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2014年5月24日

「私」の、自然な老い大願成就・・・・―最後?の「私」を求めて―  [2]老いの中で甦る二人の面影の  もう一人

井嶋 悠

私を教師人生に導いた高校時代の「恩師」に見る「かなしみ」

その先生を「恩師」と自覚したのは、その先生が、深夜、自宅から遠く離れた路上に倒れ、某宗教団体が運営する救済病院で、独り最期を迎えられたその夜、お母上から連絡を受け、自宅に伺った時かもしれない。

先生は、閑静な住宅地の、旧家の家柄と言われるに相応しい古いお宅の和室で、その和室こそ先生と私の摩訶不思議な“師弟”の対話の場所であったのだが、50年間の人生に別れを告げた寂滅の静けさの中に在った。薄っすらと眼を開けて。まるでまどろんでおられるように。

老母は(お父上は、私が先生と出会った時にはすでに故人であった)、一人息子である先生とのそれまでの、とりわけ後半生での憂悶(先生の、破天荒な教師時代、結婚そして離婚、小学生の娘との惜別、アルコール依存と家庭内騒動……)を凝縮させ濾過させたかのような、静かな涙声で私に言われた。

「見てください。生きているようでしょう。」

死は明らかに憂苦を洗い出し、先生を絶対平安に昇らせていた。

その時、高校時代の出会いに始まる15年ほどの時間が、前後脈絡なく通り過ぎ、「ああ、先生は、やはり恩師なんだ」と。
私は中高校教師になって数年の30代半ば、その教師に、そして59歳までの33年間の、自他誰も考えなかった教師人生に私を導いたのが、その先生だった。

私が、放縦な、しかし人々の不思議な出会いと別れを経た東京生活に終止符を打った顛末は、前回記した。28歳の時、40年前のことである。

天意は何をもって私を教師に向かわせたのか、それが確認できるのは娘との再会の時なのだが、ただただ吃驚(びっくり)仰天、“先生”(中高校国語科教師)就任への号令を下したのがその先生だった。


今、思う、何という皮肉、残酷。

14歳の娘に酷い(むご)仕打ちを、
(その事実を私たちに話したのは、死を迎える1年前であり、それも私の性格[激情、短気]を知っているため、先ず母親に、でその後である)、
娘自身が良かれと選んだ高校で失望と裏切りを、
(その高校は1年の途中で退学、他校に転校。因みに退学届を出す際には、理由は「進路変更のため」と書くように学校から指示を受ける)、
独善とそこからの権威をもって一切の非を娘と家庭の問題に収斂し、娘が7年間の心身の葛藤の末、哀しみと疲れに打ちのめされ23歳の2012年昇天する、そのきっかけを作った教師たちと、私は33年間同業であったのだ。

言うまでもない蛇足ながら、すべの教師がそうであろうはずもない。
しかし、娘を“正義派”よろしく、或いは権威的「自己愛」で、他生徒を、同僚を引き込み、切って捨てたような教師が存在することは、私の直接間接の学校世界での経験上(私の場合私立であるが、公立も大同小異である)から明らかである。

そのことの抉(えぐ)り出しなしに学校教育を、社会と学校を論ずることの虚しさと愚かさを、己が死あってこその自省であることを承知しながらも思う。

これらについては、昨年も記したので繰り返さないことが礼儀かと思うが、これが「ブログ」という、社会に発信すること、そしてひょっとして共感者を見出し得ることへの期待を、意図しているので、敢えて二つ記す。

先ず、天上天下、一切、教師という1人間にそのような分限を与えていないということ。
そして、
広島・長崎で被爆された方々への無礼を承知で、
私の父が生まれ育った郷土・京都から海軍軍医として長崎に赴任し爆者の治療にあたったこと、私が、8月9日の2週間後、1945年(昭和20年)8月23日、その長崎市郊外で出生した、という事実に免じて許容くださることを願い、
広島で被爆し、その6年後1951年、鉄路を枕に孤独と無口の一生を自死で終えた、原 民喜の言葉を、娘への私の思いと重ねて引用する。

「…僕は弱い、僕は弱い、僕は弱いという声がするようだ。今も僕のなかで、その声が……。自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためだけに生きよ。僕のなかでまたもう一つの声が聞こえてくる。」(『鎮魂歌』1949年)

その私は、もっと弱く、脆く(もろく)、軽薄短小の駄弁屋で、今年69歳を迎える。
東京から帰宅して2か月ほど経った8月の或る夜の電話。
「何をしてる?」「特に・・・・・。」「何っ!履歴書を用意し、○○(女子)中高校の国語科主任に電話し、行け。」「はい。」

翌日、会ったことのない教科主任に連絡し、その翌日、行ったことのないその学校に行ったのは、夏の陽射しがさんさんと降り注ぐ8月末だった。

裏門(学校関係者間の呼称は北門)から、200メートル程、樹々に包まれきらびやかな木洩れ陽を浴びて小道を上って行くと、突然、自然をひたすらに慈しむ人によって手入れされたことが見て取れる、艶やかな芝生のグランドが飛び込んできた。
そのグランドを取り囲むように、石造りの歴史漂う校舎、くすんだ柿色を基調とした体育館、テニスコート数面、そして10畳ほどの煉瓦敷きを覆う藤棚とその後景の講堂と礼拝堂・・・。地名は「岡田山」。
途方もない世界。

その世界に、9月から翌年の3月までの半年間の非常勤講師として勤務することに。
それが、1年延び、また1年延び、その年、教科内の予期せぬ事態から何と専任教員に。
17年在職し、冒険?と浪漫?から新たな職場へ。その後の波瀾万丈?顛末はここでは割愛する。

先生が、初登壇の私に与えた教師心得が二つあった。
この二つは、教師生活を終えるまで折々に心に蘇り、時に私を叱咤激励することとなる。

一つは、授業の終わりに3分の1がお前を観ていたら大正解と思え。

一つは、授業は廊下側の席を見て始めよ、終わりごろには自然に眼は窓側に行き、全体を万遍なく観たこととなる。逆はない。人は太陽あっての昼行性の動物だ。

前者の、為し得た実感は33年間で数えるほどしかなく、それも大半は教師生活晩年で、同様に後者も時間配分と併せて意図的に且つ自然態でできるようになったのは教師生活最晩年のことである。
先生は、ただただ私たち生徒にとって怖い先生であった。
教科は国語。それもほとんど古典(古文・漢文)。
剣道4段とかで、常に剣を構える、そんな姿勢で、左手に教科書と出席簿、右手には30センチほどの細い竹棒(指示棒兼仕置き棒?!)を持ち、能楽で鍛えた響き渡る声調で講義する。
威厳? そうとも言えるが、とにかく近づきたくない怖さ、と同時に軽々に近づくなっ的風(ふう)を漂わせている。
そこは、今風の教師は生徒への、生徒は教師への、あたかも土足で心に入り込むことを親愛とするかのようなそれではない、それぞれは別世界に在るとの“一線”が生きていた時代の、某国立大学附属高校である。
私は劣等生。
いわんや先生の授業ともなれば、うつむき、黙し、指名されればしどろもどろに応え……。
先生は、1か月に一回くらい、ほとんど唐突に「太宰の墓の前で田中英光はこうやって割腹自殺をしたんじゃ」としぐさする。
当時、太宰治の『晩年』の中の作品『魚服記』に打ちのめされていた私は、その時だけは先生に視線を注いでいたが。

以心伝心!!??
いつしか先生の私への視線が、指名が、増え始め、夏の補習時などでは「井嶋っ!ここに座れ」と最前列の中央に座らされる。

こんなことがあった。
先生が欠勤した時のこと。わら半紙が渡され、要は自由作文の時間。
私以外すべて!?は青春の苦悩を書くのだが、私にそんな高尚さはなく、書いたことは「私はSLの機関士になりたい」。
そして次の時間、先生は私の作文を読み上げることとなる。
私が教師になって思うに、これがその後の、ことある毎に発せられる好意的な「井嶋っ!」のきっかけとなったのではないか、と思えてならない。
更には卒業後に別の先生から聞いた話。
理由がよく分からないのだが(生理的に嫌いということだったのか?)、私に叱声と退室命令を繰り返していた教師(男性)があり、その教師が職員会議で行なった井嶋強制退学提案を阻止したのは、その先生であった、と。
かくして卒業。一浪後、大学へ。
先生は、公立高校に異動。
私個人の葛藤期もあって、2年余りを経て、ご自宅を訪問し、交流が再開される。あの和室で。
先生は万年床に坐し、横に一升瓶を置き、人生の、文学の、といった訪問主目的の話の前に、私は先ずコップ酒をあおらなければならない。断ると会話を始めてもらえないのだ。
話しの合間でのトランプでの「おいちょかぶ」合戦。はたまた競馬論議の拝聴。やがて話題はそちらを駆け巡る。

2か月に1回ほどの例会?
縁あって結婚され、お子さん(女子)が生まれる。しかし安穏な生活も数年。先生の酒量は、ますます増え、痩せ、青ざめた顔、家庭内騒動の日々。老母の苦悶と哀しみ。そして離婚。
先生は、春・夏・冬の長期休みでの入院生活を繰り返し、その都度、買い出しも含め、私が身の回りを世話することになる。時には無理難題を言われ、難渋することも。
病名は聞かなかったが、アルコール依存等からの内臓疾患であろう。
休みが終われば帰宅し、職に復されるのだが、言行が不安定になって行くのが明らかで、とは言え聞く耳持たれず。
或る時、あの和室で、こんなことを言われた。
「高校に、おさげを二つに分け、後ろを輪ゴムで止めている子(女子生徒)がいるんだ。可愛いなあ。」
その時の、先生の、にこやかな自然態での、さびしげな口調、虚ろな眼差しが、今も輪ゴムと言う言葉とともに私の心に突き刺さっていて、生涯忘れ得ない言葉の一つである。
大学3年次での古事記のゼミ発表で、配布用プリントのために先生の勤務校の輪転機を使わせてもらったり、とか私たちの例会は続いた。
やがて、私はほとんど通学実績がないにもかかわらず、大学院進み、何と、その夏には、先生の勤務校の夏休み補習に非常勤講師に呼んでくださった。

しかし、時は、大学闘争(一般用語では紛争)の最中の1969年。
大学は学生たちによって封鎖され、学内外でのデモが繰り返され、教授たちは学生への支持、不支持に分かれ、学内での右翼学生と左翼学生の対立や左翼間の争いは日常化し、時に機動隊が常駐的に居、険悪な、にもかかわらずどこか活気さも感じさせ、“ノンポリ”また無関心派を含め学生たちは、己が人生を思い考え、一日一日を過ごしていた。
共感者との意味でのノンポリの私も。
1年で中退。上京。その東京生活が前回の寄稿である。

そして先生との再会が、先に書いた先生の電話である。

私の身勝手、薄情を苛み(さいなみ)、自身を叱責するが、いつしか時に流されて行く……。
そんな私ながらも、間欠泉のように生の哀しみ、儚さ(はかなさ)、また生死一如が噴き上がる。

東京で出会った彼、恩師、娘、また妹(37歳、癌で死去)、父母、すべては天上に在る。

私は、紆余曲折(と言っても、私が独りよがりで曲折を作っただけで、窮地その時々に、家族をはじめ実に多くの人々が、直接に間接に道の修正と誘導をしてくださっての現在で)を経て、妻の英断で、7年前に、関西から700キロ離れた、この自然の彩りと営みが当たり前にあり、農業と牧畜と温泉が主産業の豊饒な高原地に、家族共々移住して今日在る。
一言追記すると、都市と地方の格差、価値観、意識の差別的画一化に実感させられている。
娘たちの遺骨が納められている井嶋の菩提寺は京都。妻の故郷であり、私の卒業小学校があり、何人かの友人の居る東京まで150キロ。日々の会話は妻と愛犬と自然以外ほとんどない。(長男は私たちの移住とほぼ同時期に社会人となり独立)

豊潤な生・日々への感謝、心身一体で自覚する孤独の喜悦と憂愁そして自覚、昇華。

先生の分、娘の分、妹の分も併せて、もう少し生きたいと新たな勝手を重ねて思う。
天意はどうなのだろう?

2011の、日本が自然災害国であることを再認識させた東日本大震災も、日本と文明を激しく再考させた福島原発事故も、2012の娘の死も、その間のことである。
日本の古典から「かなし」は「愛し」であることを学んだ。
私は、東西を超えて、三つの「かなし(み)《哀・悲・愛》」こそが、生の憂楽の真髄(エッセンス)ではないか、と2,3年前から強く思うようになっている。

そんな私は、日本の風土と歴史から、その文化・文明また美の根っ子に在る感性は、この三つの心なのではないか現代日本からそれらが確実に消え去りつつあるのではないか、と思うに到っている。

何となれば、その眼差しで現代日本を、例えば著名な有識者(知識人)の「反文明的な発言が知的であるような風潮」を切って捨てた言葉とは逆の価値観、で観てみると、私の中で現代日本が整理され、更には次代日本の在りようが構想されて来るのだが。