠いことを、私は思わずにはいられない。」

(終末)
「秋は、凝視の季節、専念の季節、そして、自己の存在を味うべき季節である。秋の本当の気魄に触るる時、誤った生存様式―生活―は一たまりもなくへし折られてしまうであろう。その代りに、正しい生存様式―生活―は益々力強く健かに根を張るだろう。春から夏へかけていろんな雑草に生い茂られた吾々の生は、秋の気魄に逢って、その根幹がまざまざと露出されて、清浄な鏡に輝らし出されるのである。秋に自己を凝視してしみじみとした歓喜を味い得る者こそは、幸いなる哉である。」