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2020年4月10日

多余的話 (2020年4月)   『清明』

井上 邦久

       清明時節雨紛紛 路上行人欲断魂
        借問酒家何処有 牧童遥指杏花村                   (『清明』)

 大杜と尊称される杜甫に対して、こちらは小杜と呼ばれ親しみやすい杜牧による季節の詩です。『清明』の舞台は山西省という通説もありますが、「雨紛紛」は「烟雨」と同じく、やはり江南の春の頃を感じさせます。

       千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風
       南朝 四百八十寺 多少楼臺烟雨中
                 (『江南春』)

十年前くらいに「上海たより」として、上海人が使う「毛毛雨」という表現について綴った記憶があります。「毛毛雨」は、春の半ばに降る傘も要らないくらいの細い雨のことでした。小糠雨や春雨と訳しては芸がないので、色々と思案し、風呂上りに爪切りをしながら「うぶ毛雨」という表現に辿り着きました。
そして「花屋までうぶ毛雨なら傘残し」という拙句を捻りました。

東京の人形町末廣亭址の隣に、江戸天明年間から続く刃物匠「うぶけや」の爪切りを愛用しています。イタリアの関係先へ名前を彫った包丁を土産にしたこともあります。屋号の由来は赤ちゃんのうぶ毛も剃れる切れ味という初代の評判からとのことです。上海人の「毛毛雨」を江戸由来の「うぶ毛雨」として自分勝手に仲春の季語にしたわけでして、歳時記には勿論載っていません。

 杜牧の詩には酒がよく溶け込み、春の雨に倦んじてし魂の慰めに、牧童に酒家の在処を訊ね、風に揺れる新酒の旗に心を躍らせる、潤いのある春の世界を醸し出しています。先月の埋め草にした井上陽水の「情け容赦のない夕立」の夏とか日野美歌の『氷雨』の冬では別のイメージになりそうです。

二十四節気の一つである清明は、黄道座標の黄経15度、つまり春分から15日目にあたる日です。なぜ「つまり」なのかは、高校地学の教科書を思い出して、天空をイメージしてください。
地学教師の玉井先生は「玉井バッハ」という綽名で、授業前に黒板に「バッハ」と書いておけば、15分くらい西洋古典音楽の話をしてくれたことを憶えていますが、黄道の話は宇宙の彼方に消えています。

これも上海時代。清明節の頃の職員との会話は「清明節快要来、到何処掃墓?」が多かったです。清明節に何処で墓掃除(墓参り)をするかによって、上海アーバンライフをしている男女職員のルーツが分かります。杜牧の詩で四百八十寺と表現された南朝の古都南京か、牧童が指さした安徽の村か、はたまた浙江の地か・・・
ほとんどが車で家族一丸となって行くというので立派だなあ、と感じたことを思い出します。先祖の墓の前で燃やして届ける紙銭は、金塊、高級車そして住宅の紙模型にエスカレートしていましたが、その後に二酸化炭素排出削減の為に禁止されたとか。
冥界は不景気になったことでしょう。

今年の清明節は4月4日でした。中国では天安門広場をはじめ、全国で半旗が掲揚され黙祷する人の画像が流れていました。

京都のNPO作業場で、戦前の女学校の空気を吸われた方から「武漢と聞けば三鎮と続けて、武漢三鎮。ご存知?」と作業の手を止めずに話しかけられました。1937年12月、時の中華民国政府は首都南京から武漢に臨時政府を移しました。漢江が長江に合流する川口が商業港の漢口(『フレディもしくは三教街~ロシア租界にて』という長い曲、さだまさしが母親の漢口体験を偲んでいます)、漢江の南側に所在するので漢陽、そして辛亥革命の発火点となった武昌起義の地。
二つの大河の流れで三つに区切られた漢口・漢陽・武昌の街を総称して武漢三鎮。

武漢に出張した頃、天河国際空港の完全運用前には、河を挟む新旧二つの空港のどちらへ行けば目的のフライトに乗れるか再三にわたって確認を要したことを思い出します。4月8日に天河空港も閉鎖が解除されたので、待ちかねた人たちが殺到して大変な混乱が生じている模様です。元の生活に戻ろうとする希望に満ちた混乱とも言えるでしょう。

1937年11月30日の南京の下関海軍港から堀田善衛の小説『時間』は始まります。
漢口へ首都を遷す民国政府司法官の兄を見送る弟。同行を許されず一族の位牌や家財の保全と秘かに日本軍に占領された後の諜報活動を命じられた弟の物理的にも、運命的にも格差の大きい別離です。元の生活を棄てて生命の保全を一日延ばしにする希望に乏しい混乱のシーン。
すでに鎮江、丹陽など近隣の街は日本軍の支配下となり、南京包囲網は狭まり空襲も始まっている。非常事態宣言も都市封鎖もなく「問答無用」で軍事的圧迫が身近に迫るなか、心理的には既に占領されているが、現実的にはあと数日ある。何もすることが無いのでぐらつく義歯を治しに歯医者に行き、何のための歯医者通いと自問しながら、蒋介石総統夫妻が飛行機で去ったという噂を聞く。そして落城・・・と小説は続きます。
蒋介石は結局、武漢も棄てて重慶まで長江を遡り臨時政府を置きました。
2020年4月に何故この小説『時間』を読んでいるのか? 自問しています。

過日、従弟の書棚に柏原兵三作品集の第一巻が二冊あるのを見つけました。押し付けていた一冊を持ち帰り、『徳山道助の帰郷』を再読しました。

・・・第一章 徳山道助の故郷の家は、大山と呼ばれる標高千米近い山の麓にあった。大分市からローカル線で三駅目にあたるM駅で降りて、川沿いの県道を小一時間も歩くと、その麓に出る。・・・

 その川は大野川で、県道は竹田に通じると想像しています。旧家の長男が、優秀な成績で幼年学校に進み、軍隊の中でも頭角を現し、末は大将になることは間違いないと郷土の人は太鼓判を押した。日露戦争で初陣を飾り、シベリア出兵で苦心するも、第一次大戦後の欧州視察を経て、陸軍士官学校長に栄達。
しかし突然の予備役編入という挫折を経験。1937年秋に師団長として上海呉淞戦線、廬山戦の指揮を執り負傷。日本の戦争史とともに生きてきたが敗戦によって肩書も恩給も失った。
中国の体験については沈黙を通し続けた。老境に入り価値観の逆転した社会での生き方を模索している道助に故郷大分での法事への案内が届いて・・・。
平易な文章で綴られた帰郷の顛末が小説の肝になります。
前後して芥川賞を受賞した柴田翔や丸谷才一、丸山健二に比べると、柏原兵三には突出した個性や鋭角的な手法は感じませんが、ついつい読み繋いでしまう平易さは非凡なのかも知れません。
また母の実家の富山県へ縁故疎開した体験を坦々と描いた『長い道』は、藤子不二雄が漫画化し、篠田正浩監督が映画『少年時代』に仕上げ、井上陽水が主題歌をヒットさせています。

青年時代に読んだ時はストーリーを追いかけるばかりでしたが「徳山道助」と年齢が近くなって老残の想いが忍び寄り、この春に各地で縁故疎開を余儀なくされて様々な想いをした学童が身近にいたこともあり、味わいが深まり、何篇か速読しました。
帰郷話で塗されていますが『徳山道助の帰郷』の主題は1937年から1938年の中国江南での戦の酷さであり、堀田善衛の『時間』に重なります。
2020年3月、何故に柏原兵三が目の前に戻り、引き込まれて読んだのか奇妙な思いをしています。

           「清明や伯父の形見の古書守り」

 長期にわたり低迷を続けている句作ですが、久しぶりに複数の同人に拾ってもらった拙句です。
この伯父は何度か使った喩えとして、座り心地の良い椅子のような存在として子供の時から可愛がってもらいました。大阪から縁故疎開で大分県に移住し、戦中戦後の苦渋の生活を、名前の清明(きよあき)の通り清々しく明朗な生き方で凌いできました。

清明節の翌日、従弟から伯父の13回忌の法要は大分で営むのは取りやめて、東京で内輪で行うとの詫びの連絡がありました。 帰郷墓参の代わりにこの拙文を以って手向けとさせてもらいます。     (了)