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2013年11月30日

「上海たより」寄稿の井上邦久さんの人生 ―若い人たちへの、そして私自身へのメッセージとして―

 井嶋 悠

【まえがき―井上氏の58年間を聞く前に―】(井嶋)

私がいたく得心した言葉に「人生は人生論ではない。一見あたり前のことではあるが。」と言うのがあります。詩人の谷川 俊太郎さんの言葉です。

そして、私は随分昔に知った「一切の例外なく人は自身の人生を描けば芸術となる。」と重ねています。

しかし実際はどうでしょうか。

情報社会の証しなのでしょうか、論が先行しているように思えてなりません。日本も「初めに言葉[論理:ここではキリスト教の神の言葉]ありき」なのでしょうか。

不思議で寂しいことです。しかし、言葉なくしては人と人の間は埋まりません。しかし、です。・・・・・・・・・・・・・・・。

それはさておき、古今東西、谷川さんの言葉は真理です。

曰く「経験ある者は、学問ある者より優れている」〈スイス〉

「多く旅した人は、多くのことを経験している」〈中国〉

「経験は長い道であり、貴重な学校だ」〈ドイツ〉

68歳とは言え、私はこういった言葉を支えにもう少し生きたいと思っている一人ですが、このサイトに投稿下さっている駐上海の商社マン井上邦久さんが、先日母校の大学でご自身の58年間の人生を顧み話す機会を持たれ、その文章を発表され、送ってくださいました。

東日本大震災の風化が、ますます懸念され、しかしその分、日本社会の、私たち日本人の歪み、焦燥、不安が露わになって来ています今、井上さんの、人生「論」でなく、少年時代からの夢を叶えられ、日中の架け橋として日々刻々数十年歩まれている人生は、それぞれに思い・志しを醸成し未来に向かおうとされている若い人たちに、更には私のように今もって「後悔先に立たず」を引きずっている高齢者に示唆することが多いかと思い、氏の了解を得て、ここに掲載することにしました。

尚、氏は俳句をたしなまれます。

      【本文】            井上 邦久

○あの日から 胸の振り子は 朱夏を指し

「あの日」と言えば、多くの人が時間軸を揃えてくれる日があります。十年前の九月十一日がそうでした。その前は、日本の一番長い八月十五日でしょうか。今回の「あの日」からのアフターショック(余震に加えて、精神的社会的な衝撃)が続く四月半ば、開講八十五周年記念・中文同窓会で、おこがましくも卒業生代表として、お話しをする機会を頂きました。

○雀鮨 丸い話を 角張らせ

あとから思えば、高度成長の時代に取り残されていたような故郷の大分県中津市から、逃げ出すように山口県徳山市へ移住したのが小学四年生の終わり。その地に大陸から届く北京放送を聴き始めた早熟の中学生時代。万博景気に沸く大阪に再転居した後、父妹の病や離散という流れのなかで、精神的にも経済的にも衰弱した、高校時代のBGMはカルメン・マキや藤圭子の退嬰的な唄でした。そんな黒い緞帳に塞がれた処に、一条の光のように「中国」が現れました。漢和辞典を愛読書とするだけでなく、現代中国に接したいと思うようになった頃、NHK中国語講座を知りました。画面から伝わる高維先先生の温顔と中国語の音の響きにすっかり魅了されました。そして翌春の受験に繋がりました。

○「しかし、それだけではない」と鳩は呟い

柳本の農家に下宿し(三畳で三千円)、古墳群や二上山を見ながらサイクリング気分で通学。また馬術部厩舎に泊り込み、早朝の草刈餌作りをしてから教室へという日もありました。馬の臭いでクラス仲間の顰蹙も買いましたが、真面目に予習復習を欠かさない新入学生でもありました。高先生に直接教わることは嬉しくて仕方のないことでした。桑山龍平先生と塚本照和先生には文学の手ほどきをして頂きました。後に着任された中井英基先生には、日本と中国との歴史について眼を開かせて頂きました。同級の下村作次郎さんからは、自主文学ゼミの仲間として啓発を受け、中嶌和人さんや曹正幸さんとは同人誌『向日葵』を立上げ、社会学・政治学の初歩から勉強しました。また大阪でのアジア市民講座などに出掛けて、リアルな中国への視界を広げていきました。その頃に知り合った先達のなかには、荒川清秀さん(愛知大学教授。NHK中国語講師などを歴任)、坂口勝春さん(アジアセンター21の事務局長として、アジア図書館設立を目標に粘り強く活動中)がいます。そんな大学内外の恩師学友先輩たちの指導や啓発のお陰で、中国を専攻することへの自覚が強くなっていきました。

○毛語録 十九の春の 大博打

一九七一年初め、関西学生友好訪中団に中嶌さんとともに加えて貰うことになり、一ヶ月間の中国訪問の運びとなりました。国交正常化前でもあり、噂を聞いた公安警察から「どうしても行くならブラックリストに載せて、就職できなくさせる」といった圧力が掛かるような時代でした。香港から国境の橋を歩いて渡って深圳へ。当時の深圳駅前は水田で、農耕用の水牛がいたことを憶えています。広州、長沙、南昌、上海、南京そして北京へ、全て汽車の旅。三月三日、人民大会堂に急遽連れて行かれました。周恩来首相や郭沫若氏との延々六時間の交流は、とんでもないオマケでした。更に、二十万円の旅費工面に苦労している貧乏学生の為に、中国国内分の費用免除をしてくれるというお土産付きでした。新卒初任給が五万円前後の時代のことです。

○馴れ狎れず 慣れて努めた 春もあり 

翌年の国交正常化後、にわかに起こった中国ブームの雰囲気のなか、「先見の明」があったと褒めてくれる人がにわかに増えました。しかし、その声も空疎に聞こえるなか、それ以前から志望していた日中友好商社に就職しました。爾来三十七年、経営危機は一再ならず、人員削減も度々ありました。ただ、中国貿易部門は生き残り、会社全体もこの数年来堅実に成長をしています。営業部配属当初は、まさに通訳技能だけを期待され、自主的に業務を会得するしかない修行時代でした。次に担当業務を引継ぐだけでなく、新たな開発をしていくことで、ウイングを広げる努力を続けました。欧米中心のライフサイエンス事業や中南米と中国を繋ぐ機械事業を立ち上げた頃には、「彼は中国語ができる」というだけの見方から、「中国語もできるのか」という普通の評価に変化してきたようです。

○空を飛ぶ 遣唐使われ クールビズ

現在は、中国総代表として日中往還を繰り返しています。上海を根城に、大連から香港・台北まで、中国圏の16拠点を飛び回りながら、二〇〇人余りの仲間と汗を流しています。北京での「あの日」からちょうど四十年目の今年の三月三日、上海で会議がありました。日中各十名の元気なマネージャー達を前にして、自分は確かに、日中最前線の一点に居るのだなあ、という感慨とともに、自問自答もしました。

高老師や諸先生方からの学恩に、僅かなりとも報えているかな?「あの日」の周恩来首相に受けた借りは返せたかな?

○真水もて 熱帯魚飼う セオリスト

   おのれの次に 中国を愛して(岡井隆)

この四十年、濃淡はあっても何らかの形で日本と中国のことを考える毎日でした。自らにとっては変化や、ましてや進歩もなく過ごした年月のようにも感じます。
しかし、その間に世界の枠組みや思考は随分変わりました。とりわけ、中国は経済的に肥大し、社会も変貌を遂げたと思います。
反面において、従来からの意識構造や政治体制は存外に根強く残っているように感じます。
この中国の「不易と流行」のようなものを、中国に暮らし、中国人と接する生活体験の中から抽出し、出来るだけの咀嚼を試みながら、『上海たより』と称する雑感文を綴っています。
日本と中国との間には、まだまだやるべきことは山積みしております。個人の力は小さいけれど、個人から動かないと何も始まらない、と自らを励ます毎日です。