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2017年5月17日

[犬好き・猫好き] ―元教師の学校回顧方々―

井嶋 悠

プッシィ キャット[pussy cat]。かわいい人(主に女性への呼びかけ)[『グランドセンチュリ英和辞典(三省堂)。]「主に」との真意も、せいぜい「かわいこちゃん」ぐらいしか知らないが、子猫のあの表情、姿は犬に優るように思う私は、しかし犬好き“派”である。時の流れは、愛も変容するとは言え、「かわいさ」に上下区別などあろうはずもないが、である。このかわいいを、漢字交じりにすると「可愛い」。「愛」を[いとおしい・かなしい]の両意を想う私としては、それが「可・できる」との変換には、ふと微笑みが起こる。
その私は40歳前後以降犬を途絶えることなく飼い、今、1歳の男の子がいる。夫婦で「私たちにとって最後かもしれないね」と言いながら。

因みに、先の英和辞典で[cat]を引けば、二つ目の語義に「意地悪女」とある。意地悪、とは凄いが、世智的に賢い人は、男女を問わず概ね意地悪とも思える。もちろんこれは私の劣等心の為せる独善で、女性の強さへの男性からの一方的的印象に過ぎないが、“母性”を憧憬する男性に共通するのではないかとも思ったりする。女性の意地悪さに快感!?を覚える現代日本の男性?
猫は賢い。犬はバカだ。(関西人の私だが、私の語感としては「あほ(う)」よりバカなのだ。)

夏目漱石は、自宅に迷い込んだ黒猫を主人公にして傑作を著す。内容の思索性は主たる猫で、おかしみは犬、と言えばあまりに牽強付会か。漱石は猫の死に際して墓碑をつくり、死亡通知を知人等に送付したとのことだが、自身は二者択一的に言えば犬好きだったとか。
かの、映画『男はつらいよ』の名セリフの一つ、おいちゃんが寅さんに言う「バカだねえ、ほんとバカだねよねえ」の、あの響き。

雑文に余談を加える。
あの響きは森川 信(1912~1972・何と還暦の若さ!で亡くなっている。才子は短命!?)だからこそ出せた響きだ、と後継の二人には悪いが思う。そう思って渥美 清(1928~1996)を思い浮かべると、日本伝統大型犬の秋田犬の風貌に似ている……。
私は3か月後に人生72年を迎える。その間自身を賢いと思ったことはない。もちろん、親(とりわけ父親)はもちろん、生徒学生時代の教師を含め他者から賢い評をされたことは皆無に近い。だから、私は犬に(無礼を承知で)感情移入するのかもしれない。子猫時代を終えたあの賢い(醒めた)風情はどうも近づきにくい。

[『男はつらいよ』からの更なる余談。]
妹「さくら」役の倍賞 千恵子さんの猫的、氏の実の妹・倍賞 美津子さんの犬的な、その女優性。かつて千恵子さんの演技力、存在感に圧倒され、心酔していた私だが、最近、美津子さんに千恵子さん以上のそれを感ずる。それが表現の直接(直截)性、間接(象徴)性と加齢(老い)そして死への嗅覚につながるのか、単に私の気ままなのか、よく分からないが。)
世で多く言われている「犬好き・猫好き」の特性をインターネット情報から勝手に要約すると、以下のようである。

【犬好き】
感情表現が豊かで積極的で行動的・寂しがり屋・思いやりが深い・尽くすことが好き・安心感への希求が強い。

【猫好き 】
物静か・マイペース・ツンデレ好き(このツンデレという言葉は初めて知ったのだが、「つんつん」と「でれでれ」を複合した言葉だそうで、要は気分屋と私は理解している)・心配性だが冒険好き。
また、或る研究結果では次のような指摘もあるとのこと。 「猫好きは犬好きより内向的で感受性が強く、独創的な発想を持ち、猫好きの方が、知能指数が高い。」 自照し、旧知の人々を思い起こせば得心できることは多く、且つ33年間の中高校教師生活が見事に甦る。ただ、「知能指数」については、知能指数そのものに懐疑的だから全く疑問ではある。

日本の古代からの絵巻物を見るとそこかしこに登場する犬と猫、人とのつながり。歴史としては犬の方が古く、生活(実用)と愛玩(この愛玩の用法、手元の『現代国語例解辞典』・『漢語林』及び『グランドセンチュリ英和辞典』(pet)でも軽侮的説明はないが、「玩」の意味にはあって、「愛玩」は時に軽侮の意味合い(ニュアンス)で使っている思うこともあり、猫好きは女性のイメージ(smart & cool)が強いだけになおのこと抵抗が湧くが、他に適切な用語が見つけ出せないのでこのままにする)で言えば、犬は生活(実用)との併用傾向があるが、猫は愛玩であろう。

清少納言は『枕草子』で、犬に係ることを2か所(それも生活と愛玩それぞれ一つ。やはり才媛だ)で書いている。 章段順で言うと、9段で彼女の犬好きを偲ばせる「愛玩」を、23段で「生活(実用)」に係る彼女の感性として。

【9段の要旨】清少納言が仕える一条天皇が溺愛していた猫を、同じく飼われていた犬(名:翁丸)が、周囲の者たちのからかいに、まるで言葉が分かるかのように乗って脅かせたことで打たれ、棄てられる。しかし、あろうことか帰って来て、作者も含め翁丸を案じていた人々と感動 の再会を果たす。

彼女は、その翁丸を「しれもの(痴れ者:バカ者)」と、打たれ棄てられる段階で形容しているのだが、それは「あのおバカさん」との、犬好きからのニュアンスであることは、翁丸との再会での翁丸と彼女の心の交流描写からも明らかだと思う。おいちゃんの寅さんへのあの表現と重なって私には響く。

【23段の要旨】すさまじきもの(興ざめするもの・不快感を与えるもの)の冒頭、彼女が挙げている事。
ほゆる犬。」

今日、愛玩が主流で、猫にしても犬にしても家族の一員、それも家族構成者として、との感覚は、家族内間の呼称表現からも日本的とも言われる。だから無責任な飼い方は非人間的(非人道的)と糾弾される。更にその入手、飼い方が、欧米と違ってあまりに情的(感傷的)なこともあって、結果からの糾弾にはより拍車が懸る。

先の[犬好き・猫好き]が、学校社会を彷彿とさせる私的根拠は以下である。

先ず学校。
家庭のしつけまで学校に委ねられるほどに家族的なことを善しとする時代。(その善し悪しは、小中高大の組織上のこと、塾との関連を含めた学力観、また時代様相或いは日本の方向性等考慮しなくてはならないことが多いので今は立ち入らない。)
生徒。
中学2年生前後あたりから、猫派に行く者、犬派に行く者が、はっきりし始める萌芽思春期前期の昂揚。尚、中学2年生前後は心身急成長もあって、自・他へ“厳しい”時期であることは今も変わらない。

教師。
教師間にあっても、生徒間にあっても孤独な存在で、極一部に神的(仙人的?)な人もなくはないが、つまるところ一介の人間で、「教室では殿様(大将)」と言われ、時には体罰までして従わせるのはその裏返しとも思える。そういう教師を教育熱心と評する人もあるが、それは教師であることの甘えと驕りを助長するだけだと思う。
職員(教員)会議・教授会のタテマエとホンネ、総論と各論の交雑した時間は、何度かの会議議長経験からも否めないし、周知のこと…?
もちろんこれらも自照自省での発言。

その教師に先述の犬好きの[感情表現が豊かで積極的で行動的・寂しがり屋・思いやりが深い・尽くすことが好き・安心感への希求が強い]を重ねると大いに得心できる。
とすれば、猫好きの教師は犬好きより精神的苦労(悩み)が多いことが考えられるが、「猫好きは犬好きより内向的で感受性が強く、独創的な発想を持ち、猫好きの方が、知能指数が高い。」は、高校生に支持される可能性が高いように思える。
私の女子校、男女共学校体験(男子校はない)で言うと、学力優秀生徒は概ね女子ではあった。

あらためて教育の難しさとの当たり前のことに行き着く。公・私立学校の別なく種々多様な学校。一例を挙げれば、中高校(13歳前後~18歳前後、人生80年の現代日本で人生15%ほど終えた年齢)段階で、学力差(勉強ができる/できない)からの“不明”の謙虚さに、疾風(しっぷう)迅雷(じんらい)の速さで諦めに、少年少女を追い込むほどの学校差。

学校が多様であれば、「良い」先生像も多様なはずで、ここでも形容語の主観性、私感性に思い及び、教師晩年期の少しは自身の言葉で話す余裕が持てた時、生徒たちに、とりわけ「表現」に関して、形容語はその人の生き方・価値観を表わすからくれぐれも要注意と繰り返し諭したことが懐かしい。これは私に言い聞かせているだけだったのだが、
いつも思う。どうして大人は、大人による子ども・若者への、教師による児童生徒への【いじめ】の、調査の有無に始まり、実態を積極的に世に問わないのか、と。既に公表されていれば私の不勉強。
[国づくり・世づくり・人づくり]の形容語はいつも!「民主的・平和な・優しい」……。
教師資格取得の必修科目『教育論』関係の観念性は、当然批判の対象にあるが、理論と実践(現場)を知ってこそ批判できるとの弁(わきま)えも、おびただしい失敗と試行錯誤から持ち得たこと。
犬も猫も人の心を痛切に癒す。人は、私は切々と「哀・愛(かな)しみ」を直覚する。以心伝心…。

深く心沁(し)み入る叙情歌(バラード)『You raise me up』(『シークレット・ガーデン』〈アイルランド人の女性/ノルウエー人の男性のデュオ〉・2002年)「あなた(おまえ)は私を元気づける、奮い立たせる」の意。
「ストレス」との言葉が、日本社会で常用語となり、心身不調の自然にして当然の弁解語とさえなって、どれほどの年数が経つだろう。

大都会の犬・猫販売店では、当地での一般的価格は破格的廉価で、40万円50万円は当たり前のようになり、中には100万円の評価!?を受けた子犬、子猫が特別ボックスに鎮座?する。血統とか、コンクール賞等々でそうなるのだろうけど私にはその差はとんと分からない。

更には医療費の膨大さ。我が家の最近の犬2代が世話になっている医院は、非常に良心的とされているが、1回の診療費が1万円以下は珍しい。昨年飼い主の娘を追って逝った犬の晩年期の医療費を教訓に、保険に加入しているが、それでも特に春先の予防接種等初期必要額は、年金に大打撃を与える。
その医院でのこと。若いお母さんが子犬(娘さんが拾って来た犬とのこと)の予防等診療支払時の呆然絶句していた顔が忘れられない。帰宅後家庭内会話はどうであったろう?
私の家から車で30分も行くと、そこは那須連山の麓の温泉湧き出る高原(リゾート)地で、宿泊関連等レジャー施設、別荘、ペンションが幾つも在る。大都市圏から来た一部の人が、愛玩しているはずの、犬や猫(多くは犬のようだが)を棄てて帰る、との話を土地の人から聞いたことがある。そのとき妙に納得し、同時にそういう自身を懐疑し、嫌悪する感覚に襲われる。しかしこの感覚はいつしか過去のこととなる無惨。

自然との共生を己のものとし、行動しなければならない時代に生き、私は、花を、野菜を、そして犬を育て慈しむ幸いに、5年前23歳の娘を天上に送ったとは言え、今在るが、どれほどに言葉(観念)を弄んでいることだろう。
デジタル・国際社会にあって私のような英語もできない(学習から逃げていた)アナログ人は、黙って立ち去って行くべきなのかもしれない。それでも、学校改革、教育改革は、社会改革があってのことではないかと、理屈的にはその逆なのだろうけれど、想う。

日本はいつごろからこれほどに成金の、放言の「幸(さき)はふ(栄える)」国家となったのだろうと、昨年秋、九死に一生を得、幸いにも先月古稀を迎えた妻と、氾濫するマスコミ情報下、溺れ死なないよう何とか息を継いでいる。
ここには、“三代続く”江戸っ子下町育ちのカミさんと一応京都人の私の間に異文化はない。「下町の人情」の、「京都人」の、負の変容への残念さとさびしも加え。