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2017年2月21日

遊び、その二つの字義、解放と隙間が育む、想像・創造力 [序]

井嶋 悠

今回、2回に分けて「遊び」の二つの側面について、自照、自省加えて後悔と併せ、整理したい。
「毎日サンデー」(これは、私が最初に勤務した私学女子中学高校で敬愛していた校長[英語科・男性]が定年退職後に言われ、当時30代前半の私の心に、その実態は今もってよく分からないが、妙にこびりついた言葉)の日々に在る、元(私学)中高校教師の一日本人として。

「われらは何して 老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ 今は西方極楽の 弥陀の誓いを念ずべし」

これは平安時代後期、後白河法皇が編集した、当時の今様歌(流行歌)集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』にある一つ。
7回目の年男を迎えた一人ながら、まだまだ「弥陀の誓い」に到らない世俗者(同書の表現から援用すれば「心澄まぬ者」)だが、少しは心情を共有できるようになっては来ている。
これも高齢化(長寿化)現代の為せること、と人の、生の痛みが十全に分からぬ私の晩稲(おくて)を慰めている。

誰しも合点承知していずれ来る死を迎えたいのは、古今東西共通の願いにもかかわらず、その“自然”を、意図的に己が手で断ち切る人は決して少なくない。その恐るべき勇気……。哀し過ぎる。
日本の自殺者は、徐々に減りつつあるとはいえ、文明国、先進国(二つの言葉の吟味は措く)で(最)上位にあることほぼ20年が経つ。今、再び10代が増える兆しとのこと。

10代、小学校高学年から高校卒業後2年ほどの時代。かのピカソ(1881~1973)19才の時、親友カサヘマスの自殺での激しい哀しみから青色を基調に、盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を描いた「青の時代」。孤独で不安な青春時代。だからこその「青い鳥」に切なくきらめく夢。
経済至上志向、物質文明あっての文明観への懐疑と批判を、感傷!と、排斥する社会であり続ける限り増えはすれど減りはせず、と私は思う。

社会を、更には政治を映し出す鏡としての学校教育。その主構成者である教師。
愛知の中学校で教師のいじめで自殺した男子生徒のこと、また横浜での福島からの転校小学生への150万円恐喝!を当初いじめとしなかった教育委員会がいじめと認めたこと。繰り返されるこれら哀しみは、学校社会の一部大人の逸脱で済むことでなく、「学校の正義」の傲慢につながることで、学校社会の聖域的特別・特権意識を背にした権威主義と閉鎖性を端的に表わしている。
上記の二つの事例は、折ある毎に中学校・高校の教師が一因で、5年余りの心身苦闘の末、母親の刻々の献身及ばず天上に旅立った娘の怒り、哀しみ、悔しさを層一層思い出させ、教師であった私に幾層幾重のことを詰責して来る。
更に加えれば、国際教育の大きな領域の一つ「海外・帰国子女教育」、日本の教育の重要課題と意識され半世紀経つにもかかわらず、何かにつけての「英語!英語!」発想、帰国子女=英語話者の羨(うらや)み嫉(そね)み、いまだに根強く残る日本。併せて、在外日本児童生徒教育機関(日本人学校・補習授業校等)での管理職を含めた教員の非常識、無恥。
これらは一部で、感銘と敬意の諸例が多くある、で済むことではない、と私は思い、敢えて挙げている。

次代を担う若者が、担い終えた老人が不安を抱える日本。少子化と高齢化の日本で、今顕在化している負の諸問題が、カネ発想の対症療法で解決すると日本主導者は本気で考えているのだろうか。一方で、国益、地域益のためとの錦の御旗を問答無用にかざしての主導者、中でも政治家たち、の湯水のごとく公費を使う金銭感覚。

数年ほど前からフィンランドの教育を評価する日本人教育関係者等が多いようだが、そのフィンランドがかつて自殺大国であったにもかかわらず優れた教育国になったのはなぜか。
「ゆとり世代」の若者を慨嘆し、非難する大人が多い。しかし、その「ゆとり教育」を主導したのは、ゆとりの意味を数合わせのようにしたその大人、官僚・政治家・研究者、ではなかったのか。
ただ、これらのことは何度も投稿していることであり、これ以上立ち入らず先に進む。

最近、妻から、娘が好きだった歌手・音楽グループの一つが『Kinki Kids』であったと聞かされ、初めて幾つか聴き、「青の時代」(1998年・作詞作曲canna)という私好みのバラードを知った。“ジャニーズ”系と言うそうだが、老人にとってはかなり気恥ずかしい歌詞が多い中、この歌詞は硬化した頭を刺激し、想像を掻き立てる詩情に溢れ、何度も聴き返した。時代や世代の乖離を越えて共感は成り立つということなのだろう…。
娘は、この曲をどんな思いで聴いていたのだろう。彼女が、天上に昇って5年近くの時間が過ぎるが、錯綜する感情が脳天を突き抜ける。幾星霜との言葉の重さを思い知る。

私たちはあまりに余裕(ゆとり)を持てなくなったのではないか。ギチギチでギスギスと生き、そんな自身にふと疑問、虚しさに襲われる。感受性瑞々しい10代の、少なくとも私の出会った、若者(生徒)にとっては、なおさらのこと。「青春期・青の時代」「思春期・“春”を思い願う時代」。
大人は、社会は、その若者に自主、自己責任を、忍耐と努力を、手を替え品を替え説諭するが、高速・効率優先での情報氾濫社会、特別の資質を授けられそれを自覚しまた見い出されている者、要領が良いと言う意味で優秀な者以外の、ごく普通の若者にとって、その説諭がどれほど有効なのか、私は首を傾げる。
中学校・高校に、自身を問い、思い巡らさせ、挑み、自・他でそれを確認する、そんな時間(余裕)がどれほどあるだろうか。塾[進学塾・補習塾]があっての進路進学の狂騒時代。
「遊び」の決定的不足。ギシギシ音が溢れる時代。「人情は愚を貴ぶ・愚直であることの美的戒め」は、遠い過去の追憶に過ぎないのだろうか。

高齢化(長寿化)、少子化の、そして時代の転換期明らかな現代日本にもかかわらず厳としてはびこる、旧態然の社会・学校社会意識・構造。対症療法でない体系・制度を含めた根底的変革の時機に在る日本。(その具体的私案は以前投稿しているのでこれもここで止める。)

「遊ばない」「遊べない」日本人。時にそれを誇らしげに言い、時に讃美さえされる奇々怪々。「遊びが遊びにならない」日本人。この日本人がほんの一部とは到底思えないし、例外ではない同じ日本人の私の、狭く偏った人間交流、情報の為せることとも思えない。
世は「働き方改革」とか。きっと遊びも、仕事・学習(労働)に係るすべての人にとって時代に合った本来の姿のもとなるのだろう……。
その改革によって日本経済状況がどう変わり、人々の生活状況にどのように投影するのか、労働時間、賃金、産休育休を含めた休暇等々の労働環境が、企業規模や雇用体系また都鄙分け隔てなくどう変わるのか、「毎日サンデー」にかこつけついついそれに浸るだけの私だからか、よく視えないが。