ブログ

2018年12月26日

多余的話(2018年12月)  『犬も歩けば(serendipity)』

井上 邦久

横浜での単身生活からボストンを経て、大阪府茨木市に着地してから1年が過ぎました。長年の単身赴任生活・駐在生活はすべて集合住宅(マンションという語源から程遠い20平米から100平米まで様々でした)で生活しました。
着地した茨木市で阪神淡路大地震以来の激震に遭遇し、その後の台風や猛暑のため変則三階建ての陋屋は「一部損壊」の認定を受けました。数年前の補修の効果か、風向きのせいか雨漏り被害はありませんでした。
町の屋根にはブルーシートが残り、多くの家の修理や建替え工事は年を越すことでしょう。
大嘗祭費用関連の論議と比べるほどの大げさなことではありませんが、庶民にも傷みは残ります。

北摂の半分青い梅雨の屋根

そんな夏が過ぎ、ようやく定住生活のペースが出来つつあります。小学校の課目に例えると、
最優先は「保健体育」。この3年に二回受けた手術後の検査とリハビリテーションの経過は順調です。転移や再発は見つからず、生活の中での自然な快癒を勧める外科医の指導に従い、よく食べ、よく歩き、よく寝ています。

そこで「家庭科」。食いしん坊で市場散歩が好きなので、食材を求めてスーパーマーケットをハシゴし、海藻・野菜・青魚の市場価格に詳しくなりました。単身生活時代のまま「調理」は依然として大切な趣味です。

「理科」「算数」は当然飛ばして、「国語」はヤッツケ仕上げの連句や俳句です。先日、神奈川近代文学館での公開連句会に、今年も「文学と山岳」を友として暮らしている先輩と参加しました。辻原登館長や歌人の小島ゆかりさんとの相撲談義の遣り取りも愉しかったです。

続いての課目「外国語」。集中講座ではなく毎週出講し「ビジネス中国語」の単位認定を意識しています。
ビジネスとは何か?今週のホットトピックスは?など新聞を読まない今どきの大学生に噛み砕いて話しています。

次は「歴史」。昨年秋からのテーマ「大阪川口居留地・川口華商」について、堀田暁生会長(大阪市史編纂室長)や長崎華僑研究の地元各位の御指導を頂き、少しずつ歴史探索をしています。
晩学初学ですので「あれもこれも」と広く浅くなりがちなことを反省しています。先ずは関係する現場を歩き回り、五感六感の錆び落としをすることが脚部関節手術のリハビリテーションに繋がれば幸い、というレベルです。遠い道のりになるでしょう。

最後は「図画工作」、中津市自性寺での池大雅や沖縄の佐喜眞美術館長の講話が印象に残りました。映画は塚本晋也監督・自演の『野火』。オマケの制作映像での独白に注目しました。NPO「ロバの会」での封筒作りでは、糊貼りに特化して、苦手なハサミ作業は先輩方にお願いしています。

「音楽」はサボって、今年は舟木一夫コンサートにも行っていません。

          小春日の阿蘭陀坂に西の風

酷暑が過ぎてからは戌年らしくよく歩きました。11月15日も自宅から歩いて通える立命館大学茨木キャンパスでの講義のあと、東奥日報特別編集委員の松田修一さんと再会。
お初天神の亀寿司は津軽の魚には及びもつかず、美々卯のうどんすきも又にして、福島天満宮脇の花鯨のおでんにしました。覚悟していた30分の行列では春の弘前以来のことをお喋りするつもりでした。
しかし、来阪目的は東奥日報連載中の「斗南藩」取材であり、戊辰戦争を「勝てば官軍」とは逆の視点から綴る為に会津藩・斗南藩ゆかりの末裔の方を訪ね歩いている、今回は会津戦争娘子隊の中野竹子・優子姉妹の末裔、優子のひ孫の高蘭子さんの取材と聞いて衝撃を受けました。松田さんは「やはり高さんをご存知でしたか・・・」と翌朝の奈良ホテルでの面談取材への同席を承知してくれました。

短歌結社を主宰し、奈良県唯一の定期月刊誌『山の辺』の発行者として著名な高蘭子さんは、恩師である高維先先生の奥さんです(先生は革命後の現代中国語で「愛人・ai ren」と呼んでいました)。2011年の会合で高夫妻とご挨拶してから御無沙汰が続いていた処に青森の松田さんを介しての再会でした。
一人娘で俳句・短歌を教える珠實さんも交えた取材の邪魔にならないように慎みながら、会津・函館・青森とつながる一族の苦難の歴史を聴かせていただきました。ハルピンでの飛躍を企図した尊父と多くを語り継ごうとはしなかった母堂とともに大陸へ渡り、女学校では中国語も習った蘭子さん。敗戦直後の東京で、山東省青島市から渡日して東京大学に在籍していた高維先先生と巡り合った経緯は初めてお聴きすることばかりでした。

1967年、NHK中国語講座の放送が始まった翌年、高校二年生で読み始めたテキストには、講師の相浦杲望月八十吉、ゲストの金毓本高維先王蕙茹の各位の名前がありました。とりわけ高維先先生の温顔と丁寧な発音は印象的でした。それが中国語と高先生とのご縁の始まりでした。
初級で暗記した美しい「梅花開了、桃花開了、胡蝶飛来飛去」のフレーズは折に触れて甦ってきます。

「井上さん、先生は来月100歳になるのよ。日本政府から顕彰状が届いたわ」と蘭子さんからお聴きして、恩師の長寿を喜びました。NHK中国語講座が既に50周年を超えたことにも気付かされ感無量となりました。100歳の顕彰状の送り主が、会津藩士を辺境の斗南に押し込めた薩長藩閥政府の末裔であることは牽強付会に過ぎ、言わずもがな(多余的話)のことでしょう。

12月15日付けの東奥日報には、松田さんがあれもこれも書きたい思いを削りに削った文章が高さん母子のカラー写真付きで大きく掲載されていました。20日には届いた新聞と印画した写真を持参して手渡しました。その折、秘かに蘭子さんが見せてくれた昭和20年発行の東京大学の学生証には、若くきりりとした青年の写真がありました。お祝いの拙句をしたためお渡し致しました。

        山の辺に落地生根紀寿の春            (了)