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2018年11月9日

多余的話 (2018年11月) 『11月3日』

井上 邦久

「上海歴史散歩の会」顧問のC教授夫妻の要求にはかなり厳しいものがあります。
C教授は日中交流史の調査研究や学会参加のために屡々来日されます。令夫人も日本に留学し歴史を専攻されており東京弁と写真撮影に秀でています。そのお二人と日本で散歩する時「歴史を語れる場所」「写真撮影を楽しめる場所」「印象に残る料理屋」そして「外国人観光客が訪れない静かな場所」という四条件が基本要求となります。

過去、北品川では四条件を満たすことが出来ました。品川神社(徳川家康が関ケ原へ向かう前に戦勝祈願した縁から幕府の加護)や荏原神社(明治元年、天皇東京行幸の際に立ち寄った縁から皇室の加護)という歴史の交差点が北品川にあります。旧東海道ゆかりの寺や石碑も多い商店街で繁盛している「そば処 いってつ」で新海苔・浅利生姜煮・蕎麦味噌から始まり、東京の地酒「澤乃井」が進みます。かき揚蕎麦まで箸も進んだ後の腹ごなしに御殿山への坂を上り、大使館や高級住宅街の一角に佇む原美術館まで歩きました。
幕末の志士・明治の米国官費留学生・大正の金融界の重鎮であった原六郎の住宅址に創られた原美術館はいつも静かな都心のエアポケットのような空間です。クラシックな建築とモダンアートの融合を体感してお開きとしました。

大阪で合流した時は、JR新快速で石山へ。瀬田川を遡った山間に豪農の屋敷跡を訪ね、三段弁当を食べた広間や茶室では令夫人のカメラが大活躍しました。
石山寺ではさらりと流し読み風に見物したあと、京阪石山寺駅からレトロな路面電車に乗り、たびたび歴史の分岐点となった瀬田の唐橋を眺めては壬申の乱・源平の合戦へ思いを馳せました。暮れなずむ琵琶湖沿いを浜大津へ、そして逢坂山越えの京都三条までの移動をしている観光客は内外問わず見かけませんでした。仕上げは京阪特急で一気に大阪へ移動して、京橋駅下の居酒屋での鯨飲でした。歴史の要素が若干乏しかったと反省しました。

この秋、学会に参加するご夫妻から京都七条に宿を取ったとの連絡がありました。散歩コースについては言外に四条件を滲ませながら「お任せします」とのことでした。
扨て、今回は?と思案して「世界が注目する伏見稲荷大社」ではない静かな伏見に決めました。
京阪七条駅で待ち合わせ、伏見桃山駅で重い荷物を預けてから近鉄桃山御陵前駅前の親切な地図を利用して、丘陵から武家屋敷跡、町人町址そして酒蔵が並ぶ水辺までの地勢をおさらいしました。京阪電車・近鉄電車そしてJR奈良線の線路が並走しており、大手筋通は三つの踏切をあっさり越えていきます。大和から、大坂からの街道や河川水運の拠点の伏見港が一つの束のように集まる京都東南部の地に、秀吉は伏見城を建て、家康は伏見奉行所に小堀遠州を据えて禁裏・武家・豪商そして文化人を結んだ「寛永の雅」をプロデュースさせたのもむべなるかなと思います。
慶応4年(改元後の明治元年1月)の冬、この地で鳥羽伏見の戦の火ぶたが切られ、戊辰の役の歳が明けていったことは正に言わずもがなのことだと思います。

伏見桃山御陵とは明治天皇の陵のことで、近接する東陵には皇后の陵墓があります。駅から続く大手筋通を真っ直ぐ登り、樹々に囲まれた人けのない砂利道を歩くと、桓武天皇柏原御陵に通じる脇道がありました。しかし台風による倒木被害が著しく通行止めでした。やがて開けた空間に明治天皇の上円下方墳が見えてきて、C教授はその時の印象を、

宁静的山上,没有显赫的标志与警备,只有一片高大的杉树林。

(寧静なる山上、ことさらな標識や警備もなく、ただ高大なる杉の樹林があるのみ)と綴られています。

東京の明治神宮とはまったく異なり、「明治150年」などと喧しい世俗から遠く離れた、言わば忘れられた空間で三人は暫し感慨をもって過ごしました。

明治天皇の遺言で伏見城址を陵墓として定められ、且つそこは桓武天皇陵に程近い処でもありました。平安京を拓いた天皇と平安京を棄てた(捨てさせられた)天皇がすぐ近くで眠っていることへの感慨がありました。
小雨も降り始めたので元の道を下り、150年前の激戦地の御香宮神社で雨宿りしました。

そこで見かけたポスターには「11月3日は明治天皇の誕生日なので揃って参拝しましょう」とあり、幟を立てた集団参拝の写真がありました。その写真の賑々しさと体験したばかりの静かな空間との落差にも感慨がありました。
昭和二年に、明治天皇の誕生日(天長節)を「明治節」として祝祭日と定めており、その名残が「文化の日」に変化したようです。

「文化の日」の確かな定義はよく分かりませんが、その日は晴れるという気象統計で知られ、統計通りにいかない競馬の天皇賞前後であり、文化勲章や序列の意味も知らない各種勲章が大量に叙されるといった季節の祝日としての「文化の日」であり、明治節は忘れていました。
それよりも新聞の読者投書爤で見つけた「11月3日は日本国憲法の誕生日」という表現が新鮮でした。1946年11月3日に公布され、1947年5月3日に発布されたので後者が憲法記念日とされて黄金週間を形成するので意識して来ましたが、11月3日と日本国憲法との関係はトンと忘れていました。
となると、明治天皇と日本国憲法の誕生日が同じ日であるということに今頃になって気づいたというお粗末な話です。
神社から少し歩くと京町通、鳥羽伏見の戦いの弾痕を格子に残す料理屋「魚三楼」で遅い昼弁当を食べ、足を休めました。そこからはお定まりの転落コースに陥り、月桂冠の工場「見学」をした後、吟醸酒房「油長」での伏水(伏見)の酒の呑み比べはC教授のオゴリでした。

四条件には、更に伏流した条件として「日本酒」が存在していますが、令夫人の手前もあり不文律扱いにしています。ですから、「歴史を語っても酒がなければ、単調であり味わいに欠けるよね」といった自己弁護の会話は歩きながら声を潜めてしています。

ただ、人のつきあいには明文化された「条件」より「不文律」が大切な時もあります。
これは「法治」とか「人治」とかの難しい問題とは別の世界のことであり、これもまた、言わずもがなの話(多余的話)です。          (了)