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2019年3月1日

多余的話(2019年2月)   『空と風と星と詩』

井上 邦久

春の椿事が出来しました、という常套語からの書き出しです。
3月9日(土)、大阪女学院にて開催予定の大阪川口居留地研究会で報告することになりました。一年半前から居留地跡を中心に大阪市西部の福島・西・此花・港・大正の各区を歩いて来ました。その間、基本的な「居留地の歩き方」の心得や初心者コースを西口忠先生に教わってきました。その西口先生が事務局長を務める会の催しでの報告です。
アマチュアであることを先刻ご承知の監督からオールドルーキーがピンチヒッターに指名された感じです。辻久子女史なら競馬新聞の下馬評の文字数制限に随って簡潔に「未出走未勝利馬競走の員数合わせ」と表現されるでしょう。

個人的にはまさに椿事ですが、オッズは期待値の低い3桁以上なので入れ込む必要もないと判断し、ともかく限られた日数枠で簡潔に準備することにしました。
まず図書館でコピーしてもらった戦前の資料や偶然見つけた資料を取捨選択しました。コピーしたら読み終わった気分になり、頭には残っていないことは良くある話でして、専用ノートに筆記するのが基本であることを改めて反省し認識しています。そのような低次元のことですので椿事というには烏滸がましい報告でした。

開港後の大阪川口居留地から欧米系貿易商の多くや広東系買弁が神戸へ鞍替えした後にその跡地が基督教布教の橋頭堡になっています。その中の流れの一つに現在のプール学院の祖型があります。

イギリス聖公会系:永生女学校(18794番)→プール女学校(189012番)→東成区天王寺村勝山(1916/7)→聖泉高女(1940)→プール学院(1947~)
4番や12番とは、1868年の居留地26区画(後に10区画追加造成)の番号です。
1940年の聖泉高女への改称(英国人A.W.Poole主教にちなむカタカナの校名から漢字)は戦時下での「時代の要求・圧力・忖度」からでしょう。その聖泉高女時代の卒業生の一人に八千草薫さんがいます。

「今どき、二人に一人が癌になるのだから・・・」と言われても、癌になった者には何の慰めにも励ましにもなりませんでした。
八千草薫さんより70歳若い女子水泳選手が血液癌になったとの速報に、高校の同級生が「神様は・・・」と絶句したのが印象的でした。日頃、未来の都市計画やコミュニティについて歯切れのよい結論を出すことの多い人なので実に印象的でした。50歳代前半で骨髄ドナーの登録の戦力外通告をされたあとは賛助会員になっていること、移植可能なドナーと合致するケースが少ないこと、根本の問題として登録母数が少ないことを友人に話しました。
一過性に終わらせず骨髄ドナー登録や献血の活動が根付くことを祈ります。

2月22日、京都シネマで『空と風と星と詩』を観ました。
2016年に韓国で制作されたモノクロ映画の印象はとても深いものでした。立教大学英文科から同志社大学英文科に移るも卒業することが出来なかった尹東柱(創氏改名により平沼東柱)の短い一生(1917年12月30日、間島:現在の吉林省延辺朝鮮族自治区にて出生~1945年2月16日、福岡刑務所にて獄死)を描いた作品でした。祖父が村の基督教会長老を務める信仰の篤い一家に育ち、基督教系中学校に進学しています。
1944年2月22日、京都で従兄の宋夢奎とともに治安維持法違反容疑のため起訴されており、その取調べシーンを軸とした服役に至るまでの道程がカットバックの手法で説得力を生んでいました。

映画のタイトルとした詩集の題名を、詩的とは言えない表現をすると「故郷と家族と信仰と詩作」ではないかと感じました。
「言葉と文を失い、名前まで失った時代」にはこの四つを守り通すことは困難と葛藤を伴うものであったと考えます。
従兄は学徒動員を逆手に取って、軍隊内の反軍活動から武力独立運動への行動で葛藤を断ち切ろうとします。従兄は個人の尊厳や心情を大切にする尹東柱を理解し、愛情をもって運動や闘争から遠ざけます。そして、立教や同志社の関係者による協力で、尹東柱詩集を英文化して英国で出版する試みも発送直前に逮捕され挫折します。しかし、法的には整った形で作り上げた調書に自署を強要する取調官(どこか左翼運動からの転向者の匂い)の欺瞞と論理の矛盾を突きます、しかしそれを伝える言葉も日本語でした。

ここで、二人の詩人のことを添えます。
一人は、上海の朱實(瞿麦)老師(1926年9月30日~)。
昨秋「戦後初期の移動の軌跡」をテーマとした短文の準備をしました。
上海駐在時代からご本人に接してお聴きして知った1949年に台湾基隆港を脱出して天津港への移動、それに至る政治行動と高校時代からの文芸・音楽活動の軌跡をたどたどしく綴りました。

・・・一九三七年の中国語禁止と一九四六年の日本語禁止という台湾における苛酷な言語政策に象徴される「言語を跨ぐ世代」(孫芳明『新台湾文学史』)の一人として大戦直後の台湾文学の一翼を担った朱實青年の「勁草知疾風」の行動と表現の足跡を辿りました。

もう一人は、ユーリー・ジバゴ。
パステルナークの発禁小説が秘かにイタリアに持ち出されて翻訳出版、ノーベル文学賞を授与されるもソ連政府の圧力で「辞退」という今も繰り返されている事件の発端になった作品。
詩人の魂を持つ医師ユーリー・ジバゴがその小説の主人公でした。1965年、デビッド・リーン監督により『ドクトル・ジバゴ』は映画化され、1966年6月に日本で公開されています。2月25日にBSで放送され、1966年7月に山口県の映画館に何度も通ったことを思い出しました。
大阪の高校に転校して同級生が英語のペーパーバック版の小説(カポーティ『冷血』など)を鞄に入れているのに刺激されました。梅田旭屋書店(今のヒルトンホテル辺り?)を教えて貰い『ドクトル・ジバゴ』を買ったまま未読死蔵しています。主演のオマー・シャリフが心臓発作で逝去した新聞記事を見て、ジバゴと同じ死因だと思ったのは2015年でした。

尹東柱に戻ると、NHKディレクター時代の1995年「NHKスペシャル」でドキュメンタリー『空と風と星と詩―尹東柱・日本統治下の青春と死』を手掛け、その後も研究を重ねてきた多胡吉郎氏の文章の一節と良書の紹介に留めます。

・・・何もかもが「大日本帝国」の遂行する戦争に総動員され、朝鮮の文学者たちの少なからぬ人々が日本語での時局迎合的な作品に手をそめることになったこの時期、朝鮮語でのみ詩を書き続けた尹東柱は、韓国文学の暗黒期に燦然と輝くかけがえのない「民族詩人」として称揚される。

『生命の詩人・尹東柱『空と風と星と詩』誕生の秘蹟』(影書房)より
1919年から100年目の3月1日直前に、モノクロ映画と、詩人たちと、闘う人たちへの祈りを思いました。                     (了)

2019年2月8日

イギリスとアメリカと、そして日本 (二)

井嶋 悠

今回、教師になって以降出会った英語圏教師や保護者、帰国子女等から刻まれた幾つかの印象を基に、イギリスとアメリカについて思い巡らせ、私的に、現在と次代の日本の在りように思い到ってみたい。
英語圏と言っても、イギリスとアメリカ、更にはオーストラリアやカナダ等では、語法や発音、使用者の背景に在る意識も違うようだが、中高校での半世紀以上前の“典型的”公立学校英語しか経験がない私なので、大雑把に英語と表現する。
それに関する映画鑑賞経験を一つ。
アメリカの劇作家ニール・サイモン(1927~2018)の『おかしな二人』の映画化(1968年公開、ウオルター・マッソー、ジャック・レモン主演)を観た時、二人がイギリス人女性二人と会話する場面で、両者の英語の違いが、痛烈な皮肉を込めて際立って表わされていた、ように思う。ここにはアメリカから見たイギリスがあるのだろう。

また、イギリス・アメリカと言っても、どの地域を主眼に思い描いているのかでも変わるかとも思う。
イギリスの場合、連邦の四つの地域でイングランド及びスコットランドからのイギリスが、アメリカの場合、東部的要素も加えた西部地域のアメリカの印象が、幾つかの作品、幾人かのとの出会いから私には強いように思える。
ただ、極私的には、或る本に書いてあったアメリカ中部にあって、一年中ビーチサンダルで過ごす若者の話や、仕事で訪ねた或る日本人から聞いたこととして、太平洋戦争を全く知らず過ごしていた老人の話などに、広大なアメリカを感じ、いささか憧れたりもする。

尚、私が直接に訪ねた都市は、校務出張[帰国子女対象の学校説明会、日本人学校訪問、日本の塾への挨拶及び海外入試実施]での、それぞれ多くて2,3日の限られた滞在ではあるが、以下である。(都市によっては複数回訪問)

《イギリス》 ロンドン・カーディフ
《アメリカ》 ニューヨーク・デトロイト・ロスアンジェルス・サンフランシスコ・ヒューストン

それでも、空港で、ホテルで、駅で、街で、どことはなしに違いを感じたりはするが、所詮皮相的一面的である。やはり子どもであれ、大人であれ、生活を持ち得た人からの印象には確かさがある。

今回、結論を先に記し、それへの過程を幾つかの私的体験例から検証してみたい。
結論は、心底にあると想像される、イギリスの「静」の文化とアメリカの「動」の文化の確認が、戦後これほどまでにアメリカ化(ナイズ)している現代日本に必要なことであり、そのことが日本を顧みる重要な契機になる、という視点である。
例えば、諺「転がる石に苔むさず」は、英語で[A rolling stone gathers no moss]であるが、英米では解釈が正反対で、イギリスは日本と同様で、そもそもアメリカには苔への美意識はないとのこと。しかし、今日本でアメリカ的解釈が増えているのではないか。[転職のすすめ]情報が示す情況とは?或いは[あくなき挑戦][上昇志向]のイギリス的意味とアメリカ的意味そして日本的意味は同じなのかどうか。

「静」と「動」の意味内容を、事の善し悪しとは関係なく、簡単に確認しておきたい。
【静と聞いて連想される幾つかの、インターネット情報も参考に、浮かんだ言葉群】

しとやか・もの静か・穏和・穏やか・不動・静謐・無言(無口)・アポロン的・女性化

【動と聞いて連想される幾つかの、インターネット情報も参考に、浮かんだ言葉群】

快活な・挑戦的な・精力的・強気・攻撃的な・ディオニュソス的・男性化・饒舌・可変

一応、各々9語にしたが、「動」の方は非常に多くある。いかに動が、生にとって、否、現代にとって?優先されているかということなのだろう…。

私にとって最後の職場(日本私学校とインターナショナルスクール[略称:IS]の協働校)の10年間で出会った、後者側の学校で英・米人の各3人(女性1人、男性2人)の教師・保護者。
6人とも魅力あふれる人格を持つ人たちで、私自身交流が深かった人たちである。
彼ら彼女らを、上記語群と重ねると不思議なほどに、見事合致している。イギリスの静・アメリカの動。
上記にない言葉を付け加えれば、イギリス人のはにかみ(シャイ)。

アメリカ人の非常に興味深かった例を一つ挙げる。中堅男性教員の例である。
彼は同僚から典型的アメリカ人と親しみをもって言われ、国際バカロレア[略称:IBという欧米の教育制度の一つで、ここ10年程、日本でも注目されている]の、勤務校での責任者もしていた人物だった。
インター校教師の多くが世界を移動し、最後に祖国に戻るように、彼も在職数年してアジアの他のIS(その国で最も大きなIS)に異動し、日本に戻って来た時のことである。曰く、
「アメリカ人の世界は疲れる。会議でも、僕が、私が、と自己の考え、実績を主張、誇示する。それに引き替え、日本は静かでいい。」と。
彼は、日本人女性と家庭を持つことを夢みていたが、どうなっただろう?

私が在職中、ISでは校長も数年もすれば異動して行くが、或る期の校長は女性アメリカ人で、先の言葉群とは違って非常に温厚、穏和な方だった。そして夫のアメリカ人教師は、実に挑戦的で饒舌だった。日本在職期間中に離婚し、彼女はアメリカに戻り、彼はヨーロッパのISに異動した。

一方で、イギリス人女性教師は「初めて日本に来たが、日本はアメリカのようににぎやかだ」と驚いていた。

ここで、ロンドンで直接見た同じ日本人として憤りすら覚える或る男性のことを。
その人物は教育関係者で、一つの領域では名を知られ、私自身も知っている、イギリスを讃美している人物(男性)である。
逗留先のホテルのフロントでの一幕。ニューヨークヤンキースの帽子をかぶり、ひどくくだけた、時には優越的な様子でフロントスタッフと会話をしていた。パスポートで日本人であることを承知していたはずのスタッフはどう思っただろう?

かつてイギリスは、七つの海、全世界を支配する大英帝国と言われ、正に動の国として君臨していたが、今では過去の言葉であり、今日「連合王国」として、その王たるエリザベス2世は、国内はもちろん、世界中から敬愛され、かの故ダイアナ妃の死を悼んだ人は世界中に広がっている。
賛否いろいろな考えがあろうかと思うし、私自身浅学故誤解を招く言い方になるとは思うが、同じ植民地支配でも、被支配者への対応で、日本と英国では違いがあった旨、聞いたことがある。
大雑把なとらえ方だが、この発言が仮に当たらずとも遠からずならば、状況は違うとはいえ、香港の知人が言った「これでは、イギリス統治時代の方が良かった」との言葉に真実味を感ずる。尚、その知人は自身を中国人とは言わず、明らかに敢えて香港人と言っていた50歳前後の人物である。
ここには、動より静のイギリスに想いを馳せる私がいる。

このことは私の好きな音楽ともつながり、重なって来る。
例えば、ポピュラー音楽としても頻(しき)りに歌われる『アメージング・グレース』[Amazing Graceすばらしき恩寵の意]。この曲は、作曲者は不明だそうだが、作詞者は、18世紀後半のイギリス人で、初めは奴隷貿易に携わっていたが、後改心し、牧師となったジョン・ニュートンで、今日では代表的讃美歌となっている。
もう一つの例、クラッシック音楽。私はヘンデルの幾つかの曲をこよなく愛で続けていて、その大半はアダージオやラールゴの部分である。そのヘンデルはドイツ人で、同じドイツ人のバッハ共々イギリス宮廷に招かれ活躍し、後にイギリスに帰化したとのこと。

60年以上も前の小学校時代の音楽室に掲示してあった何人かの作曲家の肖像画。バッハは音楽の父とあり、ヘンデルは音楽の母とあった。
父性と母性の原理的なことで言えば、やはりアメリカは前者で、象徴的人物を挙げればジョン・ウエイン、一方イギリスは後者でエリザベス女王、と言えばあまりに偏り過ぎか・・・。
これは、クラッシクを本業とするオーケストラが、ポピュラー音楽を演奏する場合、編曲方法や演奏形態にあって、イギリスのロイアル・フィルハーモニーとアメリカのボストン交響楽団の[ボストン・ポップス]とでは、やはり前者の静、後者の動を感ずる。

高校で学ぶ「小論文」。
書き方として、序論―本論―結論、或いは漢詩からの応用、起承転結といった大枠を話した後、結論を先に述べその結論を立証する[演繹法]と、序はあくまでも序(前書き)で、そこから立証を進めて行く[帰納法]について、それぞれの一長一短を含め説明するのだが、読む側聞く側からすれば、前者にはディオニュソス的挑戦性を思い、後者にはアポロン的穏和性が漂う。
或るアメリカ現地校からの帰国高校生(女子)の言葉。「教室では決死的覚悟で発言し(英語力と言った問題ではなく)、自身の存在を教師、他の生徒に示していたが、日本に帰って来てどれほどほっとしたことか。」
その日本で、今優位的に教授されるのは演繹法ではないだろうか。自己PR[自己推薦]。プレゼンテーション等々において。
先の“典型的アメリカ人”と言われていた男性教師は、これをどう受け止めるのだろうか。

今年、ラグビーのワールドカップが日本で開催される。4年前、名将エディ・ジョーンズ氏(母は日系アメリカ人)コーチに率いられた統制のとれた素晴らしき野武士軍団日本が、強豪南アフリカに逆転勝ちしたこともあって、にわかファンも含め、楽しみにしている人が多い。
そのラグビー・フットボール。発祥の地はイギリス。それも[パブリックスクール]の名門校の一つラグビー校と言われている。
格闘技的要素の強いスポーツで、円錐形のボールを後ろへ後ろへと展開しながら、キックを交え15人全員が攻撃と防御を繰り広げ、芝生の上を疾走する。試合が終われば、選手たちは互いに讃え合い、ノーサイドとなる。
将来イギリス社会を担う若者たち[gentleman/lady(gentlewoman)]を養成することを目的とした、上流階級や裕福な家庭の子弟子女への規律厳しい中等教育学校パブリックスクール。
いかにも貴族たちが考え出しそうな競技と思えないか。

一方、アメリカでは、アメリカン・フットボール。 1試合で出場できる46人の防具で身を固めた選手が、基本的には攻撃と防御の役割分担の中でひたすら前へ前へと激しくぶつかり合いながら展開する。因みに日本語では鎧球(がいきゅう)(鎧(よろい))。
両方とも、同様に激しい動の競技ではあるのだが、ラグビーの方にどこか静的な要素、自然性を想い、アメリカンの方にいかにもアメリカ的動、現代的人為性を想うのは、やはりこれまたあまりに牽強付会か…。そうとも思えないが。

こうして限られた中ではあるが、イギリスとアメリカを私的体験から見て来た。
では、現代の日本はどうなのだろうか。
今、社会に、個人にダイナミズムを直覚している人は少数派だと断定的にさえ思える。停滞観、閉塞観、麻痺観・・・。それらに苛(さいな)まれ、苛立っている人々。老若を問わず。極度の清潔志向と退廃の混在。
日々見聞きすることがないほどに使われ、様々な問題原因をそこに収斂させるかのような言葉「ストレス」とその対応語「癒し」。それがためにこれらの語を敢えて意識的に使わない人も増えている。
身体と精神を厳しく鍛え、確かな成果を見出した或る競技選手が、今したいことは?とのインタビューに、しみじみと応えていた。
「静かな場所で独り過ごしたい」と。共感同意する人は多いのではないか。

井嶋家の菩提寺は曹洞宗である。その祖道元は「只管打座」を言った。ただただひたすら座禅し、心を一つに無念無想を目指せよ、と。
平成がもう直ぐ終わる。現天皇は日本の曲がり角を、その直覚から身をもって示されたようにも思える。
英語英語英語・・・国際国際国際・・・も結構だが、このままでは教育において、福祉において、男女協働において等々、いつまでも後進国のままで、徒労感と空虚感が溜まるだけではないのか。

日本が疲弊重篤、疲労骨折する前に、英語と国際の主人公、イギリスとアメリカを見つめ直すことは、日本を映し出す鏡となり、次代につながるように思うのだが、どうだろうか。
更に加えれば、そこからオーストラリア、ニュージーランド、カナダ、はたまたアフリカの独立国等々の英語圏の行き[生き]様(よう)も視えて来るかもしれない。
複数のもの・ことから調和と創造を図って行く伝統は日本の美点【和】ではないか。高世代だけの感想かもしれないが、今日本を覆っている軽佻浮薄に休止符を打つ時機と思えてしかたがない。

老子は言っている。
「足ることを知れば辱(はずかし)めあらず、止(とど)まることを知れば危うからず。以って長久なる可(べ)し。」と。

2019年1月31日

多余的話     『隔世の感』  (2019年1月)

井上 邦久

昨年末から冬眠をしていました。
犬が歩かないとどうなるのか?大学生の登山競走や橄欖球遊び(ラグビー)のテレビ観戦もほどほどにして部屋に籠りました。結果は「小人閑居して不善は為さず、また善も為さず」でありました。

万歩計が微動だにしない日もあるなかで、恩師の足跡を辿りながら、1925年頃の天津の進取的な初等教育や1935年頃の青島を支配した政治権力の移動を想像し、1945年前後の東京における中国人留学生(旧満州帝国系、モンゴル徳王系、汪兆銘南京政府系そして台湾からの旧内地進学系など)の動きの一端を知ることができました。
また、1967年のNHKテレビ中国語講座の立ち上げ経緯や日中国交正常化(1972年)前後の「中国語学習運動」を記録した資料を参考にして当時の事象を反芻しました。
「中国語を学ぶ事は闘うことだ」「君はなぜ中国語を学ぼうとするのか」といったことを問われる、まさに「運動」の季節から半世紀、まさに隔世の感があります。

政治と歴史の背景を調べながら恩師の足跡を綴りましたが、素人の思い込みや消化しないままの事柄を羅列しただけの拙文で終わりました。「不善」ではないけど、「拙」であり、「善」とは言えない所以です。
閉門蟄居の間にも興味深い記事や資料を届けて貰いました。お蔭で体は停滞していても、意識は遠い時空を駆け巡ることができました。
上海の信頼するパートナーから、1月3日の浙江省企業家フォーラムでの馬雲(アリババ董事局主席)の写真と発言抜粋記事が届きました。先ず精彩にかける写真が印象的で、同席していたパートナーも「こんな元気のない馬さんは見た事がない」とコメントをしています。
タイトルは「トランプを変えようと想うな、汝自らを改めよ」。
発言の要点をまとめると、
①中米貿易の発展に矛盾が生じるのは当たり前、矛盾がない方が不正常
②発展のスローダウンは悪い事ではなく、心地よいものである
③ご自分の企業を少し小さくし、少しスローダウンし、少し愉しくやるだけのことだ

上海のパートナーとは従来から「国」と「民」の関係について話し合っており(コインの裏表か?接着剤での貼り合わせか?溶融合金化されているか?)トップランナーとしての馬雲氏のことは常に話題にしていました。年初早々にこの記事を送ってくれた意図は十分に伝わりました。
昨年11月26日、日経新聞大阪で開かれた「深圳スピードとは何か?」と題するフォーラムで記録した、劉仁辰・深圳清華大学研究院副院長のハーフシリアス的な発言「日本の『慢』に学んでいる」というコメントを思い出しました。
鄧小平が初来日の折、新幹線の「スピード:『快』」に背中を押されている気がした、という正直なコメントから半世紀、『慢』と『快』が交差した両国でした。

環日本海経済研究所名誉研究員の辻久子さんから、「ロシアNIS調査月報」に連載されている玉稿を届けていただきました。
『ヤマルLNGに湧く北極海航路』と題した最新情報です。北極海に面したヤマル半島(北方遊牧民族のネネツ族の言葉で、ヤマルとは「世界の果て」の謂いのようです)。そこに多く分布する大型ガス田を開発し、LNGとして北極海航路を利用して輸出することを念頭に置いたプロジェクトである、と簡潔に説明されています。
事業会社の株主構成比率は、NOVATEK(露:50.1%)、トタル(仏:20%)、CNPC(中:20%)、シルクロード基金(中:9.9%)とあります。発電所やプラントの建設には日揮や千代田化工が加わり、砕氷船は韓国の大宇造船海洋社が建造。輸送サービスには商船三井やCOSCO(中国)が参画しているとのこと。
東航路はベーリング海を通ってアジア消費地へ、西航路は砕氷船を利用してベルギー経由で運ぶ構想。
初歩的な理解では、ロシアの資源に中国の資金・日本の建設物流ノウハウ・韓国の造船力が「荷担」(「加担」)している構図が見えてきます。

偶然ながら、清水稔先生(元佛教大学副学長)による近代中国史講座の初講義のテーマが「ロシアの南下政策」であり、当然ながら「不凍港」確保のための南下政策について詳しく教わりました。辻女史の今日的な「ロシアの北上政策」の報告と考察を拝読して、ここでも隔世の感を覚えました。

続いて、網走市からの3枚目の年賀状と『Arctic Circle』(北海道北方民族博物館友の会・機関誌)109号が届きました。
御縁のある網走には度々訪れ、お世話になっています。また高級魚の養殖用飼料の買い付けの為、真冬のハバロフスク経由でカムチャッカ半島に行ったことがあります。しかし、更に北の大地や漁場(猟場)にはなかなか行けません。
そこで北島三郎や細川たかしの唄を口ずさみながら、機関誌に掲載された北方民族の様々な写真やレポートを眺めて、北緯45度(稚内市)以北の各地(ヤマル半島は北緯72度)を思う事になります。
以前に北極海航路のことも報告されていましたが、今号の特集は「変わりゆく北極-環境・経済・社会 第3回」でした。
表紙には戸川覚さん(動物文学の戸川幸夫の孫)が知床羅臼町から撮影した国後島の作品に「羅臼町からわずか25キロの距離にあり、沖縄本島よりも面積が大きいことを知るものは今も少ない」という添え文がありました。

1月9日付の歴史作家のコラムを届けて貰いました。
能登半島沖の海上でトラブルを起こした韓国海軍駆逐艦「クァンゲト・デワン」、その艦名が高句麗の「広開土大王」に由来することから、北の強国で南への圧迫を加え倭軍とも交戦した高句麗と現在の北朝鮮を絡めた蘊蓄文章でした。
このことを韓国海軍との折衝体験が豊富な方に訊くと、この駆逐艦命名は北寄りの政策を採った金泳三大統領によるもので、軍部には非常に大きな不満があった、同様の不満が現在の政権にも向けられているとのこと。背景には様々な要因があるようです。

広開土王(クァンゲト・デワン)に触発されて、「ファーウェイ」というカタカナ表示について一言補足します。
正式社名は華為技術有限公司(Huawei technologies Co.,Ltd.)であり、中華の為にという元軍人の創業者の思いが籠っているはずです。カタカナ表記をせず華為技術(HUAWEI)と表示しているニュースレターを発信する京都大学東アジアセンターの見識に敬服しています。
韓国駆逐艦の名前も「広開土王(クァンゲト・デワン)号」と報道されていたら、もう少し意識や想像の幅が広がっていたと思います。多余的話(言わずもがなの話)でした。

七草粥で温まった頃から食材の買出しを再開、京都のボランティア作業場(「壬生の屯所」と自称)にも初出して、初場所初日の13日の住吉連句会から本格始動し、その夜は飲酒を解禁しました。
その初日から稀勢の里は三敗(惨敗)。弱い下半身を上半身の力でカバーしてきた取り口のツケが回った無残さを感じました。
稽古の基本である四股の大切さを改めて感じて、稀勢の里引退の日から四股を踏み始めました。青島駐在時代にテニス場で四股を踏み続けて顰蹙を買って以来のことです。
正しい重心の掛け方で、ゆっくりと四股を踏むのはとても難しいのですが、地鎮の祈りも込めて、保健体育の課目に加えています。(了)

2018年12月26日

多余的話(2018年12月)  『犬も歩けば(serendipity)』

井上 邦久

横浜での単身生活からボストンを経て、大阪府茨木市に着地してから1年が過ぎました。長年の単身赴任生活・駐在生活はすべて集合住宅(マンションという語源から程遠い20平米から100平米まで様々でした)で生活しました。
着地した茨木市で阪神淡路大地震以来の激震に遭遇し、その後の台風や猛暑のため変則三階建ての陋屋は「一部損壊」の認定を受けました。数年前の補修の効果か、風向きのせいか雨漏り被害はありませんでした。
町の屋根にはブルーシートが残り、多くの家の修理や建替え工事は年を越すことでしょう。
大嘗祭費用関連の論議と比べるほどの大げさなことではありませんが、庶民にも傷みは残ります。

北摂の半分青い梅雨の屋根

そんな夏が過ぎ、ようやく定住生活のペースが出来つつあります。小学校の課目に例えると、
最優先は「保健体育」。この3年に二回受けた手術後の検査とリハビリテーションの経過は順調です。転移や再発は見つからず、生活の中での自然な快癒を勧める外科医の指導に従い、よく食べ、よく歩き、よく寝ています。

そこで「家庭科」。食いしん坊で市場散歩が好きなので、食材を求めてスーパーマーケットをハシゴし、海藻・野菜・青魚の市場価格に詳しくなりました。単身生活時代のまま「調理」は依然として大切な趣味です。

「理科」「算数」は当然飛ばして、「国語」はヤッツケ仕上げの連句や俳句です。先日、神奈川近代文学館での公開連句会に、今年も「文学と山岳」を友として暮らしている先輩と参加しました。辻原登館長や歌人の小島ゆかりさんとの相撲談義の遣り取りも愉しかったです。

続いての課目「外国語」。集中講座ではなく毎週出講し「ビジネス中国語」の単位認定を意識しています。
ビジネスとは何か?今週のホットトピックスは?など新聞を読まない今どきの大学生に噛み砕いて話しています。

次は「歴史」。昨年秋からのテーマ「大阪川口居留地・川口華商」について、堀田暁生会長(大阪市史編纂室長)や長崎華僑研究の地元各位の御指導を頂き、少しずつ歴史探索をしています。
晩学初学ですので「あれもこれも」と広く浅くなりがちなことを反省しています。先ずは関係する現場を歩き回り、五感六感の錆び落としをすることが脚部関節手術のリハビリテーションに繋がれば幸い、というレベルです。遠い道のりになるでしょう。

最後は「図画工作」、中津市自性寺での池大雅や沖縄の佐喜眞美術館長の講話が印象に残りました。映画は塚本晋也監督・自演の『野火』。オマケの制作映像での独白に注目しました。NPO「ロバの会」での封筒作りでは、糊貼りに特化して、苦手なハサミ作業は先輩方にお願いしています。

「音楽」はサボって、今年は舟木一夫コンサートにも行っていません。

          小春日の阿蘭陀坂に西の風

酷暑が過ぎてからは戌年らしくよく歩きました。11月15日も自宅から歩いて通える立命館大学茨木キャンパスでの講義のあと、東奥日報特別編集委員の松田修一さんと再会。
お初天神の亀寿司は津軽の魚には及びもつかず、美々卯のうどんすきも又にして、福島天満宮脇の花鯨のおでんにしました。覚悟していた30分の行列では春の弘前以来のことをお喋りするつもりでした。
しかし、来阪目的は東奥日報連載中の「斗南藩」取材であり、戊辰戦争を「勝てば官軍」とは逆の視点から綴る為に会津藩・斗南藩ゆかりの末裔の方を訪ね歩いている、今回は会津戦争娘子隊の中野竹子・優子姉妹の末裔、優子のひ孫の高蘭子さんの取材と聞いて衝撃を受けました。松田さんは「やはり高さんをご存知でしたか・・・」と翌朝の奈良ホテルでの面談取材への同席を承知してくれました。

短歌結社を主宰し、奈良県唯一の定期月刊誌『山の辺』の発行者として著名な高蘭子さんは、恩師である高維先先生の奥さんです(先生は革命後の現代中国語で「愛人・ai ren」と呼んでいました)。2011年の会合で高夫妻とご挨拶してから御無沙汰が続いていた処に青森の松田さんを介しての再会でした。
一人娘で俳句・短歌を教える珠實さんも交えた取材の邪魔にならないように慎みながら、会津・函館・青森とつながる一族の苦難の歴史を聴かせていただきました。ハルピンでの飛躍を企図した尊父と多くを語り継ごうとはしなかった母堂とともに大陸へ渡り、女学校では中国語も習った蘭子さん。敗戦直後の東京で、山東省青島市から渡日して東京大学に在籍していた高維先先生と巡り合った経緯は初めてお聴きすることばかりでした。

1967年、NHK中国語講座の放送が始まった翌年、高校二年生で読み始めたテキストには、講師の相浦杲望月八十吉、ゲストの金毓本高維先王蕙茹の各位の名前がありました。とりわけ高維先先生の温顔と丁寧な発音は印象的でした。それが中国語と高先生とのご縁の始まりでした。
初級で暗記した美しい「梅花開了、桃花開了、胡蝶飛来飛去」のフレーズは折に触れて甦ってきます。

「井上さん、先生は来月100歳になるのよ。日本政府から顕彰状が届いたわ」と蘭子さんからお聴きして、恩師の長寿を喜びました。NHK中国語講座が既に50周年を超えたことにも気付かされ感無量となりました。100歳の顕彰状の送り主が、会津藩士を辺境の斗南に押し込めた薩長藩閥政府の末裔であることは牽強付会に過ぎ、言わずもがな(多余的話)のことでしょう。

12月15日付けの東奥日報には、松田さんがあれもこれも書きたい思いを削りに削った文章が高さん母子のカラー写真付きで大きく掲載されていました。20日には届いた新聞と印画した写真を持参して手渡しました。その折、秘かに蘭子さんが見せてくれた昭和20年発行の東京大学の学生証には、若くきりりとした青年の写真がありました。お祝いの拙句をしたためお渡し致しました。

        山の辺に落地生根紀寿の春            (了)

2018年12月26日

イギリスとアメリカと、そして日本 【一】

井嶋 悠

やはり政治と経済と、その延長上の軍事が、国際社会に在って「生き抜く」根本の力なのだろうか。日本の今の政治、経済を、私なりの視点で視る限り、不信と疑問は多く、謙譲を美徳とする(はずの)日本と相反し、ふと帝国主義との言葉さえ過ぎったりする。
こんな見方は、若い人たちからすれば杞憂のお笑い草なのだろうか。官僚でも大企業社員でもない若い人たちを何人も知っているが、彼ら彼女らの日々の生活を知れば、そうとは思えない、と同時にもっと“怒りを!”との老いの、しかし「歴史は繰り返す」を切々に思う、私がいる。

パクス・アメリカーナによる世界平和?どう表現するのかは分からないが、アメリカーナの箇所をそうはさせじと志向するロシア、中国と、アメリカーナの忠実な下僕日本。
そのアメリカの基礎の一端を担った、かつて「太陽の沈まない国」とさえ言われたイギリスは、EUからの離脱問題で今も揺れている。否、欧米自体が混迷の最中にあるようにも思える。
グローバリズムと「船頭多くて船山に登る」。船頭の根幹、根柢は文化、文明ではないのか。多文化主義、文化相対主義との言葉の重み。

今から120年余り前、日清戦争、日露戦争に勝利し帝国主義列強国家となった日本。
1910年、韓国を併合して朝鮮と改称し、朝鮮総督府を設置したその翌年の明治44年、夏目漱石は『現代日本の開化』と題して、和歌山で講演をしている。その核心(と私は思う)部分を引用する。

――西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。(中略)西洋の開化は行雲流水のごとく自然に働いているが、御維新後外国との交渉をつけた以後の日本の開化は(略)、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になった。(中略)
こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念を懐(いだ)かなければなりません。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意でいる人のあるのは宜しくない。それはよほどハイカラです。宜しくない。虚偽でもある。軽薄でもある。(中略)
大学の教授を十年間一生懸命にやったら、たいていの者は神経衰弱に罹(かか)りがちじゃないでしょうか。ピンピンしているのは、皆嘘の学者だと申しては語弊があるが、まあどちらかと云えば神経衰弱に罹る方が当たり前のように思われます。学者を例に引いたのは単に分かりやすいためで、理屈(りくつ)は開化のどの方面へも応用ができるつもりです。――

太平洋戦争で英米を含む連合国に対し無条件降伏し、内的外的要因重なる中で、戦後半世紀も経たない内に、世界の経済大国となった日本。その日本と漱石の時代の日本を同次元でとらえ、なんでもかんでも今の日本に当てはめる気持ちはないが、
例えば私の職業であった中等教育学校教師体験で言えば、「横断的総合的学習」の体系、現場組織背景に触れず、その悪しき面のみをとらえ廃止し、一方で、その学習に通ずる(と体験上思う)部分がある、西洋(欧米)の「国際バカロレア」に、なぜ時に一方的に傾くのか、また日本型?インターナショナルスクール(主に初等部)が今なぜ乱立するのか、が分からない。漱石の言う「ハイカラ」化なのだろう。

その漱石は、1900年(33歳)、文部省よりイギリス留学を命ぜられる。
留学は、大学卒業後、東京高等師範(現筑波大学)英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに疑問を抱き、2年で辞し、1895年、『坊っちゃん』(1906年刊)の舞台である四国・松山の中学校英語教師になったが、1年で第五高等学校(現熊本大学)に異動した時代のことである。尚、漱石は、その異動した年に見合い結婚をしている。
国費留学生とは言え非常に限られた支給のためイギリスでの生活は欠乏状態であった。
そもそも厭世的で、神経衰弱な気質であった上に、留学課題が英文学研究ではなく英語教育法であったこと、また留学時の窮乏生活も手伝って精神衰弱度は強くなるばかりであった。そして予定を早め、2年で帰国している。

この間の生活については、盟友であった正岡 子規(漱石留学中に逝去)宛の手紙『倫敦消息』(1901年)及び彼の心の状態を心配した下宿の女主人に薦められて始めた自転車挑戦の日々を書いた『自転車日記』(1903年)でうかがい知れる。
そこでの表現は『吾輩は猫である』(1905年刊)、『坊っちゃん』につながる、武骨にして洒脱、繊細な“江戸っ子”ぶりの漱石像を彷彿とさせ、思わず笑みがこぼれる。
例えば、こんな具合だ。

「…シルクハットにフロックで出かけたら、向こうから来た二人の職工みたような者がa handsome Jap.といった。ありがたいんだか失敬なんだか分からない。」[倫敦消息より]

もちろん日本のことも気にかけている。『倫敦消息』の(一)の初めの方で、

「日本の紳士が徳育、体育、美育の点において非常に欠乏しているという事が気にかかる。その紳士がいかに平気な顔をして得意であるか、彼らがいかに浮華であるか、彼らがいかに空虚であるか、彼らがいかに現在の日本に満足して己らが一般の国民を堕落の淵に誘いつつあるかを知らざるほど近視眼であるかなどというようないろいろな不平が持ち上がってくる。」と。

これらは明治の遠い昔の話として片づけられるだろうか。少なくとも私にはそうは思えない。

昨年2017年ノーベル文学賞を受賞した、英国籍の日本人カズオ イシグロ(石黒 一雄)氏は、受賞記念講演の終わりの方で以下のように述べている。(幼少時に父親の仕事の関係で渡英し、第1言語が英語ゆえ英語の講演であるが、私にはそのような英語力はないので土屋 政雄氏の翻訳を引用する。)

「科学技術や医療の分野で従来の壁を破る発見が相次ぎ、そこから派生する脅威の数々が、すぐそこまでやって来ています。(略)新しい遺伝子編集技術が編み出され、人工知能やロボット技術にも大きな進歩があります。それは人命救助というすばらしい利益をもたらしてくれますが、同時に、アパルトヘイトにも似た野蛮な能力主義社会を実現させ、いまはまだエリートとみなされている専門職の人々を巻き込む、大量失業時代を招くかもしれません。」

「知的に疲弊した世代の疲弊した作家である私は、この未知の世界をじっと見据えるのに必要なエネルギーを見つけられるでしょうか。」

「亀裂が危険なほど拡大している時代だからこそ、耳を澄ませる必要があります。」

この講演の表題は『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』(原題:MY TWENTIETHCENURY EVENING  AND  OTHER  SMALL  BREAKTHROUGHS)で、「ブレークスルー」の意味を辞書で確認すると[①敵陣突破 ②(難関などの)突破、解決 ③(科学、技術上の)画期的躍進]とあり、表題と内容に得心し、同時に氏の優しさに満ちた謙虚さ、鋭く広い想像力が、氏の小説家としての自覚とともに想像された。作品『日の名残り』『わたしを離さないで』に通ずることとして。

一方は、日本語を第1言語とし、明治時代に官命でイギリス留学をした日本人作家、一方は、幼少時にイギリスにわたり、英語を第1言語とする現代日本人作家。
時代を越えて通底する社会への眼。その指摘が現実とならないためにも、とりわけ若い人たちが“飼い馴らされた羊”となり、権力者に利用されないよう確(しか)と心掛けて欲しい。ここでも10代の、学校、家庭、社会の教育の重要性と怖れに思い到る。
因みに、イシグロ氏は現在64歳で、私のような老いではない。
明治時代の日本からの留学は、英・独・仏の西欧が中心だったが、その中にあって、現在の津田塾大学を創設した津田梅子は、女子教育の伸展施策を受けて、明治4年(1871年)岩倉使節団(使節・随員・留学生の総勢107名)の5人の女性の1人として6歳でアメリカに赴き、在米11年間、研鑽を積み帰国している。

現在、日本の海外留学状況はどうか。
短期語学留学等々での形態、年齢、留学地での環境等、多様な留学時代にあって、2017年の留学生状況は以下である。[出典:『一般社団法人海外留学協議会(JAOS)による日本人留学生数調査2017』
①アメリカ  19,024人  ②オーストラリア  17,411人  ③カナダ  12,194人  ④ イギリス    6,561人   ⑤フィリピン  6,238人

以下、フランスは⑩位で1,374人  ドイツは⑯位で432人、6位以下は中国、韓国、シンガポール、台湾等、アジア圏が多く占めている。

なぜその国なのか。どんな研鑽をしたのか。その成果はどうなのか。日本に、自身にどんな還元ができたと考えているか、幾つか聞きたいとは思うが到底できないことであり、それに近い内容を改めて検索し、現代日本と海外留学について学べられたらとは思う。
ただ、数字から見れば、アメリカの影響の強さが想像され、なおのことその内容に関心が向く。

私が中高校生時代学んだ英語が、アメリカ英語なのかイギリス英語なのか分からないが(何となくイギリス英語だったのかとは思うが)、教師に外国人はいなく、英語圏外国人と会話したことは皆無であった。
初めて英語圏外国人と会話したのは、最初の勤務校(アメリカ人女性宣教師二人によって、明治時代に創設された女学校)である。
その学校では、当時「サバティカル」制度(海外1年、国内半年)があり、幾つか考えた結果、国内の大阪外国語大学大学院(当時)日本語科に留学した。理由は「日本語知らずの日本人で国語科教師」を痛感していたからである。痛感させたのは、勤務校への高校留学生(1年間)であり、帰国生徒であった。その後の人生を想えば、この選択は間違っていなかったと思っている。

次回(二)では、教師になって以降出会った英語圏教師、保護者、高校留学生また帰国子女等々のエピソードの幾つかを発端にして、イギリスとアメリカについて思い巡らせることで、私的に現在と次代の日本の在りように思い到ってみたい。

【日韓・アジア教育文化センター】http://jk-asia.net/『ブログ』への、これまでの投稿内容の空疎さは、冗長さ共々重々承知している。それでも娘の死を契機として、甚だ分不相応な言葉を使えば啓示を得、自照自省を恥じらいひとつなく続けて来たが、来たる年も心変わりせずに、と言い聞かせている。
その空疎さについて補足する。
例えば平均寿命50~55歳前後の昭和初期頃の文人、と限定しなくとも、「昔は大人(おとな)が多くいた」と言うその大人たちの死生観、社会観と比すと、その表現、内容が平均寿命80歳時代にもかかわらずあまりに空疎であるとの意味である。
つくづく人の進歩について思い知らされ、その眼差しは即自身を照射し、そこから次の世界?に赴ければとの奇妙な心意気ともなったりする。
約5000字の『老子』を著した老子(老聃(たん))は、執筆後に消息を絶った、とか。

 

2018年11月9日

多余的話 (2018年11月) 『11月3日』

井上 邦久

「上海歴史散歩の会」顧問のC教授夫妻の要求にはかなり厳しいものがあります。
C教授は日中交流史の調査研究や学会参加のために屡々来日されます。令夫人も日本に留学し歴史を専攻されており東京弁と写真撮影に秀でています。そのお二人と日本で散歩する時「歴史を語れる場所」「写真撮影を楽しめる場所」「印象に残る料理屋」そして「外国人観光客が訪れない静かな場所」という四条件が基本要求となります。

過去、北品川では四条件を満たすことが出来ました。品川神社(徳川家康が関ケ原へ向かう前に戦勝祈願した縁から幕府の加護)や荏原神社(明治元年、天皇東京行幸の際に立ち寄った縁から皇室の加護)という歴史の交差点が北品川にあります。旧東海道ゆかりの寺や石碑も多い商店街で繁盛している「そば処 いってつ」で新海苔・浅利生姜煮・蕎麦味噌から始まり、東京の地酒「澤乃井」が進みます。かき揚蕎麦まで箸も進んだ後の腹ごなしに御殿山への坂を上り、大使館や高級住宅街の一角に佇む原美術館まで歩きました。
幕末の志士・明治の米国官費留学生・大正の金融界の重鎮であった原六郎の住宅址に創られた原美術館はいつも静かな都心のエアポケットのような空間です。クラシックな建築とモダンアートの融合を体感してお開きとしました。

大阪で合流した時は、JR新快速で石山へ。瀬田川を遡った山間に豪農の屋敷跡を訪ね、三段弁当を食べた広間や茶室では令夫人のカメラが大活躍しました。
石山寺ではさらりと流し読み風に見物したあと、京阪石山寺駅からレトロな路面電車に乗り、たびたび歴史の分岐点となった瀬田の唐橋を眺めては壬申の乱・源平の合戦へ思いを馳せました。暮れなずむ琵琶湖沿いを浜大津へ、そして逢坂山越えの京都三条までの移動をしている観光客は内外問わず見かけませんでした。仕上げは京阪特急で一気に大阪へ移動して、京橋駅下の居酒屋での鯨飲でした。歴史の要素が若干乏しかったと反省しました。

この秋、学会に参加するご夫妻から京都七条に宿を取ったとの連絡がありました。散歩コースについては言外に四条件を滲ませながら「お任せします」とのことでした。
扨て、今回は?と思案して「世界が注目する伏見稲荷大社」ではない静かな伏見に決めました。
京阪七条駅で待ち合わせ、伏見桃山駅で重い荷物を預けてから近鉄桃山御陵前駅前の親切な地図を利用して、丘陵から武家屋敷跡、町人町址そして酒蔵が並ぶ水辺までの地勢をおさらいしました。京阪電車・近鉄電車そしてJR奈良線の線路が並走しており、大手筋通は三つの踏切をあっさり越えていきます。大和から、大坂からの街道や河川水運の拠点の伏見港が一つの束のように集まる京都東南部の地に、秀吉は伏見城を建て、家康は伏見奉行所に小堀遠州を据えて禁裏・武家・豪商そして文化人を結んだ「寛永の雅」をプロデュースさせたのもむべなるかなと思います。
慶応4年(改元後の明治元年1月)の冬、この地で鳥羽伏見の戦の火ぶたが切られ、戊辰の役の歳が明けていったことは正に言わずもがなのことだと思います。

伏見桃山御陵とは明治天皇の陵のことで、近接する東陵には皇后の陵墓があります。駅から続く大手筋通を真っ直ぐ登り、樹々に囲まれた人けのない砂利道を歩くと、桓武天皇柏原御陵に通じる脇道がありました。しかし台風による倒木被害が著しく通行止めでした。やがて開けた空間に明治天皇の上円下方墳が見えてきて、C教授はその時の印象を、

宁静的山上,没有显赫的标志与警备,只有一片高大的杉树林。

(寧静なる山上、ことさらな標識や警備もなく、ただ高大なる杉の樹林があるのみ)と綴られています。

東京の明治神宮とはまったく異なり、「明治150年」などと喧しい世俗から遠く離れた、言わば忘れられた空間で三人は暫し感慨をもって過ごしました。

明治天皇の遺言で伏見城址を陵墓として定められ、且つそこは桓武天皇陵に程近い処でもありました。平安京を拓いた天皇と平安京を棄てた(捨てさせられた)天皇がすぐ近くで眠っていることへの感慨がありました。
小雨も降り始めたので元の道を下り、150年前の激戦地の御香宮神社で雨宿りしました。

そこで見かけたポスターには「11月3日は明治天皇の誕生日なので揃って参拝しましょう」とあり、幟を立てた集団参拝の写真がありました。その写真の賑々しさと体験したばかりの静かな空間との落差にも感慨がありました。
昭和二年に、明治天皇の誕生日(天長節)を「明治節」として祝祭日と定めており、その名残が「文化の日」に変化したようです。

「文化の日」の確かな定義はよく分かりませんが、その日は晴れるという気象統計で知られ、統計通りにいかない競馬の天皇賞前後であり、文化勲章や序列の意味も知らない各種勲章が大量に叙されるといった季節の祝日としての「文化の日」であり、明治節は忘れていました。
それよりも新聞の読者投書爤で見つけた「11月3日は日本国憲法の誕生日」という表現が新鮮でした。1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に発布されたので後者が憲法記念日とされて黄金週間を形成するので意識して来ましたが、11月3日と日本国憲法との関係はトンと忘れていました。
となると、明治天皇と日本国憲法の誕生日が同じ日であるということに今頃になって気づいたというお粗末な話です。
神社から少し歩くと京町通、鳥羽伏見の戦いの弾痕を格子に残す料理屋「魚三楼」で遅い昼弁当を食べ、足を休めました。そこからはお定まりの転落コースに陥り、月桂冠の工場「見学」をした後、吟醸酒房「油長」での伏水(伏見)の酒の呑み比べはC教授のオゴリでした。

四条件には、更に伏流した条件として「日本酒」が存在していますが、令夫人の手前もあり不文律扱いにしています。ですから、「歴史を語っても酒がなければ、単調であり味わいに欠けるよね」といった自己弁護の会話は歩きながら声を潜めてしています。

ただ、人のつきあいには明文化された「条件」より「不文律」が大切な時もあります。
これは「法治」とか「人治」とかの難しい問題とは別の世界のことであり、これもまた、言わずもがなの話(多余的話)です。          (了)

2018年10月12日

帰国子女[教育]の記事に触れて~今もなお続く日本人の“孤島”気質~

井嶋 悠

先日の奈良県天理市の「村八分」問題が報じられ、話題となっている。
村八分は、疎外、排斥であって、要は「いじめ」の一形態で、そう考えれば地域に限らず人の集まる所、学校、会社等到るところで在る。
以前、長野県でのこんな例も聞いた。それも長野県に限らずよくある話として。
県や市町村の、時には国の、行政が、過疎対策として移住奨励を発信し、田舎暮らしに憧れ都会から自宅を処分し、家族で移住して来る家族。そこには、自然は在るが、人の情はなく、それどころか疎外、排斥され、一年も経たずに近くの都市圏に移る例が、少なからずあるとのこと。 こういう施策を概念的、官僚的というのだろうが、この村八分は、英語にもあるので世界共通のようだ。ニホンザルの世界にもある旨聞いたことがあるから、高等動物の哀しい性(さが)なのだろうか。 高等ゆえの生き辛さ……。

私たちが10年前から住んでいる北関東の、幾多の温泉と山々、高原が広がるいわゆるリゾート地を有する市で、私たちの一画は10軒の家があり、内(うち)、外来者は私たちを入れて4軒である。ここでも近隣地住民を含めた自治会組織があるが、ゴミ捨て等々での疎外はない。それどころか、隣家の人が、自治会に加入するとあれこれ役割が回って来るので都会から来た人は入らない方が良い、とまで言ってくださったほどである。
ただ、都会からの人の中に、敢えて一切関わりを持とうとしないと言うか、自身から周囲を疎外している場合がある。これまでのその人の歴史がそうさせるのか、地方者を見下しているのか分からないが、幾つかの言動行動から察するに後者だと思う。

これらの疎外、時に蔑視は国間・地域間問題にもつながる。対韓国・朝鮮や、対被差別地域等々。

と言えば、「お前はどうなのだ?」と詰問されるだろうが、自身の70有余年で一度もない、と断定的に言える。的、と記したのは、自身は全く意識していなくとも、される側からすれば《している》と取られることもあったかもしれないからである。例えば、中学生時代、被差別地域問題について、東京から転校した私は、正しく“身をもって”知らしめられた経験を持つので。(これについては以前投稿したのでこれ以上は措く。)

 

私の最初の勤務校は、二人のアメリカ人女性宣教師が、明治時代に創設したキリスト教(プロテスタント)主義の、歴史ある中高大一貫教育の女子校だった。 今から50年近く前のことである。勤務して数年後、高校1年次での「帰国子女受け入れ校」の公式意思表示をし、私はその校務に携わる機会を得た。実に新鮮な経験で、以後の教師人生にあって、その問題は常に私の中に意識されていた。
ところで、この「子女」との表現については反対があるが、辞書の意味説明も含め、私は「子女」で良いと考えている。

受け入れを始め数年が経ったとき、アメリカからの現地校に在籍していた或る帰国生徒が朝の礼拝時[中高生約900人が講堂に集まり行う]、海外体験を話す機会があった。一喜一憂を語るのだが、次の一節に今でも忘れない衝撃を受けると同時に、然もありなんとも思った。
何人かの日本人の母親の会話を聞き、彼女は悲しみと学びを得たと言うのである。母親たち曰く、

「アメリカにまで来てアジア人と付き合いたくはないわよねえ」

この延長上に、今もある英語ができる(それも聞く・話す)=優秀、そこから生まれる嫉妬、また英語を第1言語とするアジア系アメリカ人等教師への拒否反応がある。
帰国子女を特別視することから生れる妬みからの反発、疎外そして村八分感情の抱く子どもと大人。私自身その様を幾つも見聞きした。一例。

「あの子たちはずるい」

勤務校は、特に関西では有名な難関校で、且つ英語教育は非常に充実し、中学部に入学するに当たり、進学塾の優等女子生徒が多く、『帰国子女特別入試(編入試験)』への抵抗感である。
尚、その勤務校は20年ほど前から中高大内部改革の一環もあって受け入れ校から撤退している。

 

これらの事例は、今、解決、解消しているとは、教師生活最後の10年間勤めた『新国際学校』と称されていた(今、いるとは言えないと私は思っている)、欧米系のインターナショナル・スクールとの日本で初めての協働校での様々な経験からも、到底思えない。それどころか、一層増しているようにも思える。
少子化と高齢化の現代日本が抱える大きな問題の、学校社会[学校教育]での側面がそこにあると思う一人だが、それについても何度か投稿しているので省略する。

つい最近、朝日新聞と[GLOBEインターン]という団体の方による記事を知り、愕然とさせられた。
帰国子女教育に携わる中で、40年も前に多くの関係者から教えられ、自覚した「帰国子女教育なる表現をなくすこと、なくなることが帰国子女教育である」に共感していた一人だったから。それが今も旧態然としてある事実。
社会変革、意識改革の実際の途方もない難しさ…。
因みに、帰国子女を表わす英語はないと欧米の教師たちは言っていた。世界を移動し、人生を深め、最後は祖国(母国)に戻ることの素晴らしさを思っている人たちなのだから。
以下、一つの啓蒙として書かれたと思われる二つの記事を基に、私なりの教師経験で得た私見を記す。

尚、現在、小中高校での帰国子女[海外在留期間1年以上]は、毎年12,000人を超える。
そもそも「帰国子女(教育)」を採り上げる場合、その帰国子女の海外在留時の期間、年齢及び在籍校を明確にしなければならない。それは、今もって帰国子女=英語ペラペラの偏見が蔓延し、「隠れ帰国子女」なる事象がなぜあるのかを理解するためにも肝要なことである。
具体的言えば以下の諸事項である。

○期間及び年齢  10歳前後に本人の言語根幹ができる(言語臨界)との学説に従えばなおさらで、どの年齢で、何年間、どういう学校に在籍し、家庭での言語はどうだったかによって、本人の言語力、学力等が多様となる。

○在籍学校種類  保護者の赴任等地域によって選択肢が限られる場合もあるので一概に言う危険性がある。

考えられる在籍学校種類
・日本人学校
・現地校(主には英語圏]
・インターナショナル・スクール(英語を第1言語とした国際学校)
[注]上記2校で「ESL(English as aSecond Languageの略)」クラスの
有無も重要な要素となる。
及び
・補習授業校(土日のみ開講で校長、教頭は日本からの派遣、教員は現地採用)への在籍有無

備考
上記の学校で複数校可能な場合、本人と保護者の帰国後をも視野に入れた意向が更に重要となる。
その他、塾通学や通信教育受講、また家庭教師等、広い視野で本人の背景を視る必要がある。
例えば、英語圏以外の現地校(「国際クラス」併設の現地校も含め)で精神的問題を抱えた生徒がある。

 

これらの前提を明示し、広く帰国子女教育を考えることは、偏見をなくす第一歩であると思う。と同時に、記事の受け止め方も変わって来るであろう。だからこそ「海外・帰国子女教育」との用語が成り立つのであり、言ってみれば帰国子女教育と海外子女教育は表裏一体要素を強く持っていると言える。
「純ジャパ」「変ジャパ」「半ジャパ」との(ジャパはジャパニーズJapaneseの短縮形であることが分かれば、その意味は理解できるだろう)揶揄的表現に記事も少し触れているが、それらの発話者の視点は、日本を軸、起点にしたそれであり、とどのつまり受け入れる側、教師・生徒の意識の問題である。どこまでも「大海の孤島」に拘泥するか、その気質を一つの風土として捉えながらも多様な世界を自然態で感嘆、得心し、自身の批評眼を持つか。柔らかな感性と複眼思考の必要性。

先に、私がインターナショナル・スクールと日本私学との協働校に勤めたことを書いた。英語力など公立中高校机上的学習の域そのままの私が、10年間の在職中に、インターナショナル・スクールの教職員・保護者・生徒からどれほど示唆、教示を得たことか。
このことは、日本を再考、再発見する良い機会ではあったのだが、不遜を承知で言えば、日本側学校での日々はほとんどがそれまでの繰り返しであった。

最後に二つの記事から若干の引用をし、私見を加える。
※「  」引用部分  《  》私見

「「TOEIC」テストの世界順位は40位」(因みに1位はバングラデシュ)

《帰国生徒に英語を期待するならば、聞く・話す・読む・書くの、何を、どういうレベルで期待するのかを明確にする必要がある。「英語ができる」の意味の多くが、先述のように聞く・話すだとしても、確かな4技能の英語力を持つ生徒自身が、話すでの発音(例えばイントネーションと方言)、文法(例えば敬語)の問題点を指摘し、一方で、英語力が中高校教科学習程度の教師、大人、社会はそれに気づくこともなく誉め讃えている。》

 

「漢字や地理などの日本特有の勉強ができなくなった代わりに英語ができるようになったのでトントン」との、帰国子女で現在20代の男性の発言。

《帰国が前提でない海外在留子女は別にして、帰国が予定されている場合、どっちかの発想ではなく、家庭でのわずかな時間で補いはできるはずである。
ただ、社会の教科書に関して、巻末の索引の固有名詞等漢字の振り仮名には、きめ細やかな配慮が必要であると思う。これは、大人が索引を上手に利用して効果をあげるように、帰国子女に限らず、多くの子どもたちにとっても同じではないか。
これと関連することで、帰国後の保護者の子どもの進路への意識(何かと異論の多い領域で軽率には言えないが、性差の違いも生ずる)、すなわち学校選び、が重要な要素となる。その時、夫が赴任している場合、母親の子どもに対する学歴や学力そして将来への希望図が非常に大きな影響力を持つ。そこに親子の会話、家庭力が求められる。もう20年以上前かと思うが、海外在留家庭を「囲炉裏型」の家庭と言った研究者がいた。
海外における日本人社会の閉鎖的タテ構図[例えば官庁関係、企業関係(大・中・小企業)等の位置関係は、国内で感ずる以上の強さで歴然として在るのだから尚更である。それとも、海外だからこそ共生感が芽生え、今では、国内に在る厳しい現実をとうに克服しているのだろうか。》

 

「日本では、みんな一緒が良いとされる。みんな一緒のランドセル、みんな一緒のうわばき、みんなで掃除しましょうみたいな。ちょっとでも違うとのけ者というか、変な目で見られます。アメリカだと、違うのは当たり前。」

《よく聞く話で、確かに日本の?学校の特性として指摘されることではあるが、学年、性別、地域また通学校によってさまざまな部分もある。
インターナショナル・スクール協働校での経験では、逆に日本の学校文化を誉める欧米人教師や保護者もある。例えば、掃除習慣。また朝のクラスホームルームの存在。》

 

「(アジア圏の)日本人学校での、生徒たちの行儀良さときれいな言葉遣いが、当たり前だと思っていたが、帰国して入学した学校の荒れた(授業態度、給食時の喧騒、廊下での疾走等)姿を前に疎外感を感じた。」

《小中日本人学校派遣の教師から何度聞いたことだろう。初めて準備、計画した授業ができる喜び。生徒たちの態度のすばらしさ。それもあってか、帰国子女またその保護者は、限られた公立校以外私立受け容れ校希望が多い。地域、家庭と学校の問題がそこにあると考えられるが、派遣教師が帰国した場合、“荒れた学校”に配属されると聞いたことがある。今はどうなのだろうか。(派遣教師の95%以上は公立学校教員)

 

「帰国子女の3つのタイプ。1つは日本語日本ベースの帰国子女。2つ目は滞在国の言語や文化がベースの帰国子女。あと、どっちつかず。」

《2つ目は、日本の現状から考えれば、ほとんどが英語圏からの、と思われるが、その生徒がどのような形で、それをベースにしているかが課題だろう。その時、同じ英語圏であっても、アメリカ・イギリス・オーストラリア・カナダでは教師の意識も違うことも理解する必要がある。2つ目のそういった生徒は、帰国子女を主としている受け入れ校がよりふさわしいとは考えられるが、日本でそのような学校は稀少である。ただ、それでも問題は噴出する。その際の大きな要因は、教師側の意識の問題にある。》

 

今では、国際化、グローバル化、宇宙船地球号等々の表現は、当たり前のようにある。 その表現と実態に思い及ぶとき、「国際語」としての英語と自身の関わり、価値観をしっかりと持ちたいものである。そこに、自身の中の日本(人)性がどのようにあるのかも含め。 1970年前後の海外・帰国子女教育から40年余りが経過し、その教育はどう変わったのか、また海外駐在員家庭環境また駐在員派遣形態に変化はあるのか、漫然ととらえるのではなく現在の視座から把握することで、海外・帰国子女教育が、国内の教育を、更には社会を映し出すことに眼を向ける、その意義の大きさを改めて思う。 それは眼を向ける人物の、(学校・家庭)教育観、(日本・世界)社会観の自己確認ともなるのだから。

2018年10月10日

中華街たより(2018年10月)    『伝言板』

井上 邦久

地震・豪雨・酷暑そして台風が続いた夏。日本各地で彼我双方が被害者となり、励ましの言葉が交差しました。お見舞い、ありがとうございました。

富田林警察署からの逃亡者が山口県周南市で捕まりました。ちょうど酷暑の間に自転車移動していたことになります。天網恢恢、疎而不失ではなく、霞が関同様の疎(粗)い網であることを白日の下に晒しました。捕まった場所は、道の駅『ソレーネ周南』、イタリア語辞書にはない山口方言の慣用句の「ソレーネ」。同意語「そうだね」の意味で、「ソレソレ」と「ソーデスイネ」という同義語も含めて耳に馴染んだ山口弁です。夏バテをしそうな心身にカンフル注射のような幾つかの言葉が沁みました。
以下の伝言板に掲げておきます。

「ソレソレ」という項目があれば幸いで、無ければ読み飛ばして頂けますように。

誰も言わないから言っておく。官公庁がこぞって身体障碍者の雇用数をごまかすような国にパラリンピックを開催する資格はない。

             池澤夏樹『終わりと始まり』(朝日新聞夕刊)

3.11.から日本は喪に服している。還れない人がいるのに、オリンピックやカジノ騒ぎをするわけにはいかない。

坪井秀人『第323回 日文研フォーラム』

残る日に縋り鳴きたる油蝉             大道寺将司(獄中詠)

 

ここ20年の、統治権を問われない限り金儲けを認めるという党の信条に対して、幻滅が広がっている証拠となる。そしてさらに厄介なことに、キリスト教徒が増加していることは、共産党が神の役割を果たしているのだから神は必要ない、という北京の暗黙の主張への異議申し立てにほかならないのだ。

 デイヴィッド・アイマ― 近藤隆文訳 『辺境中国』

 

私たちは敗戦という苦難を乗り越えて現在の平和な暮らしを続けております。そこには常に歌がありました。その後わが国は幾多の災害に見舞われましたが、その時でも歌がひとつの支えになっておりました。

               野澤節郎『焼け跡に歌が流れた!』

 

作者のシャマン・ラポガン氏への賞の贈呈は当然ながら、その作品と私たち日本語圏の読者が出会えたのは、訳者の下村作次郎氏の果敢で地道な仕事があってのことです

http://www.sunnyboybooks.jp/the-5th-irondog-heterotopia-iteraryprize/

鉄犬ヘテロトピア文学賞事務局「受賞作 大海に生きる夢—大海浮夢」

健次の小説の中で、私は『鳳仙花』が一番好きです。

               中上 紀 (8/1 日本近代文学館講演)

医大で露呈された女子受験生への差別措置に驚いたが、それ以上に周りの人たちが「そんなことも知らなかったの?」と口にした事がショックだった。

R.O. (身近な若い女性医師)

 

現代社会の災害・災難は単に自然災害だけではなく、近代文明の高度化が進むに従ってその多様性を増し続けています。

鄭 炳浩『日本と韓国における「災難文学」の比較とその文化的背景』

 

戦争のこと以外、日本近代史の記述は基本的に中国のこと、また中国的な要素をずっと「隠蔽」し続けてきたからだ。

劉 建輝 『明治維新に中国のお膳立て』(京都新聞8/10)

 

日本が戦争に負けていないのだとすれば、大義も、勝利の可能性もなかった
戦争を始めたことの責任を、誰も取る必要はないし、反省する必要もない。負けたことを認めていないので延々と負け続ける。すなわち、永続敗戦。

  白井 聡 『国体論からみた安倍政権』(8/25 茨木市に於ける講演会)

台湾各地にある個性的な書店をルポルタージュした1冊、

『書店本事—個性的な台湾書店主・43のストーリー』を出版したい!

        クラウドファンディング (8月、目標の2百万円達成)

 

現存する中国伝統演劇の中で最も古いといわれる崑曲(崑劇)は人物の内面を繊細に描き出します。その豊かな世界が伝わりますよう江南春琴行崑曲班を中心に・・・崑曲と江南絲竹『破壁残燈零砕月』

https://www.kobe-niko.com/イベントのご案内/

 

浮遊清秋影 暢飲電気白蘭地 琥珀色相映
秋風は電気ブランの琥珀色

                朱 實(瞿麦)老師『漢俳・俳句旧作』

 

この秋も異国の丘に眠る人 (拙)

直近の句会で、或る方は教会の鐘が聞こえてくるとイメージされ、別の方はシベリア抑留を思い起こすと評してくれました。横浜外人墓地のシドモア女史とノモンハン事件(ハルハ河の戦)を考えながらの軽みに欠けた拙句です。
伝言板の余白を埋める為に掲示しました。             (了)

2018年9月29日

力と血と和と人或いは日本

井嶋 悠

今年、ピョンチャン・冬季オリンピックでは、日本はパシュート競技で、スケート大国オランダを破り、金メダルを獲得した。あれから既に8か月が経ち、もう直ぐ2019年のシーズンが始まる。光陰矢の如し。

高木姉妹の妹の美帆選手は、オリンピック終了後ほとんど休む間もなく「世界オールラウンドスピード選手権大会」で、欧米選手以外で初めての総合優勝を遂げた。スケートだけでなく、小学校時代からの陸上、サッカー、ダンスそして学業と正に“文武両道”で、15歳ではオリンピック代表となり“天才少女”と時の人となった。それから8年、下降も経験し成し遂げた快挙である。
私の中で彼女は、その発する言葉、表情からも、幼い孫を見る感覚でのスーパースターである。

彼女を世界トップのスピードスケーターまで引き上げたのは、家族や姉はもちろんのこと、多くの人々の指導、教示があってのことだが、とりわけオランダ代表チームの元コーチ・ヨハン・デビッド氏の存在が大きかった旨彼女は言う。
そのオランダ、決勝で錚々たるメダリスト3人が出場したが負け、オランダでは「誰だ!?ヨハンを日本に送ったのは?」との苦笑の話題もあったとか。
その氏が行った指導の一つに、1年の内約320日の共同生活の中での練習活動を知り、そこに日本ならではのものを感じた。オランダの立場で言えば、そのような練習自体思いもつかないし、したとしても早々に頓挫するのではないか、と。

スケーティング技術に関しては、このレベルの選手たちともなれば大同小異だと思うが、パシュートの場合、一糸乱れぬ3人の滑りとコーナーでの選手交代時、いかにスピードを落とさずできるかが鍵とのこと。動画で見ると、日本は一糸乱れぬ姿があるが、オランダは若干の乱れがある。そのためコーナーでの交代にもいささかの影響が出ているように、素人目でも分かる。
それはあたかも陸上の男子400mリレーで、4人がバトンつなぎの秀逸さもあってメダルを獲得し、アジア大会で優勝したように。

個人競技は、突出した能力と技術を持った一個人で、好結果を勝ち取るが、団体競技(バドミントンやテニス、卓球等のダブルスについてはここでは除く)では個と全体のバランスが問われる。
ちなみに、2020年の東京大会では、33競技339種目が実施されるそうだが、いわゆる団体競技は以下の8競技である。

・バレーボール  ・ラグビー  ・ハンドボール  ・サッカー  ・ホッケー  ・野球  ・ソフトボール  ・バスケットボール

これらの競技の発祥地はすべて欧米で、概ね1900年以降、日本に入って来たものである。

この中で、素人の私の限られた見方ではあるが、メダルの可能性があるのは、女子バレーボール、ラグビー、野球、ソフトボールではないかと思う。
これらにあって、ラグビーがその格闘性において他の競技と異質だが、可能性を持てるようになったのは、国際結婚や帰化による選手たちの貢献度がいかに大きいか、南アフリカに勝利できたことを思い起こせば、明らかではないか。
このことは個人競技だが、先日のテニスの全米オープンで優勝した大坂なおみ選手と相通ずる。
大坂選手が、先日帰国し記者会見をした際、或る記者が「旧来の日本人のアイデンティティと現代日本・日本人」といった主旨の、何を今頃にと思える陳腐な質問をしたとき、彼女は「そんなことあまり考えたことはないが、私は私だ」と応えていた。さすがアメリカ育ちだと思った。アメリカ絶対的!?追従(ついしょう)の現代日本、現在の大統領のアメリカ第一主義は措いて、こういったアメリカの、そこに何かと問題が起きているとはいえ、素晴らしさをもっと移入し、学んで欲しい。

320日の共同生活と練習に「日本らしさ」を見、その結果が金メダルにつながった、と私は思う。
日本が、いかに微妙な季節の移ろいを持った四季があることは『歳時記』を見れば、一目瞭然である。雷は古人曰く二つ目に恐ろしいものとしてあるが、8月の末、どんな酷暑の夏であったとしても、その雷を見、聞くことで夏の終わり、秋の到来を話す。また古代人(びと)以来の「春秋論争」はつとに有名である。

私たちは、自然を親愛し、畏怖し、恐怖することは、日本列島に人が(原日本人?)住み始めて以来、変わらないのではないか。人は自然と一喜一憂し、自然との共生に腐心してきた。だから工業化と言う近代化には非常に敏感だったはずなのだが、いつしか欧米風合理主義また個人主義に傾き始め、息苦しさを直覚する人が増え始めた。更には「公害」という大きな社会及び政治問題が顕在化し、無惨に多くの犠牲者(死者・重篤者)を出すまでに到っている。私たちは自然人ではなく、自然(一員としての)人、との感覚を、長い歴史の中で培い、無意識化するほどに持っているから、その衝撃はなおさらのことである。対立ではなく調和としての自然と人。
しかし、自然は自身を制御、抑制しない。だからこそ人は己を制御し、抑制しなければ、調和は乱れ、崩壊する。
6世紀から7世紀にかけて、日本の基礎を創ったと言われる聖徳太子には、存在しなかったとか、朝鮮半島からの渡来人だった等々、多くの伝説、学説等諸説があるようだが、この機会に改めて『十七条憲法』を読み直してみた。今回の趣旨に相応すると思う箇所を引用してみる。

第一条  和を以って貴しと為す。
第二条  篤く三宝[仏・法・僧]を敬へ。
第四条  礼を以って本と為よ。
第七条  人を得て必ず治む。
第九条  信は是れ義の本なり。

誰しも親和・平和を希うことに異文化はないと思うが、その背景に仏教の「慈悲」、儒教の「仁義礼智」を意識し、且つ日本風土の自然の濃やかさ、自然との一体化としての人[自然神道?]を重ねる時、そこに日本らしさを思うのは、私だけだろうか。

この感性があってこその320日の時間の成就と結果を想う。その善し悪しは措いて、欧米化著しい現代日本の、とりわけ若い人たちにとっては、この時間は精神的に非常に辛いものだったのだろうか。世界への目標があるから耐え忍んでできたことなのだろうか。
「己の欲せざる所は人に施すなかれ」、我欲を自然態で制御することで和が自ずと生じたのではないか。個と個の、やらされるのではない伸びやかな練習。禅の思想家鈴木 大拙の言葉を借りれば、「遊戯(ゆげ)自在・任運自在の《自由》」の境(きょう)。と言えば、彼女たちを不快に落とし込むだろうか。彼女たちがこの時間を言う時の表情に、少なくとも苦痛、忍耐を乗り越えて云々といった類のことは、私には感じられなかった、それどころか、充足の笑みさえ直覚したのだが…。
これが素地にあって、ヨハン・デビッド氏という「人を得た」のではないか。

競技[スポーツ]は各個の、肉体の強い体幹力と精神(血)の伝統力が醸し出す調和、統合が求められる。これらは一朝一夕にできるものではない。技術や戦法が一時的には成果を生むこともあるだろうが、あくまでもいっときであって、より高みと安定に到るには、各個のそれらの高次の統合なくしては為し得ない。それがチームスポーツの魅力と思う。
先に記した日本ラグビーは、彼らの体幹と伝統(血)の力を得て、世界レベルの端緒に立ち得たと言えるのではないか。

尚、統合力への過程は、女子の場合と男子の場合違うように思える。或る競技の男女それぞれの全日本代表監督(いずれも男性監督)が対談で、こんなことを言っていた。
男子チーム監督「選手の何人かを選び、彼らを新チームの核として行く旨、選手たちに言った」
女子チーム監督「ウチでそんなことしたら、下手すればチームが崩壊する」
中高校の女子サッカー部元顧問(監督)を経験した私は、両者の発言に何となく同意していた。

1970年代前後から「帰国子女教育」が、学校教育と日本社会の大きな課題となり、一部の識者は「国際(理解)教育」をも視野に、【新しい学力(観)】をしきりに唱えていた。それからほぼ50年経った今、その課題は十全に解決したとは到底思えない。
入試方法の机上的変革に学校は振り回され、塾産業はますます必要不可欠となり、大学大衆化のマイナス面は顕著化し、一方で少子化と格差化また高齢化は広がり、日本型インターナショナルスクールが、乱立しているかと思えば、外国人排斥の言行動が欧米的に広がる現状、日本社会は大きな岐路に立っているように、元教師の隠居は思えて仕方がない。

経済が人々の生活にとって必要不可欠であることは誰しも認めることではあるが、国際社会での貢献と都鄙の格差の広がり、貧困化の自国社会現状のバランスはこれでいいのか、八方美人型?外交への国内での激烈な憤慨、国外で冷笑すらあることにもっと敏感になるべきではないのか。
その時、日本と日本らしさと現在と未来について、世界の視野で、一流[己が強さだけではない自然な謙虚さを持った人間性]のアスリートたちが身をもって示唆している、と考えるのはあまりにも飛躍し過ぎた私見だろうか。
仏教の渡来を基に、飛鳥文化が華開く一方で、「遣隋使」の派遣等、国際化時代の治世者聖徳太子の言葉には、やはり現代に通ずるものがある。

最後に、『十七条憲法』から先の箇所とは別の個所を引用する。

第一条  上和(やわ)らぎ下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(ととの)へば、事理自ら通ず、何事か成らざらん。
第八条  群卿百寮、早く朝(まゐ)り晏(おそ)く退(まか)でよ。[公務員や治世者の心構え]
第九条  君臣共に信あるときは何事か成らざらむ。
第十四条 群卿百寮、嫉(そね)み妬(ねた)むこと有るなかれ。

 

2018年9月1日

中華街たより(2018年9月) 『日曜美術館』

井上 邦久

ご母堂の初盆で山口県に戻っていた中学一年生の頃の同級生から「マツノ書店の松野久さんが8月10日に亡くなったよ」、と残念な連絡がありました。
7月末に北九州への出講の帰りに徳山で途中下車し、古本の引取りにマツノ書店を訪ねた時にも、主は二階の仕事場に通えなくなったと伺っていました。
季節の折々に発行され愛読している入庫古書目録や復刻出版案内の小冊子『火車日記』には、地方で希少本を出版する難しさを飄々淡々とした日常記録とともに綴られていました。
昨年来、運転免許証返上のことや体調が芳しくない話題があり、加えて今年出される『久坂玄瑞史料』『子爵谷干城伝』以降は出版計画がないことを仄聞して陰ながら心配をしていました。

1960年代半ば、山口国体・東京オリンピックが続いた時代、戦前の海軍燃料廠址の出光石油を中核とする化学工場が連なる周南コンビナートが発展、大気汚染と海水汚染よりも高度成長に眼を奪われていた徳山市。その商業の中心は銀座通り、銀南街であり、松下百貨店でありました。
その百貨店と山口銀行の間の細い路地で古書販売と廉価良質の貸本業を営んでいたマツノ書店。昼夜働いても足りない購買力と図書館に通う時間も足りない母親の最強の味方でありました。
勤め帰りにマツノ書店に立ち寄り丹羽文雄・水上勉・松本清張・曽野綾子らの本を狭いアパートに持ち帰り、寸暇を惜しんで読むことが当時の勤労婦人の唯一の娯楽だったであろうと想像します。

時は流れ、周囲の百貨店や老舗の書店が廃業する中で、マツノ書店は貸本業を止めても、同じ間口の店で出版と古書販売を続けてきました。
帰郷の度に、種田山頭火句碑集、宮本常一の著作などの山口県関連本、邱永漢短編傑作選集、諸橋大漢和辞典全13巻などを安価で見つけるのも愉しみでしたが、それ以上に店内で半世紀前の時代の空気に接しながら「おまえはなにをして来たのだと・・・」という、中原中也と同じ自問をすることも一再ならずありました。

徳山駅は大改修が進みTSUTAYAの本・珈琲複合ショップと周南市立図書館が同居しています。図書館の文学のコーナーには単行本は無く文庫本だけ、という資本の論理が明快に露出した施設です。
駅から徒歩数分の一隅を照らしてきた松野久さんのご冥福を祈るとともに工業都市としての周南市、長州力の故郷としての徳山(彼も小学・中学の同級生です)だけでなく、菊池寛賞(2007年)に輝いたマツノ書店の文化の灯をともし続けてもらいたいと思います。

同じ徳山出身(出生は熊毛郡平生町佐合島)の久保克彦の作品を『日曜美術館』「遺された青春の大作~戦没画学生・久保克彦の挑戦」で観ました。
東京芸大に残され卒業作品を対象に深い掘り下げを試みた番組でした。徳山ゆかりの原田新さんとその妹、父親の久保周一(俳号:白船)と種田山頭火、戦没画学生の遺作収蔵美術館「無言館」を取り上げた上で芸大で後輩だった野見山暁治(1920年~)が語る「卒業の日をもって絵を描くのは終わり・・・絵を描く時間というか、生きている時間がここまでなのだと追い詰められる」という言葉の重さ。
反面、作品の洗練された色使いと構成の緻密さに日本近代美術の脂っぽい土着性から離れたものを感じました。友人の造形作家は「ものすごい大きさと構成力です。ピカソのゲルニカにも匹敵するスケール。しかも20歳前後の作品とは思えない完成度があります」と第一印象を伝えてくれました。
出征3か月、湖北省で戦死した画家の墓は佐合島にあります。
(9月2日20時からEテレで再放送)

8月15日、甲子園球場外野席で一瞬の静寂の中、正午の黙祷に連なりました。
個人的な恒例行事の3年ぶりの復活でもあり、球場のスタンドを昇り降りできる脚力体力の復活確認でもありました。

8月は、今年も敗戦の月でありました。