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2022年4月16日

多余的話(2022年4月)  『社区』

井上 邦久

「テーマが多ければ多く書き、少なければ少なく書き、書くことが無ければ書かない、私はこれを誠実に守っていく宗旨とする。」

これは1961年10月30日、毛沢東によって『人民日報』社長に棚上げされた鄧拓(筆名:馬南邨)が『燕山夜話』第二集出版の巻頭に寄せた短文の一節です。夕刊紙『北京晩報』のコラムが好評で出版を重ねていた時期のことです。

米寿祝いのスタジアムジャンパーがお似合いの北基行先生から長年講読指導を受けています。講読会の現代文テキストに『燕山夜話』を毎月一話読み繋いで今月で67話目、と言うことは已に5年余りが過ぎたことになります。講読会の母体として先行してきた華人研は感染症のため休会が続きましたが。その間も講読会は継続しつつ、『燕山夜話』の第1集第1話からの原文・北先生の訳文・関係する画像・時代背景などの「ひとそえ」を華人研のHPwww.kajinken.jpに月二回連載し、二つの会の安否確認のように発信してきました。

 3月から華人研も定員制限や予防対策を遵守した上で再開できました。2年ぶりの再開は崑劇女優・崑劇研究家の登壇のお蔭で盛況でした。4月は奇しくも崑劇のふるさと崑山市で合弁企業を経営した方の報告です。大阪と製薬産業、アジア食品事情の話題も豊富ですが、福井の実家での農業との兼業ビジネスマンの生活と意見も楽しみです。 www.kajinken.jp を覗いて頂ければ幸いです。

2月に罌粟(ケシ)、3月に緒方八重さんをテーマに「多余的話」を書きました。

過去のことをほじくり返した印象を残したかも知れません。ただ鄧拓の言葉通り、書くことがなければ書かない姿勢に賛同しています。また、過去の時代のテーマが多いのですが懐古趣味は控え、なるべく現在につながることを意識しています。その意味で上海の歴史著述家の教授から、「多余的話、均已拝読、有意思的話題、具有現実意義」とかなり甘口の評点をいただいて、ルーキーが初ヒットを打ったように喜んでいます。

 或る弁護士からは無名氏の散文詩が届きました。西安や長春の感染者が増えた時、上海人はかなり辛辣に「地方」の管理の甘さを指摘していましたが、今になって上海も感染が拡大し、自慢の厳重な管理体制が崩れ、自尊心も傷ついたことを慨嘆しています。
また、長年の上海暮らしを続けている複数の方からも、団地毎にある「小区」の柵の中での生活、水道水を飲み水にする習慣が途絶えた人たちの生活をリアルに教えて貰いました。
国家の下での「単位」と呼ばれた末端管理組織が、街道弁事処・「社区」・居民委員会という形で変遷しています。疫禍までは関心の薄い存在だった気がします。

チャイナ・ウォッチャーのベテラン津上俊哉氏の近著『米中対立の先に待つもの』(日本経済新聞出版・2022年2月)は、「各論悲観・総論楽観」の繰り返しに飽きて(ご本人の弁)、控えてきた本の出版を久々に再開した力作です。まさにベテランが満を持して放ったホームラン。これにより氏の長打率はさらに高まった印象があります。
その一節、草の根大衆が習近平主席のコア支持者(第二章 急激な保守化・左傾化―転換点で何がおきたのか)に書かれている、「都市部における「街道弁」は、農村部における「村」と並んで、党と政府組織のピラミッド最底辺だ」の考察に注目しました。「街道弁」は「社区居民事務所」の上部機関とほぼ同義だと理解します。

これら最底辺の基層組織は、かつて一人っ子政策の推進者として住民に圧力を掛け、我々外国人の不行跡を「関所」で監視してきました。普段は普通の「大媽(おばさん)」達が、時に末端党員の意地を見せると怖くて、我が方にも落ち度や弱みがある場合には更に怖い存在に化しました。ロックダウンという非日常下で、日頃は目立たない党や行政の末端組織のマシーンがフル稼働して、検査実行・隔離徹底・食糧分配などに大活躍していることでしょう。津上氏は、この草の根大衆のムーブメントについて、戦時下の日本の大日本国防婦人会や隣組を彷彿させると書いています。昨年来、NHK大阪放送局が、大阪港湾地区発祥の婦人会が先鋭化した背後に「家庭の隅に追いやられていた嫁たちの鬱積していたパワー」があることを浮き彫りにしたドキュメンタリーを製作しました。何度か見て、視野を拡げてもらったことと「社区大媽」に通じるものに気付きました。

氏は「トランプ前大統領のコアサポーターと一脈通じるところがあるのだ」とさらに鋭い指摘をしています。プワーホワイトと呼ばれる低所得白人労働者を描いた『ヒルビリーエレジー』を読んだ時、ボストンの工事現場でレッドネック(日焼け)の労働者を見かけた時の「繁栄する社会の隅に追いやられた者たちの鬱積した怒りとパワー」を思い出しました。
個人的にも 中国現地法人の職員の給与や賞与の査定をするときに、高額な家賃を負担して刻苦奮闘している他の省出身の「外地人」職員と、幾つかの高級マンションを所有して、給与より世間体と健康のために出勤しているらしい「本地人」職員の処遇に考え込んでいました。また教育機会を得ることを政治や経済環境が許さなかった時代と、大学卒業生が年に1,000万人を越える時代とでは、経歴比較の尺度が変わるでしょう。
金持ちになり損ね、教育機会を逃して、社会の隅で生活している人たちの層に習近平主席は支持基盤を発見した、という論旨を津上氏の著作に教わりました。

一方で3月5日の全人代での李克強首相による政府活動報告から「共同富裕」の文字が激減していて、振り子の揺り戻しも予感しています。
政治的にも、経済成長の観点からも、「先富論」からは離れがたいのでしょうか?「共同富裕」であろうと「先富論」であろうと、全ての根幹である食糧について、コメはほぼ自給自足です。トウモロコシの不足分の70%はウクライナに頼っている中国が、小麦や大豆に続いてトウモロコシも米国からの依存度を上げるなら、米中関係の振り子も微妙に揺れることでしょう。
今の段階では食糧自給率を云々するほどのこともなさそうですが、振り子の揺れの範囲を知りつつ、振り子の現在位置がどこにあるのかを今後とも確認したいと思います。

2022年3月20日

多余的話(2022年3月) 『緒方八重さん』

井上 邦久

最高気温が連日新記録を更新して、一気に草木の芽が張る季節が来ました。艸という形に由来する草の字には春が内在しています。そして志貴皇子の歌、

「岩走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも」
を思います。

万葉集には「石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨」とあり、ここの佐和良妣は「蕨」か「薇」か?と酒友中国文学者桑山竜平に訊かれた万葉学者の大浜厳比古は『万葉幻視考』(集英社)に啓発に満ちた酒席噺を綴っています。

味わいのある酒の上での話を、早くみなさんと楽しみたいです

福沢諭吉も酒豪であったと聴いています。
門閥にこだわる中津藩の狭量さに嫌気がさして、蘭学修業先の長崎から故郷中津に戻らず、大坂の緒方洪庵の適塾に直行して頭角をあらわしています。
灘や伏見の酒にも馴染んだ諭吉をはじめ、貧しい書生たちの面倒をみたのが緒方八重さんその人です(億川百記の娘、摂津国西宮名塩に生まれ。洪庵が適塾を開いた頃に十七歳で結婚)。

 福沢諭吉の同郷の後輩、田代基徳(陸軍軍医校長などを歴任)は特に貧乏で、按摩で糊口を凌ぎながら猛勉強したとか。常に空腹で、深夜に樽の餅を盗もうとして、八重さんに出くわし夜具を被って隠れていたら、八重さんから掌に沢山の餅を載せて貰ったという逸話を、「中津藩出身の蘭学者」(川嶌眞人『大阪春秋』「緒方洪庵生誕200年特集」号)でとても味わい深く読みました。

緒方洪庵の偉業を要約すると、以下の三点になるのではないかと思います。
先ず、適塾を開き福沢や田代のような多くの俊才を育成したことがあります。姓名録の記録だけで637名とのこと。
次に、町医師や町人と除痘館を開設して、牛痘種痘の施療とワクチン分苗ネットワーク(池田・伊丹・灘・西宮など)を民間主導で築いたことです。
三点目として、1858年のコレラ大流行に際し、長崎の蘭館医ポンペの口授治療法(松本良順訳)に並行して、医訳書『虎狼痢(コロリ)治準』を緊急出版したことが挙げられます。ポンペは阿片やキニーネを大いに推奨しているのに対し、洪庵は使用を否定しているわけではないものの多量な使用には異論を唱えていたようです。

以上の事柄は、古西儀麿『緒方洪庵と大阪の除痘館』(東方書店)などの医学史書に詳しく、また『ぼくらの感染症サバイバル 病に立ち向かった日本人の奮闘記』マンガ:加奈、監修:香西豊子(いろは出版・2021年12月出版)で楽しく読めます。
小学高学年以上からを対象に監修したとお聴きしましたが、緒方洪庵からジョン・スノウ(1854年、ロンドンでのコレラ流行を終熄させた「疫学」生みの親)まで幅広く書かれています。
未来からタイムスリップしてきた緒方洪庵の子孫が、中学生と古代から現代までの疫禍の現場に飛んで人々の奮闘を知る筋立てです。

2021年10月『牛の話』で触れた仏教大学香西春子教授の講座は、対面教室で、色々な貴重な医学史料を手にさせてもらい、質疑応答も無制限でした。随分お得な疫学史と公共衛生の入門コースでした。 
スペイン風邪の終熄後100年の間、天然痘撲滅を初めとする感染症との奮闘を「征圧」と過信して、感染症用病床を減らし続けた経緯を教わりました。現在も適塾のお膝元で感染症病床の不足が何度も伝えられる背景を考えるヒントになりました。
また、西洋医学の日本導入期に貢献したポンペ医師の写真を指し「偉丈夫で胸を張っていますが、意外と若くて30歳前後だったのです」というコメントは新たな発見でした、軍医出身だったポンペが、明治政府の医学・衛生行政にどのように影響したかも考えさせられました。

緒方洪庵は幕府の奥医師(将軍の侍医)に招かれ、渋々大坂から江戸に移り、その翌年(1863)に八重と九人の家族を残して没しています。文久三年、京の壬生寺に新撰組が屯所を置いた年です。八重さんは遺児や親族の子を幕府及び新政府の欧州派遣留学生として送り続ける一方、戊辰の戦の時には横浜に避難し、その後帰阪して適塾に住んでいます。
1873年には除痘館がその役目を終えて閉鎖され、1875年からは八重さんの隠居部屋となりました。
適塾は保存対象の建築物となり、その脇の路地を南へ抜けた除痘館跡、大阪市中央区今橋三丁目のその土地には緒方病院ビルが建ち、その4階に除痘館記念資料室があります。

「適塾の偉大さは、緒方洪庵の偉大さによるものであるが、病弱の洪庵と多くの門人たちの世話を一手にひきうけて、門人から慈母のように慕われた八重夫人の内助の功をわすれてはならない。」、これは伴忠康の『適塾をめぐる人々―蘭学の流れ』(創元社)の巻頭に記された言葉です。

明治十九年二月七日、八重さんは62歳で逝去。孫の緒方銈次郎氏の文章によると、「葬儀の式は空前の盛儀を極め、親戚知己を始め適塾門下多数の参列を受けて阿倍野に送られた。葬列の最前列が日本橋付近に差しかかった時、棺は未だ北浜の拙齋宅を出て無かった程に長かったといふことである。」とあります。
もともと近場の長柄村で葬儀を行い、北区寺町の龍海寺の洪庵の墓に納骨をする予定が、参会者が予想以上に多く(二千余人とも三千人とも)直前に阿倍野(天王寺村)斎場に変更されています。
翌月、福沢諭吉は東京から龍海寺に参り、お供の慶應義塾員の酒井良明を止め、「これは私のすることだ」と自ら墓石を洗いあげた、と伝えられています。

これより先、明治十八年十月二日、五代友厚の葬儀は中之島の邸(現日本銀行)から淀屋橋南詰を東に・・堺筋南へ、住吉街道鳶田より東へ、天王寺村埋葬地へ着す。・・大阪府に於ける紳士縉商と称せられる者は悉く皆会葬し、その数実に四千三百余人の多きに達し、大阪府空前の盛儀を呈したり、と伝記にあります。

2022年3月4日

多余的話  (2022年2月) 『津軽から茨木へ』(『父親と長男』改題)

井上 邦久

 2020年末から2021年初頭以来、集英社新書『人新世の「資本論」』は読者を増やしているようだ。1987年生まれの著者、斎藤幸平氏を画像で見る機会も増えてきた。
冒頭から、SDGsは「大衆のアヘン」である!と書き始める。そして・・・かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。
SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である、と続く。SDGsについての議論は別にして、何故SDGsに「アヘン」が比喩的に用いられるのか愚考してみた。そして、その流れでアヘンの深みにはまりそうで、始末に負えない予感がしている。

アヘン(阿片・鴉片)はケシから採取した汁を乾燥させ製造する。モルヒネ、コデイン、テバインなどのアルカロイドを含む。医学用途として鎮痛効果や一時的な昂揚感・多幸感を感じられるとされるが、習慣性・中毒性に陥ると心身の滅亡に到る。

『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉(勉誠出版・2021)に「乱用薬物」を取り締まるための法律として以下の整理がなされている(一部省略)。

・アヘン関係:生阿片取締規則(1870)⇒旧阿片法(1897)⇒あへん法(1954)⇒現在・モルヒネ・コカイン・向精神薬関係:モルヒネ・コカインおよび其の塩類の取締に関する件(1920)⇒麻薬取締規則(1946)⇒麻薬および向精神薬取締法(1990)⇒現在
・大麻関係:大麻取締規則(1947)⇒大麻取締法(1948)⇒同法改正(1953)⇒現在
・覚せい剤取締法(1951)⇒現在   

 室町時代に南蛮貿易によって渡来したケシ・罌粟(アヘン・阿片)が何故か津軽にもたらされ(宣教師が治療用などで帯同したか?)、津軽はケシ栽培・アヘン精製・販売の拠点となった。津軽藩の奨励策により特産「一粒金丹」としてブランド化された。

ここからは陸羯南研究会で知り合った松田修一氏(東奥日報前特別論説委員・津軽在住)から頂戴した参考URLとご教示を抜粋する。

https://tsugaru-fudoki.jp/digtalfudoki/ichiryukin/

(森鴎外の)『渋江抽斎』は冒頭に「津軽地方の秘方一粒金丹というものを製造して売ることを許されていたので、若干の利益はあった」と書いていますが、月に百両の収入は若干ではありませんね。
一粒金丹は藩統制品でしたが、藩士は入手可能であり、他藩への土産品として持っていくことも許されたため、瞬く間に全国ブランドになりました。江戸市中にも(たしか)2軒の専売所開設が許されました。うち1軒が渋江家だと思います。
抽斎が医師として名をなしたのも、一粒金丹が万能の妙薬として人気がすこぶる高かったからでしょう。【中略】それで、ちょっとだけ調べてみたところ、名古屋大学の紀要『ことばの科学』(11号:1998年)に、次の論文が掲載されていることが分かりました。
「成田真紀 津軽医事文化資料と池田家文庫の撞着 ―渋江道直の一粒丹方并能書をめぐって―」。青森県内の図書館は所蔵していないようなので、国会図書館からの入手が可能か否か、聞いてみようと思います。まずは、同書を引用しているネット情報を見つけたので関係部分を要約します。
1837年(天保8年)ころ、大坂道修町の薬屋の奉公人が、取引先回りの際、津軽でケシ栽培やアヘン製造法を伝習し、種子を持ち帰り、摂津の国三島郡でけし栽培を始めた。・・・
だそうです。茨木ですね!!

松田さんのお蔭で、津軽⇒大坂道修町⇔摂津国三島郡=茨木がつながった。
『新修 茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』には以下のように纏められている。(1887.9.8)

・阿片製造の濫觴:天保八年島上郡西面村の植田五十八が同村玉川近傍字北の小路にて白色単弁の罌粟を栽培、之を以て阿片を製錬したるを創始とす。五十八の弟四郎兵衛は道修町の薬舗近江屋安五郎方に雇われ,商用ありて北陸奥羽の地方に到りしが津軽に於て阿片を製造するを一見し罌粟の栽培及び阿片に製錬する方法を習い、兄五十八に伝ふ・・・

・島下郡福井村の彦坂利平の弟治平が道修町の薬舗榎並屋三郎兵衛の養子となり阿片の買い入れの為、年々陸奥の津軽地方に赴しが、製造法の伝習を受け、種を兄の利平に授けて阿片製造の業を慫慂せり、天保十二年同村字秋浦にて罌粟栽培、同村田中庄三郎・南浦孫七等に伝えついで中河原・安威その外の諸村に伝わり遂に今日の如く西面村(高槻藩領:現高槻市)、福井村(一橋家領:現茨木市)ともによく似た経路で、津軽から大坂道修町(現大阪市中央区)の薬種商が種子・技術を移入し、摂津で下請け栽培をさせ、「一粒金丹」の津軽藩独占を崩そうと試みた構図が見えてくる。

若干後発であった福井村は「最良の阿片を製出するは島下の福井村にて同村の品は尤も多量のモルヒネを含めりとのことなり(同1884.11.21)」とある通り、明治時代の半ばには評価を上げている

『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』 倉橋正直(共栄書房 2002)には府県別生産1921年度(大正十年度阿片成績『艸楽新聞』1922年7月1日から転記)として下表があり

     ケシ栽培人員             阿片納付人員

大阪  3,492(人)  5,146(反)      大阪市 1(人)岡山   899      540         三島郡 4,013
和歌山  748      714         豊能郡  202
京都   285      224         北河内郡  21
兵庫   190      186         中河内郡  4
奈良    29       17         南河内郡  4

 この統計によれば大阪のシェアが圧倒的であり、その中で三島郡(福井村・安威村)が群を抜いている。

また、第一回大阪府実業功労者として個人表彰の新聞記事がある。 
                     (1922年2月11日)            
 中山太一 (中山太陽堂=クラブ化粧品) 化学品製造輸出伸張
 木谷伊助                朝鮮貿易伸張
 芦森武兵衛 (精工舎)         綿編及び紡絃の創
 辻本豊三郎 (福助足袋)        足袋の改良と公益助
 二反長音蔵               罌粟栽培普及(年産額
                          千五百貫
                     賠償金額参拾万円)

この二反長音蔵(にたんちょう おとぞう。旧姓川端音二郎が二反長家のレンと結婚)が大阪府三島郡福井村を拠点に、ケシの栽培・採取方法・モルヒネ含量向上の技術改良に努力し、栽培面積の拡大に尽力した成果が上記の地域別シェア記録や公的な顕彰に繋がっている。一方で、アヘン生産と戦争とは密接な関係がある。軍縮平和の時代は需要が低調になるが、軍拡戦争の時代はアヘン生産が連動して増加している。

1914 第一次世界大戦 軍需用モルヒネの需要増⇒原料アヘンの払底1915~1919 内地・朝鮮でケシ栽培の拡大 (二反長音蔵の出張指導 計5回)
1918 第一次世界大戦終結 軍需用モルヒネの需要減⇒原料アヘンの滞貨⇒ケシ減産
1931 満洲事変 増産体制へ転換。日中戦争/1937、第二次世界大戦/1941 増産強化1945 GHQより禁止令
1954 ケシ栽培の復活(戦前の10%の戸数。1960)⇒厚生省政策変更。限定栽培
ケシ栽培に連動するアヘンからモルヒネ精製の変遷を簡単にメモすると、
1915 星 一創業の星製薬が国産化成功(台湾アヘンの精製・台湾総督府との提携)
1917 内務省の指示で、大日本製薬、三共、ラヂウム商会に技術の公開認可
朝鮮で半官半民の大正製薬(国策会社であり、現大正製薬とは別)を設立
大正製薬の招請で、二反長音蔵が開城京畿道方面で指導調査。
1918 第一次大戦終結⇒モルヒネ輸入再開・相場下落⇒朝鮮でモルヒネを一般販売
1928 増産体制        
1933 大増産体制              
『新修茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』からの関係記事を取り上げると、安東(現遼寧省丹東市)、長白地区、張家口、旧熱河省などへの二反長音蔵の足跡を戦争末期まで追うことができる。

・阿片王国といはれる大阪府三島郡の阿片栽培者ハ毎年増加するばかりで、近来裏作といへば昔なじみの麦、菜種をすてて阿片を作るようになった。・・・裏作は全部阿片に・・・
 茨木署部内調査(17町村):1,456名、226.4町歩、631貫、
              137,529円

豊川、三島村、福井村、春日が多いが、福井村の生産性が突出    (1928.4.20)
・内務省「阿片栽培制限令」撤廃決定。栽培免許相続人の栽培も従前通り(1929.8。8)
・二反長音蔵、安東区阿片綜批發処の招請、東辺道長白府方面で指導視察。(1934.8.23)
・福井村で数十年ぶりに阿片密売者根絶。神戸方面の不正ブローカーの潜入などで、純朴な農村から夥しい違反者が摘発され昨年の如きは88件検挙  (1936.10.1)
・「罌粟増産協議会」が9月5日茨木中学校で各町村長、農会長、厚生省、府農務課参集。
・二反長音蔵、蒙古政府の懇望で、罌粟栽培と阿片製造のため令息の半君と29日出発。
原始的な大陸の罌粟の画期的増収のため種子、採汁法の改良により戦時下重要な阿片増産にご奉仕する。(1943.6.27)   
※茨木ゴルフ場(農地化)開墾着手(1943.8.14)

 二反長音蔵の長男の二反長半(にたんおさ はん、と改名)の遺作となった、『戦争と日本阿片史 阿片王 二反長音蔵の生涯』(すばる書房)には、「1943年、二反長音蔵(当時70歳)に蒙古連合自治政府から主席徳王の名で招聘状が届いた」とあり、「これが最後の御奉公や。蒙古にうんと白い花を咲かせてやったるで」と書かれている。村の裏作収益を上げて、「一日一善運動」を行いながら、国内外で水はけの良い南向きの傾斜地を探し当てては熱心に栽培指導を行った二反長音蔵は「大陸で被害を受ける者」への影響をどこまで意識していたであろうか。

伝記の著者の二反長半は。旧制茨木中学の先輩である川端康成や大宅壮一に憧れ、戦前から児童文学の創作や伝記小説、歴史小説を執筆。最晩年に父親の伝記を脱稿した直後に倒れ、出版を見ずに急逝している。
ポプラ社や小学館の「こども伝記小説シリーズ」で、作者を意識せずに、二反長半の作品を読んでいる児童が多いかも知れない。
モルヒネなどアルカロイド系薬品の国産化開発に尽力して、星製薬をトップ企業にした星一社長の栄光と没落を、長男の星新一は、小説『人民は弱し 官吏は強し』にしている。
そのなかに「無理に考えたあげく、やっと被害を受ける者のあることに気がついた。阿片吸飲者たちだ。煙膏に含まれているモルヒネの量はかわらなくても、味がいくらか落ちることになるかもしれない。それと、インドの阿片業者だ。しかし、これくらいの犠牲は仕方のないことだろう。(新潮文庫版)」という一節を忍ばせている。

星一は後藤新平の台湾阿片漸減政策と表裏一体となって事業を伸ばしたが、後藤新平の後を襲って政界や官界の主導権を握った加藤高明以下の官吏・政治家に追い落とされた。
星一には商品開発、利益追求そして自社存続をかけた裁判には注力しても、阿片吸飲者への影響は意識のなかになかっただろうか。
ケシ・アヘンの世界に生きた二人の父と、多くの屈折を体験して文学に活路を見いだした二人の息子の自らの父親についての文章は重い。

歴史・社会研究分野からは、『日中アヘン戦争』(江口圭一・岩波新書)が初学の出発点となり、上記に引用した倉橋正直氏の福井村のフィールドワークや『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉の視点の広さに多くを学んだことを附記し感謝したい。

2022年2月27日

多余的話  (2022年2月) 『父親と長男』

井上 邦

 2020年末から2021年初頭の第一の波以来、集英社新書『人新世の「資本論」』は読者を増やしているようだ。1987年生まれの著者、斎藤幸平氏を画像で見る機会も増えてきた。  
冒頭から、SDGsは「大衆のアヘン」である!と書き始める。そして、・・・かつて、マルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である、と続く。SDGsについての議論は別にして、何故SDGsに「アヘン」が比喩的に用いられるのか愚考してみた。そして、その流れでアヘンの深みにはまりそうで、始末に負えない予感がしている。

アヘン(阿片 ・鴉片)はケシから採取した汁を乾燥させ、製造する。モルヒネ、コデイン、テバインなどのアルカロイドを含む。医学用途として鎮痛効果や一時的な昂揚感や多幸感を感じられるとされ、習慣性や中毒性に陥ると心身の滅亡に到ると理解している。

『アヘンからよむアジア史』内田知行・権寧俊〈編〉(勉誠出版・2021)には、「乱用薬物」を取り締まるための法律として以下の整理がなされている。

・アヘン関係:生阿片取締規則(1870)⇒旧阿片法(1897)⇒あへん法(1954)⇒現在
・モルヒネ・コカイン・向精神薬関係:モルヒネ・コカインおよび其の塩類の取締に関する件(1920)⇒旧麻薬取締規則(1930)⇒旧々薬事法(1943)⇒麻薬取締規則(1946)⇒旧麻薬取締法(1948)⇒麻薬取締法(1953)⇒麻薬および向精神薬取締法(1990)⇒現在
・大麻関係:大麻取締規則(1947)⇒大麻取締法(1948)⇒同法改正(1953)⇒現在・覚せい剤取締法(1951)⇒現在   
室町時代に南蛮貿易によって渡来した罌粟(阿片)が何故か津軽にもたらされ(宣教師が治療用などで帯同したか?)津軽は栽培・精製・販売の拠点となった。津軽藩の奨励策により特産「一粒金丹」としてブランド化され、渋江抽斎も専売藩医として収入を得ていた。

以下に津軽在住の松田修一さんから届いた参考URLとご教示の文体のまま引用する。

https://tsugaru-fudoki.jp/digtalfudoki/ichiryukin/

森鴎外の『渋江抽斎』は冒頭に「津軽地方の秘方一粒金丹というものを製造して売ることを許されていたので、若干の利益はあった」と書いていますが、月に百両の収入は若干ではありませんね。一粒金丹は藩統制品でしたが、藩士は入手可能であり、他藩への土産品として持っていくことも許されたため、瞬く間に全国ブランドになりました。江戸市中にも(たしか)2軒の専売所開設が許されました。うち1軒が渋江家だと思います。抽斎が医師として名をなしたのも、一粒金丹が万能の妙薬として人気がすこぶる高かったからでしょう。【中略】それで、ちょっとだけ調べてみたところ、名古屋大学の紀要『ことばの科学』(11号:1998年)に、次の論文が掲載されていることが分かりました。「成田真紀 津軽医事文化資料と池田家文庫の撞着 ―渋江道直の一粒丹方并能書書をめぐって―」。青森県内の図書館は所蔵していないようなので、国会図書館からの入手が可能か否か、聞いてみようと思います。まずは、同書を引用しているネット情報を見つけたので、関係部分を要約します。

1837年(天保8年)ころ、大坂道修町の薬屋の奉公人が、取引先回りの際、津軽でケシ栽培やアヘン製造法を伝習し、種子を持ち帰り、摂津の国三島郡でけし栽培を始めた。
・・・だそうです。茨木ですね!! (引用終わり)

以上、松田さんのお蔭で、津軽⇒大阪道修町⇔摂津国三島郡=茨木がつながった。
『新修 茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』には以下のように纏められている。

・阿片製造の濫觴:天保八年島上郡西面村の植田五十八が同村玉川近傍字北の小路にて白色単弁の罌粟を栽培、之を以て阿片を製錬したるを創始とす。五十八の弟四郎兵衛は道修町の薬舗近江屋安五郎方に雇われ,商用ありて北陸奥羽の地方に到りしが津軽に於て阿片を製造するを一見し罌粟の栽培及び阿片に製錬する方法を習い、兄五十八に伝ふ・・・
島下郡福井村の彦坂利平の弟治平が道修町の薬舗榎並屋三郎兵衛の養子となり阿片の買い入れの為、年々陸奥の津軽地方に赴しが、製造法の伝習を受け、種を兄の利平に授けて阿片製造の業を慫慂せり、天保十二年同村字秋浦にて罌粟栽培、同村田中庄三郎・南浦孫七等に伝えついで中河原・安威その外の諸村に伝わり遂に今日の如く(1887.9.8)西面村(高槻藩領:現高槻市)、福井村(一橋家領:現茨木市)ともによく似た形で「津軽」を大坂道修町(現大阪市中央区)の薬種商が種子・技術を移入し、摂津で下請け栽培をさせ、「一粒金丹」の津軽藩独占を崩そうと試みた構図が見えてくる。
若干後発であった福井村は「最良の阿片を製出するは島下の福井村にて同村の品は尤も多量のモルヒネを含めりとのことなり(同1884.11.21)」とある通り明治の半ばには評価を上げている。『日本の阿片王 二反長音蔵とその時代』 倉橋正直(共栄書房 2002)p27からの転記。

 ・府県別生産1921年度(大正十年度阿片成績『艸楽新聞』1922年7月1日) 

ケシ栽培人員                 阿片納付人
大阪  3,492(人)5,146(反)    大阪市      1(人)
岡山   899    540     三島郡     4,013
和歌山  748    714       豊能郡      202
京都   285    224       北河内郡      21
兵庫   190    186       中河内郡       4
奈良    29    17       南河内郡       4

 1921年の統計では大阪のシェアが圧倒的であり、その中で三島郡(福井村・安威村等)が群を抜いている。続いて、第一回大阪府実業功労者として個人表彰の記事がある。(1922年2月11日)            

 中山太一(中山太陽堂=クラブ化粧品)  化学品製造輸出伸張
 木谷伊助                朝鮮貿易伸張
 芦森武兵衛 (精工舎)         綿編及び紡絃の創始
 辻本豊三郎 (福助足袋)        足袋の改良と公益助長
 二反長音蔵               罌粟栽培普及(年産額
      千五百貫。賠償金額参拾万円。30町歩(大4)⇒500町歩

この二反長音蔵(にたんちょう おとぞう。旧姓川端音二郎が二反長家のレンと結婚)が罌粟の栽培・採取方法・モルヒネ含量の改良に努め、技術と栽培面積の拡大に尽力した成果が上記の地域別シェア記録や公的な顕彰に繋がっている。しかし、アヘン生産と戦争とは密接な関係がある。軍縮平和の時代は低調になるが、軍の膨張とアヘン肥大化が連動する。
1914 第一次世界大戦 軍需用モルヒネの需要増⇒原料阿片の払底1915~1919 内地・朝鮮で罌粟栽培の拡大 音蔵の出張指導 計5回1918 第一次世界大戦終結 軍需用モルヒネの需要減⇒原料阿片の滞貨⇒罌粟減産
1931 満洲事変 増産体制へ転換。日中戦争/1937、第二次世界大戦/1941⇒増産一本槍
1945 GHQより禁止令
1954 ケシ栽培の復活(戦前の10%の戸数。1960)⇒厚生省政策変更。限定栽培
モルヒネの国産化:星一(ほし はじめ)の創業による星製薬が独自開発。                             1915 星製薬株式会社 国産化成功(台湾阿片の精製・総督府との提携)
1917 内務省、大日本製薬株式会社、三共株式会社、株式会社ラヂウム商会に公開認可朝鮮半島にて罌粟栽培拡大計画(目標1,500町歩)朝鮮で半官半民の大正製薬株式会社(国策会社であり、現大正製薬とは別)を設立し、罌粟栽培の拡大とモルヒネ製造に当たる。
音蔵、大正製薬の招きで開城京畿道方面に二千町歩余を指導調査。1918 第一次大戦終結⇒輸入再開・相場下落 ⇒朝鮮でモルヒネを一般販
1928 増産体制        
1933 大増産体制              
『新修茨木市史 資料集7 新聞にみる茨木の近代 三島地域朝日新聞記事集成』の関係記事を取り上げると、安東(現遼寧省丹東市)、長白地区、張家口、旧熱河省などへの足跡を戦争末期まで追うことができる。
・阿片王国といはれる大阪府三島郡の阿片栽培者ハ毎年増加するばかりで、近来裏作といへば昔なじみの麦、菜種をすてて阿片を作るようになった。・・・裏作は全部阿片に・・・
茨木署部内調査(17町村):1,456名、226.4町歩、631貫、137,529円豊川、三島村、福井村、春日が多いが、福井村の生産性が突出    (1928.4.20)
・内務省「阿片栽培制限令」の撤廃決定。栽培免許相続人の栽培も従前通り(1929.8。8)
・二反長音蔵、安東区阿片綜批發処の招請、東辺道長白府方面で指導視察。(1934.8.23)
・福井村で数十年ぶりに阿片密売者根絶。神戸方面の支那人の不正ブローカーの潜入などで連年純朴な農村から夥しい違反者が摘発され昨年の如きは88件検挙  (1936.10.1)
・「罌粟増産協議会」が9月5日茨木中学校で各町村長、農会長、厚生省、府農務課参集。
・二反長音蔵、蒙古政府の懇望で、罌粟栽培と阿片製造のため令息の半君と29日出発。※茨木ゴルフ場(農地化)開墾着手(1943.8.14) 

 『戦争と日本阿片史 阿片王 二反長音蔵の生涯』(すばる書房)の193頁には、1943年、二反長音蔵(当時70歳)に蒙古連合自治政府から主席徳王の名で招聘状が届いた、とあり

「これが最後の御奉公や。蒙古にうんと白い花を咲かせてやったるで」と書かれている。

著者は二反長音蔵の長男の二反長半(にたんおさ はん、と改名)。旧制茨木中学の先輩である川端康成や大宅壮一に憧れ、戦前から児童文学の創作や伝記小説、歴史小説を執筆。最晩年に父親の伝記の脱稿直後に倒れ、出版を見ずに急逝している。ポプラ社や小学館の「こども伝記小説シリーズ」で、作者を意識せずに二反長半の作品を読んでいる児童が多いかも知れない。

モルヒネなどアルカロイド系薬品の国産化開発に尽力した、星一社長と星製薬の栄光と没落を長男の星新一は、小説『人民は弱し 官吏は強し』のなかに「無理に考えたあげく、やっと被害を受ける者のあることに気がついた。阿片吸飲者たちだ。煙膏に含まれているモルヒネの量はかわらなくても、味がいくらか落ちることになるかもしれない。それと、インドの阿片業者だ。しかし、これくらいの犠牲は仕方のないことだろう。(新潮文庫版 p32)」という一節を忍ばせている。

星一は後藤新平の台湾阿片漸減政策と表裏一体となって事業を伸ばしたが、後藤新平の後を襲って政界や官界の主導権を握った加藤高明以下の官吏・政治家に追い落とされた。

星一には商品開発、利益追求そして自社存続をかけた裁判には注力しても、阿片吸飲者のことは意識のなかになかっただろうか。

村の裏作収益を上げて、「一日一善運動」を行いながら、国内外の各地で水はけの良い南向きの傾斜地を探し当てては熱心に指導を行った二反長音蔵は「大陸で被害を受ける者」のことにどこまで気がついていたであろうか。

 罌粟・阿片の世界に生きた二人の父と、多くの屈折を体験して文学に活路を見いだした二人の息子の自らの父親についての文章は重い。歴史社会研究分野では、江口圭一の『日中アヘン戦争』が初学の出発点となる。上述した引用図書の他にも『大平正芳と中日間の経済・外交に関する研究 – 張家口時代からLT貿易・中日復交・対中円借款供与』(『大平正芳と阿片問題』(民際学特集 田中宏教授退職記念号 龍谷大学経済学論集 倪志敏 2009)などの文章は、蒙疆における親日傀儡政権のアヘン政策の暗闇を教えてくれる。  (未了)

2022年1月27日

多余的話(2022年1月)   『骨正月』

井上 邦久

正月早々の題名にしては少々物騒ですが、正月用の鯛や鰤の骨を食べ尽くして、正月気分に区切りをつける二十日正月を骨正月と呼ぶようです。関東での正月も幾度か過ごしましたが、骨正月は聞いたことがありませんでした。
大阪日本橋、文楽劇場の正月興行では舞台の高い処に一対の大きな鯛が向かい合わせに飾られ(張りぼてです)、ロビーには本物の鯛が睨み合って置かれています。
元は江戸時代の京や大坂の商家の「始末」の習慣の名残でしょうか、骨まで愛されれば鯛も本望でしょう。

人形浄瑠璃の近代化は繁華な道頓堀から大阪市西区に座を移させ松島文楽座と命名した1872年1月を画期とする、その強引な移転は新政府の渡辺昇(大村藩。1872年~権知事、1877年~知事)の威嚇誘導による、との後藤静夫さんの説を聴かせてもらい共鳴しました。されば、今年は文楽座命名150年となります。

川口居留地址から木津川を挟んだ江之子島には大阪府庁址の石碑があります。府庁舎も渡辺昇知事により本町橋の西町奉行所(現マイドーム大阪・商工会議所)から西区へ移設、正面玄関もあえて大阪港、川口居留地という開国開化側に開き、旧大阪市街に背を向けていたことは以前に触れました。
幕末の剣豪で、桂小五郎や新選組とも縁のあった渡辺昇の大阪近代化過程での剛腕ぶりが想像されます。
その渡辺昇の名も出てくる『五代友厚傳』(五代龍作著)の一節に「当時君は大阪開港の為め、内外百般の重要事務を一身に負ひ、威望勢力遙かに知事を凌げると、松島遊郭の設置に関しては、之に反対せる者尠なからざりし・・・」とあります。
1868年、慶応から明治へ、京都から東京へ時代が激変する中、五代友厚は神戸事件や堺事件という外国人殺傷問題の対応収拾に奔走し、大坂開市開港にともなう外事・税関を束ね、外国人居留地運営の傍ら、年末に松島遊郭を設置しています。
居留地近くの松島に遊郭を集約化させる行動が出身地薩摩の保守派・武断派に燻っていた五代友厚への嫉妬・羨望を批判・炎上に繋げたようです。
19世紀の半ば、欧州から極東にやってくる海千山千の外交官や冒険商人そして兵隊の実態について、堺事件を通じて思い知った五代流外国人封じ込め策が居留地隣接の松島遊郭設置でなかったかと邪推しています。

一年前、大河ドラマに連動して渋沢栄一周りの話題が増え、映画『天外者』により五代友厚にも注目が集まりました。
途中報告でも伝えた渋沢栄一の聞き語り『雨夜譚』や『徳川慶喜公伝』を丁寧になぞった大森美香の脚本は実直な書きぶりで好感を持ちました。
脇役扱いの五代友厚については豊子夫人が保存した書簡と、葬儀にも名を連ねた片岡春卿(来歴不詳)による略伝を基にしていました。

山に降った雨が数日の内に海に注ぐ国には大陸のような大河はありません。そんな島国での「大河ドラマ」であります。ドラマであって歴史ではないことは「多余的話(言わずもがなの話)」です。

東京商工会議所を創設した渋沢と大阪商工会議所の初代会頭となった五代を大まかに眺めると、まず寿命の長短の差が大きく、遺した著作の多い渋沢と書簡私信だけの五代の違いがあります。
財閥とは言えなくとも企業グループを形成した渋沢家と養子の龍作らも実業界には雄飛しなかった五代家後継の流れは交わっていません。

1868+77=1945 1945+77=2022

維新から坂を登り続けて77年、分水嶺から転げ落ちてから今日に至るまでの77年、足し算は単純ですが、歴史的には少し考え込んでしまう77年の重みです。
旧真田山陸軍墓地も文楽座も保存や支援が必要になっています。
この国にも疫禍の過程で蛻変と始末が必要だと思っています。
今年は「蛻変(ぜいへん)」と「始末」について書き下したいと考えています。

2021年12月22日

多余的話(2021年12月) 『carry-over』

井上 邦久

堀田暁生先生から旧陸軍真田山墓地の保存に関する資料を頂いた。大阪の上町台地を大阪城から南へ玉造・桃谷の辺りを歩いたときに墓地の一角に立ち寄り、町中のエアポケットのような印象が残った。
後日NHK「ファミリーヒストリー」で桂文枝(深夜ラジオ族の頃に馴染んだ桂三枝)の実父銀行員の河村清三氏は、徴集されるも結核を発症し一人っ子を残して陸軍病院で亡くなったとのこと。
その遺骨が何故か真田山墓地に残されていたことが番組取材で判明して、久々の親子の「再会」をしたことを知った。

今回の資料に接することで、1871年に設けられた旧陸軍真田山墓地について、西南戦争前の「生兵」(徴兵され訓練中の兵)から清国・ドイツの俘虜も含めて1945年までの戦争の歴史が凝縮された場所であることを知った。
戦時下でない兵舎で若い命を失った「生兵」や病死した兵のように戦死者以外の人たちも葬られている。
画像資料のなかには墓地参拝を続けている府立清水谷女学校の大正と昭和の女学生の写真が眼を惹く。
和装の女学生がゆったりしたスペースでお参りをしていた大正時代、憧れの清水谷ブルーチーフのセーラー服が、隙間なく並ぶ墓石の間にぎっしりと並んだ昭和初期の写真、わずか十数年と想像される時間の変化を如実に物語って余りある。

大手前、清水谷と並ぶ大阪市内の府立夕陽丘女学校の卒業生である赤松良子さんが12月1日から日経「私の履歴書」を連載中。
毎月の執筆者のパターンは、ほぼ似ていて、親や家の話から始まり、幼児期、学齢期、社会人としての苦闘期、そして成功の道筋が始まる後半生、引退して家族の話を済ませたら月末という流れで、これまで読んできた500人余りの中で作家の安岡章太郎だけが時系列編年体を排していたと記憶する。
歳を拾うと苦労話には共感を寄せても、他人の成功談や恋愛成就の話には「ああ、そうですか」という感じがして、毎月15日以降は読み飛ばすことが多い。
しかし、戦時下から戦後の夕陽丘女学校で英語学習を渇望し、津田塾で英語を学ぶのだという執念を実らせ、その後の東京大学・労働省への進路は女性にとって「狭き門」どころか、当時の労働省婦人少年局以外の政府機関には「門」さえも無かった時代らしい。労働省官僚から国連公使となり男女均等法への道筋造りに悪戦苦闘したことを連日書かれている。

赤松良子さんのIQはとても高いだろう、EQも優れているだろう、それ以上にWQが人並み外れたレベルだったことが半生記を読んで伝わる。(Will Quotientは商社の管理職になった頃に、自分勝手に定義した造語)

今回は月末まで熱心な読者となる予感がする。ここまでたまに見え隠れする。
夫君とご長男についてどのような内容をどのように綴られるか?或いは軽く触れる程度にされるか興味深く見守っている。 

日経新聞といえば、日曜版に吉田博/ふじを夫妻の画業について新たな視角から切り取った連載があった。上海史研究会では、金子光晴/森美千代夫妻の研究報告を聞かせてもらった。二組の男女に共通するのは鬼(夫/男)の居ぬ間の女性の才能の開花であった。
戦後、吉田博を見送ったあとの抽象画『赤い花』『黄色い花』は実にのびやかで、セクシャルでもあり、どこかジョージア・オキーフの作品を思い起こす。
金子光晴夫妻の上海、仏印、パリなどへの流れ旅の回想録は高度成長期になって『どくろ杯』などに結実する。だが、実際は森美千代の記述や記憶に依るところが多くあるという見解に至った研究者趙怡さん。
自らの語りかけによって、説得力が増し、著書『二人旅 上海からパリへ―金子光晴・森三千代の海外体験と異郷文学』にも興味が湧いた。

茨木千提寺キリシタン遺物に続いて、戦国河内キリシタンの本拠が四條畷の飯盛(山)城周辺にあり、四條畷高校時代に通ったバス停の地名がキリシタン遺跡に繋がる事に驚いた。
また茨木の福井村は日本最大の罌粟の産地であった事を記す資料に再度触れた。50年前に南茨木駅工事で発見された東奈良弥生遺跡の記念講演で「弥生人は右利きであった」と言う深沢芳樹さんの話は楽しかった。事ほど左様に身近に好奇心を刺激する材料が多く、来年に積み残しとなります。

米中韓が基軸である太平洋航路のコンテナ輸送での積み残しは、貨物だけでなく日本の存在そのものが積み残しにならないように祈る毎日です。(了)

2021年11月30日

多余的話(2021年11月)   「小春おばさん」

井上 邦久

10月後半からひと月近く穏やかな日和が続きました。小春日和。初冬の季語。中国語では陰暦10月を小春(xiao chun)と呼び、小春日和は小陽春(xiao yang chun)。
勤め人になった年、井上陽水のLP『氷の世界』を買いB面の「小春おばさん」を繰り返し聴いたことを思い出します。
感染が拡大した一年半前。基礎体力を維持し、免疫力を強化するのみと覚悟を決めた頃には夢の中でも、同じ井上陽水の「夕立」の歌詞~計画は全部中止だ~家に居て黙っているんだ、夏が終わるまで~のリフレインでした。
二度目の夏にも終熄せず、中国で躺平族(tang ping/寝そべり族)と呼ばれる若者のように黙って寝ていました。ところがNobody knowsのまま感染減少の小春がやってきて、時ならぬ「啓蟄」の虫のように蠢いています。

勤め人を止して上海・横浜から大阪に戻り、西区川口の居留地址を何度も歩いています。居留地研究の先生方や港湾関係の皆さんから、キリスト教布教活動や川口華商の活動について教わっています。
居留地址の隣の九条新道で繁盛している「吉林菜館」の女傑からは、国共内戦以降の大阪中華学校の創設経緯について縺れた糸を解きほぐしてもらっています。大阪へ越す前に住んだ横浜中華街福建路でも開港・居留地・華僑文化そして孫文に関する旧跡に触れました。その中華街を舞台にした映画『華のスミカ』を九条商店街の映画館で見ました。
横浜の中華学校を核として、中国革命・文化大革命、そして関帝廟焼失の渦中で華僑や華人が経験した対立と和解の歴史を政治から一歩引いた華僑4世が追いかけたドキュメンタリーでした。中華街の紅衛兵だった父親。家のルーツを知った十代半ばから「中国というもの」を避けてきた息子。父と子が対話するラストシーンが印象に残りました。https://www.hananosumika.com

子供の頃に町内の豪商の三男坊が東京で洋画家になったと聞かされていた、糸園和三郎の生誕110周年展を大分県立美術館で見たあと、中津に帰郷して、菩提寺で二年ぶりの墓参り。
村上医家史料館では1850年の牛痘接種記録と高野長英を匿ったという土蔵を見せてもらいました。
いつも立ち寄る木村記美術館で中山忠彦の作品を独占鑑賞してから、南部小学校の楠の大木に再会しました。100年前に難病治療のため小学校を去った糸園和三郎が心の道標とし、最晩年に描いた楠の大木。60年前に同じ小学校に心を残して去った小生も共鳴しました。
茨木山間部にキリシタンの里があったことを時々耳にしていました。現在は神戸市立博物館の所蔵となっている着色ザビエル像が千提寺の東家で秘蔵された信仰の対象であったことまでは聞いていました。

小春日和のドライブに誘われて朝採りの野菜の即売場で地産地消の定食に満足したあと、ローギアでしか登れないキリシタン遺物資料館に連れて行ってもらいました。
駐車場からの坂道の脇の石碑に「北摂キリシタン遺物発見最初の家」とあり、東さんのお宅でした。整理された資料群と内容の濃い解説書(2018年初版)で啓発されたことは、稿を改めます。
当日の発見は下り坂の路傍にありました。奇妙な縄張りをしている一角があり、片隅にマリア像が囲われていました。説明書を読むと、最初の遺物発見から間もない1923年に大阪川口教会のビロー主任司祭が信者を訪ね、1928年までに千提寺教会を建てた跡地とありました。ローマ教会と大阪川口居留地と茨木人キリシタンが繋がった厳粛な一瞬でした。
啓示、啓発を多く受けた小春の「啓蟄」でした。

映画、医学史、美術そして信仰の足跡という精神生活の刺激もさることながら、何にも増して大分の叔母が病を克服して迎えてくれたことが大きな慶びでした。煎茶の家元として卒寿には見えない背筋を真っ直ぐにした一人暮らしを続けています。昔話をしながら、幾度も美味(甘)い煎茶を淹れて貰いました。
戦時下に、大阪から疎開転校したもう一人の叔母や母親の女学校時代の話も聴かせて貰える大切な「小春おばさん」との再会でした。(了)

2021年10月21日

多余的話(2021年10月) 『牛の話』

井上 邦久

9月に触れた『僕の訪中ノート1971』(編集工房ノア)は、1971年2月20日、(晴)から始まる。
10時、香港最北駅の羅湖に到着。橋を一人ずつ歩いて渡り、深圳側の人民解放軍兵士が機敏な動作でパスポートチェック。
広州行きの列車待ちの深圳駅前には水田が広がり水牛が緩慢に動いているように見えた。その日が晴か曇りか記憶にないが、初めて接した兵士と水牛はよく憶えている。

水牛の角を見て、岡本太郎デザインの近鉄バッファローズの帽子を連想した。読売巨人軍の背番号3を長嶋茂雄に譲り、関西の鉄道会社系の近鉄パールズの監督に就任した千葉茂。その現役時代の愛称として親しまれた猛牛にちなんでバッファロー(ズ)としてイメージ一新を図った。
その後変遷を経て、オリックスバッファローズとなり、今まさかの変身を遂げつつある。近鉄バッファローズは系列の航空貨物会社のアメリカンフットボールチーム名として健在であることを、北京駐在時代に飛び込みセールスしてきた「牛突猛進」タイプの営業マンから教えて貰った。

J&J須賀川工場のある福島県中部は「中どおり」と呼ばれ、今井工場長夫人がMidwayと訳された記憶がある。
三春町の張り子細工とともに、会津の張り子の赤べこは実に可愛い。ただ赤い牛の黒の斑点には注意を払わないままだった。

この数ヶ月、天然痘のことを香西豊子さんから学んだ。
昨年来の疫禍について専門家諸氏が百家争鳴し、科学的とは思えない言説もある中で、医療系社会学者の香西さんの新聞発言に注目した。
近作の『種痘という〈衛生〉近世日本における予防接種の歴史』(東京大学出版会)は8,800円+税という価格もさることながら、果たして読み通せるか自信がなく思案した。

市立図書館には置いて居らず、ダメ元で購入申し込みをしたら、府立図書館の蔵書を期限付きで仲介貸出してくれた。期限が限られていると意外な集中力が上がるもので、日本における天然痘の歴史は、蘇我氏物部氏の対立の頃から始まるという文章の流れに何とか乗ることができた。
江戸時代まで頻繁に発生し、子供が罹りやすく命を落とすこともあった。隔離手法や漢方人痘療法もあったが、達磨などの赤色の玩具、源為朝の疫病退治図、赤飯、茜木綿の病衣などにより、赤色は天然痘の発疹の赤を制して取り去ると信じられた。滝沢馬琴日記などを引用して、子供達の発症、闘病、快復(或いは夭逝)の記録解説が詳しい。

罹ることは仕方ないが、なるべく軽めに済ませたいという「With天然痘」の習しがあったことに着目した。また無痘地域として、八丈島・熊野・岩国・大村などが知られおり、岩国藩主は明治まで誰一人罹患しなかったという。城下から錦川で隔てられた山城で生涯隔離されていたのだろうか?
その岩国藩から池田瑞仙錦橋という治痘医師が幕府の奥医師に異例の抜擢をされ、実子池田京水、二代目瑞仙霧渓(平岡晋)が「池田痘科」の名を成した。

1849年を画期として牛種痘の時代に入る。
ジェンナーの美談(?)として知られる牛種痘法は18世紀末にイギリスで実用化され、1802年にインド、1804年にはバタヴィア、1805年にマニラそして広東/マカオに伝来した。イギリスが中国に阿片を持ち込み、天然痘の種痘法を伝えた時期はほぼ同じであるとの事。

日本では天然痘とは長い付き合いで、民間では怖れつつも手なづけ、「池田痘科」一門の人痘ウィルスの施術効果もあって、牛由来の舶来手法の必要を渇望することも少なく、外来物への保守的な風土も邪魔をした。しかし、1849年長崎オランダ商館医のモーニケと佐賀藩侍医の楢林宗建の連携でバタヴィアからの牛痘苗が一人の児童に活着して情況は大変化。
1849年から1850年の短期間に桑田立斎らが十指に余る種痘奨励書・手引書を出版している。このあたりの動きの速さには驚嘆する。

各地に種痘所が設けられ、江戸は神田の種苗採取所が後の東京大学医学部に繋がるとの事。更に佐賀藩と並んで先駆的だった福井藩侍医の笠原良策や大阪の緒方洪庵らの活動を経て、蝦夷地や琉球も含めた津々浦々に牛痘接種が普及し罹患者が減少したとの事。
牛の天然痘(牛痘)が牝牛(vacca)乳房に発し、そのウィルスを使う牛痘種痘(vaccination)がワクチン(疫苗)の語源で、パスツールがジェンナー顕彰の為に、牛痘由来以外の免疫抗原をも広くワクチンと呼び一般名称にしたとの事。

折よく、仏教大学OLC(OpenLearningCenter)講座が10月から始まり、香西教授の『「疫病」に向きあうー日本列島における治療と予防の歴史』全6回も開講。
初回は都合でオンライン受講、来月は教室に向かう予定なので、上述に繰り返した「・・・との事」接種の受け売りが増殖することは必至。

疫禍の下、巣籠もりしながら感染病の基礎知識の一端を囓ることで、若い時から読みあぐねていた森鴎外の『渋江抽斎』を今回は一気に読了できた。
また、夏目漱石が生涯気にしていた「痘痕(あばた)」も幕末までの子供の通過儀礼であったと知った。
どちら事も得がたい副反応効果と捉えている。

2021年10月6日

日本から米国へ、韓国から日本へ ―大谷 翔平選手・春日王元幕内力士-

井嶋 悠

Ⅰ:大谷 翔平選手

以下のアメリカ大リーグにかかわる発言は、下記書物からの引用転載で、その部分は「 」で示している。伊東 一雄・馬立 勝著の『野球は言葉のスポーツ―アメリカ人と野球―』

私には夢が一つある。いや、この年齢となればよほどの環境変動がない限り、あったの方が正しい・・・。
それは、アメリカ大リーグの試合[公式試合ならどのような組み合わせでも構わない。ただジャイアンツは避けたい。日本のジャイアンツが嫌いなので。]を観ることである。但し、希望条件があって芝生の外野席で、陽光を燦燦と浴び、好きな所に座り、アメリカのビールを片手に、あのパサパサのパンのホットドッグとポテトチップをほおばることのできる球場でなくてはならない。
現職時代、出張でロスアンジェルスとサンフランシスコに行ったことがあったが、あそこ(カリフォルニア)の陽光は、現地の日本人が言うには、カリフォルニアは年中春で、言わば人を確実に鈍化させるほどに平和と温和さを兼ね備えた陽光の地である、と。だから屋外球場であることが最前提である。これについて、シカゴ・カブスのオーナーは言っている。

「野球とは陽光を浴びてプレーすべきもので、電灯の光のもとでプレーするものではない。」

こんな言葉もある。

「屋根付き球場は自然の中で楽しむ本来のスポーツから外れた、ビジネスとしてのスポーツの要請から生まれた施設だ。野球を室内競技に変えた不自然さが生んだ、まことに不自然きわまる出来事だった。」

(編著者の言葉)


観覧するチームに日本人選手がいればもちろん応援したいので、一応国旗を携えて行く。

もっとも夏のナイターもまんざらではないことは経験上否定しないが、やはり陽光の方がいい。そうかと言って高校野球を観に行きたいとは思わない。理由は単純である。あの野球があってその学校があると言う営業性があまりに多いのと、高校生=純粋無垢との性善説が苦手なのである。だからそれらの逆が登場すると結構テレビ観戦に向かう。

妻は、高校野球には大いに関心を示すが、プロ野球にはとんと興味がない。かてて加えて海外旅行など全くと言っていいほどに関心はない。しかしパサパサのパンを非常に好む習癖があるから、この企画には恐らく乗ってくるかも、と想像するが確率は限りなくゼロに近い。

そんな似非プロ野球ファンと言うか少しは知っている程度で、それも選手名で言えば田中 将大君で私の知識は休眠状態にある。
そんなところに、選手として人格として欠点がないのが欠点との印象を持つ大谷 翔平君の出現である。エンゼルス初期の頃のインタビューで、今までの野球生活の中で、最も記憶に残る試合は何か問われ、しばらく考えた後、小学校時代にピッチャーをしていたことです、とか、日本人の取材で趣味はと聞かれ、岩手には何にもないしなーと応える、見事なまでに余裕がある20代なのだ。彼の行くところすべてにほのかな笑みの気が漂う。
ホームラン王を争っているレゲーロ選手も言うように、母の胎内に神の手で送り込まれたとしか、それも可能な限り人間らしく振舞うどこにでもいる人間として、送り出したとしか思えない今シーズンなのだ。来シーズンも、そしていつか地球を立ち去るまで成長して欲しいと思わざるを得ない。その時こそ彼は真に天才の「天」と言う語を自己のものとし、人間として余生を送るだろう。
尚、ここで天才との言葉を使っているが、「天才とは1%の才能と99%の努力」との、確かエジソンだったかの、言葉を思いながら使っている。

今も根強くあると幾つかの場面で言われる、アメリカの人種差別[有色人種蔑視、侮蔑の感情をもってアジア人と一括りにする発想]またパールハーバー襲撃を憎悪し続ける心が、アメリカ中南部を中心にあったとしても大谷選手は軽々とそれらを乗り越える天性を備えている。否、乗り越えるといった人為性ではなく馬耳東風であるように思える。

イチロー[鈴木 一朗]氏も、10有余年のアメリカ大リーグ生活の中で、多くの記録を塗り替えた選手だが、私には大谷選手とは全く別なものを思う。
イチロー氏はどこか古武道士の印象が漂い、それは日本代表チームを「サムライ」と言うに近いもので、やはり天賦の才に恵まれたのであろうが、私の中では天才が放つ陽明性、少年性がないのだ。
巨人でプレーしたことがあるレジ―・スミス氏がこんなことを言っているそうだ。

「ベースボールはプレー(遊び)だが、野球はワーク(働き)だ」と。

大谷選手は日本人の好む「道」とは無縁で、どこまでも遊びの域に貫かれている。遊びの天才と野球道の天才。そして私は野球に「道」を求めたいとも思わないし、だから「サムライ」との名づけにも違和感を持っている。
野球は老若男女が人生とは?といった哲学に心かき乱されることなく一心に楽しめる娯楽であると私は思うし、だから陽光が必要不可欠なのである。ホームランは当然賞賛に値するも、その丁度裏返しの三振王でも何ら責めない。アメリカのアメリカたる所以と思う。

大谷選手は、来季の契約でアメリカ的に莫大な契約をするのだろうが、イチロー氏は既に億万長者に到達している。そして、大谷選手はカード一枚に何億もの金を畳み込む天才性を想像するが、イチロー氏の場合何十冊もの整理された通帳に留めおくそんな天才性を思ったりする。一野次馬としては、大谷選手の契約更改で彼が何を言うか興味津々である。イチロー氏の時はどうでもよかった。尚、初めに引用した同じ人物[オーナー]の言葉に次のものがある。

「大リーグ野球はビジネスというにはスポーツでありすぎ、スポーツというにはビジネスでありすぎる。」

尚、大リーグへの先駆者とも言える1968年生まれの、大リーグ在籍12年の野茂 英雄氏がいるが、大谷選手とは26歳の年齢差があり、私自身西鉄黄金時代のあの奔放性とか大洋のホーム球場での野次は絶品とか野球そのものとは関係がないことだけに興味があっただけのことで、ここで氏には立ち入らない。

野球はアメリカの国技の一つで、その国技で当事者たるアメリカ国民を熱狂させた二人。とりわけ大谷選手への熱狂。彼には、異文化理解も異文化間葛藤もほとんどない、なかったのではないか。体中の感性がアメリカに融合した外国人の大谷選手。またそれを支えた日本人通訳の水原 一平氏の気配りと謙虚さ。
国技の国アメリカから日本の野球に入る選手も多いが、それはあくまでも「助っ人」としてである。
大谷選手は一日本人として、アメリカの国技に熱風を、アメリカに限らず世界に吹き込んだのである。

Ⅱ:春日王関

では、日本の国技と言われる大相撲(法令上国技として登録されているわけではないが、古代からの歴史と伝統から国技として扱われている)ではどうか。多くの日本人を熱狂させた外国人力士はいるだろうか。高見山関を思い浮かべる人もあるだろうが、大谷選手ほどの熱狂さはなかった。
やはりモンゴル勢かとは思うが、相撲協会、NHKまたそれに肩入れする人にとって、大相撲はあくまでも聖なる競技であり、当然「道」の完遂こそ目指すべきこととして見られるのでどうしても?がつく。
例えば、将来それらの記録を破る力士はないだろうと言われる白鵬関。横綱前半期は、その片鱗を感じさせたが、後半期はあくまでも勝つことを至上とすることで批判を一身に受けた。
そこでは結果がすべて、勝てば官軍風潮の、現代社会の世相から抜け出すことができず、白鵬にいいように振り回された感を私は持っている。

それは相撲をどうとらえるかということであろう。私は、ここ何年か前から、相撲協会、NHKの姿勢に疑問を持っている。場所数の問題。地方巡業の在り方、財政問題等、私が想う伝統文化の姿ではない、商業性もっと強く言えば拝金性に陥っているように思えてならない。
白鵬関は今年(2021年)7月場所の千秋楽で照ノ富士関と競ったが、結果は白鵬関でも、内容は同じくモンゴル出身の照ノ富士関に横綱の風格を思ったのは私だけだろうか。
その相撲はスポーツとして扱われるが、はたして例えば野球とは同じスポーツではないように思えてならない。それは相撲SUMOで、しかも大相撲である。

モンゴル人力士は26人で、内直近の横綱5人の内モンゴル人が4人占めている。
しかし、ここでは『日韓・アジア教育文化センター』として、また二国間交流史の最も長い隣国、一衣帯水の国韓国からの挑戦者を思い起こしたい。

韓国には、4,5世紀からの歴史を持つ、韓国(朝鮮)相撲伝統競技「シルム」があり、そのシルムの漢字表記が「角力(すもう)」であるとのこと。これからも近似性に考えが及ぶが、ただシルムは組手から始め、相手を倒すことで勝負が決まる。韓国からの現時点で唯一の力士が、シルム出身の元幕内力士春日王関である。
以下、経歴等『ウキペディア』から適宜引用転載する。

春日王 克昌(かすがおう かつまさ、1977年生まれ– 現44歳)は、韓国・ソウル市出身。本名キム・ソンテク(金成澤、김성택)
3歳の時に父を亡くし、ソウル市から仁川市に移り、母子で裕福ではない生活を送る。小学校4年生の時にシルムにテコンドーから転向した。中学校、高校、大学でシルムに精進し、大学3年生の時に大統領旗統一壮士大会無差別級で優勝した。
その後20代春日山(元幕内・春日富士)に誘われ1998年春日山部屋からの誘いに応じ、大学を退学し入門。
稽古熱心で素直に指導を受ける努力家であったため、相撲文化の吸収も早く、時を経ずしてネイティブ並みの日本語を話すほどになった。
順調に出世して2000年1月場所に幕下昇進、幕下優勝も経験して、初土俵以来23場所後の2002年7月場所には十両に昇進し、初の韓国出身関取となった。十両3場所目の2002年11月場所では十両優勝を遂げ、翌2003年1月場所の新入幕では早々に10勝5敗の好成績を挙げて敢闘賞を受賞した。
この活躍を受けて、一旦は「日韓共同未来プロジェクト」の名のもと2003年にソウル市の蚕室(チャムシル)体育館(ソウルオリンピックの会場の一つ)で戦後初の「大相撲韓国公演」を開催することが決定されたが、中国などでのSARS流行にともなう渡航自粛で延期となった。
延期されていた韓国公演は2004年2月14~15日にソウル市の奨励体育館で、同年2月18日にプサン市の社稷(サジク)体育館で開催された。
この際の春日王の番付は十両であったため、本来なら海外公演には参加できないところ、相撲協会の特別の配慮で参加できることとなり横綱朝青龍以下の幕内力士40名に春日王を加えた41名の力士により行われた。
横綱春日王は土佐ノ海関らとともに、ソウル市内や釜山市内にある地元初等学校や日本人学校小学部を親善訪問して生徒たちに稽古をつけたりした。
また公演のプログラムでは、観衆に対し大相撲について解説するスピーチを行なったり、本人以外全て幕内力士で構成されたトーナメントで横綱朝青龍を破るなど善戦し、地元の観客を大いに沸かせた。
その後、膝の怪我から十両と幕内を往復する中、2011年十両優勝を果たした。しかし、その年に起こった八百長問題に連座し、引退。

【人物像】について、やはりウキペディアから一部を引用する。

  ◎性格が非常に温和で、土俵や稽古場を離れると良く人に気遣い
   が行き届き、ニコニコと笑顔を絶やさずに人当たりがよく、来
   日わずか数年とは思えないほど流暢な日本語を話すことなどか
   ら、後援会や春日山部屋周辺住民をはじめとしてファンの人気
   は絶大で、好調時はもちろんのこと本場所で連敗が続いた場合
   には、部屋にファンからの激励の手紙やファックスが多数舞い
   込む。

   ◎早くに父親を亡くし、幼少時から母親が掃除婦などをしながら
   身を粉にして自分を育てるのを見てきたため、母想いは人一倍
   である。初来日して春日山部屋での稽古を見るなどして相撲の
   迫力に触れ「ここで成功すれば、親孝行できるのではないか」
   と考えたのが角界入りを決心した動機であり、またその後の精
   進の原動力になっている。
  入門後は一切無駄遣いをせずに貯めたお金で母親のために住宅を
   購入してプレゼントしたほか、母親が入院・手術した際にはす
   ぐに飛行機で里帰りして見舞い、万一手術後の予後が芳しくな
   い場合には日本に呼び寄せて近くで看護したいと願い出てい
   る。

  ◎力士養成員(幕下以下のいわゆる「取的(とりてき)」)時代
  から、部屋が主催する地元川崎市内の教育機関や地域奉仕への催
  事に精力的に参加し、2002年6月11日に川崎市役所を表敬訪問し
  た際には、川崎市長から「春日王関は地元の誇り」とまで言わし
  めている。反面、ひとたび土俵に上がると真剣そのものでプロ気
  質に富んでおり、今まで何回も怪我をしてきたものの決して泣き
  ごとは言わず、観客の見つめる本場所の土俵上では多少の怪我程
  度では絶対にサポーターや包帯を付けないという信念の持ち主で
  もある。

春日王は八百長に連座し引退した。それから10年が経つ。罪を犯せば罰がある。その罪はその人の死後まで消えることはないのだろうか。私はそうは思わない。そこに罰に生きる重みがある。
春日王の人柄が、上記の言説通りならば、その苦しみは本人が最もよく心に留めているはずだ。
今、実績のある彼の働きが求められているのではないか、と【日韓・アジア教育文化センター】の一人として思うし、センターで得た韓国人の友人たちも同じではないかとさえ思う。
日韓関係は、1965年の日韓基本条約ですべて解決済みと日本側は言う。しかし、韓国は謝罪を求め、日本はその話しは済んだはずだと言う堂々巡り。ここにはいわゆる「政治」が跋扈(ばっこ)しているように思えてならない。そして中にはそのことから嫌韓、反韓日本人になる人もある。同時に韓国でも嫌日、反日に油を注ぐ人は絶えないのではないか。

韓国の映画技術は、また入場料を取って観せる姿勢は日本より勝っていると思う。韓国ポップ音楽に、韓国ドラマに心酔している人も多い。東京・新大久保、大阪・鶴橋を歩けば韓国に浸っている若者を数多く見ることができる。
モンゴルや西側諸国もいいが、かてて加えて主にシルムに励む若者にも眼を注いで欲しい。
そのことで、力士の粋な浴衣姿、個性あふれる化粧まわし、行司の装束の絢爛(けんらん)豪華、天井から吊り下げられた伊勢神宮の形式をかたどった屋根等、力士の取り組みの勝ち負けだけではない、いろいろな発見が改めて気づかされるだろう。そのことで何千年の文化交流史にみる共通性、相違性に気づかされ、間欠泉ではない真の友好国関係に貢献するのではないか。

隣人を愛すことは難しい。しかし、今時の若者は清々(すがすが)しい、と思いたい。

2021年9月19日

多余的話(2021年9月) 『厳修』

井上 邦久

盆と彼岸の途中の9月10日は若冲忌です。
疫禍のため打ち揃っての彼岸法要は今年も中止する旨の連絡が届きましたが、若冲忌は厳修(ごんしゅ?)します、とのことで朝から伏見深草の石峰寺へ向かいました。
盆に暑さを言い訳にしてパスしたので、春の彼岸以来の伯父・叔父の墓参でもあり供花を剪定してもらいながら、この二人には地元の「玉の光」を献上する方が喜ばれるなあといつもの様に思いました。
先に墓参りをして自分用の更地の草を抜いてから、若冲忌法要の末席に並びました。
この日だけ公開される石峰寺所蔵の若冲の真筆を住職の解説とともに拝見するのも毎年の習いとなりました。
今年は9月になって澤田瞳子さんの『若冲』を読んで、付け焼き刃の耳学問が増えたこともあり、小説の舞台での気分が昂揚しました。恙なく法要が厳修され、裏山の五百羅漢を巡り、山門を抜ける前に伯父・叔父から日本酒の「下賜(おさがり)」を厳修しました。

この夏に逝った今井常世さんは、米国留学や外資系経営で培った合理精神と信州戸隠神道の家風が見事に混合された方でした。
加えて折口信夫(釈超空)の高弟だった尊父の来歴を語ってやみませんでした。折口全集の年譜に「常世」と命名という記述とともに手書きの赤ん坊の絵が書かれていますねと伝えた時、高名な国文学者/民俗学者が身近になり、常世さんの含羞を感じました。

赤ん坊必需品のベビーパウダー(天花粉)の開発で、ジョンソン&ジョンソン本社や須賀川工場の皆さんとの交流が続き、中国南部の広西壮族自治区の桂林をベースキャンプとして奥地の滑石鉱区へ日米合同調査隊が何度も訪れました。
1980年代初頭の中国は「地方分権」「外資・先進技術利用」「外貨獲得」が奨励される掛け声先行の時代でした。
出張先で言葉と文化の橋渡しを担う今井さんの助手役として、田舎町で葡萄酒を捜し回り、ワイングラスを見つけては小躍りして一緒に磨き上げるような牧歌的な交流が続きました。
J&J本社の研究トップのアシュトン博士は龍勝県政府の宴席でバイオリンを奏で、山村の子供達にはゴム風船を配って人気者になっていました。一方でNASAの航空写真を内々に開示して桂林地区に良質の鉱脈が存在する根拠を教えてくれました。
また、滑石(タルク)鉱区にはアスベスト鉱が混在するケースがあること、アスベストの針状結晶の顕微鏡写真を示して発癌性リスクのメカニズムを強調されました。
中国の処女鉱区と米国の先進技術を繋ぎ、日本が「補償貿易」形式でトラックと滑石鉱石を交換する。秘密の花園での幸福な日米中合作の時代でした。

毎年の誕生日に合わせて、下鴨神社の糺の森での古本市と大文字送り火を楽しみにしてきた荒川清秀さん、今年は上洛を果たせず昇天されました。正月早々唐突に「余命数ヶ月」の連絡があり、愛知大学の豊橋キャンパスでの恒例の花見にかこつけ会食もできましたが、7月の押しかけ見舞いには「自主的に面会忌避・謝絶したい」との意向を受け、豊橋一歩手前の岡崎で引き返しました。
二十歳頃からの学兄です。着実緻密に中国語用例カードを蓄積し、その成果が中日大辞典にも採用されていました。後に東方書店「東方中国語辞典」の編纂に従事し、『近代日中学術用語の形成と伝播 地理学用語を中心に』で清末・幕末/明治の漢語交流を日本由来/中国由来の両面から分析して博士号を取得。
単純で粗雑な日本からの一方的な新語授与説に一石を投じました。ラジオ/テレビで講師を務め、今年も「テレビで中国語」テキストに連載寄稿をしています。

9月号は購入して「あの人の文章にしては珍しく余白が広い」と言う奥さんの言葉を思い出しながら余白の意味を味わっています。「12月号までの原稿は書きためているよ」というご本人の律儀な言葉も耳に残っています。

清末民初の教育学者に厳修(Yan Xiu・げんしゅう)がいます。天津での家塾を育てて南開大学の始祖の一人となり、海外の教育制度導入に注力し幼児教育・女子教育そして師範学校を設立しています。
恩師の高維先先生の思い出を綴るときに、恩師が天津で受けた百年前の教育事情や横浜の大同学校との関連について、厳修や教育史に詳しい朱鵬先生から教わりました。直前まで壮健そのものだった天津出身の朱鵬教授も昨年9月12日に東京で急逝されました。

「関西で唯一の文芸専門出版社主・涸沢純平が綴る、表現者たちとの熱い交わり模様、亡き文人たちを語る惜別のことば。奥さんと二人の出版物語。」と清楚な装幀をキリリと締めた帯が語る『編集工房ノア著者追悼記 遅れ時計の詩人』を著者・発行者のご夫婦から直に購入しました。
正直に言うと『1971年 僕の訪中ノート』を入手する目的で編集工房を訪ねたのでしたが、涸沢さんの語り口に曳き込まれ、帰宅後はなだらかな文章に惹かれました。
この散文詩のような追悼記を読んで、生きていくとは、去る人や逝く人をしっかりと見送り、その人を忘れないで、心の中で一緒に生き続けていくことなのだと思い定めました。落ち込むことなく9月を迎えています。

9月9日は毛沢東、9月10日は日本で最初のBSE罹患牛、9月11日はNYの3000人近い人たちの命日です。無反省に生き返らせたり、20年戦争を続けたりしてはなりません。牛のことは来月に綴ります。 (了)