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2016年6月7日

「教科書を教える」 「教科書で教える」 ―教師にとっての教科書・生徒にとっての教科書―

井嶋 悠

前回の投稿で、或ることでの発心から駄文の投稿を続ける二つの理由を改めて私に確認した。
ただ、駄文を綴るにしても私のこれまでのささやかな職業・人生そして学習体験からだけでは、単なる思い付きに過ぎず、少しでも「70にして自照自省、学?に志す」!?の勝手な感得のために、古(いにしえ)の、今の魅惑的な人々の感性をいただいている。
その主典拠は、33年間私を生かしめるに不動の!支柱であった「教科書」である。それは、例えば豊富な読書体験を持つ人からは嘲笑ものかとも思うが、後悔先に立たず、やむを得ない。
今回、その教科書のことを少し書く。それが表題である。

ここで書く教科書に関しては、中高校(私学)の国語科必修科目としての体験からの言葉で、選択科目(必修・自由)でのそれではない。尚、選択科目について、私は以下のことを踏まえ、もっと自由選択を拡充すべきとの考え方である。

国語科教育の目標は、母(国)語である日本語の確かな「理解と表現」(学習指導要領では「表現と理解」)とそのための「言語事項」である。
その目標が達せられるなら「を教える」「で教える」どっちでもいいことなのだが、少なくとも私の知見では、
①教科書だけでは進学受験がおぼつかない ②教師によっては教科書を軽んじている、との現状は確実にある。①を充足方向にしようとすれば問題集に軸足が移るのは必然である。

【蛇足】

この問題集優先指向は、55年前の私の高校時代も同じで、進学校だったからなのか与えられる問題集は『難問集』と銘打たれ、これは他の教科でもその傾向があった。因みに、問題集にも『教師用指導書(とらのまき)』があって、答え(結果)から指導(教授)する教師がほとんどであった。これは、要領のいい同窓が、問題集の出版社からそれを取り寄せて知った。更に蛇足を加えると、期待をもって異動した某校・上司に幻滅、憤慨し退職した後、家族生活のための一方策として塾教師を2年間した折、この方法で良いのか経営者・同僚に確認したところ、何を今更との冷ややかな視線を受けた。
②については、大学併設の一貫校の、特に高校で多い。

①について。

なぜそうなるか。各段階での入試問題に表われる上級校教師の学力観と教育観、その背景に在る社会・教師の年齢(学齢)適応学力観、それがために今では必要不可欠ともなっている“進学”塾(予備校)、といった“異常”については既に投稿した。
その結果、例えば中高大一貫校で、志望学部が無い等の理由から他大学受験を希望する生徒は、在籍校授業を軽視し、塾授業に傾注するといった事例は多い。

②について。

人格、教授術共に優れた教師の場合、国語好きを増やすかとも思うし、在職中憧れに似たものを持ったこともあるが、自照自省の今、後述するように、遅れ馳せながら?疑問の方が強い。

 

「教科書を教える」「教科書で教える」

これは、在職中に知った表現で、あくまでも教師側からのもので、在職中“ダメ教師”と同僚や同職者から揶揄されることも多かった私だったことも手伝ってか、後者を憧憬していた。
しかし、70歳を越えての過去と現在と未来の思い巡らせに在って、後者は傲慢尊大そのもの、前者こそ在るべき教師像と思うに到っている。

「で」教える。 何を教えると言うのだろう? 人生? 文学? ……

そういう教師が、10代の生徒の心に、ずけずけと誇らしげに、多くは問答無用で押し入り、また時には過度に迎合し、どれほどに傷つけていることか。瑞々しい感性は、そんな教師の人としての愚劣さを、とうに直覚しているのだが、不器用な生徒は苛(さい)なまれ、もがいている。今は亡き娘もその一人であった。
自身も元生徒だったことなどどこにもなく、事実かどうかは別にして模範的優等生であったことを、或いは己が高学歴を矜持するかのように「今の子は何を考えているのか。到底ついて行けない」と言う。
私は劣等生との自覚があったので、さすがに矜持はなかったが、自身が気づいていないだけで彼ら彼女らの心を傷(いた)めつけたことは数限りなくある……。
それでもそのときどきで心を尽くした思い出もあり、少数であれ、私を良しとする同僚・同職や教え子・保護者に励まされ、交流を続け、それがあって33年間勤められ、そして今在る。

教科書は、何をおいても教科書を教えるべきだ。
日本文学(国文学)・国語(日本語)に造詣の深い人の、教科書への不満はしばしば耳にした。しかし、それらは選択科目で講ずれば良いことで、教科書に掲載されていることの確かな理解が確かな表現を導き、確かで広い関心興味が喚起され、後続の選択講座に向かう、それが各人の自己個性化につながる。そのことがそれぞれの学齢・年齢での、知識からその人の智慧への昇華だと思う。漢字が多く読め、多く書けることは素晴らしいことだとは思うが、誤解を怖れずに言えば、それは国語力の真髄へのほんの一部のことに過ぎない。

国語教科書の出版社は5,6社あるかと思うが、これも私的感覚ながら、大同小異である。
教科書は1年間で終えるのを基本としているが、掲載作品すべてを終えることは到底不可能で、ましてや整理された丁寧さで教授するとなればなおさらである。にもかかわらず、あれほどの掲載量があるのは、学校特性、教科特性そして教師特性による採択学校の個性の発露ため教材選択への配慮であろう。後は、学校・教師の姿勢の問題である。そしてそこに具体的で現実的な「基礎・基本」が炙り出されて来るのではなかろうか。
私は「整理された丁寧さ」と、羞恥心もなくしたが、ここには「教えることは学ぶこと」また「教師は向き合っている生徒に育てられる」との思いが込められている。

散文であれ、韻文であれ、教師は教科書掲載作品について、あれがない、あれがあるべきだ、と言う。それは仲間内での談義であって、教科書では不毛な議論である。
編集者・監修者またそれを選ぶ出版社の良識、良心を信じ、豊かな教授を目指し、その後は個々の生徒に一切を委ねるべきだ。そのことで国語科教育の「基礎・基本」、国民の共有が生まれるのではないか。
そこから、現在の入試制度、内容、また在籍期間を含めた単位履修等の学校制度、内容の変革が視えて来るだろうし、高校の義務教育化、大学の大衆化といった今日的課題への視座も明確になるのではないか、と思う。
日本が長寿化、少子化の道を歩んでいる今、カネ・モノ発想からの諸施策ではなく、だからこそできる可能性を思う。それこそ次代を担う子どもたち、若者のために。若年と老年が「哀しみ」から「愛しみ」溢れる世界に冠たる国へ。

最後に一言。教科書検定制度について。
私は、学校(主に私学)、地域(主に公立)それぞれが責任をもって検討、採択することの有効性を考える制度反対の一人であるが、国語科の場合、例えば社会科のような難しさはまずないように思う。