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2016年10月2日

小人閑居して大人の気を倣(なら)う…… ―長寿化と少子化と教育と―

井嶋 悠

 

カミさん(“妻”より、私が今在り得るに相応しい響きゆえこう書く)が、8月以降、糖尿病と心臓病の精密検査と集中治療で3回入退院を繰り返し、来月20日に心臓弁膜及び不整脈の手術と、手術後3週間ほどの療養のため14日から長期入院する。
在住市が行なう毎年の集団検診で、何度か要精密検査の連絡があったものの、女は男より忍耐強いとの母性自覚と痛い苦しいを言うは江戸っ子の恥で、聞き過ごすこと3年、体と志は別そのままに天が下したのがこれ。
経験豊かな医師曰く「40年程医者をして来たがよくまあ生きておれたなあ。病院に行くのはめんどう、も分からなくはないが、度を越すのも困りものだねえ」の重症。近々に障害者1級手帳が交付される!能力の高さを直覚させ、和み滲み出る医師、看護師に恵まれ、快復の光明を信じているとは言え。

「医は仁術」との言葉が浮かぶ。仁愛の仁。慈しみ。博識の、技術の讃ではない。人の根幹への讃。それは、とりわけ「師」が付く職にある人の必須ではないか、と元教師は自省強く思う。知識、博識で惑わせられるほど若者の感性は薄っぺらではない。もっとも、私的印象ではあるが、教師前半期と比べて後半期(1980年代後半以降)、多知識(者)=優秀の傾向が確信になって来たように思える。
カミさんを導く医師・看護師が醸し出す「気」には一切の衒(てら)い装いはない。私たちに染み入るゆったりした命の響き。大都会ではとうに喪失しているが、「69歳の東女に71歳の京男」の私たち夫婦の一致した思い。

当の本人、江戸っ子気質は三つ子の魂、一日一刻生涯、五月は鯉の浮き流しは健在で、病膏肓(こうこう)に入るは烈し過ぎるし、担当医師に甚だ無礼な表現であるが、大事(おおごと)との自覚は言葉や表情の端々に表われていて、入院に向けた身の回りの準備は正に用意周到。ただ、その態様はまるで子ども時代の遠足準備のようでもある。これをどう取るか。
「私はこのまま。オモテウラない」との常日頃の自負をそのまま受け入れるのか、いや彼女なりの精一杯の気遣いなのか。私はもちろん先の吹き流しの後に続く「口先ばかりで腸(はらわた)はなし」、オモテがすべて、ホンネで生きてこそ気概をただただ信じ、「車なしには生きて行けない車社会」の当地での生活、通院で、「走らない、混雑場所では車いすを使う、1㎏以上の物を持たない、一日の食べ物摂取カロリーは1400キロカロリー以下」等々、幾つもの禁止令を遵守する健気なカミさんに付き添っている。
6階建ての病院の正面入口を入ると、総合受付や薬受け渡し場所等々がある広く明るいロビー(待合室)で、多くの人が行き交う。私は妻の診療が終わるまでそこで待つ。時に2時間くらいになることもあるが、行き交う通院者、入院者、職員、医師は、私に貴重な自照をもたらす。とりわけ老人や幼児は、私を叱咤し、来し方が巡り、今日や明日を思うのだが、それは感謝であったり、悔悟であったり、得心であったり……。

今回の大事も、娘の死による自照自省と同じように、夫婦して気づかされ、見えて来ることは多い。

世は健常者の視線で組み立てられ、動いているとの実感。思い知らされる私の想像力の貧困と字義知識だけの言葉で過ごして来たこれまで。
以前にも書いた、被災後のニュースで知った福島の或る女子高校生の「同情の眼で見るのは止めてください!」が突きつけた厳粛が甦る。昭和10年代の癩病(当時、ハンセン(氏)病との言葉はなかった)作家・北條民雄の「同情ほど愛情より遠いものはない。」の叫びと共に。これは私の中で今もって未解決で、自身の言葉で言えないのだが。
一方で、障害者手帳申請時での説明で知った医療補助制度の厚さ。より具体的場面で実態はどうなのか、また都(と)鄙(ひ)での格差の有無についての確認等は今後のことではあるが。等々。

「慌ただしく」「忙しく」過ごさざるを得ないのが現代で、それが「現代人」の矜持と覚悟はしていても、そういう自身の虚しさに苛(さいな)まれている人は年齢を問わず多い。
都鄙の格差はますます強く厳しく指摘されるが、文明と人、文化と生に思い及ぼすとき、鄙の価値への回帰が確実に始まっているのではないか、それも喫緊のこととして、とこの地に移住して10年、思う。
因みに、カミさんの心臓手術医師団は3人で形成され、3人とも地方出身の地方大学出身者で、カミさんはこよなく3人を親愛している。

「ふくよか」なやさしさ。「しなやか」なやさしさ。「たおやか」なやさしさ。湿潤な土の香り漂うやさしさ。遥か昔、西から、南から、北からやって来た“原日本人”が、海に囲まれ、山川草木に溢れ、四季豊潤な温帯((正しくは亜寒帯から亜熱帯だろうが温帯とする)の日本列島で、何代かの時間をかけて育んだ言葉。和語。やまとことば。
やはり日本は母性の国だと思う。母性=女性の安易さではない原理として。

氷川 玲二[1928~2000:英文学者。1970年、大学教員職を辞し、スペインに定住。ヒッピーの指導者にしてスペインの大学教員を経て帰国。]の、『意味とひびき―日本語の表現力について―』(1995年)(『池澤夏樹個人編集・日本語文学全集30』(2016年)の一巻、《日本語のために》所収)と言う、ひらかな・漢字・カタカナ、和語・漢語・カタカナ語を入口に日本・日本語・日本人を自由自在、示唆豊かに語るエッセイを読んでいたら、こんな言葉に出会った。(私は、筆者についてこのエッセイ以外、経歴的な事しかしか知らないが、天は時折“凄い”人を創る、そんな一人だと思う。)

「ひらがなで生活し、漢字で思考するぼくたちの言語活動」

そして私は「母性で生活し、父性で思考する」と勝手に広げ、日本史の女性男性の幾人かを思い起こし、私の現代日本観に重ね、心を亡くす「忙しさ」、心を荒げる「慌ただしさ」への警鐘ととらえる。
10代のあの瑞々しい感性を確認し、培い、未来を思索し、試行する時間としての学校時間、教育(中でも小学校から高校までの)の本質的(ラジカル)な再考と改革が、長寿化、少子化の日本だからこそできるのでは、との期待を持つ。

私は、なぜ現政権を支持する、政治家、専門家・マスコミ人、官公吏等の大人が、相変わらず50%前後在ることに知情意から受け容れられない一人で、ただ有り難いことに周囲に同意見者は多い。
「金(かね)と武」をもって強い国、大国とする独善を正義と心得、財政難を理由に増税を言い、国民の税金の海外での大盤ふるまい、そのための史上最多の外遊経費の濫費の上記リーダー(首相)が、先日アメリカで、金融関係者を前に「日本の高齢化や人口減少は、重荷ではなくボーナスだ」旨講演したとのこと。
「日本はこの3年で生産年齢人口が300万人減少したが、名目GDPは成長した」「日本の人口動態にまったく懸念を持っていない」「日本の開放性を推進し、一定の条件を満たせば世界最速級のスピードで永住権を獲得できる国になる。乞うご期待です」と意気軒昂に語った由。
聴衆が金融関係者、それも絶対追従の憧憬国アメリカの、と言うことで舞い上がったのだろうが、日本の、貧困にあえぐ子どもやその親(多くは母親)は、更には災害大国日本にあって自身の過失ではないにもかかわらず被災再建の借金を強いられ途方に暮れている人々は、また憂愁と理想の間(はざま)で苦悶する若者は、この意気軒昂をどうとらえるのだろうか。
報道の見出しに「ボーナス」を見、一瞬期待したが見事なぬか喜びだった私は、同じ日本人として首相の厚顔無恥を恥じ、仕事で出会った思慮深いアメリカ人の失笑が浮かぶ。

先日、文化庁の調査で、メールなどで「OK」という単語をひらがなで「おけ」などと表現することがある10代の若者が半数に上る、とのニュースがあった。そこで、或る専門家は「若者の間で入力ミスであろうと、とにかく早く返信したほうが仲間に信頼されるといった思いが強い。若者が常にせかされた社会で生きていることの表れだ」と言っていた。
そこに、なぜ「せかされている」のか、急かすことをさせるのは何なのか、更には誰なのか、との発言がない。(あったのかもしれないが少なくとも放送にはなかった)。マスメディア(マスコミ)が依頼する専門家だからなのだろうか。非常に残念に思う。

教育は(学校教育)社会の、国の礎とは常に言われることである。

【蛇足】私が教育を述べるときは、中高校国語科教師であったので中等教育、国語科教育を糸口にした文系教育からのそれで、理系には甚だ疎い。

教職時、直接に聞いた現教育に係る言葉の幾つかを採り上げる。

その場で嫌悪感を沸々とさせながらも異議申し立てすることなく聞いていた私は、私なりの理由はあるのだが、お前は一体何なのか、との難詰を思い描きながら。

教育関係者の言葉。

「高学歴にこしたことはない。」

或いは、
最近の若者の知的レベルの劣化、低下を嘆き憂い、自身が立つ教育現場の前の教育現場(大学なら高校、高校なら中学校、中学なら小学校)の教育を批判する教員の言葉。
或いは、
学歴社会批判論を展開しながら、己の高学歴を誇示しエリートを自任する一部?の大人の言葉。ウラオモテ。ホンネとタテマエ。
私は、高学歴をひとまとめに一蹴するほど図式的ではないが、有名大学に合格した段階で“終了”し、校名を権威にしての闊歩が多過ぎやしないか。その頂点?と自他?認める東京大学。親族を含め何人かの卒業生と出会っているが、なるほどこれはほんものだ、と思った人はほんのわずかである。
「批判はそこに入学して言え」との叱声は、今もあるかどうかは知らないが、塾在っての進学の現代、所得高額者の子女の高学歴化傾向の現代、にあってはたしてどうなのだろう?それもあっての「大学入試改革」なのだろうが、そのことについては後で触れる。

教育関係者の言葉。

「企業が求める教育でなくては教育の意味はない。」

企業内管理職者の言葉。

「学校で学を教えるのは止めて欲しい。教育は私たちがする。」

「“有名大学”と“無名大学”出身者の協働開発がユニークな製品を産む。」

資本主義社会の悪しき一面として企業を視る人はあるだろう。私はそこまで言えるものはないが、教育を企業と言う一面から視ることに強い違和感がある。国際社会での共存と競争だからこそそういう視点になるのか、とも思ったりするが、発言者が常日頃、多様性の教育、個性伸長等を強調している人たちなのでなおのこと拒絶する私がいる。

[私の中で上記と重なる或るエピソードを。]
当地で出会った当地出身の高卒学歴を卑下する自営業の50代男性。大阪で修業するもその商法・経営法に馴染めず戻り、今ではウラオモテのない真摯な人柄から多くの敬愛を集めている。その男性が或る時、私たち『日韓・アジア教育文化センター』のホームページをざっと見て一言。「日本の教育を変えたいのでしょう」。どれほどの励みとなったことだろう。

金と武の強大性を確固たるものとすることが、不安定極まりない国際社会・グローバル社会での自立となり、先進国として指導的立場となるが、日本の命題であるならば、教育は息苦しいものにならざるを得ないし、「慌ただしい」「忙しい」も「急かされる」とも合致する。
日本は豊饒の、しかし同時に人為をはるかに越えた危険な、自然風土の国。そこにあって、自然と人為の共存共生への伸長は、金と武とどうつなげようとしているのだろうか。

1868年.近代化の大号令から今年で148年。大東亜戦争(太平洋戦争・15年戦争)敗北から71年。1972年沖縄が様々な制約拘束の下アメリカから返還されて45年。
604年の「17条の憲法」の制定から1412年。1603年江戸時代の始まりから413年。現代日本語の源流を知るには室町時代(1348年)からで良いとの説に立てば668年。それぞれの経った時間。
平均寿命80歳の現代日本の文明・文化は、何が基層で、或いは何を基層にしようとしているのだろうか、その起点(基点)とする歴史は、どこを拠りどころにするのだろうか、そして私は何を、どこを?と。

先に引用した「ひらかなで生活し、漢字で思考する」が、「カタカナで生活し、カタカナで思考する」化しつつある現代にあってはなおのこと。

「学歴がすべてではない」を、学歴で苦難の人生を強いられた一部を除いて、全的に否定する人は今では数少なくなっていると思う。しかし、学歴の終着点の一つ大学入学のための教育費過負担と入学後の学費高騰による経済格差、また出身大学歴としての大学格差は歴然としている。大学進学より資格取得度の高い専門学校に進学する若者が増えている。定員割れの危機的状況の大学は、専門学校と連携している。多くが何のための大学進学?と考える。それほどに大学は多い。大学の大衆化による大学の危機。

私の親族の例を挙げる。
精神的問題を抱える青年(男)がいる。某私立大学に事前相談に行ったところ大学側は快く受験を薦め、入学できた。しかし1年後、受講教員から退学を求められ退学した(させられた)。親は未だにその理由が(核心の理由)が分からないと言っている。たまたま家庭の経済等環境がよく、親の元で生活しているが既に30歳を越えている。親は自身たちの死後の彼の在りように心を傷めている。

学歴社会を非とするならば、少子化でますます余剰気味の大学現状なのだから減らせばいいとも思うが、学生保護者教職員等々一命に係ることで、事はそんなに安易ではない。だからこそ求められる質の改革と卒業生の存在・活動成果の、美辞麗句や見てくれの広報ではない広報。論より証拠、と幾つもの学校浮沈を見て来た私は実感する。証拠の一元的価値観残滓(ざんし)を払拭させ新生させるためにも。
私の思考の矛盾は承知しているが、大学が変われば高校も中学校も更には小学校も変わる。変えるのは教師という大人であり、その教師は変える意思によって自身が変わる。教師は生徒によって育てられる。教師が変われば、生徒も保護者も変わる。社会があっての教育から教育があっての社会への教師の明確な意識変革。などと考えるのは私だけかと思うが、少なくとも教師不信に喘(あえ)いだ亡き娘は首肯してくれると思う。

【付記】改革のための中高校制度変革の私案要点を。

○中学校高等学校期間を8年とする。数年前から機能している中等教育学校視点の8年制。
8年間を4期に分けて、入門⇒基礎⇒発展Ⅰ⇒発展Ⅱとし、「卒業論文」をもって終了とする。入門期ですべての科目の「気」を感じ、知り、そこから自身を知ることの重さと発見する楽しさ、感性想像力の涵養が生み出す未来に向けた思索と試行。もちろん、そこには大学受験を意識した「主要5教科目」とか「芸能科目」といった一部の学校関係者が使う差別用語はない。
選挙投票機会が在籍最後の2年間にあれば、緊張感を持った有終となるのではないか。それは高校卒業後就職を選択する者にとってはなおさらのことではと思う。そして、卒業が成人式の年でもある。

○4年制大学の専門性の徹底を意図しての教養課程の廃止と大学院前期(修士)課程の学部移行での4年。
短期大学での専門性前期の浸透、徹底。

○「支援」から「共生」へ、に向けた障害者の受け容れの義務化。(これは先述の私の未解決の課題「同情と愛情」につながることである。)
入学後の共生内容・方法の学校・保護者での合議。その前提となる国の指針。当該生徒の教育及び学校生活上で必要な人員(教員)の人件費等経費の国・地方自治体補助金による保障。)

或る全国紙で、『新大学入試』との表題で、「公平」「安定」は確かかとの見出しを付けた社説(9月15日)を読んだ。

「2020年度から始まる予定の新しい大学入試について、文部科学省が検討状況を明らかにした。」との書き出しで始まり、「思考力、表現力をみる記述式」の国語と数学での導入、そこへの課程(「学習指導要領との整合性」等)と合否採点(「教員負担」の過剰や「採点基準のばらつき」等)での問題が、英語の「話す」「書く」の民間機関の資格試験等結果導入と併せて論じられている。(「 」は記事内の表現)
4年後からのことであり、本質的変革への一歩として是非、実現させて欲しい。
かの「(横断的)総合的学習」の、学校・教師社会の構造改革を措き、「(横断的)総合的学習」と相似の欧米の教育構想を持ち出したり、場当たり的な無節操な糾弾や、更には「基礎・基本」内容を雲散霧消のまま続けられる学習と進路といった過ちを活きた礎石に。

その上での二つの疑問を記す。

○塾の問題

今日、進学成果は塾が必要不可欠であることは、入試問題内容からも明明白白で、そのことへの「理」なくして、「学習指導要領との整合性」云々はどう考えれば良いのか。因みに、“有名大学”進学を誇る“有名進学校”の生徒もほとんどが塾を力にし、海外在留子女のための現地での塾(現地開設や日本の塾の海外塾)の生存競争は、時に国内以上に厳しいその現状への明瞭な視点がないかぎり、「思考力、表現力をみる記述式」は塾・予備校あってのことになる怖れを思う。「小論文」導入とその後、同様に。
こんな疑問も湧く。「この社説を書いた記者及びこの稿を良と判断した上司は、塾に行ったことがないのだろうか」。それとも「塾は成果のための道具に過ぎない」と言うことなのだろうか。
私は、「補習塾」には必要性を思うが、「進学塾」は必要悪と思っている。この必要悪表現はあまりに非現実的暴言だろうが。

○「大学教員負担の過剰や採点基準のばらつき」について

なぜ負担を過剰とするのか。「教育」への大学教員の考え方は、やはり小中高校教員の教育観とは違うと言うことなのだろうか。そうならば大学・大学人の構造・意識改革が必要なのではないか。
また、採点基準のばらつきがなぜ問題なのか。人が人に教え育む人為としての教育での、主観と客観に係る問題かと思うが、思考と感性の記述評価での内容と方法(構成、語彙等)への視点が混在しているのではないか、と入試採点での教師間議論経験から思う。このことは「個性伸長」「多様性への寛容」といったことともつながるであろう。

記者には、「慌ただしい」「忙しい」も「急かされる」も増幅されるばかりだが、現代はそういう時代であることを受け容れなければならない、それほどに厳しい時代であり、長寿化と少子化だからこそ自己を一層深められる千載一遇の機会である、との意識があるようにも思える。

長々と書いて来たが、これらは老いの繰り言と言えばそうかもしれない。人生、喜怒哀楽、欣喜雀躍することも何度か?ある。しかし浮き世は結局憂き世と、差別はなくならないと思う今の私には強い。しかし減らすことはできる。それが人為の素晴らしいところだ、と娘の苦しみを、続く若い世代の人たちが取り込まないことを願う私もいる。