ブログ

2019年3月1日

多余的話(2019年2月)   『空と風と星と詩』

井上 邦久

春の椿事が出来しました、という常套語からの書き出しです。
3月9日(土)、大阪女学院にて開催予定の大阪川口居留地研究会で報告することになりました。一年半前から居留地跡を中心に大阪市西部の福島・西・此花・港・大正の各区を歩いて来ました。その間、基本的な「居留地の歩き方」の心得や初心者コースを西口忠先生に教わってきました。その西口先生が事務局長を務める会の催しでの報告です。
アマチュアであることを先刻ご承知の監督からオールドルーキーがピンチヒッターに指名された感じです。辻久子女史なら競馬新聞の下馬評の文字数制限に随って簡潔に「未出走未勝利馬競走の員数合わせ」と表現されるでしょう。

個人的にはまさに椿事ですが、オッズは期待値の低い3桁以上なので入れ込む必要もないと判断し、ともかく限られた日数枠で簡潔に準備することにしました。
まず図書館でコピーしてもらった戦前の資料や偶然見つけた資料を取捨選択しました。コピーしたら読み終わった気分になり、頭には残っていないことは良くある話でして、専用ノートに筆記するのが基本であることを改めて反省し認識しています。そのような低次元のことですので椿事というには烏滸がましい報告でした。

開港後の大阪川口居留地から欧米系貿易商の多くや広東系買弁が神戸へ鞍替えした後にその跡地が基督教布教の橋頭堡になっています。その中の流れの一つに現在のプール学院の祖型があります。

イギリス聖公会系:永生女学校(18794番)→プール女学校(189012番)→東成区天王寺村勝山(1916/7)→聖泉高女(1940)→プール学院(1947~)
4番や12番とは、1868年の居留地26区画(後に10区画追加造成)の番号です。
1940年の聖泉高女への改称(英国人A.W.Poole主教にちなむカタカナの校名から漢字)は戦時下での「時代の要求・圧力・忖度」からでしょう。その聖泉高女時代の卒業生の一人に八千草薫さんがいます。

「今どき、二人に一人が癌になるのだから・・・」と言われても、癌になった者には何の慰めにも励ましにもなりませんでした。
八千草薫さんより70歳若い女子水泳選手が血液癌になったとの速報に、高校の同級生が「神様は・・・」と絶句したのが印象的でした。日頃、未来の都市計画やコミュニティについて歯切れのよい結論を出すことの多い人なので実に印象的でした。50歳代前半で骨髄ドナーの登録の戦力外通告をされたあとは賛助会員になっていること、移植可能なドナーと合致するケースが少ないこと、根本の問題として登録母数が少ないことを友人に話しました。
一過性に終わらせず骨髄ドナー登録や献血の活動が根付くことを祈ります。

2月22日、京都シネマで『空と風と星と詩』を観ました。
2016年に韓国で制作されたモノクロ映画の印象はとても深いものでした。立教大学英文科から同志社大学英文科に移るも卒業することが出来なかった尹東柱(創氏改名により平沼東柱)の短い一生(1917年12月30日、間島:現在の吉林省延辺朝鮮族自治区にて出生~1945年2月16日、福岡刑務所にて獄死)を描いた作品でした。祖父が村の基督教会長老を務める信仰の篤い一家に育ち、基督教系中学校に進学しています。
1944年2月22日、京都で従兄の宋夢奎とともに治安維持法違反容疑のため起訴されており、その取調べシーンを軸とした服役に至るまでの道程がカットバックの手法で説得力を生んでいました。

映画のタイトルとした詩集の題名を、詩的とは言えない表現をすると「故郷と家族と信仰と詩作」ではないかと感じました。
「言葉と文を失い、名前まで失った時代」にはこの四つを守り通すことは困難と葛藤を伴うものであったと考えます。
従兄は学徒動員を逆手に取って、軍隊内の反軍活動から武力独立運動への行動で葛藤を断ち切ろうとします。従兄は個人の尊厳や心情を大切にする尹東柱を理解し、愛情をもって運動や闘争から遠ざけます。そして、立教や同志社の関係者による協力で、尹東柱詩集を英文化して英国で出版する試みも発送直前に逮捕され挫折します。しかし、法的には整った形で作り上げた調書に自署を強要する取調官(どこか左翼運動からの転向者の匂い)の欺瞞と論理の矛盾を突きます、しかしそれを伝える言葉も日本語でした。

ここで、二人の詩人のことを添えます。
一人は、上海の朱實(瞿麦)老師(1926年9月30日~)。
昨秋「戦後初期の移動の軌跡」をテーマとした短文の準備をしました。
上海駐在時代からご本人に接してお聴きして知った1949年に台湾基隆港を脱出して天津港への移動、それに至る政治行動と高校時代からの文芸・音楽活動の軌跡をたどたどしく綴りました。

・・・一九三七年の中国語禁止と一九四六年の日本語禁止という台湾における苛酷な言語政策に象徴される「言語を跨ぐ世代」(孫芳明『新台湾文学史』)の一人として大戦直後の台湾文学の一翼を担った朱實青年の「勁草知疾風」の行動と表現の足跡を辿りました。

もう一人は、ユーリー・ジバゴ。
パステルナークの発禁小説が秘かにイタリアに持ち出されて翻訳出版、ノーベル文学賞を授与されるもソ連政府の圧力で「辞退」という今も繰り返されている事件の発端になった作品。
詩人の魂を持つ医師ユーリー・ジバゴがその小説の主人公でした。1965年、デビッド・リーン監督により『ドクトル・ジバゴ』は映画化され、1966年6月に日本で公開されています。2月25日にBSで放送され、1966年7月に山口県の映画館に何度も通ったことを思い出しました。
大阪の高校に転校して同級生が英語のペーパーバック版の小説(カポーティ『冷血』など)を鞄に入れているのに刺激されました。梅田旭屋書店(今のヒルトンホテル辺り?)を教えて貰い『ドクトル・ジバゴ』を買ったまま未読死蔵しています。主演のオマー・シャリフが心臓発作で逝去した新聞記事を見て、ジバゴと同じ死因だと思ったのは2015年でした。

尹東柱に戻ると、NHKディレクター時代の1995年「NHKスペシャル」でドキュメンタリー『空と風と星と詩―尹東柱・日本統治下の青春と死』を手掛け、その後も研究を重ねてきた多胡吉郎氏の文章の一節と良書の紹介に留めます。

・・・何もかもが「大日本帝国」の遂行する戦争に総動員され、朝鮮の文学者たちの少なからぬ人々が日本語での時局迎合的な作品に手をそめることになったこの時期、朝鮮語でのみ詩を書き続けた尹東柱は、韓国文学の暗黒期に燦然と輝くかけがえのない「民族詩人」として称揚される。

『生命の詩人・尹東柱『空と風と星と詩』誕生の秘蹟』(影書房)より
1919年から100年目の3月1日直前に、モノクロ映画と、詩人たちと、闘う人たちへの祈りを思いました。                     (了)