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2013年12月31日

日韓・アジア教育文化センターの祖・河野(こうの) 申之(のぶゆき)先生が、11月に還浄(げんじょう)される ―2013年の終わりに―

井嶋 悠

河野先生は、学校法人の理事長であり、仏教者(浄土真宗)にして教育者として学内外広く敬愛されていた。それは、先生の人品、そこから醸し出される風貌が、証しとして輝いていた。そのことから法人葬の案内では、逝去と言わず還浄(浄土に還る)と表わされている。90歳だった。

昨年、娘が旅立ったとき、或るキリスト教思想研究者が私に言われた言葉が甦る。

「お嬢さんは、お嬢さんをこの世に遣わした神が、もう帰って来ていいよ、と戻されたのです。」

それを聞いたとき、私はキリスト教受洗者でも仏教帰依者でもないが、一条の光明を見た。

仏教とキリスト教の通底を思う。

もっとも、娘のそれはあまりにも早過ぎないか、ましてや親より先に、とのこの世の世俗人らしい恨みはあったし、今もあることはあるが・・・。
しかし、そこに天の道理・天意を思ったりするのも、私の宗教への自然な近づきなのかもしれない。

私は、27歳で、先のブログに書いた高校時代の“怪人”国語科教師の配慮で正業[中高校国語科教師]に就き、59歳で退職するまで、3度学校現場を変えた。すべて私立中高校である。
1度目は17年間勤め自身の限界と浪漫からの冒険心で。
2度目は2年して、3度目(最後)は10年して、いずれも、狭小にして自己絶対、己が意に沿わぬ者はあの手この手で排斥する権威主義者で権勢慾者にもかかわらず自由と革新と教育への情熱を標榜する、私の価値観からすれば許容しがたい校長との軋轢、不信から、言わば〝敵前逃亡“? 先方にすれば我が意を得たり? での退職である。

妻と二人の子どもの狼狽、唖然、しかし合意と共感と献身があって、今私はここに在る。
その一人が、7年間の自身の労苦を彼方に置いて本センターを支えた娘であった。
私の中を駆け巡る感謝と自責と不遜と寂寥と空虚と永遠と・・・。

その2度目の時の理事長が河野先生だった。

先生に近しい人から当時聞いた先生評「なかなかしたたかな狸親爺」
幾つかの場面から、狐ではないそれに納得する私はいたが、私の直感は最後まで冒頭に記した信頼であった。

現実の体制・機構内にあって徒労であることを承知しながらの何度かの理事長直訴は、予想通り功を奏せず退職したが、なぜか、理事長の配慮から学園内での二つの非常勤勤務を与えられ、と併行して状況を理解くださった方々の労により三つの非常勤職務で、家族の糊口をしのいだ。

ただ、この2年間と、その後のあり得ない幸いで得た、日本で初めてのインターナショナルスクールとの協働校での最後の10年間の、12年間に実践した国語教育と日本語教育は、それまでの20年間を土台にした発展として、私への活きた財産となり、今日の私の言葉、価値観の骨格を形作っている。
河野先生はなぜ私にそのような場を与えたのか。

二つの先生評は、それぞれに私の中で説明はつくのだが、晩年のご自宅での闘病時代に私だけ許されて伺うことができたこと、また直接に、行間に発せられた私への謝意からも、そして帰宅後の私の訪問記を聞いていた直感力の鋭い娘の感想からも、やはり冒頭の評として先生は私にあり、その以心伝心からだ、と懲りない不遜を承知で思う。

その浪人時代の2年目。古い木造校舎の狭い理事長室での一事、それが、すべての始まりとなった。

当時、日韓で国際理解教育の合同研究会が開催される旨聞きつけ、自費で参加した。
私の初めての韓国訪問である。
もとよりその領域に造詣があるわけでもなく、要は単に好奇心からで、しかしだからこそ研究会だけの参加はもったいなく、或る旧知の日本語教育研究者に依頼し、ソウルで出会ったのが、ソウル日本語教育研究会の会長と役員2人であった。

帰国後、そのときの酒席と意気投合の顛末と日韓交流の提案を理事長に話した。
無言で聞いていた理事長は、衝立の後ろに行き、2,3分何かごそごそされ、「これを使いなさい」と言って差し出されたのが100万円だった。

そして実現したのが、翌1994年、神戸での第1回日韓韓日教育国際会議である。
その時の、理事長の、少年時代を過ごした戦時下の広島での、在日韓国人少年との出会いと別れの話は、そこに参加した日韓の人々の心に、どれほど静かに深く染み入ったことであろう。

その後、中国・台湾の参加も得て、誤解や行き違い、思わぬ疑問、不信等々紆余曲折があったとは言え、幾つの機関、さまざまな人々の支援を得て、現在の活動に到っている。
いろいろと批判する人々は世の常ながら、今、少ないながらも共鳴者、賞讃者を持つ幸いにある。

詳しくは、ホームページを見て下さることで、それぞれの批評をいただけることを願っています。
すべては結果からの話、と合理的に断ずる人は多いと思う。
しかし、私はそこに不可思議な、人との出会い、人智を越えたその後の生、そこに天の導き、采配、天意を思わずにはおれない。
その時、娘の死はどういう天の導きなのか、死への経緯から或る一端を自身に言い聞かせながらも、まだまだ整理できていない私がそこにあるが。

それでも、天意の中でこその、人為の素晴らしさを讃美し、時に絶望し、しかし同時に、謙虚さを自覚する人としての存在を改めて思う。
人々との、生物との、それら一切合財含めた自然との、自然での共生。

この恐るべき速度で進む「文明」化と言葉(論理)化を善しとし先行させる現代にあって、感性の再自覚、再練磨の必要を、ささやかな私的経験から“直感”する。
その時、旧世代?の、それも50年60年またそれ以上の人生時間を経て来た人々が意図的に使う「直覚」という言葉の重さに思い到る。

幼い子や動物は、優しさを直感し、直覚するではないか。
競争はそれがあってのことではないか。

日本は、欲望を手中にしてこそ欲望に()てる、勝つことがすべてであり勝てばいい、の競争にますます堕しつつあるように思えてならない、
との直覚は、多数の?日本人老若からすれば、人生時間はまあまあ足りながら人品足らず、ということなのだろうか。
或いは、どの過去を良いとするかの、良い過去などない・なかった、とのいずれの定見もなく、加齢による感傷に溺れる初老の懐古趣味に過ぎないのだろうか。

ただ、経験上言えることは、そして歴史が証明しているように、学校社会は現実社会を映し出す鏡であり、縮図であり、その逆はまずなく、学校への期待、批判は、社会への期待、批判であって、学校社会だけに是非を言うのは、空疎で、あまりに概念的で、学校社会をますます遊離した世界と化してしまう恐れがある。
学校に注文を付けるなら、そこにつながる社会構造を変革しない限り、世に言う対症療法に過ぎない。しないよりはましで、何年か経てばほぼ同様のことが繰り返される。その学校社会は公私立関係なく、多くは閉鎖的で権威的である。

上記私の日本社会への非生産的で消極的感慨は、この体験からの実感で、同時に私の社会観が、現代日本の現実と乖離した私の限界の証しなのかもしれない・・・。

河野先生

本来の菩薩に還られ、今度は天上から、あの慈愛溢れる眼差しで、私たち日韓・アジア教育文化センターをお導きください。

ありがとうございました。