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2018年2月13日

『日韓・アジア教育文化センター』回顧   ~韓国・高校・日本語教科書DVD制作の節目に感謝をもって~

井嶋 悠

                はじめに

昨年(2017年)夏、7回目[内、6回は本センターの仲間で、日韓を越えて対話の出来る韓国人男性の高校日本語教師・朴(パク) 且煥(チャファン)先生が主幹で、1回は中学校用を含む。もう一件は、急な事情でセンターの仲間ではない別の韓国人日本語教員主幹のもの]となる、韓国の高校用日本語教科書映像版【DVD】制作に携わった。
[附:文末に撮影の「実際」のリンク先を掲示]

 

私にとってこの活動[事業]の最後になると考えていて、また朴 且煥先生も恐らく最後の教科書執筆になるだろうと話していたこともあり、一つの節目として、今回この撮影活動の顛末と私感をまとめることにした。
これが、現在の日韓問題への、また“未来志向”への日本での有用な参考となることを、更には日本として、アジアを、「国際」を考える何らかの示唆となることを願っている。

 

『ソウル日本語教育研究会』との出会い、或いはDVD制作に到るまでと私

そもそも『日韓・アジア教育文化センター』なるもの、少数の限られた人だけが知る、いわゆる知る人は知る、知らない人は知らない存在ではあるが、発足者の一人として自己史と重ねた概要を記す。本センターの骨格の一部であるとの自負も含め。

尚、活動内容、活動実績の詳細は、ホームページ【http://jk-asia.net/】を視ていただければ具体的且つ全体的に理解いただけると思う。

Ⅰ 或る学校法人理事長の厚意、或いは苦境が幸いをもたらす

日韓・アジア教育文化センターの源流は、1990年までさかのぼる。
当時、私は公務の、それが私事にまで及ぶ自身が招いた艱難辛苦を実感する時期にあった。その時の支えは、私の公私すべてを呑み込み、言葉で表わすことなく、日々を『一日生涯』精神そのままに、二人の幼少児の母親である妻であり、幽かに光明感じさせる言葉を与えて下さった数人の方々である。

私が自身を「日本語知らずのモノリンガル国語科教師」であることに、身をもって知らしめたのは、ひときわ偏差値の高い生徒が集まる女子中高校に赴任したこともあるが、外国人高校留学生やインドシナ難民への日本語教育体験、また帰国子女教育の体験が大きい。
それがあって、私は国語(科)教育と日本語教育(日本語を第2、第3…言語とする人への教育)の、“タテ(縦)”のつながりではない、“ヨコ(横)”のつながりからみえて来る国語(科)教育の在りようを考えたい、と小中高大のごく一部の教員と研究会『関西日本語国語教育研究会』を発足させ細々と活動を続けていた。尚この国語(科)教育と日本語教育の関係は、今もってタテ関係、別領域として当然のように意識されている。

一方で、私の教師原点である勤務校から、夢を追って飛び出したはいいが、赴任先の校長とその人物に追従(ついしょう)する一派の社会的虚偽に強い懐疑を持ち、彼らから言わせれば後ろ足で泥をかけるようにわずか2年で退職した。
しかし、組織の不可思議さとでも言うのだろうか、退職したにもかかわらずその学校を含む法人(小学校以外、幼稚園から大学までを開設)理事長の厚意で、法人全体の『国際理解教育センター』を創設し、非常勤講師として同法人の別の高校に在職し、家族の糊口をしのいでいた。

そのような折、二つの貴重な機会を、やはり理事長の厚意で持つことになる。
一つは、1993年、韓国との出会い。
一つは、1995年、カナダでの福祉教育或いはその社会的実践の見聞。

Ⅱ カナダの障害者教育と実践の見聞[1995年]

後者は、カナダのモントリオールを基点に、主にダウン症の青年たちで構成されるレストランと彼らによる影絵ミュ-ジカル上演事業〔団体名「Famous People Players」〕活動である。本国だけでなくアメリカの心ある人々に支えられ、ブローウエイでの上演実績もある。
私に与えた感銘は大きく、彼ら彼女らから、阪神淡路大震災(1995年)で浮かび上がった社会的弱者の問題への啓発を得たく、日本(神戸)招聘を試みたが、私の能力、力量を遥かに越え、私の中では頓挫した。ただ神戸の福祉団体・機関の尽力で来日が実現した。このような事情から、それがどのような波及効果をもたらしたかは詳らかではない。

Ⅲ 『ソウル日本語教育研究会』との出会いと『日韓・アジア教育文化センター』発足へ

1990年、一衣帯水の韓国・ソウルで日韓国際理解教育(或いはオープン教育)が開催された。
ここで言う国際理解教育とは、『国際理解教育事典』(1993年刊)の「国際理解教育の目的」から要約すると、「宇宙船地球号」の一員として「経済大国」の日本は、何をしなければいけないのか、どのようなパートナーシップをもって、国際意識を育成するのかをテーマとした教育なのだが、私は参加を希望し理事長の許諾を得た。
しかし、「国際(社会・人)」の意味理解が不十分だった私は(今は私なりに得心できる解釈要素はあるが)、世界の日本語教育の約40%を占める東アジア地域の中等教育機関[中学校・高等学校]で最も多い韓国の現状を、この機会に知りたく思い、韓国人日本語教師の紹介を知己の日本人教育研究者に依頼し、実現した。
そこで出会った一人が、創設間もない『ソウル日本語教育研究会』の役員で先の朴 且煥先生である。この出会いが、中国や台湾の日本語教師との出会いにつながって行く。
『日韓・アジア教育文化センター』の名称由来が理解いただけると思う。
名称決定時「教育・文化」との思いもあって、以後1994年から始めた「日韓韓日教育国際会議」「日韓アジア教育国際会議」では、2011年まで続き、広く文化視点からテーマも採り入れている。

その時、私の心底に岡倉天心の『東洋の理想』の冒頭に触れた時の興奮、また鈴木大拙の「日本的霊性」との言葉への直覚が、夢想的憧憬として非現実性を重々承知しながらも横たわっていた。
と併せて、江戸時代の朝鮮通信使一行と彼らを迎える江戸の人たちを描いた木版画に登場する、好奇心(野次馬性)と感嘆の一市井人と同様の感情。

ここであの「大東亜共栄圏」に触れておく。
「あれは当時の私たちにとっても理想だった。ただ日本は行動において大きな過ちを犯した」
これは、阪神地域の大韓民国民団の、阪神淡路大震災で心身疲弊の極に達した親交のあった或る団長の言葉である。

【余談・後日談】その1

朴 且煥先生ともう一人の先生との夕食後の言葉。「会長命令で女性[ホステス]のいる酒席への案内を言われている。いかがでしょうか。」との問いかけに私が辞退したところ、「これまでに来られた日本語教育関係日本人は、ご自身から願われる場合もあったのですが……。」と。
朴 且煥先生曰く「お断りにならなかったら、今日の交流、協働はなかったかもしれない。」
私たち相互理解の会話の唯一無二の潤滑油は酒で、その場には女性教師もいた。

Ⅳ 映像作家たちの出会い

1994年に始まった交流(国際会議)の過程の中での、若手の映像作家たちとの出会いが、或る時の会議の映像記録制作となり、それが教科書のDVD制作につながって行く。
その作家たちとの出会いを創ったのが、苦境を経て当時『新国際学校』(2001年に日本で初めて創設された、私学一条校《私立学校》とインターナショナルスクールとの協働校)と称されていた中高校在職時に出会った、インター校在籍のS君である。彼は卒業後、ニューヨークの大学で映画を学び、帰国し、東京で活動を始めていた。
更には、初期の会議での朴 且煥先生の模擬授業「歌って学ぶ日本語」の講師をしてくださった方も、先の知己の人の働き掛けで実現し、その方とは現在も交流が続いている。

【余談・後日談】その2

S君との出会いは、彼が中学3年次での日本側の国語授業への参加〔彼の父は日本人・母はイギリス人〕と、在籍の大阪インターナショナルスクール(第1言語、共通言語は英語)で実施されていたIB[国際バカロレア]教育課程での「日本語」である。
ここ数年、IB教育が一部の教育関係者で話題になることが増え、本来はフランスが出発点で、世界の多くのインターナショナルスクールで展開されているが、日本の私学一条校でも採用されつつある。
ただ、その相違については、「日本語」プログラムが或る条件のもとで実施されているとは言え、十分な検討、確認が必要であろう。尚、昨年(2017年)日本で「IB学会」が創立されている。
日本で、10数年前、「横断的総合的学習」(総合学習)が導入されたが、「ゆとり教育」総批判と歩調を合わせるように過去の遺物と化した感がる。とりわけ「横断的総合的学習」(総合学習)にはIB教育に通ずる内容もあり、小中高校一体で考えなければならないにもかかわらず、それぞれの現場任せにしての対症療法的施策には、他の施策同様、日本の限界を感ずると言えばあまりに傲慢か。

日本語教科書映像補助教材[DVD]制作

韓国では、大統領が替わる毎に、教育課程の見直しに合わせ、教科書の改訂が行われ、その都度、教科書編集と新たなDVD制作が必要になる。ただ、DVDはあくまでも補助教材であり、編集・制作の必要条件ではないので、筆者や出版社によってはないところもある。
改訂とは言え、根幹はほぼ同じで(中学校用も含め)、日本への1年間の留学生(女子生徒)を中心に、学校・ホームステイ先・街等での、様々な会話で日本語基礎習得が図られる。

以下、撮影に入るまでの経緯と私なりのコメントを記す。
撮影日数は3日~4日に凝縮して行われる。多くは11月~12月にかけて。一度だけ夏に撮影。
スタッフは、先述したS君を端緒として知り得た、映像作家、デザイナー、著述業等5人で、彼らはすべてフリーランスで活動している。

学校探し[発音の関係、東京の街であること、との希望から首都圏に限られる]

受け入れ校(撮影許可、協力校)が決まれば、3分の2が達成できた感があるほどであるが、それは言い換えれば最大の難関でもある。国際交流団体、機関に打診、依頼する方法もあるが、私自身が意思疎通に不安を持つこともあり、それは最後の最後の手段と考えている。主人公の留学生役は、許諾いただいた学校の生徒を基本に決定するが、希望者等ない場合、一度、外部機関(例えば、日本語学校等)に打診し、選出したことがある。(有償で)学校関係での撮影内容 [以下、その都度いささかの変更もあるが、基本共通事項を記す。]
そのような中、埼玉県内の公立中学校・高等学校、神奈川県内の高等学校、東京都内の私立高等学校に、知己の教員の尽力で実現した。
基本は、これまでに出会った学校関係者で、私たちの良き理解者への打診であるが、私の教職時代がすべて関西であることもあって、首都圏の場合、非常に限られて来る。

※ホームルームクラス
※職員室・図書室・保健室等
※部活動
※昼食(食堂)
※登下校

【許諾された校長からの苦労談】

○学内協力者(生徒・教職員)の決定

○交流が韓国となることでの保護者会の不一致[嫌韓・反韓感情…]

○ホストファミリイの決定(保護者会への依頼)

○教職員、保護者への周知徹底と合意形成

○学外撮影(羽田空港・浅草等都内)での引率問題

○公立校の場合、教育委員会との連絡、手続き

 

ホストファミリでの撮影内容

※父母兄弟(姉妹)との会話、また外出
※食事場面

【許諾された家庭の苦労談】

○父母の出演[不可の場合、学校教師も含め外部者に出演依頼した
ことがある]

○食事等での材料また出前等調達
[ほとんどの場合、私たちが事前に購入準備]

○韓国側の希望部屋への対応[時には若干の模様替え。
もしくは学校内の和室等を代用]

 

街中での撮影内容

※祭りと露天(夏祭り、たこ焼き等)
※食事(お好み焼き、カレー等)
※部活動試合
※見物(浅草、スカイツリー等)
※空港での送迎

【スタッフの苦労談】

○事前場所確認と場合によっては事前予約

○撮影の際の関係者以外の人々への細心の注意と配慮

○時期外れ(部活動試合、祭り、露天〈金魚すくい等〉)の場合の写真
との合成作業
[金魚すくいの場合、スタッフが金魚卸店を事前に見つけ、そこで
撮影(冬期)]

○撮影器具等の管理と運搬

 

《撮影終了後の韓国・出版社との編集作業に関して》
これは、上記スタッフの監督が中心となって行うが、韓国の「直近文化」(これはこれまでの経験で、何事も直前に怒涛のごとく行動するのが韓国国民性と思える、私の勝手な表現)と日本的慎重さと締切の問題から、なかなか微妙な問題を抱えることになる。
経費問題
これまで為し得たのは、先述のスタッフ5人の理解と献身、そして出演等、時に無償で、受け容れて下さった方々の協力以外何ものでもない。

日本円と韓国ウオンの交換比率が概ね1:10の経済事情、及び教科書出版会社[韓国]の予算構成から、制作費は出版社予算と日本の一般的予算はほぼ1:2で、妥協点をどこに求めるかが、現実的なもう一つの大きな課題となる。

撮影は数日の限られた時間だが、その瞬時々々の何と濃密なことか。終了したときの安堵と喜びと疲労がそれを証している。
私の役目は、無事故で終わるよう遠目から見守ること、休憩時、昼食時に買い出しに行ったり、会計をすること、そしてロケ隊が出掛けたとき荷物の見張り番留守番役といったところだろうか。
私の到らなさからの関係者への失礼、失態は察して余りある。
一方、
出演を承諾した生徒たちの活き活きした表情。監督・スタッフの指示を聞き、心から楽しむ姿。DVDを見聞きしはしゃぐ韓国の高校生の姿が眼に浮かぶ。無意識の国際交流の実践。

或る協力校で教員が言った「この子たちは褒められたことがないんです」との言葉の重たさ。

出演した高校3年生の或る生徒が言った「まだ将来の見通しが立たない」との言葉の重たさ。

協力くださった学校関係者、それ以外の方々への深い感謝は、あらためてここでことさら言葉に表すまでもないだろう。
私の教師時代とそれ以降の私を、幾多の様々な貌(すがた)を思い浮かべ静かに省みる時間を持てる幸い。

ありがとうございました。

 

DVD内容のリンク先   https://vimeo.com/255377059/ca13e62d62