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2016年2月19日

故 郷・望 郷 [Ⅲ] 日本と言う故郷

井嶋 悠

私は私の母国日本という故郷(ふるさと)に心が向かう。
そこには、老いを迎えた自然もあるのだろうが、娘の死、それに係る学校・教師、またそこに33年間係わって来た私への意識的働き掛け、強い人為がある。だから教師に高い自負を持っている人々は、私を疑問に思い、屈折を思い非難的に言うのだろう。しかし、私は屈折を人間的営為、ととらえている。

私は日本を美しいと想う。その自然、街、和装、和食、和建築、そして人々の心……。
と言っても唯我独尊的に日本を唱える国粋主義者でもなく復古主義者でもない。韓国の、中国の、東南アジアの、欧米のそれらも美しいと思う。(中南米、西アジア、アフリカ…は行ったことがないので分からないが、映像等からやはりそれぞれに美しいと思う。当たり前のことだが。)その上で、日本が故郷の私は、日本が(「は」ではなく)美しいと思う。遥か原始古代から黙々とひたすら続いて来たその結果の一人としての私の、自然に受け継いで来た心性、ふと脳裏を過(よ)ぎる幾つかの心象。
だからこそ、人生内省の時機を得た今、晩稲(おくて)甚だしいながら、日本に、いぶかしく、苛立つことが多い。古今東西繰り返される老いの癇癪(かんしゃく)?繰り言?そうなのだろう。それでも、些少とは言えこれまでに蓄えた「知識」が、「智慧」としての感性と言葉に近づいたかと思う私に素直でありたいと思う。
それが、折々に見掛ける、「老い」と言う“印籠”を突き出しての傲慢、独り善がりと同じ穴のムジナとの後ろ指を指されないように。中高校「教師」の33年間が染みついているからなおさらである。

私の生後10日目、1945年9月2日、降伏文書署名。太平洋戦争の敗北(無条件降伏)による終戦。それから71年経つ。1世紀100年まで後29年。まだ29年?もう29年?或いはやっと29年?………
日本は世界の先進国で、世界のリーダーを自負し自任する。先人の偉大さと勤勉さ。しかしその先人が目指した近代日本とはこれなのだろうか、と併せて思う私もいる。癇癪の、繰り言の源泉である。
その具体的事象のことは、これまでに幾つも投稿して来たので繰り返さないが、今回は昨年から今年にかけての私にとっての幾つかの「!?!?」事象を並べる。
『故郷・望郷[Ⅰ]』で引用した、二宮尊徳の「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」の、政治と経済を合せた私なりの「道徳」確認のためにも。

「!?!?」とするのは、そこに私の複雑な思いが絡み合っていてうまく表現できないからだが、敢えて言葉にすれば「何で!?」で、根柢に在るのは拒絶的な私の心である。もちろんそれは自省があってのことである。
この「何で」、『新明解国語辞典』(2003年 三省堂)のには次のように記されている。
共感できるので引用する。
因みに、『大阪ことば事典』(講談社学術文庫)には「なぜ。何ゆえ。」とあるだけである。

――どんな理由が有ってそうする(である)かを確かめたり、疑問に思ったりすることを表わす。

【沖縄からの「!?!?」】

日本は、以前「アメリカが風邪をひけば日本もひく」くらいの冷笑ですんでいたが、昨今では「結核で死ぬ」までと痛罵されるほどのアメリカ隷属の独立国家である。
それは、太平洋戦争アメリカ軍本土上陸の防波堤を、戦後27年も経ってのアメリカから返還を、在日米軍基地面積の7割を、「思いやり予算」年間約1900億円を、強いられている沖縄に集約的に顕在する。
私は、これまでの出会い、中でも教職最後の10年間のインターナショナルスクールとの協働校での奉職で善きアメリカ、アメリカ人を知る幸いを得たからなおのこと、政府の、アメリカと言う虎の威を借りた「国際社会」の平和貢献発言に、どれほどの信頼があるというのだろうか、と思う。そもそも政府が言う「国際社会」の吟味が必要だが省略する。
アメリカが招いた有事に在日米軍基地は当然攻撃対象になるはずで、それらの決意なくしては国際社会の一員ではないとの意思表示と言うことなのだろうか。
沖縄経済は、米軍あっての経済と言われて来たが、今はそこから脱却しているとも言われる。もしそうならば、脱却への道筋を創った沖縄の人々の心身の労を私(たち)はどれほどに承知しているだろうか、と自責する。そして今、普天間基地の辺野古移設での沖縄県と政府の対立は激しさを増している。
昨年の沖縄返還記念日で、挨拶を終えて下がる首相に、参加者の一部から「帰れっ!」が浴びせられた。そこに沖縄人の真情を見るのは、政治経済を理解できていない、或いは他県居住者の寝言なのだろうか。
それとも沖縄は日本の大国進化に貢献しているのだから名誉と思い忍従せよということなのだろうか。沖縄の哀しみは私たち日本人すべての哀しみなのではないか。

【中学入試の変化報道からの「!?!?」】

これは、私の経験からの国語教科に関してである。尚、ここでは一応大学進学を前提にしている。
2016年度入学試験で、思考力重視の傾向になったとのテレビ報道を観た。それは首都圏私立中学校管理職とその変化について解説する首都圏大手塾の管理職人物の談話で構成されていた。そこでは、各段階学校の心ある教師が以前から指摘していた思考力、表現力に係ることなどに触れる良心もなく登場した管理職者たちは、時代の反映として至極当然のように言っていた。

「教育は私学から」とのフレーズは、私学関係組織等でよく見掛けるからなおのこと、非常な違和感を覚え、同時に、学校教育の現状が象徴的に表れているように、元私学教員の私には思える。
これは、中学校教師が小学校国語教育を、高校教師が中学校国語教育を、大学教師が高校国語教育を、どのような基準で、どれほど具体的に把握し、検討し、それぞれの学校が掲げる国語教育目標と課程に立ち、その結果導き出されたどのような国語学力を前提に入試問題を作成しているのだろう、との自照自省からの違和感である。
多くは、積年の経験からの“勘”に近い、言ってみれば職人的(本来のあの魅惑的な職人の方々に何とも失礼な表現であるが)な、主観的なそれではないか。そして、ここにも教師の傲慢があるように思えるのは、やはり私の独善傲慢なのだろう。
塾には補習塾と進学塾がある。基本的に、後者は学校授業に差し支えない、或いは物足りなさを思っている学力所持者が対象で、先の報道に登場したのは、その方で、学校は「有名」私学である。

作成された入試問題を塾通学なしに解答できる生徒はどれほどいるだろうか。塾教育あってこその入試の現実、事実。それは国内だけに留まらない。海外子女教育の現状を国内に生活し帰国子女教育に対面する大人子どもたちそして教師たちは、どれほどに承知し、どのようなホンネを持っているか。これは評論しているのではない。その教師の一人であったのが私の自問自答、自責である。
この塾現実を当然にして必然の自明として語られる現代日本の学校教育。
或る“難関”大学進学実績を誇る地域的、全国的有名中学・高校の生徒のほとんど(例えばかのT大に進学した人を知っている私としては、ほとんどとの使い方は決して大げさではないと思う)は、教科学習は塾にあり、学校授業は塾学習の予習と復習の、他教科の“内職”に充てられていることを、観念的に否定批判するのは易いが、それでいいのだろうか。

私と同世代の数学教育を真摯に考え実践している、或る中高大一貫の伝統私学の数学教師が、もう20年以上前に嘆いていた内職現状が思い出され、最初の奉職校で優秀な生徒が、某有名大学に入学し、後輩たちに語り掛けた「入試とは関係のない教科の授業も、先生の話も、入試に役立っていた」との話は、今、どのように受け止められるのだろうか。

塾在りてこその進学、教育に疑問を投げ掛ける或る私立中学・高校は、授業方法・内容に新たな取り組みを重ねているが、その担い手の現場教員の「基礎学力」の無さの嘆きは、どう受け止めれば良いのだろうか。教師力の不足で片付くことなのだろうか。

思考と表現を問う「小論文」で、大学教育とは何かを問われるかのような多くの知識が要求され、それを良しとする一方で、型式化の弊害が指摘され、何年経つのだろう?

大学入学後の学生に、大学教員はどのような「表現と理解と言語事項」(国語(科)教育の本質)教育を実施し、社会に送り出そうとしているのだろう?
その大学教員世界での階層化、峻別化はしばしば耳にするが、“一体”の取り組みはあるのだろうか。

関西の世間的に言えば偏差値の低い或る私立大学で、日本語教育の視点、方法を採り入れた国語母語者向けの表現と読解教材を開発し、必修講座として実施していたが、他にそのような取り組みをしている大学はどれほどあるだろうか。

公立校学費の低額が徐々に崩れる中、塾に掛かる教育費と諸物価高騰、そして都市圏と地方の塾の質量での格差、「子どもの貧困」の激増。そのことで「母子家庭・父子家庭」が背景に挙げられ、中には倫理問題さえ言う人もあるが、私からすれば「木に竹を接ぐ」感がある。
これも、やはり私の寝言なのだろう。

今年、18歳選挙権時代の最初の選挙がある。高校生が政治を、政治家を考える千載一遇の機会だ。
もちろん政治家に限ったことではないが、ここでは国を左右するほどの権力を持つ政治家に限定する。当然政治家すべてを指しているわけではないが、与野党共々、権力に麻痺した或いは権力を濫用するかのような、功績を自身のことだけで得々と語る政治家、自身の考え方と合わないと抑圧、切り捨てようと法令等立案に腐心する政治家、国・地域の代表であることを選民権威意識と取り違えた不勉強の浅薄な政治家、自省もなく批判することで自身に陶酔する政治家、大義名分を言い国内外で税金を濫用する政治家等が、非常に増えていると思わざるを得ない現在、若い人が自身の敬愛する人々と学習し、瑞々しい感性を大いに発信して欲しい。
更にはその学習過程で、発言を撤回すれば事足れりとの言葉への軽視の厚顔無恥と日本の伝統に色濃く残る「言霊」観と国際社会また現代についても自問自答して欲しいと思う。
そうすることで、20歳以上の若者たちに先輩の意地、自然な自省が生まれ、それがいずれ確かな世代交代、更には老人退却の好循環につながるように思える。

先日、北朝鮮がミサイルを発射した。北朝鮮が非難されて然るべきだが、アメリカやロシアや中国等の核保有国に非難する資格(もっと強い言葉で言えば権利?)があるのだろうか、今もって私の中で解決していない。そして被爆国の母国日本が、そのアメリカに絶対的隷属する現実。
こんな私の感覚も「経済なき道徳」の「寝言」なのだろうか。

「一将功成りて万骨枯る」は、教育・教師世界にもある。人の性(さが)、業では済まされない。
或る人格陶冶にして確かな人生を築いている60代の知人が言っていた。「わしが、わしが、のワシ族。能もないのに爪隠す?タカ族、との会話は疲れる」と。私もそういう族とは何人も出会って来た。今、やっとそういう人たちが寂しい人たちであると明確に言えるようになった。
時間の積み重ね(加齢)に無駄はない。亀の甲より年の功。他山の石。

南北に長い列島国日本。国土の6割が山岳山林の居住面積では小さな日本。長寿化と少子化。小国寡民が持つ可能性、心安らかな郷(さと)の国。足るを知る、その心の重さは歴史が何度も証(あか)している。
何が前進で、何が後退なのか、日本の考えはどうなのか。その時、様々な人々の「望郷」に改めて思い及ぼすことは、確かな人間的営為ではないかと思う。もっと言えば、今私たちが立っている地は、数限りない人々の望郷の「悲・哀・愛(かなしみ)」の涙があってこそなのではないか。

日本が真の先進国、文明国として世界の誘導役(リーダー)と公認される名誉が実感できる日があることを、「戦後」は未だ終わっていないと思う一人の私は想い巡らせている。