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2020年2月29日

多余的話(2020年2月)  『二月は逃ぐる』

井上 邦久

    足早に逃げる二月を追いかけて

 一月は往ぬる、二月は逃ぐる、三月は去る、と九州での子供時分に耳にしていました。遥かに牧歌的な時代の地方であっても,年初めの時間はそれなりに慌ただしく過ぎていたのかも知れません。それにつけても今年の二月は足早でした。

一つには同じ茨木市内の仮住まいへの引っ越しを前にして、15日までは神戸華僑華人研究会での報告準備に没頭しました。安井三吉先生や陳來幸会長を前にして晩学の者が『大阪港と川口華商』について報告しました。許淑眞名誉教授や二宮一郎先生から指導と激励を貰いながら準備に努めました。
昨春の川口居留地研究会にて、同じテーマで汗顔ものの報告を行い堀田暁生会長から「プロもアマチュアもない」、「新規発見が有るか無いかだ」、「ただプロの練度に学びなさい」という寸鉄が肝に刺さったままの一年でした。
報告のまとめの小文を事務局に送って一区切りを付けましたが、「練度」不足を改めて痛感しています。今後とも大阪市西区や山東海商の故地をひたすら歩き、足と五感を頼りに練度を上げていきたいと思っています。

16日早朝から3日間、段ボール函との格闘に集中しました。ギックリ腰にならないこと、いくら懐かしい写真や本に再会しても立ち止まらないこと、この二点に留意して何とか仕上げました。
その労力の結論は、何と多くのガラクタとツンドク書と同居していたのかという自戒の念でした。此処での若干の自己弁護としては、ほぼ40年にわたり国内外での仮住まいや出張という渡り鳥生活をしてきて、棚卸はせずに仮置きを繰り返してきた挙句の結果だと言う事です。

祖父の形見の陶器(ドイツ製ビールジョッキ)と伯父の遺した文学全集は散逸しないよう、米寿を迎えたばかりの母親に預かって貰いました。二人が愛読した『美味求真』シリーズ(木下健次郎・1925年)は手元で保管を続けています。

最寄りの駅は阪急京都線の南茨木で一昨年6月の直下型地震で壊れた駅舎の工事が続いており、階段歩行を余儀なくされています。仮住まいから徒歩20分の駅までの道は、茨木名所さくら通りと交差しているので、もうすぐ花見をしながらの朝の道や夜桜お七と花見酒の夜の道を楽しめそうです。

震源の摂津の春の仮住まい

 毎月第4水曜日は大阪市本町での「華人研」の例会日です。2月は1年半ぶりに三村光弘氏(環日本海研究所主任研究員)を新潟から迎えてお話を聴きました。世の中が今頃になって俄かに新型肺炎の対策を声高に叫び出したこともあり、講演後の立食交流は取りやめ、その時間を質疑応答にゆったり充てました。早い段階での参加申込が多く、広い会場を確保して貰ったのでスペースもゆったり取れました。
三村氏がプロの眼と足と五感で蓄積された北朝鮮についての内実開陳には、新鮮な啓発が多く、周辺諸国の実態説明を通して中国や北朝鮮の立ち位置が自ずと浮かび上がってくる構成でした。そして更には日本を合わせ鏡のように照射する多層的なお話を聴きながら、ついつい三村氏の眼を通じての朝鮮半島像が自分の眼で見てきたような錯覚に陥りそうで自戒しました。

昨年末、中国から新型肺炎の情報が洩れてきてから注視していましたが、中国政府衛生部からは1月20日まで正式公告は出ておりませんでした。
武漢三鎮は長江(揚子江)と漢江が合流する要地として古くから栄えた土地、四川盆地と上海を長江が東西に結び、長江に架かる武漢大橋により北京と廣州が南北に鉄道で繋がった、言わば中国の大動脈の十字路に位置します。それだけに人の移動による影響の大きさを危惧していました。
時はあたかも春節の直前、中央幹部は外遊をするのが習いであり、地方幹部は繰り返される新春歓迎会などに出演してテレビで報道される時期。その直下で感染は各地に蔓延して潜伏していたと想像します。

先月に綴った『軟禁』事件のあとに更に強まった「無かった事にすれば、事は無かったのだ」という隠蔽体質と一強体制が人災を世界規模にしました。

            一穴で大河の流れ変わる春

 二月の逃げ足ははやく、失った命を取り返すことができません。