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2013年12月3日

亡き娘が敬愛した三人の日本人男性―元中高校教師であり父親である私が教えられたこと― [Ⅰ]敬愛した三人と私への感化

井嶋 悠

私の娘が、2012年(昨年)4月、7年間(源流までさかのぼれば中学2年からの10年間)の心身悪戦苦闘の末、23歳で「憂き世」を去ったことは、このブログに少し前、教師の傲慢と娘の死の経緯を書いたので省略するが、

根なし草人生を歩んでいながらも、高校時代の恩師やその後の幾人かの人々の厚情に恵まれ、20代後半になって正職(それもあろうことか教職!しかも名門女子中高校!)に就いた私。

そんな引け目もあって、奇妙な屁理屈による感覚的肉体派(要は女子サッカー部顧問等)国語科教師を、一部知性派!?同僚からの蔑みを感じつつも、自認居直り?し職務に励んではいた。

そこには、私を認めてくれる教職員、生徒、保護者があってのことなのだが、やはり負い目は払拭しがたく、一時期専門書購入に励み“積ん読”に勤しんでいた。

その後も、言葉、体よく言えば波瀾万丈の私だったから、心留めてくださる人々の言葉は、より染み入ることが多く(にもかかわらず、その時々で感謝の言葉が言えない自分がいて)、中でも44歳の時に授かった長女、彼女が17歳(さかのぼれば14歳)からの苦闘時代に入ってからはなおのこと、実に多くのことを教えられた。

と、娘亡き後2年目の12月、経過が時に感傷を誘引することもあるが、その時間を振り返っている。

その一つが、彼女が敬愛した三人の日本人男性、昭和天皇・石原 莞爾・三島 由紀夫についてであり、それを介しての私の自照自省である。

そこには、三人を通しての現代日本への彼女の警世の念が強くあってのことで、
太平洋戦争を経た昭和天皇の実在が、象徴としての天皇についてこの混濁した現代日本にいかに重い意味を持つか、とか、

石原莞爾の『世界最終戦論』に見る彼の慧眼とか、

三島由紀夫の1970年の自決を今考える意義とかである。

彼女は自身の勉強未だ途上の恥じらいから、それらについて私にぼそぼそと断続的に語るのである。

それを、例えばプレゼンテーションでのアメリカ式が全盛にして最善とされる現代日本にあって、心身ついて行けない私は、心静かに聞き、含羞という美しい言葉をふと思い出したりする。

古来、表現について、数学用語を使って「帰納型」と「演繹型」が国語科教育で教えられ、今日圧倒的に演繹型が賞讃喧伝される傾向にある。

しかし、何事も一長一短、相対的、使う個人の性向に合わせてこそ表現は生きて伝わる、と思うのは、現代日本周回遅れの生き方(=非・現代人)なのだろうか。

(私が触れた専門家の言説によれば、演繹型はアメリカ系で、帰納型は日本系、イギリス系とのこと。私の職場経験からは、この指摘に得心している。)

その私を娘が相手にしたのは、心身悪戦苦闘から、外との交流を時に恐怖し、時に偏執的になっていたこともあり、直接に語り合える同世代、同志がいなかったからなのだが、
無知がゆえに興味深く聴く私の反応が、母親の無関心無反応と違って、伝え教えることで知的好奇心を一層刺激したのかもしれない。

生徒あっての教師であり、生徒が教師を育てる、である。

 

このへん、先の彼女の父母への対応と合わせて、学校教育(それも12歳前後から18歳前後までの中等学校教育)での、父性と母性の、その両性についてはとりあえず西洋のそれに準じている、在りようともつながっているように思えるが、どうであろうか。

このことは、私の経験から言えば、日本の中等教育段階では母性と男性教員の母性化が、その善悪は今措いて、主流のように思えるし、高校卒業後での彼ら/彼女らの違和感に、そのことも関係しているのでは、と思ったりする。
と言うのも、少なくとも高校卒業後は、どのような進路であれ父性重視が世間で、衆知一致しているのが現実ではないかと思うからである。

余生の時間はあまりない(と思う)が、確認したいとも思う。

彼女が、三人を語るとき、そこには日本文化独善発想はない
語り方同様、謙虚なのだ。「日韓・アジア教育文化センター」の良き理解者であり協働者だから当然とはいえ、旧態然とした右翼、左翼の概念的区分けなどないのだ。白紙から出発している。
そこにも教師の独善、思い込み、概念性への憤り、経験からの彼女の警鐘があるように思える。

それが言える一つとして、彼女の死に際して韓国の、中国の、彼女を知る大人(日本語教師)が自然体で示された濃やかな情の発露、更にはわざわざ日本に弔いに来られたという事実がある。

私は彼女に導かれて、

『畏るべき昭和天皇』という松本健一氏(氏と娘は、私の小学校時代からの友人の仲介で、一度、都内で面会した。その時の、彼女の極度の緊張と松本氏の柔和な微笑みと口調の時空は、春の陽光そのものであった。)の著書に感動し、

東京裁判関連での石原莞爾の毅然とした態度や、辞世の歌で、己が責任を語ることなく、西方浄土に行ける喜びを歌う権力志向権威主義者を象徴するかのような独善、無責任者東条英機への侮蔑に、男気とでも言える爽快さを思い、

当時市ヶ谷駐屯地で、三島由紀夫の檄を聞いていた若い自衛官が定年を迎え、彼の言葉に一筋の真実を直覚する言説に触れ、

元ノンポリ全共闘共感者(シンパ)の一人であったボウフラ的私を思い起こし、その後の、或いは現在の人生をなぞったりするのである。

ところで、強い後悔で心に沈んでいることがある。

東京裁判で東条英機らと同じA級戦犯となった、広田弘毅と松井岩根の二人について彼女が話した時、彼女は遠くを見つめ、静かに「凄い人だった」と言っただけであった。
何が、どうしてなど聞けない空気がそこにあった。しかし、それは生徒としては言い訳に過ぎない。

彼女は、人と言葉のことに思い及ぼしていたのかもしれない。後に、唐木順三の『自殺について』を読み、確信的にそう思う。

再会で聞きたい重要事項の一つである。

それらの時間と併行し、私たち夫婦が暗黙のうちに最悪を意識し始めるほどに、彼女の心身は摩滅していたのであるが、彼女の語りに、翳りとか暗さがあったわけではない。

例えば、映画『太陽』(アレクサンドル ソクーロフ監督・2005年の、ロシア、イタリア、フランス、スイス合作。アメリカと日本の名前がないことに邪推を働かせてしまう。昭和天皇を演じたのはイッセー尾形氏である。)の、1シーン、昭和天皇とハーシーチョコレートの場面を、

石原莞爾がドイツ研鑽中、ライカカメラで美女を中心に写真撮影に陶酔していたことや指揮者小沢征爾氏の名・征爾の由来を、

に異常な恐怖的反応をしていた三島由紀のことを、映画『憂国』(1965年三島由紀夫制作、監督、脚本、主演)を私が以前見ていて自分が未だ見ていない残念さを、

彼女は、実に活き活きと心の躍動そのままの愉快な響きで語るのだった。