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2019年4月5日

多余的話(2019年3月) 『修学旅行』

井上 邦久

 

言わずと知れた舟木一夫が『高校三年生』に続いて詰襟姿で唄った第二弾です。この曲のヒット・映画化で学園ソング路線が定着しました。ところがそれぞれのB面は『水色の人』『淋しい町』というタイトルからも分かるバラード曲であり、舟木一夫の哀愁を帯びた声の質に合っています。A面とB面では、「光」と「影」、「陽」と「陰」、「青春賛歌」と「青春挽歌」の違いがあります。

このA/B面4曲全ての作詞は丘灯至夫、作曲は遠藤実のコンビです。よく聴くと、A面にも「残り少ない日数を胸に」とか、「二度と帰らぬ思い出乗せて」といった挽歌凬の歌詞を忍び込ませています。

遠藤実は日経新聞「私の履歴書」で、疎開先の新潟での極めて貧しく実に無残な十代の生活を綴っています。また丘灯至夫の長男の西山謹司氏(救心製薬役員)が福島県出身の父親について「幼いころから極めて体が弱く、学校も休みがちで遠足や修学旅行にもほとんど行けなかった。唯一の楽しみが詩作」だったという『作詞家・丘灯至夫の素顔』と題する文章を残しています(日経新聞2017年2月6日朝刊文化欄)蛇足ながら中国関係以外にもスクラップを残しています。
明るい、学園ソングを連発した二人は、貧困と病弱のため自分では実現できなかった青春の疑似体験を凝縮させた歌曲に仕上げ、それを決して幸福とは言い難い(興行師の父、母とされた人は五指に余る)舟木一夫を通して世に出したのではないかと勝手に解釈しています。清らかで明るい歌詞や曲調の学園ソングの中に、どこか淋しい諦念や哀愁を感じてきました。

彼岸時の紹興酒の故郷へ諦念とも哀愁とも無縁な修学旅行に出かけました。長年続く講読会で熱心なご指導を頂いている北基行老師を団長とする、十指に余る学友との旅でした。大阪駅前第2ビル5階の部屋で『燕山夜話』と『史記』を講読している仲間たちの修学旅行でした。

『燕山夜話』は文化大革命の前夜、1961年から「北京晩報」に馬南邨の筆名で連載された随筆です。作者の本名は鄧拓。人民日報社長。文革で四人組からの指弾目標となり死亡。大毒草とされた『燕山夜話』は鄧拓が名誉回復した1979年になってようやく再出版されました。
受講者も増え、1960年代の用語や文体にも慣れてきてからは段落ごとに分担して試訳を報告する講読会スタイルが定着してきました。もう一つのテキストは司馬遷『史記』の「酷吏列伝」、こちらは北老師の中国語発音・解釈を聴き取る古典的な寺子屋式です。
発音や文法のご指導は、北老師の恩師であった坂本一郎教授を通じて旧上海東亜同文書院仕込みの中国の生活に密着したものです。北老師自身の中国体験に基づく社会や人間への洞察を聴かせてもらう贅沢な時間でもあります。

北老師のご縁の深い紹興では、大禹廟・蘭亭・魯迅故居といった歴史的巨人の遺跡巡り。そして郷鎮企業のトラクター修理工場を母体とし、日本との合弁経営を梃子により自動車部品業界の一方の雄となった経営者から三日間に渡り修学する機会がありました。地元密着型の足腰と国際市場への視覚、そして紹興酒は客に飲ませるもので自分はお茶だけという静かな姿勢。敬虔な仏教徒として二十年余り前から寄進を続けているという大寺院で素食(精進料理)を一族の方々とご一緒させてもらいました。時あたかも彼岸の頃、今年の清明節4月5日もまもなくということで上海ナンバーの墓参りの車が大渋滞していました。

紹興で個人的に印象に残った三点を箇条書きします。

①魯迅記念館に展示されていた朱安夫人の写真。文豪魯迅の本妻は文盲・纏足という旧時代の象徴を背負っています。その後に北京時代の教え子の許廣平と長男の紹介。そして魯迅に「人生には只一人だけの知己が居ればそれで良い」と言わしめた瞿秋白も掲示されています。朱安夫人や瞿秋白は上海魯迅記念館も含め、この十年来ようやく展示スペースが増えた人たちです。

②自動車部品工場では整理整頓の行き届いた見学コースを10人乗りカートを連ねて過ぎるので詳しくは分かりませんが、人が少なくゴミも少なかったです。写真撮影禁止マークの付いた建屋には新しい自動工作機が置かれていたような気がします。仰々しいスローガンなどの掲示も少なく、掛け声よりも実践を重視という印象でした。

③「黄酒冰淇淋」。紹興酒(黄酒は総称)のフレーバーを効かせた地元ならではの美味しいアイスクリームでした。とは言え大禹廟の売店での売値の8元は余りにも高いので4個30元でどうか?と持ち掛けたら、店員は笑いながら「お客さんは中国人か?」と軽くいなされました。別の場所では5元で売っていたので遠慮せず指値を20元にすれば良かったと反省。

関西空港に戻る一行を杭州空港で見送ってから杭州市内へのシャトルバス
(時刻表はなく満席になると発車する「滾動」方式。20元)で小一時間移動。戦前の映画王の長崎人梅屋庄吉が贈った孫文銅像前のバス停で下車。徒歩で西湖の目の前にある華僑飯店にチェックインしました。翌朝、西湖の眺めがよく、湖水からの風も心地よい部屋に移りました。ロビーで製茶農家の出張販売員が明前茶(清明節前採製的茶葉。色翠香幽。味醇形美)を過熱して、手もみをするパーフォーマンスを眺めながら香りを楽しみました。

西湖畔から白居易(白楽天)由来の「白堤」を通るショートカットの道を「西泠印社」に向かいました。篆刻の聖地として世界的に有名な場所とのことで、珍しく日本人の修学旅行凬の団体とすれ違いました。
「西泠印社」は清末民初に江南の篆刻家が集まり、制作と古印書画の収蔵研究を続けた活動が母体となり、1913年に結社として成立し呉昌碩が推されて初代の社長に就任。日本も含めた内外の篆刻家が社員となっています。文房三宝販売や書籍出版活動も含めて現在に繋がっています。上海駐在時代に愛好家から特に「西泠印社」の品を念押しされて細筆や朱肉などの購入依頼が届いていました。「冷」ではなくサンズイの「泠」であることも含めて今回初めて学んだ事柄ばかりでした。
杭州の美術学院の大学院留学後も篆刻の修行を続けている友人による案内という贅沢な修学旅行でした。付設の博物館は月曜休館でした。
玄関の説明板だけでもと近づいたら、カタカナで「アザラシ博物館」と書かれてあり一瞬怪訝に思いました。中文・英語・日本語で、「印」「SEAL」「アザラシ」と並記されているのを見て、中国語の意味を無視して英語の動物の名詞をそのままカタカナに訳したのかと笑いました。
この種の「異訳」は日本を含めて各国で見かけますが、文化の香り高い「西泠印社」で力が入っていた肩をほぐしてくれる効果がありました。

地元の麵屋で軽い食事をした後、南宋の風情を模した下町の本屋を何軒か覗いて見ました。今回は「中国地図」と金宇澄の小説『繁花』が目的物でしたが芸術書や古書専門店の老舗を除くと、今どきのしゃれた本屋には書物は少なく、読書スペースや喫茶スペースがたっぷり確保されていました。
東野圭吾を筆頭に日本の小説もたっぷり並んでいましたが、中国地図と第9回茅盾文学賞を獲得した『繁花』は見当たらず、新華書店でようやく入手できました。
「中国地図(地勢地図+行政地図が裏表に印刷されたハンディな最新版)」は、毎年大学の受講生に渡して一年間かけて馴染んで貰います。新たな鉄道や建造物が完成するので地図の賞味期限が大切です。上海と浙江を結ぶ「杭州湾大橋」は当然ながら、昨年架けられたばかりで香港と珠海とマカオを1時間移動圏内に変化させ注目されている「港珠澳大橋」も載っている2019年1月新版です。

『繁花』については、神戸でのシンポジウムに参加された陳祖恩先生から詳細な解題をしてもらいました。上海語や文化大革命時代の用語などが多用されていること、暗喩や隠喩が多く「その日、一機の飛行機が墜ちた」という短文だけで林彪事件を洞察する必要があるといったご指導や示唆を受けました。
日本の無残な青春の多くは貧困・病気・複雑な家庭によるものですが、中国の場合は加えて政治という大きな要素があります。手強い小説ですがロバの歩みで読み進めています。たぶん「アザラシ的異訳」をしながらでしょう。(了)